| 11.正さんとすること |
その日、親友の表情が変化という言葉をマイナスの意味で捉えていることに気づいた。 (なんや、これ) 早朝練習が始まる30分前。既にユニフォームに着替え終えていた忍足は、パイプ椅子に緩く腰掛けて親友の後ろ姿を見つめる。 いや、正確にはその変化に「ずっと」気がついていた。 実力テストが明けて、ようやく学園生活も通常のリズムに戻ることを許された。悲喜こもごもの3年生の心情など見てみぬふり、そのようなものに振り回される結果など当然作るはずもなかった忍足は、必然的にその親友の動きばかりが気になってくる。 明らかに自分の売りを見失った表情、雰囲気。見失ったどころか正反対の色を宿してしまったと言っても過言ではない。周りの人間に気づかれ、訝しげな視線を送られてしまうのも時間の問題のように思えた。 「岳人、どないしたん」 「え?」 「テストの出来でも悪かったんか。落ち込みすぎやで、たかだか実力テストぐらいで」 その背中に軽く当たりさわりのない言葉を投げかける。親友は覇気のない顔をしたまま振り返り、ゆっくりとした動きでユニフォームに着替えながらしばらく沈黙の中で伏せ目がちにしていたが、やがて小さくため息をついた。 「別れた」 「……は?」 「……違うか。別れたいって言った。向こうは認めてくれなかったから」 ロッカーのドアに預けた小さな身体がずるずると、視界の中で落ちていく。テニス部の中では群を抜いて小柄な体躯だったが、しゃがみこんで両膝に手を置き、うつむいて頬を髪で隠せば、頼りないという言葉が嫌味なほどに似合ってしまう。 忍足はかすかな動揺を隠しながらそっと五指を組み、小さく尋ねる。 「いつ」 「昨日」 「……それは、また」 話が急に動きすぎだ、と心の中でため息とともに呟いた。 岳人には、一度思い立ったらすぐに行動に移してしまうという性急な部分があることは知っていた。良く言えば活発、悪く言えば向こう見ず。だがこの話題においてもまさかそれを、しかも悪い意味で実感することになろうとは。 忍足は頭を抱えたい気持ちになりながらも、だが、とふと思う。 (突っ走って後悔するんは珍しない。でもこの顔は) 次に繋がるための悔しさを生み出す後悔ではない。出口が見つからず持て余す後悔だ。 沈黙の中、忍足は岳人の彼女だった詩歩を思い出す。 忍足自身は詩歩がどのような人間であるのかは詳しくは知らなかったが、ふたりが付き合うことになった経緯だけは聞いていた。告白されて、という理由に至極納得がいったことは覚えている。そこに岳人の自発的な恋愛感情を見つけることは、正直な話難しいと思っていた。けれど岳人は軽々しくその関係を許す性格でない。性急ではあってもその関係をむやみやたらと熱望するような、そんな性格ではなかった。 だが、それならばなおさらのことだった。別れも同義でなければならない。 「なにがあった、岳人。あと5分で説明せえ」 「……え?」 「それだけやと話が分からへん。あったことだけでええから」 集合時刻を気にして椅子から立ち上がる。外からはレギュラー入りを目指す後輩たちの自主練習の声が聞こえる、跡部の声が響くまでもうすぐだ。ただでさえ集中力が散漫だと叱られることの多くなっているこの相方を、このまま練習に参加させるのは気がひける。 「予定通りの別れ方やなかったんやろ。全部顔に出とんで」 幸いなことにこの親友は、秘密を他人に知られる嫌悪感よりも理解者がひとりでもいることの安堵感の方が心に残る。それを見越して唐突に質問をぶつけた。5分という短い時間であれば端的な言葉だけを用意すればいい、それで余計に考えを巡らせてさらに塞ぎこむなどということにはならないだろうと。そう思いドアノブに手を伸ばそうとした、その時。 「5分もいらない。俺が悪いだけだから」 「……なんやて?」 「俺がをずっと好きだったことに気づかなかった。もっと早く気づいてればよかったんだ、そうしたら御影にあんな思いもさせなかった。だから俺が悪い」 自分の代わりに岳人の手がドアノブを握り、朝の空気を部室の中に迎える。容赦なく注ぎ込んでくる朝陽に一瞬目を細めたならば、その間に岳人は振り返り、自嘲の笑みを浮かべる。 「おまけにあいつまで傷つけた。初めて泣かせた、もう駄目だよ俺」 「泣かせた……て、お前」 「好きになられたら迷惑なんだと。まあ当然だよな。あいつには彼氏がいるんだし、今更俺に好きになられたって」 朝陽は今日も岳人の髪に純粋な艶を与える。息苦しさしか与えない言葉とは裏腹に眩しく光る朝陽がどこか憎らしい。彼の口元が似合わない角度を伴って歪む様を、まるで笑っているかのように真っ直ぐに照らし続ける。 「俺が悪いことだけは分かる。あいつを好きになったことも、御影と別れようとしてることも。でも、どうすれば正しくなるのかは分からない。悪いことしか分かんねえ。俺のやってること、全部悪いことだらけ」 目を細めてテニスコートを見つめる岳人の頬に、細さしか訴えない髪が風に揺れながら触れていた。 「お」 「あ」 随分と久しぶりのように思えるその声の持ち主の登場に、桃子も思わず小さな声を上げてしまった。昼食の最中であったが箸をとめ、口元を緩めて会釈する。相手も当然のように笑みを浮かべ、トレイを支える指のひとつで桃子の前の席を指差した。桃子は笑って頷く。 「どうぞ。珍しいね、忍足くんがひとりなんて」 「なんや、いつも岳人のお守りでもしとるイメージか」 「私はの友達なんで、がそんなふうに言う以上はね」 「褒め言葉として受けとっとくわ」 初夏を迎える準備を始めた太陽のせいで、このところ食堂は涼を取る場所と化しつつある。いつにもました混雑ぶりに磨きをかけるこの空間に、桃子も忍足も3年目の苦笑を浮かべながら向かい合って昼食を取り始めた。 桃子がテニス部員である忍足侑士と知り合ったのは、去年のことだった。 今でこそ当然のような顔をして桃子の目の前の席で箸を進めているが、冷静に思い返せばこの男は、学園内においてその名を轟かせることに非常に長けた人間だった。それを占めるのはテニスの技量についてがほとんどではあったが、彼自身の性格も無視することはできない。と岳人が揃って「素直じゃない」と断言する男ではあるが、そんな忍足が桃子は嫌いではなかった。 「そういえば、この前の練習試合すごかったみたいだね」 「練習試合? ああ、あれか。たいしたもんやないで」 「女子の評判はうなぎ上りですけどね?」 「それは岳人が真剣だったからやろ」 珍しいことに練習試合で体力をきらしたと。困ったように笑う忍足の口からもたらされる岳人の真剣さに、桃子はそっと頬を緩める。岳人の様子もさることながら、その様子を語る忍足の口調の優しさにつられたことは本人には秘密であったが。 「で、相方はどないしたん。今日は」 その時、ふと思い出したように忍足が呟く。 「今日? ……ああ、今日はね、お休み。体調崩したみたい」 忍足を見ることなく淡々とその事実を口にすると、苦笑が零れた。 桃子は箸を手にしたままそっと顔を上げて相手を見つめる。いつもながらの重層作りの表情の真意は読み取ることなど不可能で、いや最初から読み取ろうなどとも思っていなかったのだが、今日もその表情は桃子の考えをいくつも通り越した状態から笑みを作り出しているように見える。 「なあ、芦屋。そろそろ俺らも腹割って話さへんか」 やがてその口が、桃子の肩を震わせる。 「俺の予想が間違うてなければ、芦屋の言葉の裏に俺が気づくんも、それに気づいた俺が今何を考えとるんかも、お互い全部お見通しやと。俺はそう思うんやけど、違うか?」 投げかけられた質問。真っ直ぐに忍足を見つめる。 それが質問の姿をした「要求」の言葉であることに桃子は気づいていた。 「忍足くんの今の考えは?」 「先に質問したんは俺や。……どっちが先に答える?」 いつもどおりの悠然とした態度で昼食を進めながら、その視線は桃子に真意を質そうとする色に支配されている。 常に自分よりも一歩先を歩くこの男には、やはり敵うこともなければ敵いたいとも思えない。向かい合った食堂の席の中で、桃子は箸を進めながら小さくため息をついた。 「もう、なるようにしかならないと思うけど。……でも、それでが間違った方向には行かないでほしいな、とは思ってる。それは忍足くんもでしょ」 「せやな」 「……正直、親友としては。素直にふたりが幸せになってくれればいいって、極端な話そう思ってるけど」 願うことは簡単で、言葉にすることも簡単だ。 けれど簡単なことの代償はとても大きい。周囲からの「異質」に対する蔑みの目、それを受け入れること。それに耐えられるだけの器があのふたりに備わっているとは桃子は思わない。なぜなら今回の件を自分に置き換えて考えてみた場合、それは耐えられないという言葉ひとつで十分説明が可能だからだ。 忍足もその言葉の真意は理解しているのだろう。肯定も否定もなく、ただ静かに次へと繋ぐ言葉だけを口にする。 「口出しするか?」 桃子はゆっくりと首を横に振る。 「しない。すれば片付く、綺麗に終わるってものでもないし。が相談してきたとしても、それはあくまでが聞いてきた範囲内でしか答えたら駄目だと思う」 「こっちも同じやな、あいつ考えるっちゅーことが下手くそやから、ここで俺がまあ綺麗に話をまとめると全部その話に乗ってしまいそうや」 冷静に分析された岳人像に納得し、桃子は視線をずらす。出口の見えない迷路に迷い込んでしまったのはや岳人だけではないように思えた。 「せやけど間違えるんは嫌やった。考える限り考えて、悩んで、そんで行動したんやったら。それは応援したらなあかんと思っとるけどな」 その時、飛び出した言葉に桃子は目を丸くする。 「……行動? 行動ってなに」 「なに、て。まんまその意味」 平然とした忍足とは正反対な自分の動揺が憎らしい。事態は穏やかな流れというものをとうの昔に忘れてしまったのか。桃子は確かめるべく小さく尋ねる。 「……忍足くん、どこまで知ってるの?」 「大体は」 「腹を割って話すんでしょ。どこまで知ってるの、教えて。お願い」 「……御影と、多分魚崎も現状に気づいとるっちゅーことぐらいなら」 息がつまりそうになるのをこらえる。なにを淡々と口にするのだ、と忍足を驚きを超えて軽蔑の目で見てしまいそうになったけれど、 「もっと言うてもええなら、岳人が御影に別れてくれ言うたことも」 そんな余裕は、その一言であっさりとかき消された。 周囲のざわめきなどもはや雑音の役目すらも果たさない。まるでこの世界には自分と忍足だけ、そんな錯覚に飲み込まれることも厭わずに、桃子はしばらく絶句したまま忍足を見つめるしかなかった。 「……『ぐらい』のレベルなんかじゃない、それは」 「そうか? でもそうせんと、どうにもならんやろ。……『浮気』をしたいわけやないんやし、あいつは。ええ意味で要領悪いから」 頬杖をついた顔から視線が流れる。忍足の動作に無意味なものなどひとつとてあったことはない、その直感が桃子に彼の視線を辿らせる。 ただそこに、彼の姿を見つけたいとは願ってもいなかった。 「芦屋」 通路に足を止めた岳人が、真っ直ぐ桃子を見つめる。 目が合った瞬間、その声が自分の名前を呼ぶのと自分が息を飲むのと。どちらが先だったのかは分からない。視界片隅にいるはずの忍足の存在が一瞬無になった。 「……は?」 けれど心配げに声を向ける岳人を前に、桃子は一瞬で気を引き締めて動揺を隠す。誰かがそうしろと訴えていた。後で思えばそれは、この出来事を平然と受け止めている忍足が生み出す雰囲気だったのかもしれない。 「今日は、お休み。風邪だって」 「……風邪」 「そう、ごめんね。……なにか伝言があれば、伝えておくよ?」 「あ、ううん。いい。分かった、サンキュ」 そして忍足に間違いはないという桃子の感覚は、この時も的中する。無言のまま様子を見つめる忍足に促されるかのように平素を装う言葉を口にすれば、岳人は素直にそれを鵜呑みにして踵を返した。 遠ざかる背中を見つめながら、桃子はそっと思う。 本人同士の間になにが起きたのかは知らない。しかしすべての関与が正しいはずもない。事なきを得たこの場に思わず安堵にも似たため息が零れた。 「傍から見れば、簡単に付き合えって言えるもんやけどな。難しいわ」 ぽつりと呟いた忍足の言葉、それが全てであって、桃子は返す言葉がなかった。 すべきことは分かっていた。 まず、詩歩に昨日の話が嘘偽りない言葉であることを知ってもらうこと。だがこれは叶わなかった。行く先行く先、知っていると思っていたはずの詩歩の行動はすべてリセットされていて、教室に向かえども姿を見ることすら叶わなかった。昨日の別れ際、「絶対に別れない」という言葉を残して去った姿、それで岳人の中の詩歩は止まってしまっている。 そしてもうひとつ。に、謝ること。だがこれは別の意味で叶わなかった。 自分の気持ちを殺して謝るという行為が演技でもできないほど、心の中に宿る気持ちはいつしか自分のあずかり知らぬところで大きく、揺るぎないものへとなってしまっていた。 握った手首の温かさ、柔らかさ。それらを忘れるべきであることは分かっていた。 忘れてしまおうと思えば最後、言葉に出してしまえば最後。いくら単純とはいえ、自分でその道を用意してしまえばコントロールは恐らく可能だ。そしてその方が、すべてにとって最善の結果を招くであろうことが岳人にだって予想はできた。 ただひとり、自分を除けば。 (理解できても、納得はできない) 誰もいない観客席にひとり横たわり、太陽の監視のような目から逃れようとタオルを顔にかぶせる。和らげられた温かい光の中、そっと瞳を閉じて岳人は大きく息を吐く。 開始時間よりも随分と早く到着してしまったテニスコートは、いくら大所帯と言われる男子テニス部でもまだ閑散という言葉を用意することができる。耳を澄まさずともボールがラケットの面に当たる音、コートの中で弾ける音、フェンスにぶつかる音はいくらでも聞こえてきたが、幻聴だと片付けてもよいぐらいにそれらは小さな音の集まりでしかなかった。 (お前が今日来なかった意味は分かってる。俺が悪かったっていうことだろ、間違ってるっていうことだろ) だらり、と利き腕を下ろす。ラケットを手離した左手はつまらなそうに通路を撫でる。それでも岳人は起きなかった。胸に置いた右手が小さな心音を素直に感じ取るように、ただ岳人も時間の流れるままに単調な呼吸を繰り返した。 頭の中に、昨日のの表情を思い描きながら。 (でもお前のことを好きだと思ったことは嘘じゃない。本当だ) 終わったと思った出来事。しかし岳人は、その結末を新しいなにかの始まりへと置き換える術を知らなかった。むしろそこには、不毛で、報われるもののなにひとつない終わりしかないのだ。頭でも心でもない、全身に流れる神経が拒絶反応とともにそう主に訴えていた。 そこまで思って岳人はタオルの下、零れる自嘲の笑みを堪えて下唇を噛み締めた。 (馬鹿だ、俺) 岳人は左手にタオルを剥ぎ取る役目を与え、軽く反動をつけて上半身を起こす。 「自分のことばっかり、……か。まじで最低、俺」 コートの上にたどり着いた初夏の風がさらりと横髪を揺らせば、視界に青い空が映った。 岳人の目の前に残るのは、何も知らないという顔をする青空と悠然と流れる雲、そしてただ黙ってすべてを見つめるような初夏の太陽。じわりと肌を焼くその熱気に少しだけ眉根を寄せて顔を上げ、岳人は唇をきつく結ぶ。 (でも、だから、そうだから、できることだけはやらねえと) たとえ避けられようとも、逃げられようとも、捕まえて捕まえて、詩歩に別れを認めてもらうこと。それだけは叶えなければならない。 部活開始時間まではまだ余裕がある。岳人は勢いよく観客席から飛び出し、部室へと向かう。部室ではようやく忍足と跡部が着替えを始めるところであったが、挨拶もそこそこに岳人は携帯電話を取り出し、外へと出る。忍足の視線には気づかないふりをした。 出るだろうか。不安はあるが、それに留まる理由は持ち合わせていない。 発信ボタンを押し、コール音とともに喉奥を嗄らしそうになりながら、空を見上げる。 『……もしもし』 「ごめん、今日部活終わったら話したい。電話してもいいか」 挨拶もせず、岳人は思いついた言葉だけを並べて詩歩に伝える。 電話の向こうで流れる沈黙の間、電車の通り過ぎる音と次の電車の到着を伝える機械的なアナウンスが響いた。 『話しても、私は別れないよ』 「……でも、話させて」 『別れたくないってば』 「でも」 『岳人がさんのことが好きでも、私は岳人の彼女でいたいの』 雑音の中でも、弱々しくともけして譲らないという意思を認めないわけにはいかない語気。 だが岳人とて、今は譲ることができないものを持っている。 「嘘ついて優しくするなんて、俺はできねえ。そんなの俺じゃない。そんな奴が好きだって言われても、そんな奴、もう俺じゃない」 だから、と。息を飲んだ電話の向こう側の相手に、岳人は青空を仰いで呟く。 「なあ、もう」 それ以上の言葉は持たず、涙を堪えようとしている詩歩の空気をただ黙って受け止める。 部室から出てきた跡部と目が合った瞬間、「またあとで」と呟いた言葉を引き止める声はやってこなかった。 |
| >>12.未来を決める 07/08/13 |