| 06.終わりか、始まりか |
眠りの世界から強引に明かりの宿る世界へと引き戻したのは、止まるということを知らない携帯電話の着信音だった。 いつのまにかうつぶせになってベッドに沈んでいた岳人は、その音に眉根を寄せてのそりと顔を上げる。半透明の膜でもかかったかのような曖昧な視界の中、音が流れてくる方向を探し当てるにはしばし時間が必要だった。 「……誰だよ」 呟いてベッドから起き上がるも、頭の中には今日の部活の練習内容ばかり甦る。岳人はますますしかめ面をする。 今日は跡部の機嫌が見るからに悪く、少しのミスも見逃してはもらえなかった。上達を願わないわけではないが、監視にも近いその視線に耐えうるだけの精神力が自分にはまだないことを岳人はよく知っている。 しかしそんな跡部の指摘を榊がすべて黙認していたあたり、今日の自分は相当にふざけた内容のテニスしかできていなかったのだろう。跡部と榊、双方からの監視の下で繰り広げられた今日の部活時間の濃度が稀に見るものであったことは、時計の短針が11時を回った今まで制服姿のままベッドの上にいた、この身体が証明している。 跡部に対してか、電話に対してか。岳人は不機嫌を表情に露にしたまま、机の上に投げ出したままだった携帯電話を手に取る。 寝起きには眩しすぎるディスプレイに表示されていたのは、詩歩の名前だった。 岳人はしかめ面のまま頭を一度乱暴にかいてから、ようやく通話ボタンを押す。 「……もしもし」 『あ、岳人……ごめん、もしかして寝てた?』 「寝てた」 『ごめんね、変な時間に電話しちゃって』 「んー、いいよ」 機械越しに詩歩の声が弱くなる。申し訳なさを余すことなく声に出して伝えてくる彼女に、岳人は眠さを堪えて一度首を左右に曲げたあと、ベッドに腰掛けた。 「なんかあった?」 岳人の部活内容を熟知している詩歩が、部活のあった日の夜に電話をしてくることは極めて珍しい。そのことにようやく気づいて岳人が欠伸とともに尋ねれば、まだ申し訳なさを消せない声がそれを否定した。 『ううん、別にメールでもよかったんだけど……ちょっと』 「……うん?」 『土曜日のね、デートのこと』 土曜日にデートの予定なんです、ご心配どうも。 その瞬間、眠さは消えた。声が蘇れば全てが連れ立って記憶の中から湧き出てくる。岳人は携帯電話を持ちながら、蘇る記憶の波にあっさりと飲み込まれる。 『映画の話、してたでしょ?』 「……ああ、うん」 服越しに伝わる身体の温かさ。肌の柔らかさ。頬に触れる髪のしなやかさ。 見上げる視線の、今までに感じたことのないほどの近さ。 『でも大会前だから、本当にいいのかなあって気になっちゃって。もし無理だったら』 「いや、行ける。平気」 詩歩の言葉を遮って、岳人は呟く。一点だけを見つめて。 あってはならない。考えてはならない、思い出してはならないと呟く心の指示に従って。 『……岳人?』 「だから、行けるって。部活は午前中だけだって、今日監督もいってたし。地区大は正レギュラーは出ねえし」 事実として存在することを余すことなく言葉として伝えた。電話の向こうの詩歩が一瞬わざと黙ったことに気づかないわけではなかったが、それでも言葉に出す必要があると岳人は心のどこかで思っていた。 『……うん、分かった。じゃあ、楽しみにしてるね』 こんな時間にごめんね、と。もう一度謝りの言葉を口にして、詩歩は電話を終わらせた。 通話の終了を告げる機械音をどこか遠くに聞きながら、岳人は携帯電話を耳から離す。 画面に映る通話終了の文字を見つめることは、できなかった。 今話していた人物の名前を見つめられるほど、頭も心も落ち着いてはいなかった。 あの日、跡部の機嫌が悪かった理由は分かっていた。 (委員会の連絡が遅くなったからだ) 桜を散らし、次に目指すは初夏だと伝える風が髪を揺らす。一歩一歩を踏み出すたびに揺れるその髪がはね、頬に触れる。西へと舵をきった太陽が柔らかに陽光を注ぐグラウンドでするランニングは、いつもであればそのような春の心地よさに包まれて軽快に行えるものであった。 しかしどこか心が晴れない理由を、岳人は沈黙の中で考え続ける。 自分のクラスのホームルームが遅れたことを考慮しても、その報告は遅すぎると。部活の開始時刻でありながら生徒会長としての責務のため、制服に身を包んだままの跡部があからさまに不機嫌な顔をしてそう岳人を叱責したのは、つい一昨日の出来事だ。 (生徒会室に入り込んでたことを怒られたわけじゃない。対戦表を見たことを怒られたわけじゃない。というかばれてねえ。……多分) 目の前には樺地の大きな背中と、それよりは小さくとも自分よりも高い位置から始まっている鳳の背中。軽く言葉を交わしながら走りこみをするふたりの後ろ姿は、悩み事という言葉を知らないように見えるほど素直な色をしている。 一昨日、生徒会室前まで来た跡部は、部屋の中に入る寸前に忍足から声をかけられた。球技大会の種目決めがまだ長引いている、と関西弁で伝える忍足に、跡部は声をフェードアウトしながらなにかを話しかけていた。距離ができた、そう瞬時に悟った身体は、温もりから離れてコピー室を飛び出る。 しかし、生徒会室のドアを開け、跡部の名前を呼んだのはもうひとりの人物の方だった。 その相手の背中を、岳人はただじっと見つめることしかできなかった。 あの日、跡部の機嫌が悪かった理由は分かっている。自分の仕事の報告が遅れたからだ。そしてその不機嫌をさらに悪化させたのは、自分のテニスの内容が散々なものだったからだ。 そして。あの日、自分のテニスが散々な内容だった理由は分かっていた。 (あいつと) 涙色が広がる空の下、流れ行く雲に見守られるようにして走るグラウンドの中。岳人は機械的に繰り返す脚の動きとは無縁の世界を作ることができる心の中で、そっと呟く。 (あんなことになったからだ) 認めてはいけないその事実を無視することができる理由は見つけられた。 しかし、その理由に素直に従うことができるほど、自分のなにかは素直ではなかった。 しかし、素直ではなくともそれに逆らわなければならない理由が岳人にはある。 キュッという心地よい音を立てて靴紐を締めなおす。それはテニスシューズではなかったが、いつもの癖で自然と結ぶ手には力が入る。行ってくる、と呟いた言葉に母親は機嫌のいい声で見送った。 外は初夏を待ちわびるに相応しい青空だった。午後になってすぐの太陽の光はいつもより強いものに感じる。コートの上では浴びなれているその光も、ユニフォームではなく私服を通して感じ取るとどこか鬱陶しくもあった。 しかし、その鬱陶しさに負けることはできない。岳人は誰にも見られていない間にきゅっと唇を結び、目的地へと急ぐ。電車に乗る間も、その場所に向かって歩く間もひとつのことしか考えないようにした。 「岳人」 そのようにして歩を進めていけば、視界の中に詩歩の姿が映るまで、そう時間は必要としなかった。 待ち合わせ場所に先に到着していた詩歩は、岳人の姿を見つけて笑みを浮かべて駆け寄る。土曜の午後という人の多い待ち合わせ場所の中、自分のもとに駆け寄ってきた詩歩の私服姿は久しぶりで新鮮だった。 (そんなに会ってなかったんだな) 目の前にその姿を映して初めて事実に気がつき、岳人は心の中で謝る。言葉にはしなかったが、対面の挨拶と同時に歩くことを促せば、詩歩は躊躇することなくその隣の場所を選び、歩をあわせた。 「そういえば、なんの映画見んの? 俺聞いてなかった」 「あ、あのね、先週公開になったものなの。今CMでよく流れてるんだよ」 「ふうん」 人込みの中を流れるようにして歩き、記憶の中にある映画館へと向かう。映画館にたどり着く間、詩歩はまるで沈黙ができることを惜しむかのように話し続け、振りかけられる言葉を聞きながら岳人は相槌を打ち、時折笑った。その岳人の反応に横に並ぶ詩歩もつられて笑い、土曜の午後の日差しが優しく見えた。 思考回路は、徐々に詩歩の存在に支配されていく。 自分はなにを意識していたのかを忘れさせる春の陽光、その下で歩を進めていけば、ようやく目的のものが岳人の視界の中に映った。 「岳人」 複合型の映画館の中に入ろうとしたその時、詩歩は小さく呟いて岳人の左手を取る。 握り締められたその感覚に岳人が目を丸くして振り返ると、詩歩は揺らがず真っ直ぐに岳人を見つめ、そっと口を開いた。 「私ね、今日嬉しいんだ。すごく。岳人の彼女になれて本当に嬉しかったから、こうして会えることがすごく嬉しい」 詩歩は小首をわずかに傾げて、様々な人が流れ込んでゆく映画館の入り口を温かく見つめる。さらりと初夏の風が黒髪を揺らす様を、岳人は黙ったまま見つめる。 (……そうだ、俺は今御影と付き合ってるんだ) 心の中で強く、改めて。今更だと思わずにはいられない言葉を、それでも呟かずにはいられないと思いなおして言葉にすれば、左手は強く詩歩の手を握り締める。 嬉しそうに岳人の顔を見上げる詩歩の顔は、まるですがるように見えた。 思い直す、知り直す、認識を改める。 この数日の間、そうしなければならない事実があったことは否定しない。その理由を岳人は知っている。 (あいつとあんなことかになったからだ) 困惑する詩歩を無視してふたり分の入場券を購入しながら、心の中の呟きを続ける。 (でも、だからってなにが変わるわけじゃねえ。あいつを見る目がそこで変わるだなんて、さすがの俺でもそれは単純すぎる。そんなこと、意識する方がおかしいんだ) 自分が冷静沈着なキャラクタの持ち主だとは到底思っていなかったが、しかしだからといって単純という言葉のみで表される人間でいたいと思っているわけでもない。申し訳なさそうな笑みを浮かべる詩歩に入場券を差し出し、詩歩の言う映画が上映される会場へと足を向ける。 (あいつは友達だ。今更それを変える理由なんかないんだ) 土曜の午後という時間帯は、少々無謀な選択だったのかもしれない。室内に入った瞬間に視界の中に飛び込んできた人の多さに、一瞬岳人は呆気に取られる。映画に興味のない岳人からすれば、それはあまり迎合したくない空気だ。しかし背後で「先週公開したばかりだから」と申し訳なさそうに呟く詩歩に軽く左手を上げて、空いている席を探す。 広く室内を見渡せば、右側後方部分の中央にふたつの空席があるのが分かった。周囲の動きを確認しながら、岳人は詩歩の手を取ってその場へと移動する。これだけの人が集まっている以上、見やすい席よりもまずはふたりで腰を下ろせる場所を探すことが先決だと。そう咄嗟に導き出した判断は、間違ってはいないはずだった。 その場所にたどり着くまでは。 「あ」 後ろで詩歩が小さな声を上げる。その声に、視界の中央に映っていた空席の向こう側、こちらに後ろ姿を向けていた人物が振り返る。 その人物は、振り返って岳人の顔を見つめた瞬間、あからさまに絶句した。 「あれ。向日」 一昨日とは逆だった。 あの日、言葉の操り方に戸惑った岳人の代わりに跡部に声をかけることができた人物は、今目の前で声を発することができないでいる。代わりにその向こうに腰掛けていた人物が、こちらを見てわずかに驚いた表情を浮かべながら岳人の名前を口にする。 と、彰太だった。 「なんだ、お前らもかよ。偶然だな」 同級生の姿を見つけ、彰太は他意なく笑いかけてくる。岳人は慌てて頷いた。 「席空いててよかったな。早く座れよ、もうすぐ始まるぜ」 「あ、ああ」 促されたその時、岳人はようやく気がつく。 振り返ったとしても、しかしそこには自分を見上げる詩歩の顔と、空いた席ふたつだけ。上映時間10分前を迎えた館内において、他に空席を見つけることなどできない。 逃げ場は、なかった。 (ありえない、なんで) 心の中で何度となく呟きながら、岳人は視界右側に映ろうとするものを限りなく排除して空いていた席に腰を下ろす。詩歩も左横でそれに倣う。 (なんでこいつの隣で映画なんて) 左手側に詩歩。 そして右手側に、。 まるでテニスの試合の時のように、周囲の雑音が入ってこない。詩歩のたわいない会話に頷きつつも、気づかないふりをしていた右手側にいつしか神経は集中されていく。 視線を下に落とし、表情を見せようとしないの横顔に。 (……いや、違う。違うんだ。なに気にしてるんだ、俺は。気にすること自体おかしいだろ) 呟きとともに左手で頬杖をつき、視界を完全にスクリーンのみに献上したその時、室内灯が落とされた。 スクリーンに知らない映画の予告が次々と映り、変わっていく。そういえば映画鑑賞が好きだった、と岳人が思い出した左隣の詩歩は、既に岳人の思考回路など気にしている暇もないように真面目にスクリーンを見つめていた。やがて映画が始まる。 だがその映画が、実は自分の味方であることに気づくまで。そう時間はかからなかった。 暗闇とは便利なものだ。暗順応で視界ははっきりとしていたが、しかしその中途な暗がりは心の中の動揺を隠すことには適している。さらに、もともと忍足のように映画を見ることに特別な思いを抱いているわけでもない岳人にとってすれば、この暗闇は絶好のくつろぎの場所に近い。気づけば詩歩はまるで岳人の存在すらも忘れているかのように映画に見入っており、岳人はそっと欠伸をすることも難しくはなかった。 映画の展開とは無縁のまま、ゆっくりと流れる自分の周りの時間。自分の体温で温めた椅子の居心地のよさから次々と襲いかかってくる睡魔との心地よい駆け引き。ふと気づいた映画の場面が主人公とヒロイン役の邂逅シーンであっても、岳人はすっかり気の抜けた自分の身体の重みに負けて、その時。両手を手摺りの上に預け、浅く腰掛けようとした。 「!」 その瞬間、岳人は思わず息を飲む。 右手に触れたのは、自分以外の人の温もり。予想していたとおりの冷たい感触で手摺りに触れる左手とは逆に、その温もりは突然右手に訪れた。 それが、人の五指であることに。気づく理由は用意することすら愚かだった。 しまった、なぜ。どうして忘れていた、ありえない。 しかし心の中で呟くそれらの言葉とは裏腹に、岳人は目を見張ったまま、呼吸のタイミングすら忘れてそっと視線だけを右に動かす。その先には―――まるで自分の今の表情を教えているかのように―――言葉が見つからず、硬直したの横顔があった。 (だから、……だから! バカだ俺!) 詩歩は映画に夢中だった。岳人の右手の行方を追うこともないままに。 彰太は軽く俯いて瞳を閉じていた。の左手の状態に気を向けることもないままに。 離れる道を選べなかったふたつの五指が、ふたりの知らない間に重なってしまったことを知らないままに。 (なんで、いまさら。いまさらなんで、こいつと……!) 岳人はそっと顔を右手側に向ける。くどく、わざとらしいほどの恋愛映画を流すスクリーンには、クライマックスに向けて海外映画特有の情愛シーンが繰り広げられる。興ざめすると呟いたならば子どもだと親友が苦笑したそのシーンは、やはり面白くない。 人の温もりひとつの方が、よほど心臓に悪い。 視線に気づいたのか、もそっと視線を流す。さらりと頬の隣で揺れる細い髪の毛が、一瞬で岳人にあの生徒会室での出来事を思い出させる。 怯えにも見えるその視線が、あの時の感覚を思い出させる。 (……なんで、離せないんだよ。離れないんだよ) 岳人の手のひらの中にあるの手は、その後も逃げることなくただ静かに岳人にその温もりを伝えていた。 |
| >>07.奪われたもの 06/10/09 |