13.待ちわびた、1年

「今日の帰り、時間もらってもいい?」

 一度決意してしまえば、あとはおかしなほどに簡単だった。
 5時間目が始まるまでのわずかな時間。この想いでもまだ会うことができることは、いやここまで許してもらったことに対しては場違いながらも感謝の念を抱く。勝手な理由ではあったが。
 自分の心の曇り具合も行く末もまるで気にしようとしない空から浴びせられる日差しが痛かった。なんていい天気だ、そう呟け、思えとでも言いたげなほどに。

「話したいことがあるの」

 それだけを呟くと、彰太は廊下の壁にもたれたまましばらく口を閉じた。なにを思案しているかは分かりかねたが、今はもうそれに左右されてはいけないと心の中で命じる。
 彰太が移動教室に向かう前の渡り廊下。南西を向いた窓から差し込む見上げた空の太陽が眩しくて、しばしの間は眩暈にその時間を譲る。

「俺のクラスの前で待ってて。絶対に」

 だが眩暈はその澄んだ声に一瞬でかき消される。
 仰ぐようにして見つめる彰太の顔には、なんの表情もなかった。たださきほどのと同じように自分の言葉を呟くと、の了承を得ずに壁から離れ、特別教室のある棟へと向かう。
 予鈴が鳴り響く中、見つめた彰太の背中にはそっと強く拳を握った。





 たとえば、その瞬間を。見逃すという選択肢だってあったはずで、偶然という名の中に押し込んでしまってもよかったはずで、つまり自分には逃げ道はいくらでも作ることができたはずだった。がこちらに気づいていない以上。
 岳人は足を止める。なぜこのタイミングだ、と問いかけたい相手の視線はこちらに向くことはない。ただその前に立つ、岳人よりも身長の高い男子を仰ぐことにのみ使われる。

(なにを今更)

 テニスバッグをもつ手にぐっと力を入れる。胸の奥底から湧き出るようななにかと、頭のどこかからにじみ出てくるようななにかをその痛みで押さえつける。だが呼吸をしたいのか何なのか分からないもどかしい動きをする唇だけは支配することはできなかった。

(落ち着け、俺。あれは当然のことだ。当たり前のことだ。俺には関係のない……)

 そこまで並べた言葉の続きは、用意できなかった。
 今朝、が最後に残した言葉を都合よく理解したいもうひとりの自分が、簡単に嫉妬という感情を甦らせる。
 視線をずらせばいいものを。「正しくあれ」と願う自分が呟くその声を受け止めることもできないまま、岳人は廊下の真ん中に立ち尽くして目の前の光景を見つめる。
 教室の外に出ていたが、廊下の壁から離れる。一歩、その身体は彰太のもとへ。一言二言を話して、ふたりの足は昇降口へと向かう。その光景を、周りの誰もが気に留める様子もなく見逃していく。
 それに違和感を覚えたくてたまらないと、思考回路が訴える。ショルダーベルトの感覚が手のひらに痛みを伝えてもそれは止まらない。
 吐き気がするほどの嫉妬に、岳人はもう自分はこの道しか選べないと痛感する。

(関係なくたって、もう俺は)

 そこまで思い、岳人は廊下に向かってひとり失笑する。
 まとまっているように見えて、片付いているように見えて、けれど今の感情はどれも自分本位でしかない。そんなことは知っている。
 だが、その道以外を選ぶことはもうできない。いや、しない。

(関係なくたって、あいつのことが好きな気持ちをもう隠すことはしない)

 まるで自分に言い聞かせるように心の中で呟いて、岳人は顔を上げて足を進める。既に視界の中にと彰太の姿はない。流れ去っていく同級生たちに気を向けることなく真っ直ぐに昇降口へと向かう。
 気持ちは、片付いた。
 目に見えるなにかを得たわけではない、自分本位にもほどがある。けれど心の中に余分なものはなにひとつない。偽ることなく臆すことなく、ただひとつの気持ちだけを持って毎日を過ごすことはどうしてこんなにも気持ちを前へ前へと向けてくれるのだろう。

(よし、今日は絶対に失敗しねえ。跡部に文句なんか言わせねえ、絶対にいいテニスをしてやる)

 右肩にかかるラケットの重みに、まるで高揚すら覚えながら。昇降口へと向かう階段にさしかかるための廊下の曲がり角を曲がろうとした、その時。

「向日くん」

 下校と部活への移動という様々な生徒の波の中、小さくその声が背後から飛んだ。

「……芦屋?」

 突然のその声に振り返り、相手を確認してそう呟けば、桃子はためらいながらも小さく手招きをする。何事か、そう表情だけで訴えつつも足をそちらに向けると、桃子は周囲を気にしながら廊下の淵へと岳人を誘った。

「どうしても、知っておいてもらいたいことがあって」
「俺に?」
「向日くんだからこそ」

 怪訝な表情でそう問いかければ、桃子は大きくはなくともしっかりと頷いてみせた。冷静な桃子がそこまで慎重な素振りを見せるというだけで事の重大性は簡単に理解できる。
 岳人は一度息を飲んだあと、廊下の壁にもたれて桃子の横に並ぶ。目の前を流れ去っていく光景のなんと日常的なことか、そんなことを感じる余裕はまだあった。

「今日、と魚崎くん別れるから」

 その言葉を聞いてしまうまでは。

「……え?」
「魚崎くんの答えはまだ分からないけど、でもはもう変わらないと思うから。だから、それは知っておいて」

 真っ直ぐに階段を見据えたまま、まるでなにか物語か映画の粗筋でも語るかのような淡々とした口ぶりで桃子は言う。けれど岳人はその冷静な空気に溶け込むことなどもちろんできなかった。
 なぜ自分にそのようなことを言う、なぜ自分ととの現状を知っている。の親友である桃子に対してそんな質問が愚かであることぐらいは分かる。
 だが、そんな展開を望みはすれど事実になるとは思いもしなかった岳人は返す言葉を知らない。絶句してただ呆然と桃子を見つめることで沈黙を埋めることしかできない。
 そんな岳人の反応など最初から見越していたのだろう、桃子はちらりと岳人の表情を確認したあと、小さくため息をついてさらりと前髪を揺らした。

「ふたりが仲がよかったことは、私が一番よく知ってた。それこそ、御影さんよりも魚崎くんよりも、絶対。去年と友達になった時からそんなこと分かってた」

 開け放たれた廊下の窓から流れる風が心地よい。さらさらと黒髪を遊ぶそれをそのままに、桃子は静かに語りだす。

「だから正直、ふたりの気持ちが今どこを向いてるのかなんて、想像することはそんなに難しくないの。むしろ当たり前のようにすら感じちゃう部分もあるの。だって去年、ふたりを見ててどうして付き合ってないんだろうなんていつも思ってた。……覚えてる? 球技大会」
「……それは」
「ね。友達でもいいけど、恋人同士でもいいと思ってたよ私は。ふたりにその意識がなさそうだったからなにも言えなかったけど」

 懐かしむ視線は、やがて翳りとともに鋭さを含む。

「でも今日、が自分の気持ちをきちんと固めた。だから、私はを止めなかった」

 既にと彰太の姿など確認する術はない。けれど、桃子の言葉が岳人の視界の中にふたりの幻影を生み出す。目の前で消えていったふたりの姿を、もう一度。今度はしっかりと見据える気持ちをもって見つめる。
 何も語らなかったの背中に、桃子の言葉が重なる。
 その瞬間、岳人は自分でも気づかないうちに足を動かしていた。

「向日くん!」
「悪い、芦屋! でも……!」

 言葉で説明することももどかしい。言い終わることに意味がない。
 再び呼び止めた桃子を仰ぎ見る。既に足は階段を何段か降りている、けれど階段に近寄った桃子の慌てた表情を確認するにはそれで十分だった。

「それって、そういう意味だろ? だったら、俺……! 悪い、行かせて!」
は、向日くんが思うような答えは用意してくれないよ!」

 背後、珍しく大きな声を上げる桃子をもう振り返ることはなかった。岳人はテニスバッグを持ったまま急いで階段を段飛ばしで下りながら、昇降口を目指す。
 桃子の言葉が頭の中に入ってこなかったわけではない。けれど今から起こる「事実」をこの目で確認したいという願いの方がはるかに強い力をもって岳人の身体を動かす。

「おわ、岳人。なに慌て……」
「悪い侑士、部活には間に合うように行くから!」

 嫌がらせのようにすら感じる階段を降りきった時、すれ違った忍足に慌てて告げる。それだけでほとんどを理解してしまうこの親友は、何も問わずにただ「中庭に行け」と促した。
 一度足を止めたものの、岳人は顔を上げて走り出し、昇降口を目指す。そこからの行き先に迷う必要はなかった。
 一度だって、忍足が嘘偽りを口にしたことはなかった。そう、岳人のことに関しては。





 意思を固めてしまえば、その緑は壮麗ですらあった。
 元来それを意識して造られた庭園である、見る側の意識ひとつ変えるだけで視界の中には濁りや歪みなど全くない新緑の鮮やかさが映る。それらを見渡したあと、は視線を止める。
 帰るでもなく、なにを話すでもなく。ただ彰太の大きな背中は、をこの中庭に連れ出したあとそのまま動かなかった。

「聞いてほしいことがあるの」

 そっと口を開く。彰太は振り返らなかった。けれどが口を閉じることはない。
 もうそれだけはしない。逃げることはしない。もう一度心の中で自分に言い聞かせ、鞄の取っ手を強く握り締めればそれだけで十分だった。

「勝手すぎるって分かってる、でももう言わなくちゃならない」
「……」
「別れてほしい」

 言葉にしてしまえばたったそれまで。けれどそれは、沈黙の中に重く、強く、なにかを圧しつけるかのような力をもって響いた。
 大きく、頼りがいのある背中。それらに安堵を覚えたのは、いつからだっただろう。岳人とは違う印象、けれどクラスメイトという関係の始まり自体はまったく同じだった彰太を、クラスメイトという枠を超えた視線で見つめられるようになったのは、いつからだっただろう。甦らせた記憶はすべて、彰太から告白をされてからのものでしかなかったけれど。
 それでも、その背中を愛しいと感じた記憶だけは確かなもの。
 それだけは信じてほしいと、願いながらは沈黙を流す。風、声、すべての音が緩やかに、そしく優しくその間を縫って去っていく。
 どれほどの時間が経っただろう、ふと木々のざわめきに視線を奪われたその瞬間、彰太はようやく振り返ってを真正面に迎えた。

「理由は」

 逃げることを許さない、正面からの刺すような視線。けれどここで逃げることは自分だって望んでいない、は一度ぐっと手のひらに力を込めたあとで小さく顎を引いて口を開いた、その時。

「向日のことが好きだから、なんていう理由なら、俺は別れない」

 真っ向からぶつけられた言葉に息を飲む。
 直球で投げつけられた拒絶の言葉。その中に当然のように組み込まれた岳人の名前。
 は目を見開き、呆然と彰太を見つめる。予想はしていても会話の始まりをそれにもっていかれるとは思ってもみなかった。
 何もかもを見透かしたかのよにう、彰太は静かにため息をつく。

「普通に考えろよ、他の男のところに行きたいなんて理由をはいそうですかって受け入れるはずないだろ。……そんなふざけたこと」

 声は落ち着いていたが、いつもの低音に重みが加わっている。怒りの感情を心の奥底からそのまま引きずり出してきたような低さだ。そっと向けられた視線には鋭さが加わっている。射すくめられてはますます言葉を見失うが、拳だけは力強く握り締めることを許されていた。

「岳人は関係……」
「ない? ここまできてそんなこと言えるのか、本気で」

 逃げ道のひとつも許さない言葉の返し方には黙る。
 関係ないとは言えなかった。関係ないはずがなかった。ただ、その関係を岳人にすら秘密にしようとするほど正しいものとは思えない。だが今この状況、彰太との関係の方がよほど正しくないと訴える心がある。
 だが、それもまたひとりで勝手に導き出した勝手な理想論であったことを、は目の前の彰太に教えられる。

「今更向日と付き合いたいとか、そんな理由なら俺は聞かない。俺は別れない。いくらお前らが仲良くて、俺が好きになる前からずっとそうだったとしても」
「彰太」
「分かってるのか、。今自分がしようとしていることがどんなにバカバカしくて勝手なことかって。俺の今の気持ちよりどんなに自分勝手かって」
「分かってる」
 
 は小さいながらも強く言い切り、彰太の言葉を打ち切る。
 今は、沈黙とともに相手の意見を受け止める時ではない。
 大きさはなくとも強さを感じ取ったのか彰太は一度口をつぐむ。

「謝って済む話じゃないことも、私が勝手なことも分かってる。でも今の状況で、私だけ自分の気持ちを言わないわけにはいかないの」

 泣きたいのか叫びたいのかは分からなかった。
 が、すべてを吐き出してしまいたい気持ちだけは確かだった。

「岳人が自分の気持ちを伝えて、御影さんに別れてって言って、もうそれ以上気持ちを変えるなんてことをしなくて。するはずがないんだよ、岳人なら。自分の決めたことに口出しされるのが本当に嫌だから。だから御影さんが岳人じゃなくて私に怒るのも当たり前で、私に今までどおりにしてって言うのも当たり前すぎて、本当だったら私はなにも知らないようにしなきゃ駄目だって分かってる、そんなこと分かってる。でも」

 整然としない言葉は、けれど感情をなによりも強く引き連れて並んでいく。

「知らないふりをするのは岳人の気持ちに対してで、自分の気持ちに知らないふりをすることはもうできない。私が黙ったままとか嘘をついたままとかそんな逃げることばかりしてるわけにはいかないの、もう無理なの今この気持ちなら。……それなら、決めなくちゃならない。決めさせて」

 言い切る。入り込む隙も余計な雑念も追い払うどころか近づけないほどの気持ちを込め。

「だから、ごめん。別れて。『私』が岳人のことを好きな気持ちだけは」

 磨耗した言葉に誠意を、自分が一番感じない。利便性を追求した結果としての言葉のような、そんな後ろめたさややましさはやはり拭えない。

「ごめん、本当に。でも駄目なの、私彰太と『今までどおり』をすることはできない」

 けれど繰り返すことしかできなかった。沈黙が生まれる限り繰り返そうと誓うことの方がよほど簡単で、そうすることの方が正しいようにも思えるほど、彰太はただ黙っていた。
 幾程の時が流れただろう。ふと青葉を迎えようとしている木々の間を一陣の風が通り抜けたその淀みのない音に鼓膜が丁寧に反応した時、はっと顔を上げれば彰太が自分ではなくその後ろを見つめていた。

「知らないはずがないだろ。お前と向日が、本当は付き合っていてもおかしくないぐらい仲が良かったって。付き合ってると思ってるやつだっていたって。そんなこと、知らない方が逆におかしいだろ」
「……」
「でも好きなんだよ。俺の方が、絶対。向日よりもお前のことを好きに決まってるんだよ。なのに」

 心の中を抉る言葉。1日に2度も聞くことになるとは思っていなかった。

「俺が『今までどおりでいたい』って思うことよりも」

 視線は合わない。彰太の視線は遥か後方を臨んでいる。

「お前が『今までどおりはできない』って思う気持ちの方が、強いのか」

 その問いかけが自分に向いているようで向いていない、それに気づいた直感が身体の向きを変えさせる。
 振り返り、細い髪がふわりと一瞬風に遊ばれるのを見せ付けられた視界の中。
 そこにいた岳人の姿に、は静かに自分の心の奥底がじわりと熱くなることを止められなかった。

「俺は好きだよ、お前が。あいつがお前を好きだって言っても、そんなの鼻で笑えるぐらい。でも、それでも駄目か」

 なにかを伝えたい気持ちは、視界の中に映るひとりの人を捕らえて離さない視線のせいで、なにも言葉に出すことはできなかった。
 走ってやってきたのか、少しばかり息が上がっている。距離があって息遣いが聞こえるわけではなかったが、口元を見つめればそんなことは瞬時に分かる。見開かれた瞳がなにを言いたいのかも分かる。
 そんな岳人を見つめて、はしばらく風にその場を任せていたけれど。

「ごめんね、彰太」
「……」
「人の気持ちを笑う余裕なんかないぐらい、好きなんだよ」

 小さく呟いた言葉に、彰太はそれ以上なにも言わなかった。
 こんなにも息苦しいのが恋愛であるというならば、いっそ最初からそのような感情は知らなければよかったと。
 伝えられない本心を、自分ですら気づかないほど奥深くに封印してしまいたい。
 けれどそよぐ風になにも伝えてくれるなと願う心は今にも泣き出しそうだった。



>>14.君からの卒業


07/08/13