14.君からの卒業

 あの日、中庭。の行動を見て教えられたことがある。
 日々緩やかに延び、温もりを溜め続ける昼の時間。西方で悠然と明るい輝きを放つ太陽を背に、岳人は顔を上げる。
 目の前に迎えた人物は、岳人のその表情に―――いや、その存在にただ目をを丸くした。

「……どうして」
「きちんと話してないから。お前に納得してもらってないから」

 ホームルームも終わり、残すは部活動のみとなった午後3時になってようやく捕らえることができた詩歩は、その言葉に視線をずらす。あえて避けられていることを知っていたからこその強硬手段だったが、予想外の展開に詩歩の動揺は明らかだった。
 けれど岳人は怯まない。小さな反動をつけて壁から離れ、今まさに昇降口から出ようとしていた詩歩の側に近寄る。既に制服からユニフォームへと着替えた後だったが、自主練習の日である今日は詩歩にすべての時間を割いても構わないと思っていた。

「……納得なんかするはずないじゃない、そんなこと知ってるくせに」
「じゃあ納得してもらうまで話すまで」

 都合のよい言葉に、詩歩は複雑そうな表情を見せる。嬉しさとは無縁ではあっても、怒りともまた種類を異にするもの。迷い、それが全てだという表情は最初沈黙を選ぶが、やがて昇降口脇で岳人の横にそっと並んだ。

「私は別れたくないんだよ」
「……うん」
「好きだもの、どうしようもなく。さんより好きだもの、絶対」
「……」
「……黙らないでよ、私は全部間違ってるみたいに聞こえる」
「ごめん」
「謝らないでよ、……余計そう聞こえる」

 岳人は黙ってそれらの言葉を受け取る。否定することができないことを自分はしてしまったことだけは、忘れるつもりはなかった。
 けれど今日はそこで終わらせるつもりはない。ぐっと利き手の拳を強く握り締め、昇降口のガラスにもたれて大きな息を吐くと、青空を仰ぎながら口を開いた。

「俺、自分がすごい勝手なことしてるって分かってる。そんな馬鹿じゃない」

 ジャリ、とアスファルトの上で砂が擦られる音が響く。テニスコートまでの道のりを歩くためだけの使い古したスポーツシューズに力がこもっていることに気づく。むしろそれが後押しの役割だった。

「でも、俺の今の気持ちで付き合い続けることが正しいとも思わない。……本当、全部俺の勝手だけど。俺が先にきちんと気づいていたら、こんなこと……」

 その時、詩歩の顔がこちらを向く。視界の片隅のその動きに岳人が言葉を止めて視線を向ければ、詩歩は神妙な面持ちでゆっくりと首を横に振った。

「付き合わないで振られたよりも、振られるとしても彼女になれたことの方が嬉しいに決まってる。……私の勝手だけど、もしかしたら普通はそうじゃないのかもしれないけど、でも岳人には文句は言わせない」

 別れたくない、というよりももっと強い視線で、面持ちで。言葉を口にするにつれて迷いが姿を消すその表情で真っ直ぐ答えられては、岳人に返す言葉はなかった。
 たとえば。それはとても単純な話で、誰しもが心に抱く「自分の思う幸せ」のひとつの形であって、今現在自分がにむける感情と同類のものだということに気づいてしまえば、否定することも奪うこともできるはずがない。
 会話に長けた人間ではないことが煩わしい。語彙力のない自分が歯痒い。沈黙だけを見逃していくと、詩歩が自嘲にも似た苦笑を漏らして、風に遊ぶ髪に横顔を隠した。

「でも……もっと、もっとお願いしたら、私はまた彼女になれるのかな」

 再び漂う縋る色。にじみ出る寂しさを拭いきれない負けを認めてしまった色。
 お互いに下校する生徒や部活動に向かう生徒の波を見つめる姿勢のまま、岳人はそっと下唇をかみしめて呟く。

「ごめん」

 それ以上は口にできなかった。なにを言っても言い訳で、逃げ道でしかないことを岳人は知っていた。
 だからこそ、たった三文字のその言葉にすべてを込めて、揺るぎない口調で力を込めて言い切った。詩歩が弱々しく笑うのが分かった。

「知ってる、そんなこと」
「ごめん」
「もう言わないで、惨めだから」

 部活の始まる、この限られた時間。ユニフォーム姿の自分と、制服姿の詩歩。何度この姿で視線を交わしたことだろう、言葉を交わしたことだろう。いつだって詩歩は岳人の生活リズムを壊すことなく、自分からその中に溶け込もうとした。気を遣ってくれているのを知っていた。

(でも、違うんだ)

 ふわりと風が舞う。緑の匂いを含んだその風は爽快だ。

(自分の好きなようにさせてもらうことじゃないんだ。自分が、そうさせたい相手なんだ)

 心の中に思い描くは、いつしかその目でしか見られない。いつだってそれは心の中、頭の中、自分に都合よく笑いかけてくれる想像の姿でしかなかったけれど、岳人に後悔はない。
 沈黙の中に流れるその想いを汲み取ったのか、詩歩は岳人を見つめてそっと口を開く。

「でも、ひとつだけお願い」

 ひらりと風が踊る。小さな詩歩の言葉が掻き消えそうになる。

「私の前では、さんと付き合わないで」

 けれどそれだけは、運び去られることなく岳人の耳に残された。
 息を飲む。直接的すぎるその言葉に、岳人の方が目を丸くする。しかし詩歩は遠慮をする素振りなどまるで見せず、まるでこれが今生の別れかとでも見まがうほどの哀感を込めた瞳で岳人を見つめ続ける。

「耐えられる自信がないの。なにも環境が変わらないのに、そこに私だけ残される感覚についていける自信がないの。お願い、岳人」

 声は最後、瞳から零れ落ちた涙の前に負ける。わずかに上ずるような高みをもった声に、岳人の握り締めた手のひらの内が熱く、汗ばむ。
 それは、岳人も同じだった。になにかを与えられたわけではない、そしてこの先与えられる保証などどこにもない。けれどそれを覚悟のうえで自発的に別離を言い出した岳人と、望んでもいない結果だけを与えられた詩歩とでは、たとえ状況が同じでも感覚はまるで違う。そうさせたのは紛れもなく自分であり、詩歩の言葉に真っ当な答えを用意できる自信など、一生ないとも思える。

「……心配するな、って言うのもおかしいし、説得力もないし、……これがちゃんとした答えなのかも、まだ俺には分からないんだけど」

 けれど、やはり。

「俺、と付き合うためにお前と別れたんじゃない。付き合いたいから好きになったんじゃない、あいつに何かを期待して好きになったんじゃない」

 そもそも付き合えることなどできないのだと、自嘲まじりに頭の片隅で呟いた言葉は逆に自分を強くさせる。

「でも、だから。だから俺の力でできることは全部してやりたい、あいつが望むことなら、全部。全部あいつの気持ちを守ってやれる形がいい」

 汗がやがて痺れに変わる。それほどまでに強く拳を握り締めていると気づいた時にはすべてを言い切っていた。
 潤むことを止められない瞳を、丸くする。詩歩は一瞬呼吸の仕方すら分からないような驚きと困惑の入り混じった表情をしてみせたが、やがてどうしようもない諦めの色に負けて弱々しく首を振る。

「そんな言葉、私には一度も聞かせてくれなかったね」

 涙は止まることを知らない。

「ごめん」

 それでも岳人は、その言葉を取り消すことはしなかった。もう一度、繰り返した言葉に詩歩はただ無言のまま、アスファルトの上にひとつだけ滴をこぼす。
 夏を迎えようとする太陽の日差しだけがそれに優しく、何事もなかったかのようにアスファルトを照らし続けていた。





 あの日、中庭。自分ひとりを置いてきぼりにした世界の中での、あの瞬間。
 目に見えないなにかに縋っているような、なくしてしまったなにかを抱きとめようと求めているような、そんな不安定な雰囲気が空気の中に滲んでいた、あの場所。
 その空気に触れて、岳人は足を踏み出すことはできなかった。
 そこで声をかけることはできなかった。かけてしまえば最後、のこの努力を台無しにしてしまうことが分かっていた。なにを伝えていたかは聞き取れなかったが、少なくとも自分という存在はあの場所には不要だった。
 助けられることを望んでいたわけではない。助けられたかったとしても、それを岳人には求めていない。
 この先になにを求めているのかなど、自身にしか分からず、自分に踏み込む権利はない。いや、本人に拒絶されている。

(じゃあ、俺ができること。してもいいこと)

 見上げた空の青さに再び思う。
 のためになにかをしたいと言うのであれば、それは付き合うことではなかった。生徒会会議室に連れ込んだあの日は衝動のあまりそのようなことを考える暇はなかったが、今は落ち着いて自分がなにをすべきなのかを考えることができる。

(近づくなって言うなら、近づかない)

 軽く振った左手から、黄色いボールが高々と視界の真ん中を流れ去っていく。ネット越しの宍戸が緩やかな力で打ち返すのを冷静に見届けてから、身体をボールの行く先に進ませる。足は随分と軽くなっていた。

(話せって言うなら話す、助けろって言うなら助ける。それだけだ)

 コートの上で擦るシューズの音が心地よい。濁ることもためらうこともなく、乾いた響きで鼓膜を震わすその音に促されるかのように岳人は何度も何度もラケットを振り、ボールを打ち、そして喉を渇かした。

「宍戸、だっせー。今日のお前まじで弱い。つまんねーの」
「はあ? 跳ぶしか能力のねえお前に言われたくねーよ!」
「跳べてから言えよ、そういうことは」
「跳ぶ意味がそもそも分かんねえ!」

 汗を吸った前髪が跳ねるたび、額に当たって痛い。けれどその感覚すら高揚に取って代われば、ただただラケットを持つ左手に力を与えてくれるばかり。不思議なおかしさに笑いながらもう一度ラケットを振れば、度が超えてボールは岳人にそっぽを向いた。

「あ」
「……だっせー」

 ベースラインを狙ったはずのボールは、大きくラインオーバーをしてようやく跳ね、そして面白いほどの勢いで観客席に転がり落ちていった。
 今日が自主練習の日であることは幸いだった。跡部の管理を強制されないテニスコートは、悠々とした空気を漂わせることがうまい。感情が丸くなる。さらに好天が加われば、そこはもはや無敵の空間だ。怒りやすい宍戸すらあっさりと怒声をため息に変える。

「長太郎、悪い。ボール取ってくれ」
「いいですよ」
「あー、いい、いい! 俺が行く」

 自分を慕う後輩に指示を出す宍戸を慌てて止め、岳人は軽い身のこなしで観客席とコートを仕切る塀を飛び越える。部員たち個々の練習に重きを置く自主練習の日は観客席に人が来ることはほとんどない。閑散とした世界がただ広がるのみだ。だが岳人は数歩してすぐに足を止める。

「……なにしてんだよ、侑士」
「ああ、岳人。いや、別になんも」
「『なんも』? ユニフォーム着た人間が言う台詞かよ、それ」
「ええやんか今日ぐらい」

 今まで気づかなかったのが不思議なほど大胆に、忍足が悠然とベンチに腰掛けてコートを見下ろしていた。右横にラケットはあるが、彼の利き手がそれを握る様子はまるでない。岳人はため息をひとつ零したあと、テニスコートからこちらを見つめる鳳にボールを投げ渡してその横に腰掛ける。風が心地よかった。

「えらい今日は調子がええやんか、どないしたん」
「ん? ああ、別に」
「額に汗水垂らした男が言う台詞かい」
「うるせえな」

 内容とは裏腹に、言葉はすんなりと口をついてでる。それだけで色々なものが透けて見える恐ろしいこの男は、顎を上げて天を仰ぐような姿勢で柔らかく笑った。

「まあ、お前がすっきりしたんやったらそれでええわ」

 ただそれだけを呟くと、忍足は岳人の返事を待つことも聞き出すこともなく立ち上がる。陽に撫でられて艶を零すその長髪がさらりと風に遊ばれる様を見つめていると、忍足が振り返った。

「跡部から色々任されてんねん。テニスに集中できるんやったらそれが一番」

 仰ぐ姿勢の岳人にひらひらと、ポケットから取り出した1枚の紙切れを見せ付けたあと、コートにいるレギュラーメンバーに向かって声をかけた。





 その日の授業が終われば、食堂は途端カフェのような性格を見せる。ユニフォーム姿のまま忍足ら主だったレギュラー部員とともに訪れれば、昼時の混雑など記憶にないと気取っているかのような安穏とした空間が岳人たちを迎え入れた。
 軽く飲み物だけで構わないとメニューを見ながらプリペイドカードを取り出すと、忍足が無言のままそれを奪う。役割をなくした左手もそのままに岳人が唖然とその後ろ姿を見送っていると、あの長くて器用な手をもつ男は予想外の注文を口にした。

「おばちゃん、天ぷらうどんひとつ」
「は?!」

 宍戸たちがぎょっとして振り返った時、岳人は慌てて忍足を止めにカウンターへと駆け寄るが、そこですらあの無駄に長くて器用な手が岳人の身体を遮る。身長で勝てない相手に力で勝てた記憶のない岳人は、ただ呆然と目の前で天ぷらうどんが作られる様を見つめることしかできなかった。

「お前はもっと太らなあかん、『体力つけやがれ』跡部からの命令その1」
「体力と関係ないだろ、それ! ていうか消化に悪すぎだろ、うどんなんて……この後部活やらせないつもりかよ」
「いやいや、まさかまさか。『自主練本気でやりやがれ』跡部からの命令その2」
「笑顔で言うな、あーもう!」

 しかし言葉で抵抗したとしてもあとの祭り。岳人の気持ちなどまるで気にも留めず、やがて時間帯に不釣合いな出来立ての天ぷらうどんが目の前に差し出される。不憫な目で見つめる鳳をじろりと一瞥したあと、岳人は不機嫌そのままに忍足の後をついていくしかなかった。
 スポーツ飲料の宍戸と、ミネラルウォーターの鳳と、コーヒーの忍足。
 なんの嫌がらせか、彼らの目の前で自慢げに湯気を昇らせるうどんを見つめて、岳人はため息とともに左手に箸を持たせる。それを諦めの意と取ったのだろう、忍足は跡部から渡されたプリントをレギュラー陣に回して淡々と言葉を並べる。
 右手で受け取ったそのまま、岳人もぼんやりと文字を追う。そして遠慮なくうどんを口に運ぶ。予想はしていたが、それは岳人の好みとはお世辞にも近いとは言えず、忍足の話そっちのけで岳人は七味を求めてプリントを手離した。
 伸ばした右手が、その時ふと止まる。ほんの少し伸ばせばすぐに届くところにある七味を、岳人はじっと見つめた。

『はい。これ使ってないから』
『なんだよ、これ』
『スープ、少しすくいなよ。そんなに辛くしちゃうと身体に悪いし』
『あー。サンキュ』

 甦るあの日の記憶は、嫌らしいほどに鮮明だ。
 けれど今日、今ここにはいない。あの頃、自分の世話を焼いてくれたはいない。
 だが岳人はそれを悲観に思うことはなかった。しばらくの沈黙のあと、宍戸たちに気づかれないうちにさっと七味を取り、そして戻す。注意さえ払えばあの時のような失態をすることはない。
 そうだ、と。忍足の話を聞き流しながら、そしてうどんを口にしながら心の中で思う。

(俺が甘えるのは、もう卒業だ。俺があいつをそうさせるんだ、そうしたいんだ)

 そのための距離なら。そのための沈黙なら。そのための我慢なら、そのための拒絶ならなにひとつ構わないと思える自分の心は、正直に言えば恐ろしい部分もある。
 けれどそれが恋愛だと言われれば納得してしまえる自分の心に、高揚があってそこからなにかを楽しむ疼きが生まれてくるのもまた事実。

(好きなだけでいい、もう。それだけで十分だ)

 食堂のガラスの向こう、東京の水色の空の中で白い雲がまどろむかのような柔らかい形をしてゆっくりと流れている。
 報われることはない想いであっても、もはや抱くことが幸福だった。ゴールのない想いであっても、相手にこれ以上伝えることのできない想いであっても、どこか気分は晴れやかだった。



>>15.春が終わる


07/08/13