07.奪われたもの

 しまった、と思う瞬間。その時自分の対応の遅さを知る。鈍さを知る。そして知れば知るほど、それは途切れることなく続く最近の出来事ばかりであったことを思い起こさせる。

(離れなきゃだめだったんだ、あそこに手なんてかけておくべきじゃなかったんだ)

 しかし、思い起こすことすべてが、今のの処理能力をはるかに超えた出来事ばかりだった。
 三平方の定理について語る数学教師の言葉はまるで耳に入ってこない。例年に比べ暖かな昼下がりに恵まれた教室は、窓を少し開いて柔らかな風を室内へと招き入れる。緩やかに泳ぐように流れる風に髪の毛が揺れ、頬を撫でる感覚には身を任せる。

(……でも、どうして。どうして離れなかったんだろう)

 処理能力は超えても疑問が止まるわけではない。甦る記憶のひとつひとつがさらにの思考回路を占領する。機械のように正確に描かれていく数学教師の描く三角形は、しかしひとつものノートに舞い降りてはいなかった。周りの生徒が淡々と黒板と自分のノートの間で視線を往復させるのに対し、は窓際の席であるのをいいことに、春の風を浴びながらただシャープペンシルを回し続ける。

(岳人は)

 かしゃん、と。手のひらの中に戻ってきたシャープペンシル。左手の甲で顔を支えながらそれを見つめていると、ふと廊下から騒がしい音が聞こえてきた。
 春の陽光にさらされた教室は、グラウンド側の窓だけではなく廊下側の窓も開け放っていた。にとって廊下は一番遠い場所でもあったが、数学教師の声だけが響く室内においては廊下から聞こえる声に耳を澄ませることはそう難しいことではない。まもなく春の午後を迎える独特の眠気にいつしか見守られながらも、無意識に視線をそちらに向ける。
 視界の中、学年色の体操服を着た男子が騒ぎ声を上げながら廊下を横切っていく。ああ、もう4時間目が終わるのかと。視線を机の上に戻し、真っ白なノートにため息をつきたくなりながらそう思った。

「向日!」

 そしてため息をつくのと同じほど簡単に、身体はその声に反応した。
 は思わず息を飲む。誰が見ているかも分からないのに、身体は絶対に反応してはいけないと訴えている気がして頬杖を解くこともできない。
 は視線だけを、そっと廊下へと向ける。
 春風に踊るの髪のように揺れる髪。周りの男子に埋もれてしまいそうに低い身長。しかし存在感だけはどうあがいても消せない、その雰囲気。

「お前、最後絶対手加減してなかっただろ。ありえねえ、なんだよあれ!」
「バーカ、なんで手抜かなきゃなんねえんだよ。悔しかったらテニス上手くなれっての」
「うちのテニス部にケンカ売るやつがどこにいるんだよ!」
「は? あれケンカ売ってたのか? なんだ、それならもっと本気出してやったのに。早く言えよなー、お前」
「だから、それがありえねえって言ってんだ……」
「こら、お前たち! うるさいぞ!」

 授業中であることを忘れ、周囲に気を配ることを忘れ。自分の好きなもの、大切なものは決して想う心を曲げないままに真っ直ぐに生きている、それを示す言動。
 ピタゴラスの雑談が始まっていた数学教師の口から、簡単に叱責の声を出させる。突然教室の中から響いてきたその声に、教室の前にいた他クラスの男子たちは慌てて走り去っていく。
 瞬間。
 クラスメイトたちと教室へと逃げていく岳人の視線がこちらをとらえる。それは一瞬の出来事。は再び息を飲む。それは前の比ではない、まるで喉元を押さえつけられたような強さと痛みと、現実。
 しかし、瞬きの一瞬の間にその視線は外された。姿すら視界から簡単に消えた。そして足音も遠く離れた教室の方へと向かい、やがて消滅する。そして見計らったかのように同じタイミングで授業終了を告げるチャイムが鳴り響いた。

(私の岳人の関係って、何だったんだろう)

 その時の岳人の表情がどのようなものであったのか。視線が突き刺さったことに気を取られ、シャープペンシルを机の上に落としたには思い出すことはできない。
 ただ手のひらを離れたシャープペンシルが、真っ白なノートが。嘆息をもらす教師を見送った教室の中で、静かにを見つめていた。





「この前のテニス部の練習試合、やっぱりすごかったみたい」
「え、なに? 跡部くんが?」
「違うよ、忍足くんと向日くんのダブルス。久しぶりに試合に出て、あっさり完勝したんだって。さすがだよねえ」
「あのふたり、正反対だけど息が合ってるよね。次いつ試合やるのかなあ、見たいなあ」

 桃子の視線がちらりとこちらに向けられたが、は気づかないふりをした。
 食堂という場所にいる限り、その会話は当然のごとくあってしかるべきものだ。そのことをはよく知っている。
 全ての学年が学生という立場として学年の隔たり関係なく集う場所、それが食堂。食堂は朝礼や式典のように荘厳な雰囲気も、部活動のように厳格な空気も求めない。個人の雰囲気そのものを受け入れてくれる場所であることを、は理解しているつもりだった。
 だからこそだと。静かに箸を進めながら、その会話に気づかないふりをする。

(今は、岳人の話は聞けない)

 今日委員会は、と尋ねたならば、桃子はただ黙って首を振る。も相槌を軽く打てば、その瞬間だけは聴覚は他者の会話に気づかないふりをするを手助けしてくれる。
 今は、その名前を耳にすべきできないと。誰かが訴えるその感覚に身を任せよう。はそう心に決め、箸を進める。その時、桃子は静かに口を開いた。

、向日くんとなにかあった?」

 は箸を口にしたまま顔を上げる。はしたない、と理解しながらも唐突すぎる親友の問いかけに返す言葉は持ち合わせてはいなかった。

「……図星、と」

 その反応の意味を桃子は素早く理解し、小さくため息をつく。
 春の陽光に包まれる、そして中学生独特の素直な喧騒に包まれる食堂で。運よく中庭の見える窓際の席を確保できていたふたりは、しばらく沈黙のまま時を過ごした。
 やがて昼食を食べ終えた桃子が、そっと会話を繋げた。

、すぐ顔に出るんだよね。あと態度。分かりやすすぎて、本当は気づかないふりをしていた方がいいって分かってたんだけど、でも」
「……ひどすぎる?」

 静かな問いかけに、桃子は浅く頷いた。

「私はと向日くんの関係をよく知ってるつもりだから。だから気づくことができた、っていうだけで、他の皆がなにを思うわけでも想像できるものでもないって思うんだけどね」
「……」
「でも、あからさますぎて」

 心配になってきた、ごめん、と。謝る桃子に、は慌てて首を横に振る。誤りのひとつもなく見抜いた桃子の言葉を、怒りに任せて否定する権利などにはなかった。
 は箸を止め、そっと全面ガラスの向こうを見つめる。
 春風に泳がされる木々の清爽さ。その嘘偽りない姿は、この沈黙を優しいものへと変えていく。その爽やかさに心を落ち着かせてもらいながら、そっと口を開いた。

「……桃子、私ね」
「うん」
「気づいてよかったのか分からないことに、気づいちゃった」

 返されるのは沈黙。聡い桃子の反応に、は心の中で居心地の良さを感じるとともに感謝の思いを抱く。
 しかし桃子に親友としてのありがたみを感じるということは、自分の口に緘口令の無意味さを知らせるも同意だった。

「岳人がね。すごく、桃子と違ったの」
「え?」
「私、岳人は桃子と同じ私にとって大切な友達だと思ってきた。今も思ってる。でも、岳人は桃子と違うんだよね」
「……」
「岳人、男子だった」

 頬杖をついて見つめる中庭を、氷帝学園の男子の制服に身を包んだ同級生が通り過ぎていく。女子とは違うその姿に、は改めて自分との違いを痛感させられる。
 その制服を着るということは、自分とは違う、男子であるという意味。
 その意味の単純さを。しかし単純でありながら、決して覆すことのできないその定義を。は口内で下唇を噛み締めて、今更ながらに認識する。

「私、思ったこともなかった。岳人を男子として見たらどうなるのか、なんてこと。気づかなかったんだよ、考えたこともなかったんだよ」
「……、それは」
「でも、気づいちゃった」

 岳人が男子であることは知っていた。言葉だけを拾えば、たとえそう呟いたとしても誰も否定することはないだろう。
 男子の制服を着て、男子の体育をし、そして男子テニス部に所属する。
 当然のことばかりだが、と接触のあるこの氷帝学園における岳人の生活の基本を考えれば、その多くが男子であることに依拠していることに気づく。むしろ当然のことすぎて気づかない事実であるとも言える。
 しかし、その意義を。違う意味であの日、は気づいてしまった。

「私にとって一番仲のいい『男子』って、彰太よりも岳人が最初だったんだよね」

 両手でコップを握り締めれば、春の暖かさに負けて温いはずの水がしかし心地よい冷たさをもって手のひらに伝わる。わずかに首を傾げ、窓ガラスの向こうで風に揺れる芝生の青さを見つめながらはゆっくりと瞬きをする。

「……だからなに、っていうわけでもないと思うし、私もうまく言えないんだけど。でも」
「……でも?」
「意識しちゃうと、なんだか上手く話せない。見られない。今までどおりができない」

 正しい態度というものが一体どれにあたるのかを教えてくれるものはない。学べる環境もない。唯一それに近しい存在である桃子は、の言葉に明らかに言葉に迷っている。
 自分はなにを話しているのだろう。いや、なにを求めているのだろう。自問は膨らむばかりでなにひとつ解決の方向へと導くものはない。代わりにご都合主義な自己嫌悪ばかりが大きくなる。
 しかしやがて、桃子はふっと頬を緩めて小さくひとつだけ息を零し、口を開いた。

「私は、別に悪いことじゃないと思うよ。それは」
「……え?」

 予想外の言葉に、は顔の傾きを直して桃子を見つめる。おそらく情けないほど目が丸くなっていたのだろう、それを自覚させるかのように桃子は安心しろという意味の笑みを浮かべた。

「だって、それって当たり前のことだし。むしろ気づくことにも意味があると思うよ、男子とそんなに仲のいい関係でいられること。だって私にはいないもの、そんな人」
「……そうかな」
「そうだよ。それに向日くんをそう意識したからって、の彼氏が魚崎くんであることに変わりはないんでしょ?」

 言い聞かせるように、納得という道以外を与えないかのように。
 諭す桃子の言葉を、は黙って受け止める。重く響いた彰太の名前に、他者から聞かされる自分の現状の意味を考える。
 考えた頭は、やがてを深く頷くという行為に導いた。

「……うん、そう。そう」
「だったら。別にが動揺して態度を変える必要なんてないんじゃないかなあ、向日くんだってきっとそう」
「……え?」
「向日くんには、御影さんがいるんだから。に魚崎くんがいるようにね」

 聡明な色とはこのようなことを言うのだと、信じて疑わない親友の瞳がそっと柔らかい曲線を描く。
 現実を伝える言葉に反論できるものは、なかった。



 先に教室に戻る、と呟いたを静かに見送り、桃子は小さくため息をつく。騒がしい食堂の中でひとり残される寂しさよりも、今はを想う心の方が勝った。

「えらい深刻そうな顔しとったな、どないしたん」
「忍足くん」

 その時、数秒前までが腰掛けていた目の前の席に突然見慣れた同級生の姿が映った。長髪と眼鏡、その特徴的な姿に桃子は思わずその名前を呼び、座ってもいいかと了承を求める言葉に慌てて頷いた。
 いつから見ていたのか。桃子がそう問いかけるよりも早く、の親友関係を通すことによって知り合った忍足は口を開く。

「聞いてもええ? なんや気になる」

 既に昼食は終えたのだろう、手ぶらで現れた忍足はまるで今しがたのを真似るかのように頬杖をついて尋ねる。桃子は小さく息を吐き、そんな忍足を見つめる。
 忍足の隣には、今は見えなくとも彼にとっての親友がいる。その事実を思い出しながら。

「まあ、いつかはぶつかるかなあって思ってたこと。でも案外落ち着いてたからよかった」
「岳人がらみか」
「そんなところ」

 その言葉だけで、相手はあっさりと納得して質問の声を止めた。
 はいつも桃子のことを賢い、偉い、と手離しで褒めるが、この男の前ではその言葉はなにひとつ意味をなさないと桃子と思っている。この男に敵う人間など、所詮ごく限られた人間でしかないのだ。桃子は降参の意味を込めて苦笑と沈黙を返した。

「それで、なんて言うたん。芦屋は」

 しかし、その時忍足は唐突に会話を再開させた。桃子はわずかに目を丸くする。

「私?」
「そう」
「向日くんだって同じ立場なんだから、がひとりで動揺する必要はないよって」
「……ひとりで、ねえ」

 なにかを楽しんでいるような、しかしその裏困ったような。ひとつの言葉だけでは形容しにくい表情を浮かべ、忍足は食堂の中を見つめる。そのもったいぶったような態度の意味を知らないわけではない桃子は、水を飲むのをやめて静かに忍足を見つめた。

「……駄目だった?」
「ん? なにが」
「そう言ったこと」
「いや、俺が芦屋の立場でも多分そう言うやろな。当然のことやし」

 そうあっさりと答えるものの、しかし忍足の視線は桃子に戻ってこない。そして横顔に浮かぶ表情の複雑さも、消えない。
 やがて忍足の薄い唇が、桃子の不安に答えるかのようにそっと開かれる。

「ただ、ふたりが同時にそう思ったら。いくら俺らがそう言うても、それでしまいっちゅうわけにはいかんやろな。同時にお互いの方を向いてしまったらな」

 予鈴の鳴り響く食堂は、唐突に生徒たちを動かせる。
 そんな移動の波の中で桃子が忍足の視線の先を追えば、そこにはどこか思いつめた表情を浮かべるの親友の姿があった。





 桃子の言葉は胸に染みる。的を射た言葉というのはこのようなことを指すのだと納得することに不安はない。
 何度目だろうその言葉をは心の中で呟き、教室を出る。部活に出る者、委員会に出席する者、岐路を目指す者。様々な立場の人間でごった返す廊下を通り抜け、腕時計の時間を気にしながら足早に昇降口を目指す。
 彰太との待ち合わせの時間まで、あと少しだった。
 廊下を歩む歩が増えるにつれて強く心の中で呟く。周りの景色が歩に合わせて昇降口へと近づいていくにつれて、雑念を振り切ろうと他のものは見ないようにする。
 しまった、と思うのを、あの瞬間を最後とするために。

(そうだ、私がしっかりしなくちゃ駄目だ。気にしてたらずっと気になったままになる)

 やや急ぎめに靴を履き替え、人の波が生まれつつあった昇降口を出る。
 体育館に寄らなくてはならない、と前置きした彰太が伝えた待ち合わせ場所の校門前まで、約束の時間はあまり優しくない。自分の名前を呼んで挨拶を口にする親友たちに手を振るのもそぞろに、は真っ直ぐ校門を目指す。
 しかし、時間も優しくなければ学校も優しくはなかった。

「そうだ、向日。跡部からの伝言だ、お前だけランニング30周追加」
「はっ?! なんでだよ!」

 は足を止める。目の前の光景に一瞬で様々な自由が奪われたことを知りながら。

「知るか、そんなもん。……ああ、そういえば模造紙片手に思いっきり不機嫌な顔してたな。お前がまた何かやったんだろ、自業自得だ。激ダサだぜ」
「……あっ!」
「なんや岳人、お前また悪さしよったんか。あかんで、それは」
「球技大会の対戦表を見ちゃったらしいですよ、向日先輩が」
「長太郎、お前なんでそんなこと知ってんだ」
「クラスの女子が生徒会役員なんで。色々教えてくれました」
「だとよ。あ、あと今日1日ラケット持つな、だと。」
「かわいそうになあ」
「かわいそうですね」
「自業自得だ」
「うるせーよ、お前らは! あー、むかつく!」

 午後の日差しに温められた春風に踊る髪。長身の男子テニス部の中にあって埋もれてしまいそうに低い身長。しかし存在感だけはどうあがいても消せない、その雰囲気。
 それは体操服からテニス部ユニフォームに着替えたその瞬間にも、変わることはない。

(駄目だ)

 が決意を抱いたあとになっても、変わることはない。
 岳人の視界にないところで足を止めているを、何か、誰かはあざ笑うのだろう。そのために用意されたとしか思えない瞬間は、すぐにやってきた。

「少しだけ慰めたろか。ほら、岳人」
「うわっ!」

 瞬発力に秀でた左手が、緩やかな、けれどスピードを伴った放物線を描いて飛んできたテニスボールを簡単に受け止める。ランニングを妨害され、気分を逆撫でされ、岳人はあからさまに不機嫌な顔をして忍足に怒鳴ったあと、

「やっぱりお前の言葉に誠実さも優しさもなにもねえ! くらえ!」
「うわっ、向日先輩!」
「アホ、なにすんねん岳人!」
「アホはお前だ!」

 その瞬間を、は見逃すことができなかった。

(駄目だよ、桃子)

 小さな身体に大きく見えるラケット。自分では扱うことのできない左手がそれを強く握り締め、空が千切れることに抵抗するように、けれどその素早さを称えるかのように鳴る小さな音とともに振り下ろしたそれから飛ばされたひとつのボール。狂うことなく親友のみぞおちを狙ったそれは、不運にもその親友の狡猾さの前に役目を果たすことなくグラウンドに落ちていったが、生意気そうに後輩に拾いに行かせるその後ろ姿を、は立ちすくんで見つめるしかなかった。
 生意気でしかない。乱暴でしかない。
 けれどそれは、既に知りえたこと。彼と親友になった瞬間から、知らされていたこと。包み隠さず彼が生来のものとして、に臆すことなく示していたこと。
 そして、それを受け止めるに嬉しそうな笑みを浮かべていたのが、真実であること。

(気づいたら駄目だったんだよ、気づいたら、そんなの)

 鞄の取っ手を握り締める右手が痛い。しかし痛さを認識しても呆然として動けない身体の自由は奪われたまま。
 は親友の後ろ姿を見つめ、わずかな自由の許される心の中で呟く。
 一瞬の出来事の中にあった、―――ラケットを振るその瞬間の真剣な横顔に目を奪われたことに、呆然自失としながら。

(だって岳人は、私にとってすごくいい友達で。そのいい人のもっといいところなんて、気づいたら、そんなの)

 その時だった。

「!」

 自由を奪われたと思った身体が唐突に動き出す。瞬間で視界の中から岳人が消えたその事実に一瞬何が起きたのかには分からなかった。
 しかし、自分の左手を掴む温もりと、そして。

「帰るぞ。どこ見てんだ」

 抑揚のない声でそう呟く彰太の声と、視界の中を埋め尽くす大きな背中に、自分の自由は他のものに奪われたことを知る。
 返す言葉のないには、返す態度もない。ただ彰太の導くままに、引っ張られるがままにその場から離れる。
 思わず目を向けたグラウンドの中、そこには自分を見つめる視線がある。生来大きな瞳を、瞬きという言葉の意味を見失ったように真っ直ぐこちらを見つめる、視線がある。
 けれどには、それに反応する自由もなかった。



>>08.与えられたもの


06/10/29