08.与えられたもの

 それは駆られるという言葉に相応しい衝動。
 その瞬間、自分の身体が石のように固まり、一瞬思考が停止するという感覚を岳人は初めて経験した。初めてというのは少々語弊を含む表現かもしれない。しかしテニス以外でそれを味わう日がこようとは、14年生きてきてこの方一度も考えたことがなかったのだ。

(なんで)

 一体何度繰り返し呟いただろうその思い。心の中から言葉として外へ飛び出すということはなくとも、しかしここのところ、これでもかというほどの苛立ちを付き添わせてやってくるその感情と無縁ではいられない。
 その原因が分かっていればいるほど口には出せず、そして苛立ちは募る。
 騒々しい食堂の雰囲気は束縛や拘束というものを忘れさせる、本来居心地のよいものであるが、しかし今日ばかりは日常というものはどこかに消え失せてしまう。岳人は仏頂面を浮かべてしまうのを止められないまま、行儀悪く頬杖をついて左手で箸を進める。

「あー、ええ天気やなあ。今日はしんどそうやなあ、跡部の機嫌がよすぎて」

 目の前の親友は、そんな岳人の心を一体どこまで見透かしているのか。
 岳人は沈黙だけを返す。確かめるのはどこか恐ろしい。自分には明らかに似合わない落ち着いた雰囲気を自在に操る、そんな忍足は沈黙を気にする様子など欠片も見せないまま会話と箸を進めていく。

「晴れるほど上機嫌とは、分かりやすい男やなあいつも」
「跡部の機嫌、そんなによかったか? 俺さっき委員会のことであいつのクラスに行ったけどよ、全然普通だったぞ。むしろ不機嫌だ。また眉間に皺寄せてやがった」
「それやから宍戸はツメが甘いんや。それは忙しすぎて嬉しいっちゅう顔やろ。あいつ、Mやからな」
「お前が言うとまじで気持ち悪い、シャレに聞こえねえ」

 忍足の隣で、宍戸はあからさまに嫌そうな表情を浮かべる。こちらは岳人の不機嫌に気づくことはできても原因の欠片を拾うようなことはまったくない。手を止めることはしないままに、今日の跡部の不機嫌とそれに伴う悪影響を散々忍足に主張したあと、隣に腰掛けていた鳳に名前を呼ばれてあっさりと視線の向きを変えた。
 そして岳人の視界の中には、なにを思っているのか分からない忍足だけが残された。

「素直すぎるんも大概やで、岳人」

 そして、なにかに気づいている視線だけを与えられた。
 岳人は箸を止め、じっと忍足を見つめる。しかし相手は動じる様子が微塵もない。その余裕がますます岳人の癇に障る。

「なんだよそれ」
「言わすな、アホ」

 それきり、忍足は不満を浮かべる岳人の視線を簡単に受け流して食事を続けた。
 いつでもなにかを見透かされている、いつでも自分より先のことを考えている親友の存在は、頼もしくもあり、しかし時には苛立ちを覚えさせる。まさに今は後者でしかなかった。
 岳人は臆すことも隠すこともなく不機嫌を露にして雑に魚のフライを箸で切る。皿に当たる硬い音が響き、フライの衣だけがむなしくはがれた。

「罰当たりやな、魚にあたってもなんもおもろないで」
「お前にからかわれるのが嫌だって言う意味だよ」
「からかう? 心外やな、お前のためを思って言っとるんやないか」
「跡部がMならお前は分かりやすすぎるぐらいSだ、絶対そうだ」
「否定はせえへん」
「否定しろ、バカ」

 たわいない会話は、一瞬だけ岳人に日常を取り戻させる。考える必要もなく口をついてでてくる言葉はいつもの色をまるで失わず、語勢を見捨てるようなこともしていない。心なしか落ち着くというのは、相手には秘密ではあったが。
 忍足は、気づいているのだろう。岳人は沈黙の中静かに思う。今自分になにが起きているのか、なにを考えているのか。
 岳人がそれを確かめるよりも早く、忍足の口元はかすかな緩みを持った。

「部活が始まるまでには直すんが得策やろな。さすがの跡部もこう続けてそれをやられると、ほんまなに言い出すか分かれへん」

 俺らのためにも、と笑いながら保身を訴える忍足を一瞥したあと、岳人は重いため息をひとつ零した。

「跡部がどこまで気づいてるって言うんだよ」
「気づいたるほどあいつはお前の心情に優しくはないと思うで」
「……気づいた自分はさも優しい男とでも言いたげだな、侑士」
「当たり前やないか」
「はいはい、だからお前は女に振られるんだよ……ていうか、そういう話じゃなくて」

 憎まれ口を当然のように叩く親友を前に、岳人は平素の様子に近づきつつある自分の心の波を完璧に落ち着かせるために息を再び吐く。そっと揺れる前髪の向こう、静かに自分の言葉を待つ親友の顔があった。

「好きで苛立ってるわけじゃないんだ。俺だって嫌なんだ、こんなの。この時期に下手なテニスなんかしたくねえ、……みっともないだけだし」

 跡形もなく消えたフライの行方を追うように、空になった皿を見つめてから雑に箸をトレイの上に投げ捨てる。苛立ちが収まるかと思って一気に飲み干した水はしかし既に温く、妙な不快感だけが喉奥を通過していった。岳人は増長する不機嫌に負ける。

「ていうか、大体……そう、大体」
「なんや」
「……大体、苛立つこと自体おかしいってのに。それが分かってるのに、なのにまだイライラするから余計にむかつく。なんか、いろいろ」

 あやふやな感情は言葉にしにくい。岳人は自分の語彙のなさにますます眉根を寄せる。
 そんな岳人を見て、忍足は手の甲を支えに頬杖をついてちらりと視線をずらす。

「まあ、俺はお前の不機嫌の原因が何であるかは多分知っとるし、お前よりも上手く説明できる自信もあるんやけどな」

 騒がしい食堂。
 教室へと戻る準備をする者、まだ会話に花を咲かせている者、今ようやく食堂にたどり着いた者。起こす行動は様々であれど、皆が皆同じ氷帝の制服に身を包んでいる以上、視線を奪われるような目新しいものはなにひとつないと。そう思うことは、とても簡単なことだったのに。

「でも、それが『原因』になってしもうた経過というか……『理由』は。正直、あんま深く考えたくはないな。せやで口にしたくもないわ」

 そっと呟かれた一言に岳人は顔を上げ、その視線の先を追う。
 いや、追うことなどしなくとも、自分の目がなにを映すか。岳人は分かっていた。

(なんで、見せつけるみたいなことするんだ。なんでそんなことされなくちゃならねえんだ)

 静かに呟いた言葉は、どこまでが心の本音か。
 自分でも無意識のうちに零してしまったその言葉が、ただ視界の中に映ると彰太に。伝わらないことだけを祈る、その余裕のある自分だけを今は信じたかった。
 食堂に入った瞬間にふたりの姿を見つけて、そして苛立ってしまったなどという愚かな仮説は受け入れたくなかった。





 けれど、日常はさほど穏やかに舞い戻ってはくれなかった。
 余裕があると思った自分が間違っていたことを、岳人は自分の視線や耳の融通の利かなさに思い知らされる。自分の感覚器官でありながら主を裏切るそれらに、岳人は余裕という言葉の意味を見失う。
「あれ」以来とは一言も言葉を交わしてはいなかったが、しかしその日常と乖離した新たな関係が、岳人の中により一層の存在を色濃く焼きつける。

「あ!」
「どうかした?」
「ごめん、資料集忘れてきちゃった。取ってくる。先行ってて」
「大丈夫だよ、まだ時間あるし。ここで待ってればいい?」
「あー、ごめんね。行ってくる」

 春雨の午後、廊下に現れた移動途中の姿を。出会った頃よりも長くなったその髪を翻し、出会ってから馴染み続けてきたその声を響かせる、その横顔を。
 教室の中で机の上に腰掛け、クラスメイトとたわいない会話をしていた瞬間に見つめてしまう。視線に気づかれることを恐れながら、それでもその後ろ姿を見送ってしまった自分は否定できない。

「え、それ本当? 理科が?」
「本当みたい。2学期からは高校生の内容なんだって、全部」
「うわあ……どうしよう、私多分ついていけない。無理だよ、本当に」
「私は理科はまだ大丈夫かなあ……多分。あ、でも物理や化学は問題かも」
「それ! あーあ、理系の人に助けてもらわないと難しいなあ……」

 南中に手が届いた陽光の眩しい昼下がり、壁越しに悲歎にくれる声を。自分がいるだろう、と思わず呟きそうになるほどの救いたい縋りを、独占したい悩みを。
 中庭を前に持つ会議室の中でブラシ片手にカーテンの裏に隠れ、掃除という任務を放棄して聞いてしまう。

「あ、待って……」

 呼び止められたその声に。
 自分を呼んだと。疑うことなく直感したその声に、廊下で振り返った時。

「……桃子!」

 真っ直ぐに視線がぶつかった瞳は一瞬たじろぎ、足を止めた。そして一度小さく息を飲み、なにかを振り切るかのように岳人の横を通り過ぎた。
 一瞬の静寂。
 開け放たれた廊下の窓から風が髪を揺らす。頬を撫でられてようやく振り返れば、視界の中にはこちらに背を向けたと、そして躊躇しながらもに促されて廊下奥へと向かう桃子の姿。
 休み時間終了のチャイムが鳴り響く廊下で、岳人は利き手の拳を握り締める。
 あやふやななにかが心の中に渦を描く。渦の先は見えない。なにを求めているかも分からない。いや、探して正しい答えが出てくるのか分からない。
 しかし。岳人はわずかな苦悶の表情を浮かべて、ただ黙っての後ろ姿を見送りながらこの渦の中で呟く。

(なんでお前が、俺を避けるんだよ。……お前まで避けたら、それじゃあ)

 尽きない疑問符の解消の方法は、いまだ知ることはない。





 故意に話す必要はなかったが、故意に避ける必要もなかった。
 そのような基盤の上に成り立っているのが居心地の良さを生む親友関係であることに、岳人は自信を持っていた。自慢だった。期限を知らない、考える必要のないと直感が認める関係において、意識的な言動などいまだかつて発動されたためしがなかった。
 それは必要ないと、1年の時。飾ることをしない自分の行動に対してひとりだけ笑って納得したが、認めていた。

(お前が避けたら、俺はどうすればいいんだ)

 携帯電話を見つめているうちに心の中で呟いた独り言は、いつしか思うことに対する抵抗をなくし、感情をむき出しにした色で形成されるようになる。

(お前まで意識したら、おかしくなるってどうして気づかないんだよ……!)

 昇降口前。3年生にのみ課された実力テストを明日に控え、3年生の部活は中止となった。強豪テニス部を謳いながらも学業を疎かにすることはないのが氷帝らしい、と岳人は思ったが、正直な話をすれば今はありがたいとは思えない。
 雑然とした雰囲気が独り言をあっさりとかき消す。壁にもたれ、左手でキーを操作する携帯電話の画面はゆっくりとしたスピードで受信メールをスクロールさせていく。忍足や宍戸といったテニス部メンバーの隙間を縫うようにあったの名前は、ここ最近は滅多に見ることはなかった。
 最後の受信はあの日。あの、不意の事件があった朝。

「……理科教えて、じゃなかったのかよ」

 午前8時の受信メールに書かれた内容を思わず呟く。自分がつまらなさそうに目を細めてしまっていることに気づくまでには時間がかかった。
 苛立ちはなにから生まれるのか。ディスプレイを見つめながら岳人は思う。
 約束を反故されたことに対してか。自分から希いながらその申し出に一言も触れないままテストを明日に迎えるからか。
 答えははっきりとはしない。ただそのメールを見つめれば見つめるほど、なにか釈然としないものが心の中に渦を描く。相変わらず出口の見えないその苛立ちに、岳人は不機嫌さに負けて勢いよく画面を閉じた。

「岳人、ごめんね。お待たせ」
「あー、うん」

 その時タイミングよく姿を現した詩歩に、軽い相槌を打ってもたれかかっていた壁から離れる。携帯電話を強引にポケットの中に押し込み、いまだ人混みの解消されない3年生用の下駄箱前でわずかに立ち往生する。

「岳人、勉強進んでる?」
「まったく。実力テストって言ってんだから実力で勝負すればいいじゃん」

 立ち止まった隣で、横顔を見上げながら詩歩が尋ねる。岳人が繕うことなく本音を口にすれば、その口元から笑みが零れた。

「岳人らしいね。でも、ちょっとは勉強してねって言っておく」
「面倒。無理。理科以外やる気なし」
「理科は勉強する気になるのに?」
「勉強する気になるっていうんじゃなくて、苦痛じゃないっていうだけ」

 何気ない言葉を交わしながら昇降口を出る。
 岳人の視界には、広がったグラウンドが映る。一瞬足を止めかけたが、隣に並ぶ詩歩は無意識という武器を持っている。下級生たちが散らばっていくグラウンドに目もくれず、真っ直ぐに校門を目指すその足取りに逆らう術は岳人にはなかった。
 校門まであと少し。自分を苛立たせる空間との別れも、あと少し。

「向日さん」

 けれど、その別れは素直に訪れてはくれなかった。
 背後から突然、若干大きめの声で投げかけられた自分の名前に岳人は振り返る。視界の中央には、見送ったはずのグラウンドを背景にする日吉の姿があった。

「なんだ、日吉。何か用?」
「2年のダブルス志望組の練習内容についてなんですが」

 そう言うと日吉は憮然とした表情で(それが常ではある男だったが)プリントを差し出した。
 一歩間違えば慇懃無礼という言葉をぶつけたくなる日吉の、しかも見下ろす視線に不機嫌をいくらか増幅させながら、岳人は事務的に答えられる限りについての言葉を繰り出す。

「あと海田は樺地あたりとラリーをやらせておけよ。ていうか跡部は言ってなかったのかよ」
「あの人に確認を取ることができていたら、俺は今あなたに質問なんかしていません」
「ああそうかよ、悪かったな」

 無駄がないという言葉を用意しようとした寸前、忘れずに皮肉をひとつ残して日吉は背を向けて去っていく。相変わらずの後輩の態度に一瞬気が休まった事実を否定できないのを複雑に思いながら、岳人は岐路を視界に映すため今一度、振り返ろうとする。
 だがそれは叶わなかった。

、今日どっかに寄ってテスト勉強しないか」
「……ああ、うん。いいよ」
「俺、英語で分からないところがあるんだ」
「分かった」

 岳人は息を飲む。言葉にならない衝動が喉を突き破ってまでなにかを伝えようとするが、別の衝動がそれを抑えこむ。
 昇降口から校門へのルートは、校門そのものが大きく幅を取ったものであるために多種存在する。むしろ寸分の狂いもなく毎回同じルートを辿ること、そちらの方が困難だ。けれど今はそれが仇となる。

「理科、分からないって言ってたよな。代わりに俺が教えるから」
「……え?」
「俺だって理科は得意だよ」

 その視線がこちらを向いていることに気づいていない。その視線が、言葉が、岳人にだけ向けられていることに気づいていない。
 それは、だけだ。岳人は拳を握り締める。
 そして、この視線が状況を把握せざるをえなくなっていることに気づいている。
 彰太だけが、むしろそうさせた張本人として。

(……彼氏の特権、か? ……ふざけんな、ふざけんな!)

 岳人の苛立ちなど置き去りにして、彰太の視線は彼の悠然とした態度に引き連れられるかのようにして離れていく。
 けれどその背中を見つめながら、岳人は対照的なほどに身動きひとつできなかった。

(俺とは、お前が来る前からの仲だ。なんでお前に、こんなにイライラさせられなきゃならねえんだよ……!)

 唇を噛み締めることも利き手に強い力をこめることも、すべて無言の中で行われるそれらの裏で。自由を許された心の中で呟く言葉に、岳人はもはや制御も粧飾も叶わない。
 空は晴れ、春風がそよぎ、テニス部員のユニフォームが清爽さを演出する。そんな恵まれた空気の中、岳人の視界も思考もかつてないほど狭く、小さく、限られたものになっていく。
 だからなのか。

「岳人」

 自分の名前を呼ぶその声を認識するには、時間が必要になっていた。

「……あ」

 不審な呟きは隠せない。表情にいたっては確認できない。
 呼ばれて向けたその視線の先、それまで沈黙を守っていた詩歩は、ただじっと岳人を見つめ、そして。
 
「……岳人の好きな人は、私だよね。私と付き合ってるんだよね。……ね?」

 怯えの色を含みつつ、けれども真っ直ぐに。
 詩歩は困惑と不安の境界線をなくしてしまった表情でこちらを見上げ、尋ねる。だがそれを緩和、ましてや払拭させる技量、意気は。今の自分にはないことを、岳人は知っていた。
 岳人は視線をずらす。重いのは頭か足か。
 できない結果ばかりが残される。与えられる現実に、なにかが限界を訴えていた。



>>09.心の淵


06/11/23