| 12.未来を決める |
「こうなって、満足?」 突然突きつけられた、その言葉の意味は分からなかった。 沈黙は了解の意味になる。言葉を飲んだだけのに、詩歩は苛立ちを隠さず再び口を開いた。 「岳人とあなたが仲がいいことは知ってた。そんなこと、岳人をずっと見てきたんだから知らないはずがない。でもそれは付き合うこととは別で、私の方から告白したからって逃げ道にしていいはずもなくて、だから私が今怒ることは絶対に間違ってなんかない」 悲しみというよりはむしろ怒りからくる涙を必死に堪えながら言葉を羅列する詩歩を、見つめることしかできなかった。 休み明けの学校。何もかもを見透かされていたのだろう、誰にも会わないようにと時間を大幅に早めて到着した昇降口には、既に詩歩の姿があった。挨拶の言葉もそこに立つ理由を問いかける言葉も用意できないまま、誰もいない静寂の中で見つめあう。 窓から朝陽が流れ込む。その向こうに覗く、初夏を迎えたがっている青空が眩しかった。 「卑怯でしょ。ねえ、ずるいよ。付き合った後に『本当は好きだったから別れて』なんて、そんなことどうして」 だが眩しさにすべてを預けることはできなかった。 詩歩の言葉を通して初めて知ったその事実に、顔を上げる。目を見張る。驚きとともに詩歩の顔を見つめても、その顔には皮肉の笑みしか浮かばなかった。 「……ねえ、全部岳人任せ?」 その笑みはやがて強張る。詩歩こその表情を介して初めて知ったのだろう真実に、しばらくの沈黙の後、小さく失笑した。 「岳人にだけ決めさせたなんて、どこまでずるいの。岳人がかわいそうだよ、どうしてあなたみたいな人が好きだなんて言うの。どうして」 失笑と見えたのはつかの間だった。失笑に任せようと本人も思っていたはずだったその笑みは、一瞬で涙に取って代わる。 差し込む朝陽に照らされてちらちらと舞い上がる埃も、艶を与えられる詩歩の髪も、すべて朝という爽快な空気の中に溶け込んでいる。けれどはその空気に馴染むことのできない自分の心苦しさに、ただ吐き気がしそうなのを必死に堪える。 「何も言えないぐらいなら、岳人を返してよ……! 岳人に近寄らないで、もう岳人を困らせないで。前みたいにしてよ、もうやめてよ……!」 胸元を鈍い音を立てて抉られる、その感覚に近かった。 「なにか言いたいことがあるなら言ってよ、ねえ」 「……それは」 「言えないくらいなら、もう本当になにもしないで」 「それは」 「魚崎くんにも岳人にもいい顔するなんて、もうそんなの嫌、イライラする……最低だよ」 その名前を出された瞬間、は言葉の出し方すら分からなくなった。 小さな嗚咽を必死に隠しながら、詩歩はの返事を待つより先に教室へと去っていった。下駄箱の前、まだ革靴を履いたままそっと朝陽を反射する廊下を見つめれば小さな雫の斑点。 屈辱に促されてぐっと拳を握り締めることも、どうしようもない息苦しさに負けて下駄箱にもたれかかることもできた。けれど詩歩のように泣くことはできなかった。 泣けてしまえたらどれほど楽なのだろう。泣いたとて結論も結果もなにもかも、「今まで」を復元してくれるわけではないと十分理解していたが、それでも心の内を搾り取るように泣いてしまえば、その一瞬だけは吐き気と別れられる。その事実に縋りたくとも、今日という日はまだ始まったばかりだ。 朝の日差しがとても綺麗で、けれど自分とは無縁のその綺麗さが寂しい。 いや、と。は小さく頭を振り、鞄の中から携帯電話を取り出す。この数日あえて見ようとしなかった番号を手早く探し、発信ボタンを押しかけ、けれど。 (……朝練だ。それに今更、私がなにを聞いて、岳人がなにを教えてくれるだろう) 他の誰でもない自分の、自分を嘲る笑い声が耳奥でわんわんと響いて、はしばらくその場を動けなかった。 それでも約1時間後。意を決して岳人の教室に足を運んだ自分を、惨めという言葉以外のなにかで形容したいと願う。 「……岳人!」 早朝練習が終わり、教室の中へと流れ込む人の流れの中に埋まりかけていたその深い赤色の髪を探し出し、は声を出す。ぎょっとした顔で岳人が足を止めれば、寄り道をすることなくその目が自分を捉える。 たった数日のことなのに、その目が自分を見つめることはとても久しぶりのようで、身体のどこかが妙な反応をする。高揚にも似たそれの処分の仕方はまだ決めかねるものの、足が彼のもとに向くことに何の迷いもなかった。 「なに……」 「御影さんに聞いた」 言いかけた岳人の口が、一瞬で閉じる。そしてテニスバッグを持っていなかった利き手が、一瞬での手首を掴んで教室前から引き離す。 開け放たれた南向きの窓から流れ込む風の向こう、真っ直ぐに自分を見つめる岳人の視線には唇が震えた。 「……理由でも聞きたいのか? それとも、そんなことすんなって怒りにきたのか?」 ただ首を振る。正直な話、言葉を用意していたわけではない。ただ感情の赴くままやってきてしまった、その感は否めない。 「じゃあ、なに」 そして再び戻ってくる、あの視線。何度となく受けた、何度となく見つめ返したこの視線。その瞳が驚きに丸くなることも、嬉しさに細くなることも、緊張と高揚に鋭くなることも、全て見てきた。 けれど、それを今のような感情で受け止めたことはなかった。明らかに今までとは違う自分の中の何かに戸惑いつつ、しかしそれが原動力となっては口を開く。 「……聞きたくて」 「……なにを」 「どうして」 「別れたか?」 そうだったような、そうでないような。衝動のみに駆られてこの場にいるは、しばらくの沈黙のあと小さく頷く。当たらずとも遠からず、その感覚に任せれば岳人はわずかに眉根を寄せたが、やがて俯きながら小さなため息をひとつつき、 「今の俺にそんな質問をするお前が変。バッカじゃねえの」 息を飲むをじっと見つめ、 「俺が誰を好きだと思ってんだよ。好きなやつとじゃなきゃ、嫌だ」 揺らぐ間もなく、そう呟いた。 さらりと横髪が頬に触れる。周りには聞こえない小さな声で呟かれた、その言葉には心臓を直に叩かれたように熱く、痛くなり、手のひらが汗ばむ。言葉を出そうとする口内が熱に負けた。 沈黙の間に岳人は再びため息をついて壁から離れる。 「正確には『別れてくれ』って伝えた、まで。あいつはまだ認めてない」 「……」 「……どれが正しいのか、俺にもよく分かんねえし」 小さく呟いた後、岳人はそっとの側から離れようとした。けれど背中が見えそうになったその瞬間、は咄嗟に岳人の手首に手を伸ばしてしまった。 息を飲む速さで振り返る岳人の表情を見た瞬間、は手を離す。それよりも岳人の手が離れるのが早かったか、そんなことを聞けるほどの余裕などもはやない。なぜそうしたのかも説明できない、いやむしろなぜ窓が開いているのに身体がこれほどまでに熱いのかを誰かに説明してもらいたくて仕方ないほどなのに。 「……彼氏いるのにそういうことすんな、困るのはお前だろ」 その一言に、熱は収縮するものと思った。再び見せられた苛立ちと困惑の混じった表情に、恐怖すら感じるかと思った。 だが実際は。 「……ごめん、岳人」 「……なにが」 「中途半端でごめん。ごめんね。もう、決めた」 何も用意していなかったはずの口が、戸惑うことなくその言葉を並べた。 岳人が目を見張る。すぐには理解できなかったのだろう、通行の邪魔をする廊下の中央で真っ直ぐを見つめたまま動かない。 「……お前、それ」 滲み出るなにか、自分にとって安寧をもたらす感情を必死に抑えようとする低い声。は続きを待たずに首を横に振る。 「私もまだ分からないことが沢山あるし、何が正しいのかなんてそんなこと一番よく分からないけど。でも、決めなきゃいけないことがあることは分かってる。……ごめんね、遅くなって」 自然と口元が緩むことは、止められなかった。 予鈴が鳴り響く。先ほどよりは随分と冷静になった身体を静かに教室へと群れ、人の流れの中に紛れ込ます。 岳人の左手が、もう一度。手首を握り締めようと、動きを止めようと、いやなにかを確かめようとしたことに気づいたが、それには気づかないふりをした。 食堂ではなく中庭に行こう、と昼休みに声をかけてきた聡い親友には、相変わらず頭が上がらない。けれど今日はその優しさに感謝の気持ちとしての誠意を見せたいと願う。 「ねえ、桃子」 「なに?」 「決めたよ、私。もうちゃんとする。私だけがこのままでいいはずがない」 桃子が目を丸くして顔を上げる。緑生い茂る中庭を背景に、その白い肌と大きな目は不純なものがなにひとつ混じっていないようでとても綺麗に見えた。 中庭の真っ白なベンチの上、互いに購買部で買った昼食を口にしながら、はゆっくりと話し出す。 「だから、何も言わずに聞いて。聞いてくれるだけでいい。桃子に助けて欲しいって思ってるわけじゃないから」 返事は沈黙に取って代わられる。サンドウィッチを手にしたまま、は視界の片隅でその空気を確認してそっと睫毛を伏せた。 「一番駄目だったこと。私が岳人との関係をきちんと理解していなかったこと」 中庭が沿う形で造られた食堂からは、賑やかな笑い声が飛ぶ。 「だからいけなかったこと。彰太に対する私の態度。御影さんに対する私の態度。……岳人に対する態度」 それとは相反して、日常生活から取り残されたかのような静けさが中庭を包んでいる。 その静けさに語りかけるかのように、は一言一言を重く、大切に口にする。 「岳人のことを好きだって気づいていたなら、私は彰太から告白されても付き合おうっていう選択肢すら思いつかなかった。御影さんに対して親友の顔を作ったりすることなんてしなかった。岳人を苦しめることなんか、なかった」 「……」 「この流れで説明できちゃうってことは、結局、最初の最初。私がいつのまにか岳人のことを好きになっていたことに、自分自身で気づいていなかったことが全部の原因なんだって、分かった」 言い終えた瞬間、初夏の風がそっと頬を撫でる。慰められたかのようで思わず顔を上げるが、自惚れるなと強い午後の日差しが一刀両断する。そのとおりだ、と思えばまた口元が失笑を連れ戻す。 だが、それがすべてだった。 彰太が岳人の話題に触れることなく、強引な態度を見せること。詩歩が岳人の話題にだけ触れて、直球の言葉をぶつけてくること。 岳人が、ふたりきりになる場所でだけ、痛々しい本音を漏らすこと。 すべてが自分の態度、心情に起因したイレギュラーなものばかりだった。それに気づかないなどという理由はもう通用しない、それほどまでの時間と、事件が起きてしまっている。 そして、それを関係ない第三者の桃子に最初に伝えること。それが卑怯以外の何であるというのか、問いかける思いに答えるのは口元の失笑のみ。はそっと目を伏せる。 「……それで、どうするの?」 その時、右横から静かな声が流れてきた。顔を上げ、は桃子を見つめる。桃子はからかうでも怒るでもなく、むしろ無表情に近いものを浮かべてを真っ直ぐに見つめていた。 「の行動に口出しはしないって決めてた。でもが決めたことなら私はそれを助けたい。だから、教えて。何をするの? 魚崎くん、御影さん、向日くん。誰に、何をしたいの?」 自分が何日もかけて、周りを乱すことでようやくたどり着いた答えのその先を、桃子は簡単に指摘する。なんて聡いのか、そしてなんて自分に優しいのか。 さらりと桃子の肩から黒髪が流れ落ちるのを見守って、は苦笑を浮かべて首を横に振る。 「そこで岳人の名前を一番に出すほど、私もバカじゃないよ」 桃子が息を飲むのが分かる。だがは自分の言葉を訂正しない。 「それは別。それよりもやらなきゃ駄目なことがある。……彰太に、言わないと。彰太のことは好きだけど、好きだけどでも。でも、その『上』というか……ううん、『別のところ』に好きな人がいる私と付き合ってもらう義理は彰太にはない」 もはや昼食の存在など、なきに等しいものだった。 言葉にしている内容はどこまでも苦々しいものなのに、出してしまえば、これほど心に安楽をもたらすものだとは想像していなかった。は真っ直ぐ目の前の木々を見つめながら答える。 なにも解決はしていない、語っていることは所詮理想論。 そのようなことは分かっている、けれど決意をする場として桃子の存在は、そしてこの場はすべてが自分の味方をしてくれているようだった。 そうだ、と。は手にしていたサンドウィッチをパックの中に戻し、強く五指を絡める。 そうだ。自分の招いた結果であれば、自分ですべてに対して責任を負わなければならないのだと。 「言うよ。別れてって」 その一言で、桃子はすべてを察したように視線を外す。 「御影さんはどうするの? あの子はが魚崎くんと別れたら、余計に疑心暗鬼になる」 「分かってる。でも大丈夫」 「……え?」 想像していなかったのか、珍しく桃子が慌てた様子で視線をこちらに向ける。はやんわりと笑い返して、そして。 「私は岳人とはそういう関係にはなれない。岳人に対して、自分も好きだったなんてそんなこと言えない」 「……」 「だから、なれない。ならない。好きだから付き合うって決め付けるのはおかしいよ」 あの生徒会会議室での出来事を思い出しながら、そう口にした。 あの日からは随分と状況が異なっていたが、しかしはその考えを変えるつもりはなかった。 奇妙な沈黙が流れたのは、それからしばらくしてのこと。それが桃子の意表をついた結果だということに気づいた時、この選択が一般的ではないことに気づかされたが、それでもは自分の考えを取り消すことはしなかった。 「……嘘をついてまで?」 やがてぽつりと、苦々しく桃子は呟く。 「向日くんに、好きだっていうことを隠したままで?」 本心を見透かされていることは分かっていたが、直球で問いかけられるとは思っていなかった身体は、場にそぐわない苦笑を零させた。 「嘘じゃなくて、そうじゃなくて。岳人が好きだから付き合いたい、だから別れるなんて。それは違うと思うんだよ。別れることと付き合うことを一緒にしていいほど、私の気持ちは褒められるものじゃない、きっとみんなそう思う」 「でも向日くんは、のことが好きなんでしょ。だから別れるんでしょ。その向日くんがの本当の気持ちを知らないなんて、そんなの」 「おかしくても、いくら桃子が正論しか言わないって分かってても」 遮り、桃子を見つめ。けれど親友の惑う瞳を正面から見据えることもできかねてそっと視線をずらし、中庭の景色のみを視界に映してから。 「そこで岳人と付き合えるほど、私は勇気も……度胸も、覚悟も、なにもない。権利自体ない。そんなの傍から見たらおかしすぎる、狂ってるって、そんなこと私でも思う」 神様という人がいたら、今、自分はなにを願うだろう。はそっと考える。 時間を戻してほしいと願うだろうか。岳人のことが好きだったと、気づける時間にまで戻してほしいと。そうすれば彰太も詩歩も傷つけずに済んだだろうかと。いやそれとも、外聞など気にせず岳人に想いを伝えられる勇気を願っただろうか。想いを叶えるための図太い神経を願っただろうか。 いや。そうではない、とはふと目の前の景色を見つめて考える。 静かな中庭の中を、忍足と宍戸、跡部らテニス部の仲間とともに歩き、去っていく岳人の姿を見つめながら考える。 (見つめる権利だけは欲しいって、願ってしまうんだ) 岳人の視線がこちらを向くことはない。跡部や忍足、彼の学園での生活をもっとも実りあるものへとしてくれるテニスに関わる話題の前では、その表情はテニスにだけ強い憧憬の念をもって接する。そこにの存在などまるで必要ない。 「……そういう目で見るのに、ね」 そっと、慈しむような惜しむような、なにかを隠した様子で桃子が呟く。 は隠す様子もなく、目を細めて首を振った。 「それだけは許して。まだその隠し方は分からないんだ」 彰太と詩歩に対する罪悪感と、岳人に対する例えようのない愛おしい感情。相反するそれらを心の中でない交ぜにしながら、は視界の中に映る岳人の後ろ姿をただ黙って見つめる。 テニスに囚われることに喜び、むしろ生きがいを感じる雰囲気は、それだけでも伝わる。そしてそんな岳人をは2年もの間見てきた。にとっては、そんな岳人が当然だった。そんな岳人だからこそ、親友関係を築いて今日までやってきた。 「でも、本当。気づかない方が本当はよかったんじゃないかって思えるぐらい、私はあの岳人が好きだったみたい」 日常と呼べるものの中に愛しいものを見つけてしまっては、それを否定することは至難以外のなにものでもない。 ただ、それでも。その至難から逃れることよりも、自分の本心を岳人に伝えることの方がよほど恐ろしいと心は思っていた。 |
| >>13.待ちわびた、1年 07/08/13 |