19.エピローグ

 空が解放感を持っているように感じるのは、まさにあの日あの時の空が青色の中にかけがえのない清麗さを持っていたからだろう。
 春が終わり、夏がくる。その自然の摂理は、しばらくの間は特別な出来事として捉えてしまいそうだ。そう呟けば、目の前の忍足はおかしそうに、けれどどこか嬉しそうに笑った。
 その反応は予想していなかった。桃子は言葉にはしないものの驚きを隠せず、忍足の次の反応をうかがうが返ってくるのは周囲の雑音ばかり。静かに(それこそまるで桃子などこの場にいないとでもいうかのように)自分の昼食を進める忍足に、桃子はしばらく黙っていたもののやがて口を開く。

「あのふたりを見ていると、遠回りも別に悪いことじゃないんじゃないかって思える。他人からすればもどかしく感じることもあったけど、今の関係は絶対去年のふたりには作れないものだっただろうし」

 激しさはないが、平穏がある。その平穏が退屈に変わる瞬間があるとしても、あのふたりにとってはそれすら楽しみのひとつになるだろう。けして手に入ることがないと互いに決め付けていた「ふたりでの」平穏を前に、むしろ文句や愚痴を言う暇がない。
 その様子に、見ているこちらまで心が温かくなると。食堂を取り囲む中庭を見つめながら呟く。忍足は静かにまた笑った。

「芦屋にそこまで言わせるとは、岳人も成長したもんや」
「忍足くんだってそう思ってるんでしょ?」
「さあ、どうやろな。悪くは思ってへんけど、別に付き合えるんやったらさっさと付き合ってしまえとはけしかけとったで、実際」

 付き合う勇気がないと分かっているからこそだが、と付け加えて忍足は水を飲んだ。
 一瞬の沈黙が生まれる。その瞬間を、桃子は逃すつもりはなかった。

「忍足くんはどうなの?」

 再び動きかけていた忍足の箸が止まる。そしてやや斜に、けれど視線だけは真っ直ぐに桃子を見つめる。

「なにが」
「反対なの? あのふたりが付き合うことは」

 唐突だったのか、それとも予想していなかったのか。忍足は小さな驚きに表情を任せて姿勢を直したが、それもつかの間。再び何層にも重ねられた表情のうちのひとつ、当たり障りのない笑みを浮かべる。

「いいや? そんなことない。付き合えってからかっとったんは事実やで。俺だって知っとったし、どれぐらい仲ええかは。まあ収まるべきところに収まってよかったな、っちゅー感覚やな」

 それでは自分と同じ意見ではないのか。桃子は忍足の言葉を聞いた瞬間に眉根を寄せ、その表情をうかがう。しかし相変わらず本心をそこから探り出すなどできるはずがない。
 桃子は口を閉ざしたまま、つい数分前に投げかけられた問いを思い出す。
 あれでよかったのかと。と岳人が付き合うことになった、付き合うまでの経緯についての是非を問うてきた忍足は、今どこにいるのか。
 真偽が分からず、桃子は流されるように沈黙を続けながらも心の中の靄が増幅することに対して居心地の悪さを覚える。いつのまにかそれが表情に出てしまっていたのだろう、やがて忍足は左手で肘をつき、箸を持った右手を小さく揺らした。

「言うたやろ。付き合った『結果』はええねんて。俺が聞きたかったんは、その経緯をお前がどう思っとるかっちゅうこと」

 だから、と。開きかけた口は瞬時に閉じる。

「俺らは認めたらなあかんやろ。ていうか守ったらなあかんやろ。そやからお前がそう思っとることが分かれば、それでええ」

 忍足はあっさりと桃子を肯定する言葉を口にした。そして再び違う意味で唖然とする桃子を置き去りに、また自分ひとりで昼食を取り始める。
 相変わらずの男だ。唖然とさせながら感服させることを忘れない忍足を前に、不機嫌は妙な方向へと流れていく。

「……忍足くん、私本当に意味が分からないんだけど」
「なにが」
「私がを悪く言うなんて、そんなことあるはずがないって最初から分かってるでしょ。なにを改めて、しかも悪い予感をさせるような素振りで聞いたのかっていうこと」

 少しずつではあるが、心の靄が怒りにも似たなにかに染められていく。まるで自分を試すような素振りをみせた忍足に、不機嫌の感情は素直すぎるほどに反応する。
 その桃子の不機嫌に気づいているはずの忍足は、けれど冷静さを崩さなかった。

「確認、やな。今の岳人が腑抜けにならんための」
「……え?」
「外堀埋められたら、さすがに逃げられへんっちゅーこと」

 最後の世話ぐらい焼いたってもええやんか、と呟いて言葉は終わった。
 目を見張る桃子は、やはり置き去りだった。忍足は自分で自分の言葉に納得して、当然のように淡々と昼食を続ける。

「俺とお前は認めとる。当然だって認めとる」
「……」
「それやのに、岳人がいまだに『経緯』に罪悪感をもっとったら。それはどんだけ悩んで苦しんだことでも、全然意味がないっちゅうかアホらしいやろ。過去やって。誰も変えられへんって。なに今更しょうもないことで後ろ向いてんねん、ちゅー話や」

 やがて、その視線が桃子でも目の前の食事でもなく、食堂の遠いどこかを見つめるものに変わる。細いけれど濁りのない、すべてのものをあっさりと看破してしまう思慮深さを秘めたその色が追う先に、桃子はつられて振り返る。

「俺らの気持ちも空振りやし、に嘘ついとるようなもんやし」

 罪悪感の点ではも同類やろうけど、と付け足した視線の先には、岳人たちの姿があった。
 騒がしい食堂。氷帝学園中等部の生徒が学年の壁を越えて入り混じる空間。聞こえてくる声はほぼ無関係のものばかり、それはこの場所が誰をも受け入れる空気を持っている証。だから桃子と忍足が話をしても、誰もそれを止める権限を持ち得ない。
 だから、視線の先。ふたりが共に時間を過ごすことも、この場所は認めてくれている。
 その様を改めて感じた後、桃子は姿勢を戻し忍足を見つめる。心の中にはあのふたりを邪魔したくない感情しか見つけられなかった。

「……そんなにすぐには消えないと思うけど」
「あって当然やと思うか?」

 認めたくはないが、頷く。
 失笑されるだろうか。そのような考えがちらりと頭の中をかすめたその時、しかし忍足は静かに笑った。

「まあ、そうかもしれへんけどな。でもな、それを見せたらあかんやろ。の前でも、以外の前でも。感じるんと見せるんとは別の意味、岳人の努力次第やろ」

 渡された言葉はけして桃子と同義ではない。むしろ冷徹さすら感じてしまいかねない。
 だが、しかし。それが冷酷さのみを表したい言葉であれば、この男が今この呑気な食堂でその話をする必要などないということに気づけば、話は違ってくる。

「……忍足くん、向日くんにも同じこと言ってるの?」

 ひとつ確信を得て、そっと尋ねる。
 もしそれが、「叱る優しさ」ならば。

「あいつが決めたことや。あいつが自分で、がこれ以上傷つかんようにせやなって決めたことや」
―――
「そやったら、あいつはそうせやなあかん。そやろ?」

 もしそれが、「親友を思う心」でなければ。
 今目の前にある忍足の顔が、これほどまでに優しく微笑むことはないのだろうと。そう気づいてしまえば、桃子ももはや苦笑するしかなかった。

「正論、とは言っておこうかな。向日くんが頑張ってくれることを期待して。……もそうなってくれることを期待して」

 コップの中の水が、窓ガラスの向こうから降り注ぐ初夏の陽光に照らされてきらりと光る。
 気づけば夏はもうすぐだ、岳人と忍足が活躍する瞬間が近づいている。考えるべきはそちらの方で、楽しむべきも未来の方で、暖かい春の次に待つ夏を後悔の色で染めてしまっては誰も幸せになどなれるはずがない。忍足の言葉は確かに的を射ているように思えた。

「じゃあ、私もっとそそのかしちゃおうかな。さっさとデートでもなんでもすればいいのよ、大会が近いんだからなおさら。榊先生に怒られないうちに」
「残念、監督にはもう目つけられとるで」
「それを助けてくれるのが忍足くんだから」
「なんや、今度は俺が岳人のお守りかい」
「最後の世話、焼くんでしょ?」

 答えが期待できる問いかけほど、言葉にした後楽しいものはない。いや、嬉しいものはない。もしかしたら忍足も同じ気持ちだったのかもしれない、沈黙を苦痛に感じることもなく数秒、予想していた範囲のため息が零れ落ちた。
 それが納得の意味を成しているのは当たり前。それが嬉しい笑みの代わりとなっているのも言わずと知れたこと。桃子が「お願いします」ととどめの一言を用意すれば、忍足は逃げることなくわざとらしく肩を竦めてみせた。

「まあ、今の俺に恋愛語らせても、説得力ないってあいつは突っぱねそうやけどな」

 その時ぽつりと呟いたその言葉を、桃子が聞き逃すはずがなかった。
 さきほどよりかやや表情の向こうのなにかが透けて見える。ああ、これは私情が混じった顔だと気づいた時には、桃子は思わず頬杖をついてにっと笑ってしまった。

「そうだね。早く仲直りすればいいのに、なにこじれてるんだか」

 悠然と微笑みかけると、珍しく一瞬だけ忍足が息を飲む。その稀有な反応に、やはり噂は本当だったのかと心の中で確信する。

「なんでお前まで知っとんのや」

 真相を尋ねてよいものか、ためらいは一瞬生まれたものの、予想外に忍足の方から話を繋げてきた。桃子は目を丸くするも、そっと口元を緩めて話の場を保つ準備をする。
 彼とて岳人や自分と同い年だ。もしかしたら一時の岳人やと同じように、聞かせる相手が必要なのかもしれない。食えない男だ、と思い続けてきたものの、意外と触れやすい面を持っていることを露呈させる男を拒絶する理由は、どこにもなかった。

「残念ながら、向日くんとの話に隠れることはできませんよ。むしろ目立つのは忍足くんの方だと思うぐらい、ね」
「俺は知られたいわけやないんやけど……」
「そんなこと言うなら最初から隠し切ればいいのに。ツメが甘いのよ、忍足くんは」
「手厳しいなあ」

 零れたため息はにわかに現実味を帯びている。中庭を見つめる横顔の中に潜む憂いの色が珍しい。
 見せつけるようなものではない、本当の意味でふたりだけの恋愛をしているように見えた忍足が別れたらしいという噂は、表立ってはなかったがしかし確実に流れてきていた。だがそれが彼の本意ではないことは、桃子は直感的に感じ取っていた。
 岳人との件は一応の決着を見た。ならば自分の出番は次、この男のために用意されているのかもしれない。そう思い、桃子はけして突き放すではない、受け入れるような苦笑をもらしてデザート用だったリンゴの皿を忍足に差し出す。

「後悔しても始まらないんでしょ。後ろを見ていても何も意味がないんでしょ。じゃあ、素直になればいいのに。向日くんに言ったみたいに」
「素直さは岳人の専売特許やろ」
「そう? 忍足くんだからこそ、その瞬間を見せてもらえることに意味があると思うけど」
「また軽くお前は言う」
「要は、素直になった時の方が強いんだよ。向日くんに教えてもらったね」

 しばらくの沈黙の後、忍足がため息とともにリンゴを口に運んだ。なんでお前に彼氏がおらんのか分かった、できすぎた女は怖いと褒め言葉にならない本音をもらして。けれどそれが敗北宣言であることを理解できるのも桃子の特権だった。
 予鈴が鳴り響く数分前。立ち上がり、教室へと戻ろうとしたその視界の中にと岳人の姿が飛び込んできた。目が合ったに手招きをし、近寄ってきたふたりに「次は忍足くんの番みたい」とそっと呟いたら、岳人がしてやったり顔で桃子の席について説教を始めたのは、実は期待していた光景。

「なあなあ侑士、これで俺のありがたみが分かっただろ? よし、なんでも質問しろ。あいつと仲直りできる方法教えてやるって。俺絶対自信あるし、これ」
「仲直りやなくて、俺らもう別れ……」
「嘘だ、絶対嘘。後悔丸出しの顔だよ忍足くん」
「……。あのなあ、つい最近までその顔しとったやつに言われても」
「今はしてないもん。ね」

 そっと尋ねたに、岳人はしばらく沈黙の中に身を委ねていたが、

「してない」

 しっかりと忍足を見据えて呟いたその言葉に後悔の色がないことは、誰が聞いても明らかだった。
 岳人との後ろで、桃子は笑って忍足を見つめる。予鈴の前触れかのように皆が教室へと急ぐ空気の中で、「ほら、早く」と岳人が急かす。当然片付けを急かしているのではない、そんな時間の区切りは彼にとっては小さな意味しかなさない。目の前の忍足侑士という人間の進退の方が、彼の人生にとって教師に怒られることよりもよほど意味を持っている。
 想われる人だ、と桃子が笑うと、「お前、当分彼氏できん」と愚痴を零して忍足が立ち上がる。いつもは優艶な雰囲気をかもしだす漆黒の長髪が、今日ばかりは情けなさに濡れてしまったよう。

「なんや、お前ら。付き合いだした途端先輩顔しよって。そんなに幸せか」

 けれど、その言葉。この人はいつでも親友を想うことができる人だ、と変な感心をしながら岳人とを見つめれば、

「……そういうことを平気で聞くから彼女に振られるんだよね、絶対」
「な。デリカシーがないよなー、俺たちお前みたいに大人じゃありませんからー」

 子どもの反抗期さながらな態度に、思わず吹き出してしまって忍足に軽く睨みつけられたものの、

「悪いけど、そんな簡単な言葉で説明したくないんで。そんな軽いもんにしたくねえよ」

 できない、ではなくしたくない、とした岳人に、忍足が沈黙の承認を与え、がこっそりと頬を緩める様を見せられては、桃子とて用意しなければならないような言葉は見つからなかった。
 予鈴が鳴り響く。悠々とした昼食の時間に別れを告げる。
 食堂と教室のある本館とを結ぶ渡り廊下、素直な表情で言葉を交わす岳人とを見つめる忍足の向こう側に、春を終えて夏のための色を用意しようとしている青空が広がり、眩しさに目を細めればその反応に喜ぶような爽快な風がふわりと吹いた。



08/02/11