| 09.心の淵 |
風が吹いた。初夏を誘いたくなるような、願いたくなるような風。それが吹いた瞬間、視線は振り返る道を選んでいた。 振り返ったその先にあったものは、見知った人の自分を見つめる視線。 は立ち止まる。なぜ振り返ったのかということよりも、なぜそこに、このタイミングで。 自分は彰太と。そして、その人は彼女とふたりでいる時に出逢うのかということ。そのことにすべてを支配された感覚で。 「」 言葉をなくした自分の代わりに、彰太が自分の名前を呼ぶ。 それは単なる呼びかけの声ではない。確かめずとも分かる、それは心だけが感じ取ることができる圧力をもった声であったことを。なにものでもない、自分の手首を掴むその手の強さそれこそが証明してしまっている。 けれどは、その強さを知るよりも前にひとつのことに気づいてしまっていた。 (ごめん) 引っ張られる腕の感覚を受けているのは、自分ではない。自分以外の誰かだ、それを認めることはなによりも簡単なほどにそれは遠く彼方のもの。 ただ、視界に映る岳人のこちらを見つめる視線に、混乱は極地を迎える。 (友達じゃいられないよ、もう。……そんなもの、とっくに超えてるよ……!) それに気づくのが、今この時期でなければならなかったのは誰を恨めばいいのか分からない。天か、神か。 それとも。の視線を訝るでも嫌うでもなく受け止める、むしろのそれよりも強い力で見つめ返す、岳人か。 極地を迎えた混乱の行く先を教えるものは、まだない。正解はいずこにあるのかを知る力もない。ただ促されるがまま、腕を引っ張られるがまま。視界の中で小さくなっていく岳人を見つめて、けれど。 (消せない。消したくない) 校門を通り抜けることによってがらりと変わった景色の中に、岳人の姿はない。 視線を落とせば、あずかり知らぬところでアスファルトの上にぽつり、黒い斑点がひとつだけ。彰太に強制的に歩くことを強いられるの通り道に、なにかを伝えるかのようにそっと残された。 もしその出来事がなければ、時間は平穏に流れる術を守ってくれただろう。 「、呼んでる」 「え?」 「に用事だって」 あえてなにかを忘れる、そんな生活にようやく馴染み始めていたその時。春雨で薄暗い教室の中に突然響いたのは、クラスメイトが自分を呼ぶ声。 席についたまま先ほどの実力テストの答え合わせをしていたその時、は教室の入り口を見つめた一瞬で身体を硬直させる。しかし、相手の視線が揺らぐことなく自分だけを見つめている事実の前に、逃げという道は許されていなかった。 「……私に、用?」 「うん。いいかな」 喧騒に包まれた教室を背後に、ドアへと歩み寄ってそっと尋ねたならばあっさりと肯定の言葉が返される。その声と表情に珍しさはなく、いたって平静という言葉が似合う。 しかし、はその姿にそれ以上返す言葉を持ち合わせてなどいなかった。 時間が平穏に流れる術を守ってくれなかったということは、それは。 「私には、聞く権利も言う権利もあると思うから」 自分にこの瞬間から逃げるなと言うも同義だった。 見上げる視線の意思の強さには、どんな冗談も拒絶も通用しない。そのことを息を飲んだ自分の身体が教えてくれている。 詩歩は、の返事を待たなかった。ただ「外」と一言呟き、戸惑う暇も、理由すらも与えない、知らないという素振りで踵を返し、の視界から消える。 昼休みを迎えた校舎内の解放感が、耳にも肌にも痛かった。 まるで梅雨のリハーサルだ。細糸の雨は臆すことなく悠然と曇り空から舞い降り、アスファルトを黒く染めていく。 地面にたどり着いて冷たく跳ねる、そんな雨を見つめながらは言葉を待つ。待つこと以外に知らなかった。 「急でごめんね。ホームルームが始まるまでには戻れると思うから」 お互い雨の中庭に向かったまま、持ち合わせた紙パックを口にする。味を楽しむ余裕はなく、はいつもであれば好物のミルクティーもまるで沈黙を埋める術としてしか口に運ぶことができなかった。 その思いは、どこまで共有されているのだろう。はそっと自分の右方の様子を窺う。 自分よりも小さく、自分よりも小柄な可愛さを持つその相手。けれど詩歩がもつ雰囲気は、さきほど廊下でと直面した時となんら変わりはなかった。 中庭前に備え付けられたベンチにふたり腰掛ける。しかし隣に座る詩歩は、同級生という共通カテゴリはありながらも今までけして親友と呼べる仲になれるようなチャンスはなかった存在だ。学生数の多いこの氷帝学園において、はその存在を今年に入るまで知ることもなかった。 向日岳人と付き合い始めた、2年の終わりのあの瞬間までは。 (……お願い) そっと雨空を見上げる。 空はまるで今の自分の心を写し取ったかのように、濁り、淀んでいた。 (お願いだから) 心の中の呟きなど、誰に聞かれるはずもない。 しかしその呟きのあと、の隣に腰掛けていた詩歩は、そっと、けれどしっかりと 「最近、岳人の様子がおかしいの」 と詩歩とを繋ぐ、唯一のその名前を口にした。 「ボーっとすることが多いし、部活も集中できないことがあるみたい。部活のためだけに学校に来てるって自分でいう、あの岳人が」 「……」 「おかしいでしょ」 雨は静かにアスファルトへと吸い込まれていく。重力に逆らうことなく、ただ真っ直ぐにあるがままに。 普段であれば気に留めることもないその小さな絹糸のような雨の動きが、ゆっくりと。細い残影ばかりを思わせながら降り注いでくる様子が視界から離れない。は横を向くことができなかった。 「……そうだね。珍しいね」 返せるとするならば、それは肯定の言葉のみ。 具体的な感想など、ましてや否定を突きつけるためにはその根拠となる理由が必要だ。けれどはそれ以上を口にすることはできない。 根拠のない心の中にあるものは、濁って、淀んだ想いただひとつだけだった。 「……珍しい、ね」 「……え?」 「そうだね、珍しいね。本当に珍しいよ、でもどうしてこうなっちゃったの」 詩歩は冷めた表情でを見つめる。 すべてを見透かしているかのように詩歩は断言の言葉ばかりを並べる。元々の返事も、ましてや言い訳なども期待していないし言わせたくもないという雰囲気に、偽りはない。冷える指先の感覚すら遠くになる。 「なにがあったのかなんて、そんなことは聞かないから。聞きたくないから。聞きたいのは、別のこと。ううん、聞きたいとかそんな簡単な話じゃない、優しい話じゃない」 一瞬訪れる、静寂。耳はただ静かに舞い降りる雨音ばかりを小さくかき集める。 その空気が持つ重さに耐えかね、は顔をそっと上げて詩歩に視線を向ける。 詩歩は瞬きすら鬱陶しそうに、じっとを見つめて口を開いた。 「言って。私の前で、誓って」 流れる雨雲。そよぐ雨の匂いの風。 時の流れを忘れさせないように髪に頬を撫でさせるその風に、は息を飲む。だが。 「岳人の彼女は、私なの。これ以上岳人を困らせないで」 いや、と。言葉の探し方、出し方を忘れた頭は一瞬でそれを否定した。 風などという優しい話ではない。簡単な話ではない。自然に原因を押し付けることができるほど、その感覚は自分の手の届かないところの話ではない。 むしろ、近い。近すぎる。 は言葉をなくした口から、ただ時間を埋めるためだけの呼吸しかできない。その反応をどこまで予想していたのか、詩歩は欠片も動じず、手にしていた紙パックを握り締めてを見つめる。 「……さんだって、彼氏がいるのに。私の気持ちが分からないはずがない。魚崎くんがいるのに、どうして岳人のことなんか気にするの。友達のレベル超えてるよ、おかしいよ」 立ち上がりながら呟いた最後の言葉は、重くの耳に、胸に響き渡る。のしかかる。 視線を動かすことができなかったをよそ目に、詩歩は黙って校舎内へと戻る。まるでの反応それすらも鬱陶しいと告げるかのように無言で。 ぐずる灰色の空を抱く中庭で、はやがてうつむき、力なく自嘲する。 (……だめだ、だめだ私) その事実に唖然となる自分がおかしく、けれど同時に。 (彰太よりも岳人を気にしてた。岳人のことばかり考えてた。彰太じゃなくて、彰太に悪いって思うよりも先に、そのことばかり) 突きつけられた「現実」を前に、自分の意思をこれ以上形にすることなどできなかった。 雨を見つめる。細雨の終焉のタイミングを握る雲は静かに校舎の上を流れ、灰色の空をゆらゆらと揺らす。爽気とは程遠い、けれど重いとは言い切れない中途な色と空気。決定打に欠ける空は見ていて清々しくなるはずもない。しかし、雲はいつもと同じことの繰り返しを見せつけているだけであることも知っている。 それは自分の気持ちのせいなのだろうと。は静かに思い、雲の色を正しく見られるようになるまで落ち着こうと。そう思った、その時。 「、どうしたんだこんなところで。……顔色悪いぞ? 気分でも悪いのか?」 けれど、その時に限って時間は繋がっていく。 耳に飛んできた声は、今一番聞きたくはないものだった。 聞きたくはない。けれど視界に映ってしまった彰太の姿を見つけた時、は小さくうつむき、見えないようにそっと下唇を噛み締めた。 聞きたくないのではなく、聞けないその声にもはや耐えられなかった。 (全部、私が悪い。彰太も、御影さんも、……岳人も、みんな普通なのに。私だけおかしい) 、と再び頭上から優しい声が零れる。けれどは顔を上げて虚勢を張ることはおろか、強引に自分の感情に付き合わせることもできなかった。 ただ、静かに重く、何度も。詩歩の言葉が繰り返し頭の中に、心の中に響く。 それはなにかを捨てなければならないと、そしてそれは世が正しいと認める、道理であり正義であり真実でしかないのだと、心の淵で誰かが呟くのを聞き続けるようだった。 真実であるならば、それは自分の意思に関係なく従うべきなのだ。 「え、今日? ごめん、後輩の練習に付き合う約束しちゃってて」 親友に相談して答えを導きだしてもらうのではなく、自らが決しなければならないのだ。 「。元気しとるか、最近顔色よくないで。……ああ、そうか。悪かったな、ほな」 味方となりうる人などと、勝手な考えを抱いて助けを求めてはならないのだ。 周囲の雑音がやけに遠くに感じる。いつのまに書き込まれていたのだろう、来月の球技大会の種目がずらりと並んだ黒板をぼんやりと見つめたあと、は黙って席を立つ。鞄が重いのか、それとも身体が重いのか。答えの分からぬまま重い足を動かす。 (……言われるまで気づかないなんて、バカにも程がある) 昼の雨の記憶など忘れてしまったかのように再び晴れ渡った空が、窓越しに映る開け放たれたところからは少しばかり心地よい風が首元で髪を揺らす。 (友達でいるだけでも御影さんにとっては苦痛だったはずなのに。それなのに友達以上に思うだなんて。ありえない、ふざけてる。だめだ) 廊下を歩けば様々な部活のユニフォームの色が横を通り抜けていったが、そのどれもが残ろうとはしない。ただ天色と白色とを平行に配色した、色自体は派手さはなくともこの学校にいれば知らないはずのないユニフォーム姿だけが目に飛び込んだ。は視線を落とした。 (それに、彰太のことだって) 自分は最低だ。その言葉だけは、簡単に生まれた。簡単に生まれることが軽いようにも思えて更なる自嘲を誘うが、今はそれ以外の言葉は思い浮かばない。 断ち切ろう。終わらせよう。そうすべきだと伝えるのは詩歩でも彰太でもない、それが当然だと自分でも思う、この世界だ。 は携帯電話を取り出す。なんて安直な方法だ、どうして自分は頭が回らないのだろうと思ったが、本当に今は複雑にものを考えることができない。教師に見咎められるのも恐れず、は昇降口へと向かいながら受信メールをひとつ、またひとつ消す。 桃子や他のクラスメイトの合間にあった岳人の名前が、またひとつ消える。 小さなことでもいい、とにかく岳人との関係を思い起こさせるものは消してしまわなければならない。そうしなければ、自分がこの先どのようになるのか皆目見当がつかない。 テスト期間であることを幸いに思うのはこれが一生のうち最後だ。勉強のことだけを考えて過ごせば時間だけは埋められる、それは助けだと。そう思った。 昇降口で、その姿を見つけてしまうまでは。 「岳人、私理科教えてほしいかも。昨日やったんだけど、すごく不安」 「はあ? お前俺に教わるほどできないわけじゃねえだろ、どうしたんだよ」 「なんとなく。だって岳人の方が理科は得意じゃない」 「それはそうだけどよ……でも、どこで。俺ん家は無理……」 その視線が、こちらに気づいてしまうまでは。 消去を確認する画面に従順に動いていた親指が止まる。学校から離れることを願っていた足が、止まる。 (やっぱり、間違ってなんかない) 息をつまらせる岳人。小さく下唇を噛み締める詩歩。流れ行く生徒の波の中、その光景は異様なまでにの視界の中で存在感を放つ。 鞄の取っ手を強く握りしめる。数歩足を動かせば下駄箱があり、この空間から逃れる術は無防備なほどに提供されている。視線をひとつずらすだけでこの息のつまる世界とは決別することができる。 それらすべてを理解することはとても簡単で、けれど。 (岳人には彼女がいる) 今更ながらに認識させようとするこの現実を前に、それらを実行することはできなかった。 岳人がこちらを見ていることには気づいていた。動揺を隠すことのできない表情を浮かべたまま、すぐにこの場から立ち去ろうとしないあたりが彼らしいと(なぜならそれができるほど臨機応変に立ち回ることができないから)皮肉にもすぐ気づいてしまう自分には弱々しく笑う。 (岳人が好きなのはあの子なんだから、その子が困るんだから。私は、それを壊すことだけはしてはいけないんだ) 自分がどのような反応をするのか、岳人はいまだ量りかねている。 いつもそうだ。岳人は自分の思ったことを否定されたり矯正されそうになると途端反抗という言葉しか知らない子どもになる。けれど、自分で決めかねる出来事に対しては簡単に勇み足という言葉を忘れる。それをは知っている。 そして今、目の前の岳人が後者であることも。 (私は間違ってない。……岳人とは、もう、友達でもいられない) はそっと笑いかける。弱々しくも、けして岳人が見逃さない長さをもって。 瞬間、岳人の目が大きく見開かれた。けれどはそれを無視して、足を下駄箱とは反対の校舎内へと向ける。 それを、今度こそ偽りのない決別の瞬間だと思うことにすべく。 |
| >>10.願ったその先 06/12/10 |