10.願ったその先

「……岳人!」

 小さな叫び声が聞こえたのは、いつ、どのタイミングだっただろう。
 詩歩が自分の名前を呼び、その小さな手でぎゅっと握る手に力を込める。その出来事が起こったことは岳人は認識できた。しかし。
 足は留まることよりも駆けることを。手は、繋ぎとめることよりも―――なにかを追いかけ、別のものを握り締めることを。
 それらの道を選んでしまった時、岳人の思考回路の中に詩歩の存在はなかった。

(笑うことの意味が分かってんのか。俺を甘くみんな、ふざけんな!)

 帰路につく同級生たちの波に逆流して、岳人は必死にの姿を探す。視界の中にはと同じ制服をまとう女子が次から次へとなだれ込んできたが、見間違え、戸惑うことなどけしてなかった。
 たとえば、教室。たとえば登下校。朝礼。体育祭、文化祭、たとえば―――球技大会。
 3年という時の流れを経ていても、いや3年という時の流れを迎えていたからこそ、その後ろ姿を見間違えることの難しさを、岳人は他の誰よりも知っていた。
 それが本当は、どのような意味を示していたのかを。今更知り、実感することの怖さに足は速まり、やがて。

「っ!」
「ちょっと来い」

 うつむいているようにすら見えたその後ろ姿を追い越し際、岳人は強引にの左手首を掴む。利き手ではなかったが簡単に手離すほど弱くも優しくもなかった。

「や、岳人……待って、ねえ!」
「いいから来い!」

 両手で制止を請うの表情を確かめることなく、岳人は左手を掴んだまま廊下を突き進む。そして校舎西の端にあたる教室の中にを連れ込んだ。
 本館1階、西端の教室。北館や南館への渡り廊下を東に臨むそこは、普通の生徒であれば目的がない限り近づくことのない教室。そして唯一近づく目的となりうる生徒議会も今日は開催されることのない、生徒会議室だった。
 豪勢な造りが自慢でもぼろはどこからでも出てくるもの、生徒会議室の後ろのドアは押すような力を込めて動かせば鍵がかかっていても開閉が可能だ。そのように語っていた忍足の口調はさも当然かのごとくな様子だった。しかし今の岳人にそれをイレギュラーだと非難する気持ちはさらさらない。
 室内に入って数歩も待たず、岳人はを壁に押し付ける。は驚愕の色を隠すことなく、ただ真っ直ぐに岳人を見つめた。

「……岳人」
「なあ、もうやめよう。腹の探りあいなんかイライラするだけだ。……もう、話そう。全部話そう。いいな」
―――それは」
「お前が嫌だって言っても俺はもう限界なんだよ」

 その一言には押し黙る。
 遮光カーテンに電源の入っていない照明。息苦しい空間の中に埃だけがちらちらと舞う。
 そのような優れない視界の中、岳人は壁に押し付けたをじっと見据えた。

「なんだよ、あれ。さっきの。なんでお前、……お前」

 しかし、いざを目の前にすると用意できる言葉は限られていた。
 岳人は歯痒さを隠し切れないまま口ごもり、黙り、そして舌打ちをする。今互いの前にはなんの障壁もないというのに、なにかが言葉を奪う。なにかが視線に強制的な力を働かせ、視界の中からの姿を消そうとする。振り切ろうと岳人は一度自分の足を見つめてしまったあと、ゆっくりと顔を上げ、再び真っ直ぐにを見つめる。
 視界の中のは、驚くほど落ち着いた顔つきをしていた。

「……岳人、間違ってるよ」

 そして呟いたその一言。岳人は自分の手を壁に押し付けていなかったことをその時後悔する。

「なんで、なんて。私の方が聞きたい。どうして」
「……なにが」
「どうして御影さんを置いてきたの。帰るところだったんでしょ、こんなところにいる場合じゃないよ」

 見つめる視線と、そしてその言葉の揺るぎなさに、押しつぶされそうになる自分を否定できない。
 岳人は一瞬息を飲み、返す言葉ももたずにを見つめる。言葉の真意を推し量ることはできず、ただ自分を突き返すような言葉を向けたを、見つめるという言葉しか知らない子どものように。
 自分だけか。自分だけなのか、この反応をしているのは。期待値を間違った方向に向けようとしているのは。そのような疑問、いや不安が一瞬心をよぎるが、しかしその不安を岳人は自分自身の経験をもって打ち消す。
 言葉に表れることのできない不安に負けるような人生を、自分は送っているつもりはなかった。

「……おかしいって言うなら、別にそれでもいい。俺だってなにが正しいとか自信をもって言えるわけじゃねえ。でも」

 ふと視線を落としたを、たったその一言でこちらの世界に繋ぎとめる。
 ドア越しにはたわいない会話で笑い声を響かせる女子の気配があったが、岳人はそちらに気を取られることはなく、そして。

「お前がさっきの顔をした理由を、俺は間違えるつもりはない」

 一度堰を切った言葉は、留まることを知らなかった。

「お前、俺のこと避けてただろ。ここのところ、ずっと」
「……それは」
「俺だってそうだ、否定しねえよ。前とは違うって。あ……ああいうことがあって、俺が落ち着いていられる人間じゃねえってことぐらいお前だって知ってるだろ」
「……」
「でも、慌てるのは俺だけでいいはずだ。俺はそういう人間だから。慌てる理由だってもっと単純でいいんだ。……俺だから。でもお前は違う」

 ひとつ。心に留めおくことだけを意識していた思いを、たったひとつずつ言葉にしていくだけで、枷が簡単に外れる。それは心苦しさを解き放つものであったり、高揚を招くものであったり、色々な効果があることを岳人は認識できた。
 しかし、その結果がどうなるのかだけは予想できなかった。予想できないまま、言葉は歯止めというものを知らぬふりしてぽろぽろと零れ落ちていく。

「……お前、笑ったよな。さっき。俺と御影を見て」

 けれどその零れ落ちた言葉を、は否定しない。岳人は心の中でひとつ、またひとつ、なにかを握りつぶしながら言葉を吐き続ける。

「俺の知ってるお前は、人を騙すこととかできねえ。自分の本音を隠すことも下手だ、全部直球だ。だから意味の分からねえことなんかしないって、俺はそう思ってきた。これからもそう思うに違いないんだ」

 ひとつひとつ。誰も否定することを許さない口調で、ためらうことも恥ずかしがることもなく、ただあるがままの事実を述べるだけのなんの負担もないことかのように。
 そうすることで、自分にとってのの存在の意味をかみしめるようにして。

「だから、さっきの態度の意味なんてすぐ分かる。俺がお前の顔を見分けられないとでも思ったのか? ……ふざけんな、バカにすんな」
「……岳人、」
「作り物の顔なんて、すぐに分かる。―――そんなものを用意しなくちゃならねえ理由だって」

 の肩が震える。それはごくわずかに、言葉をけして返そうとしない口に似て、とても小さなものであったけれど。けれどその震えの意味ですら、理解できてしまうほどの時間が岳人との間には流れている。
 それは、核心をつかれた合図。

「今更、俺に隠すことってなんだ。俺を避けて、俺に言えない『もの』ってなんだ。俺の前で嘘の態度とって、ごまかして、それで俺にあいつのところに行けっていう理由は」
「それは……!」
「お前、本当は……!」

 声の大きさの調節など忘れた。ここが学校という場所であること自体、既に忘れていた。
 最後、たったその一言。ただそれだけを言えれば、今までの苦悩がどんな形であれ結果を迎えることができると。そう思ってようやく出せると信じた言葉は、しかし塞ぎこまれた。
 動揺を隠し切れない瞳を揺らしながらも、しかし真っ直ぐに岳人を見つめたの右手によって。

「……違う、違うよ。岳人、違うから」

 髪が揺れる。ねじの力を失った人形のように、ゆっくりとの首が横に振れる。
 押し付けるような強さはない手を口元にあてられたまま、岳人はただ呆然とその様を見つめる。

「それ以上は言っちゃだめ」
―――
「……もうやめよう、ね」

 確信の合図は、その弱々しい言葉に隠され、消えた。
 そっと唇からの手のひらが離れる。圧力でも屈服でもない、ただ触れられたことだけに反応して言葉を見失った岳人は、たとえその手のひらが自分から離れても言葉を自由に使いこなすことができない。
 沈黙の中、の手首を、今度はそっと。けれど離さない思いだけは何倍にも強く抱いて握り締めながら、岳人は小さく呟く。


「……なに?」
「今言わねえと、もう俺絶対聞くことなんかできない。今聞かねえと、俺、絶対もう同じことを言えない、絶対に」

 前髪が視界を隠す。握り締めた手首の温もりだけが指針となる。

「だから……頼むから、本当のこと言ってくれよ」

 縋る色を隠すことはできない。なにに裏切れることを恐れているのかは、あえて気づきたくない。なにをなくすことになるのかにも、気づきたいとは思わない。
 そのような心で呟いた言葉に、しかし。

「お願いだから疑わないで。お願い、岳人」

 は、小さな震えを宿す唇でそう答えただけだった。
 どのような顔をしていただろう、自分の表情など想像する余裕も理由もなかったけれど。岳人がそっと顔を上げると、視界の中に映ったは、沈黙の中でようやく弱々しい笑みを浮かべる。それは昇降口で見たものと同じだ。けれど。

「俺の気持ちを言っても、その顔ができるか」

 それを再び見たいとこいねがって、この場所を選んだのではない。その細腕を掴んだのではない。
 怒りにも似た落ち着かない感情に心の奥底を揺らされて吐き出した言葉。まだどこか膜で覆われた響き方しかできない自分の表現に、岳人は今更ながら辟易する。違うのだ、本当は。言いたいことはそのようなことではなく。

「俺が今、お前をどういう目で見てるのか。それを聞いても、その顔が」
「できるよ」

 そんな思いを。口にしかけた勢いは、ただその一言にすべてを奪われた。

「……できるよ、岳人。岳人がなんて言おうと、私はする」

 岳人は手を離す。のまなじりに潤むものがあることを見つけたからか、それとも言葉そのものに気圧されたからか。理由は分からなかったが、しかしその行動ひとつでの身体は岳人との接触をなくす。
 故意に作り上げた、初めての至近距離。
 しかしそこで生まれたものは、初めての拒絶でしかなかった。
 束縛を切ったはそっとドアの向こうへと去る。振り返ることも戸惑うことも、ましてや前言撤回を願い出ることもないまま、ただ沈黙の流れる空気の中にだけすべてを投げ打って、は消えた。

(……間違えたのか、俺が)

 ひとり取り残された部屋の中、いまだ縋りたがる指先を情けなく思いながら岳人はただドアを見つめる。
 責める言葉を思いつくことはとても簡単だ。しかし岳人は、その言葉がなにに対しての責めなのかを説明することができない。ただ返すことができるのは自嘲の笑みのみ。誰もいない会議室の中で、弱々しく壁に拳を突きつける。

(……なんだこれ。なんなんだ、これ。なんの意味もねえし)

 この部屋に来たこと、との核心部分に触れようとしたこと。その道が間違っていたとは岳人は思わない。完璧で汚れも歪みもなにひとつない正義であるとは思わなかったが、しかし完全な悪行だとも思わない。この瞬間はいずれ必要なものであったのだ、それは否定したくない。
 しかし、今手元にはなにもない。心の中にもなにもない。あるのは物質的にも精神的にも空洞という名がよく似合う虚無感ばかり。やはり間違った行動でしかなかったのか、と頭の中で誰かが呟く。
 だが、違う、と岳人は失笑する。

「俺ひとりで片付けろって、そういうことか。……なあ」

 強く拳を握り締めることも、強く首を横に振ることも叶わない。
 温もりは残れど、細い手首はそこにはない。思い出すことはできても、溢れそうな涙を拭ってやることもその涙の真意を問いただすことももうできない。
 自分の想いを叶えてくれる相手も、認めてくれる言葉も笑みもない。それは永遠に。
 無へと帰すことが正しいことだという選択肢は、岳人の中にはなかった。
 しかし可能性の欠片すら帯びてくれない現実が、今岳人に突きつけられていた。





「待ちくたびれたよ。帰ろう、岳人?」

 突然聴覚に飛びこんできたその声が、まさに現実であること。それを岳人に知らしめる。
 昇降口前の壁にもたれかかっていた小さな身体が、すっと視界の中心に立つ。なにを聞くでも、なにを問いただすでも、なにを否定するでもない。詩歩は岳人の表情を一瞥した後、作り物のような笑みを浮かべて岳人の手を取る。促されて向かうのは下駄箱、それはふたりでの岐路を作り出す場所。
 しかしその時、岳人は半ば強引に詩歩の手から離れる。

「……岳人? どうしたの、帰ろうよ」
「悪い。本当に悪い、ごめん」

 うつむきながら呟く自分の弱さに心の奥底が煮えたぎる。情けない、腹立たしい、そのような思いが一気に絡み合う。
 だが閉じ込めることの方が、排水手段も浄化方法も知らぬまま泥水を溜め込むのとまるで同じだと。訴える心に口は従う。

「別れてほしい」

 そして岳人は、詩歩が最も忌み嫌うだろう言葉を吐いた。
 詩歩は真っ直ぐ岳人を見つめたまま、口を開くことはなかった。まるでそれ自体が拒絶の意思を示しているよう。その反応はどこかで予想はしていたが、しかし岳人はそれを申し訳なく思うことはできても、訂正することはできない。
 自分がどれほど勝手な行動に出ているのか。それを知らないとは言わない。
 けれど、今の気持ちで詩歩との関係を続けることが正しいとはけして思わない。

「嫌だ、やだ」

 その時、黙ることで震えることを遅らせようとしていた詩歩が小さく呟く。

「御影……」
「だって岳人は、私の彼氏でしょう? 私は彼女でしょう? 私が告白したのにOKしてくれたんだから、岳人は私のことが好きなんでしょう?」
「それは……」
さんを好きになったって言われても、そんなものなんの説得力もない」

 その時、詩歩の視線が揺らぎという言葉を忘れる。真っ直ぐ射抜かれるその感覚に、意識せずとも頬が、指が引きつった。
 それを見抜いたかのように、詩歩は小さく笑う。

「だって。岳人は私を『好き』になってくれて付き合ってくれた。同じ『好き』なら彼女の私の方が正しいじゃない、違う?」
「御影、それは」
「それに私を名前で呼ばない代わりに、さんのことだって名前で呼ばない。ねえ、なにが負けてる? 私の、なにが」

 狙い抜いた言葉ばかりが、あっさりとその小さな口から出る。まるで長い間用意し、温め、今まさにこの時だけを狙い定めて吐き出したかのように。

「だから、別れない」

 その思いを裏付けるのは事実であり真実でしかないと、強く信じる瞳はなにかに後押しされている。それが先ほどの言葉であることは明白だ。
 しかし岳人は、首を横に振る。

「……無理だよ、だめだって。本気で。ごめん」
「聞きたくない。ねえ、それより帰ろうよ。テスト勉強もしなくちゃならないし。あ、私の家でいいよ。理科教えてもらうんだし」
「御影!」

 なにかを振り絞るように出した、小さくとも力の込もったその声に、詩歩は振り返らない。
  自分がどれほど勝手な行動に出ているのか。それを知らないとは岳人は思わない。

「同じ言葉でしか言えないけど、でも……!」
「無理しなくていいから。ねえ、帰ろう?」
「聞いてくれ、頼む。もう無理だ、俺。お前に悪い、悪すぎる」

 そう告げることで別れを正当化することこそ、自分本位で利己主義な考え方でしかないと。そうなることは分かっている、誰がどう見てもそう言われることは理解できている。
 詩歩はしばらく動かなかった。もともと部活がないのは3年のみだ、一定の量を吐き出してしまえば昇降口など閑散という言葉と再び寄り添い始める。周囲に人はいない、誰も詩歩の異変に気づかない。詩歩が不条理に傷つけられている様子を知らない。
 それでも岳人は口にしなければ、どの道も開けなかった。

「俺、あいつのことが好きだ。多分、ずっと。もうずっと。……好きだったんだ」

 たとえそれが、願った相手にすら拒絶される想いであったとしても。



>>11.正さんとすること


06/12/22