| 15.春が終わる |
「お前、ふざけんな! うどんだけで十分だ!」 「なんやねん、せっかくの人の好意を。人間思いやりの心っちゅーもんは持たなあかんで岳人」 「そっくりそのまま返してやる、その言葉!」 なぜその声は、いつでも学園内の主役になれるような力を持っているのだろう。 抑制の心を働かせるよりも反射の反応が勝って、は思わず渡り廊下で足を止めてグラウンドを見つめる。手には桃子の手伝いで預けられた球技大会のクラス書類があったが、足は生徒会室に向かうことよりもその場に留まることを選ぶ。目が、頭が、心が、足にそう命じているかのようだった。 「いいじゃねえか、もらえるんならもらっとけば」 「バカ宍戸、じゃあお前が飲め! なんで好き好んで青汁なんだよ、意味分かんねえだろ!」 「今これを飲むことよりも、忍足さんがここに持っていることの方が意味が分からないと思うのは俺の気のせいですか」 「長太郎、お前今日冴えてんな」 「アホか、これが思いやりっちゅーもんや。俺はいつでも岳人のこと考えてんねんで」 「うわ」 「うわ」 「気持ち悪い!」 思わず笑い出しそうになるほど、どこかで聞いたことがある言葉と感覚だと言えばそれまで。おそらくこの流れでいけばやがて彼は常備しているテニスボールをポケットから取り出して、容赦なく親友に向かって投げつけるのだろう。相変わらずユニフォーム姿が似合っている、と頬を緩めた時、視界の中央にいた赤髪の少年は眩しい黄色のボールを容赦なく利き手である左手で仲間に投げつけていた。 そこまで見届けた時、いつしか痛みを訴えていた胸にはそっと睫毛を揺らす。 言葉すら聞こえる距離。次の言動すら予想できる関係。 けれど、それに手が届くことはない。 「てめーら、自主練だからって遊んでんじゃねえ!」 「うわ、跡部!」 「忍足! ダブルスの相手の管理ぐらいしっかりやれ!」 「俺の責任かい」 偶然通りかかった跡部の一声に、そこにいた誰もが一瞬だけ身を正す。 その瞬間こちらを向いた岳人の視界に自分が映りそうになる。しかしは自分の目をそらすことで気づかなかったことにする。なかったことにする。 「跡部くん」 「なんだ」 「あのね、球技大会の出場名簿なんだけど。今渡してもいいかな」 「ああ、不備がなければ受け取れる」 左頬に突き刺さるようななにかを感じながらも、跡部に書類を渡して踵を返す。 春も終わり。やがて訪れる初夏の季節を前に鮮やかに染まった緑の葉の揺れ動く音を聞きながら、はグラウンドを見ないままにその場を去った。 「口出ししないって決めてたんだけど、もう限界。ねえ、。向日くんとちゃんと話さない? 話して分かるものはあっても、話さなくて得るものはなにもないと思う」 親友の言葉はいつだって正論だった。 「自分があいつの立場やったら、自分の恋愛沙汰に口出しされるんはあんま気持ちいいもんやないんやけどな。でもな、いい加減決着つけへんか。あいつと」 彼の言葉はいつだって従うに、信ずるに足る言葉だった。 けれどそれらの言葉に、が頷くことはなかった。おそらく彼らの言葉は正解に近いもので、素直にその道を選べば自分にとっての幸福も手に入れることができるのであろうことはありありと想像できたが、それでもは受け入れなかった。 「付き合ったら、どうすればいいのか分からなくなる」 それがすべてだった。 桃子も忍足も、その言葉に眉根を寄せた。納得のいかない表情。彼らの言わんとすることはそれだけで十分に伝わった。 「好きだけど、すごく大好きだけど。でも、付き合うために好きになったんじゃない」 続けたその言葉に渋る表情が、全てを物語っていた。自分が思っていることは詭弁に近く、現実味がまるでなく、第三者から見れば理にかなっていないことであると、いつでも教えられていた。 けれど。自分はいつから天邪鬼になったのだろうかと思えるほどに、は桃子と忍足の言葉に従うことは決してなかった。自分の言葉を訂正することはなかった。 「岳人も同じことを言うと思うんだけどな」 その言葉を呟けば、ふたりでも黙る。 周りの誰が見ても相思相愛に近しい関係であることは誇りだと思うことができても、それでも自分のその考えを覆すほどの威力はなかった。 桃子よりも忍足よりも、岳人の考えを理解することができることを、誰にも譲りたくはないと思った。 (きっと同じことを思ってるはず、ならそれが一番いいこと) 世の中というのは不思議なもので、言葉というものが持っている威力は時に増大し、時に減少する。それがどちらになるのかを決めることができるのは己の心、ただそれだけだった。自分の言葉を「正義」にしたければそれを口にする自分が強くあればいいのだということをは最近知った。 岳人とは既に口をきかなくなって久しい。けれど反比例する形で心の中の岳人の存在は強く増し、揺るぎないものとなる。愛しいという感情が定数として存在していることに気づいてしまった以上当然と言われればそれまでだが、今心の中にある岳人の存在は好意という言葉だけではもはや形容できない。そう、だから 「ゆーうーしー。お前いい加減にしろって! いつまでぼーっとしてんだよ」 その声に囚われたくないと言えば嘘になる。 「なんや岳人、彼女みたいに呼びおって」 「『憂いある男になる』とかうざいから。本気でうざいから。早く練習させろって。お前がいねえと俺ひとりで筋トレやらされるんだよ、跡部に」 「それは大切や。しっかりやり」 「だーかーらー!」 その雰囲気に飲み込まれたくないと言えば嘘になる。 「俺の心が読めんとは、お前に彼女ができるんは当分先やなあこれは……」 「わざとらしいため息つくな。ほら、ラケット。早くコートに立てよ」 その手に触れたくないと言えば嘘になる。付き合いたくないと言えば嘘になる。 けれど、形としての何かがなくとも今の自分は動くことができると。決意をすることの後押しをしてくれた岳人の存在は、今のにとってはすべての言動の源のようだった。 春が終わろうとしている。 広いとはいえ所詮学校という区切られた空間である。ふと顔を上げたその先に岳人の姿があるのは珍しいことではないし、もう驚くこともない。春が終わる、それほどの時間が流れた。時間が流れる代わりに心は惰性にも似た平穏を手に入れた。 おそらくそれは岳人も同じなのだ。視線を逸らすことをしなくとも慌てなくなった身体。何かを言いたいだろうに動く唇が、それでも決して自分に対してなにか言葉を投げかけるわけではないことを知っているこの関係。それに感謝にも似た、けれど寂しさにも似た形式ばった平穏というものを教えられる。 「向日くん、待って!」 岳人の名を呼ぶ女子の声にも驚かない。岳人の反応が気がかりになることもない。 時間はやがて、その感覚こそが是であるとしてくれるのだろう。そう思えた。 そんなある日、ふと顔を上げた視界の中、教室のドアの前に立つ岳人の姿が映る。 向こうも予定していなかったのか、と目が合った一瞬身体を強張らせたようにも見えたが、逃げることはなかった。は小さく笑んで手招きをする。さすがにそれには目を丸くしたものの、やがて岳人は無言のまま教室の中に入り、の前に立った。 「はい」 「え」 「私のクラス、もう今日は使わないから。岳人次理科でしょ、これじゃない?」 誰かを探していた岳人に向かって、静かに理科の教科書を差し出す。彼が得意分野の理科において手助けを求めることなど滅多になかったが、しかしだからこそその表情ひとつで今彼が何を求めていたのかを見分けることができる。 差し出した、教科書1冊だけの距離。 目の前の相手は一瞬だけ目を丸くしたが、やがてわずかな笑みを浮かべて素直に受け取る。 「サンキュ」 たとえば、それは。思い返せば何度もあった、彼に礼を伝えられるシーン。 初めての経験ではないそれを、きっと同じ感覚で岳人も享受し、そして、もう一度感謝の言葉を述べたあと自分の教室へと戻っていく。その時に引き止めるなにかは、ない。も引き止める何かを用意しない。岳人も求めない。既に視界に岳人の姿はない。けれど落ち着いている。それが今。 春が終わろうとしていた。 |
| >>16.解けて、巡って 07/11/08 |