| 05.不意と真実 |
「桃子、なにそれ」 「あ、これ? 今度の球技大会のほら、あれ。対戦表」 ホームルームの終わった教室で親友の桃子が突然抱え持ったものは、いくつもの丸められた模造紙だった。が目を丸くして尋ねれば、返ってきたのは至極真っ当な答え。周囲の公共施設を借り切って開催される毎年恒例の球技大会は近い。 「部活に行く前に、生徒会室に持っていかないと駄目なんだよね」 ひとつ小さな息とともに呟いて、桃子は肩にショルダーバッグを預ける。その時見計らったかのように教室の後ろのドアから桃子の名前を呼ぶ声が響き、誰かとが視線を向ければそこには下級生の姿。女子バスケット部の部長である桃子のもとには、部活の仕事が舞い込むことが多かった。 今日の部活内容の確認を取る後輩に、対戦表を抱えたまま桃子は的確に指示を出す。しかしその足は後輩とともに体育館に向かうという素振りはない。はしばらく成り行きを見守ったあと、椅子に座ったまま口を開いた。 「桃子、私持っていこうか? それ」 「え?」 「持っていくだけでしょ? 私でも大丈夫だよ。だから部活行っておいでよ、地区大会近いんじゃなかったっけ?」 驚いて振り返った桃子の向こうで、後輩の表情が期待に揺れた。 人から信頼される立場の人間は常になにかに追われている。言葉はもっと歪曲されたものだったが、同じようなことを岳人が言っていたことを思い出す。しかしだからこそ自分たちがしなくてはならない仕事があると、これも言葉はもっとふてくされていたが岳人が繰り返し口にしていたことをは知っている。その言葉に従ったわけではないが、親友に向かっては当然のごとく右手を差し出す。 桃子は最初驚いて首を振ったが、右手をひかないに最後は困ったように眉尻を下げつつも、そっと抱いていた対戦表をに委ねた。重くはないが全球技を記すだけの本数を必要としたそれは、簡単にの視界を塞ぐ。桃子は申し訳なさそうに両手を合わせた。 「私からだって跡部くんに言えば伝わるから。ごめんね」 「いいよ、全然。こんなことで怒る跡部くんじゃない……と思うし」 「そう願っておくね」 その一言を残し、桃子は急ぎ足に後輩の待つドアへと走り去った。 桃子の背中を見送ってからは口元を緩めて立ち上がり、鞄を机の上に残したまま桃子からの預かり物とともに教室を出る。 「なにしてんだ、お前」 そして少しばかり驚いた顔の親友に見つかったのは、教室を出てしばらくのことだった。 対戦表の向こうから飛んできたその声に、は足を止めてそっと方眼紙の束の中から向こうを覗き込む。そこには自分とそう背丈の変わらない岳人の、真っ直ぐな疑問の視線があった。 「おつかいの途中」 「なんの」 「桃子の。あれ、違う。跡部くんの?」 「なんだそれ。お前と跡部なんて全然接点ねえじゃん」 「だって生徒会室に持っていくんだもん」 「生徒会室?」 驚くというよりも訝しそうに片眉が上がる。しかしその表情にが苦言を口にするよりも早く、その利き手が狭い視界の中に飛び込んできた。 さきほどの桃子の顔はこのようなものだっただろうか、と。そう思うことはできても、差し出された岳人の左手を見つめるの頭には返す言葉が浮かんでこない。けれど。 「いいから早く貸せよ、それ」 「え? あ!」 抱きしめていたものが強引に、面白いほどに呆気なく離される。突然拘束のなくなったの視界の中央には、簡単に対戦表を抱え持つ親友の姿が映った。 象徴のようになりつつある独特の天色の真横に白、そしてその上に揺らめくことなく引かれた黒の直線が映えるテニス部のユニフォーム。の返事を聞くよりも早く、既に部活の準備を整えていた岳人はくるりと踵を返して廊下を先に進む。 「いいよ、岳人。部活でしょ? 悪いよ」 慌ててその背中を追いかけて横に並び、そのように声をかければしかし鼻で笑われた。 「ちげーよ、俺も生徒会室に行く用事があるんだよ。ついでだ、ついで」 「……跡部くんに怒られるようなことでもしたんでしょ、岳人」 「バカヤロー、誰が好き好んであいつに叱られに行くかっての。委員会の仕事だ」 お世辞にも丁寧とは無縁の言葉が遠慮なく返される。しかしその遠慮を相手が求めていない。 その雰囲気に甘える形で、は一言感謝の言葉を述べてから共に生徒会室への廊下を歩いた。 生徒会室はその刻限に至れば夕陽の歓迎を受けやすい校舎の西側にあった。ある意味奥まった場所とも言えるそこには、用のない人間には極めて無縁の空間である。鍵がかかっていないことにいささか疑問を感じつつも、岳人がドアを開けて一歩をその中に踏み入れるのにも続いた。 「なんだよ、跡部いねえじゃん。ホームルームでも長引いてんのか?」 照明のついていない生徒会室は、西に傾き色を変える準備を始めた太陽の情けを受けて部屋の中をふたりに見せる。対戦表を抱えたまま岳人は迷惑そうにため息をついた。 「そこまで長引かないでしょ。もう3時半近いし、部活もあるんだから」 「それだよ。俺これで部活遅刻とか言われたら、本気でキレてやる」 壁掛け時計の示す現在時刻を気にしながら、しかし岳人は半ば諦めたかのように壁にもたれる。嫌そうにしながらも、跡部がこの場に姿を現すまで動く様子はなかった。 「あ、ごめん。ずっと持たせっぱなしで」 そんな岳人の横顔を見つめて、はようやく岳人に預けたままの自分の荷物に気がつく。誰もいない生徒会室でふたりきり、感謝の言葉とともに受け取りの右手を差し出せば、岳人の利き手のひらが左右に揺れた。 「いいよ、別に。お前にもたせるとなんか折ったりへこませたりしそうだし」 「なにそれ。岳人、そんなこと言ってるともてなくなるよ」 「うっせーよ、人並みにもててるっつうの」 「御影さんに言っておくね、それ」 「ばっ……!」 それまで怠惰な雰囲気ばかりを生かしていた岳人が、その一言で慌てて身体を壁から離す。予想していたこととはいえ、見事に目の前に繰り広げられたその動揺には笑わずにはいられなかった。 「……お前、絶対魚崎から見捨てられる日が来るぞ。絶対」 「土曜日にデートの予定なんです、ご心配どうも」 「だから心配なんかしてねえって、前から言ってるだろ。自意識過剰」 苦笑をこらえて呟いた言葉に、どこかで聞いたよう言葉が返される。言葉を字面だけ追えばまるで優しさの欠片もない内容だったが、それが岳人の口から出るとなると話は別だ。隣に並ぶ親友の存在そのものの温かさに、は目じりを支配しようとする涙をそっと人差し指ですくった。 思い返せば。そう、岳人との関係はいつもこのようなものだった。 冷静に考えれば、この場所はおかしい。生徒会室など、関係のない人間がそう易々と入れる場所ではない。そもそも生徒会と無関係の話をすることができるほど開放的な場所でもない。時間もおかしい。午後3時半を過ぎた今、ユニフォームに身を包んでいる岳人はテニスコートに立つかグラウンドで走りこみをしているかのどちらかが本当の姿だ。岳人自身もすぐに用事が済むと思って着替えてから校舎に戻ってきたはずだ、着替えてから用事を思い出したという可能性は気づかないふりをする。 そのような場所、時間帯に、しかしなんの違和感もなく言葉を交わす。たわいない会話に目を笑いの涙で潤す。そのような関係は、は桃子との関係以外では他に知らない。 「あ、そういえば。ねえ、岳人のクラスってもう数学の教科書終わった?」 「ああ、3年の内容? もうすぐ。三平方の定理の空間図形は終わった。簡単だな、あれ」 「ええ……? 定理は簡単でも、それを使った文章題は……私嫌だなあ」 「今度の中間の範囲なんじゃねえの? あれ。あーあ、お前の数学また最悪だな」 「それを言わないで。理科も化学の内容だし、厳しいなあ……あー、今から憂鬱」 「しょうがねえなあ。何で手を打つんだよ」 「……なにそれ」 「救いの手」 「……見返り前提の『救いの手』?」 「俺をもてないと連呼するやつにはそれ相応の優しさしか持ち合わせないんだよ、俺は。ざまあみろ。大体、化学はだなあ」 得意科目の理科について熱弁をふるう岳人の横顔を見つめていれば、ふと頬が綻ぶ。 それは、独特の親友関係から生まれる心の穏やかさに従うだけで簡単に浮かべることができた。いや、従うという意思そのもの自体はもはや不要にすら思えた。それは反射という反応に近い。 中学1年で出会ってから、今年で3年目。 隣に並ぶ3年目の親友の笑顔に、は役目も忘れて会話を楽しむ。いつしか時計は気にするものではなくなっていた。 「あ。そういえばお前、これ芦屋から預かったって言った?」 その時。 「え? うん、そう。今度の球技大会で使うやつだって」 「芦屋……ああ! じゃあこれ、対戦表だろ!」 どれぐらいの時間が経っただろう、それを確認するよりも早く自分が手にする模造紙の意味に気づいた岳人の興奮ぶりが視界の中に映る。の言葉を聞いて岳人はますます丸められたままのそれを見つめ、いくらか思案したあと。 「ちょ、ちょっと岳人! ストップ!」 「俺今年もサッカーで希望だしたんだよ、気になるじゃねえか。あー、跡部のクラスとはあたりたくねえなー」 丁寧に丸められていた模造紙を、あっさりと開きにかかった。桃子から預かっただけの立場であるは慌てて岳人の手を止めようとしたが、どちらの身のこなしが早いかは考える間もない。 「だめ、対戦相手は当日まで秘密っていうのが決まりじゃない!」 「大丈夫だって、あとでさっきと同じようにしとけばいいんだから。気づかれねえって」 「でも!」 の制止の手を難なくかわし、岳人はセロハンテープで留められていた模造紙を開いてしまった。の視界の中には反転された文字の映る白い紙が広がる。 「あ、なんだこれバレーじゃん。サッカーじゃねえ……って、おい!」 しかし、広がりきるその寸前にの手は岳人から模造紙を奪い取ることに成功した。 「いいじゃねえか、これぐらい。内緒にしとけば問題ないんだから」 「私が桃子に怒られちゃうでしょ、跡部くんに見つかったら岳人が開いたってことは言うつもりだけど」 「バカ、お前が言ったらなんの意味もねえだろうが! 返せ、それ!」 「もともと私が預かってきたものなのに、なんで岳人にそんなこと言われなくちゃなんないのよ!」 すぐさま伸びてきた岳人の手を、今度はがかわして後ずさる。先ほどの岳人のように、それはけして流麗でも俊敏でもなかったが、しかし追跡の手を逃れることだけは辛うじて可能だった。は一定距離をおいて岳人を睨みつける。その視線を受けて岳人はわざとらしいため息をついた。 「お前なあ、俺が開いた段階でお前だって共犯に近いって、どうして気づかないんだよ」 その時だった。 「!」 「うわ、バカ!」 隙をついて伸ばされた岳人の手を無理やり避けようとした、その瞬間。 初めて足を踏み入れた生徒会室の構造がどのようになっているのかなど、そもそも考えてなどいなかった。そんなの身体は簡単に背後のダンボールに足をぶつけ、よろけ、崩れる。俊敏性に優れた岳人は咄嗟に手を出したが、追いかける手よりも崩れる身体の方が一瞬早かった。 派手な音は、一体どこまで響いただろうか。響くことを止めることも周囲に確認することも叶わないまま、はきつく閉じていた瞳をそっと開ける。 しかし開けたはずの視界は、なぜか暗い。 それが人の影によるものだということに気づいた時、ようやく視界以外の感覚が正常に働き始めた。 「なにしてんだよ、お前……いってえ」 前髪を揺らすのは、頬をかすめるのは。それは春の温もりか吐息か。 気づけば、親友の顔が今まで一度も経験したことのないほどの至近距離でそこにあった。 「……紙は、無事か」 開かれた模造紙は岳人の手を離れ、床に転がっていた。それまでその紙を手にしていたはずの右手はの左横に、利き手である左手に負荷のかからないようにただ一本で全体重を支える。床に腰を下ろした(正確には落としてしまった)の前面に、まるで覆いかぶさるような形だった。 予想外の展開には言葉がでない。ただ視線だけを岳人の顔に向ければ、ため息をつく横顔がこちらの視線に気づく。さらりと揺れる前髪の下で揺れた瞳がに教える。 自分の前顔を揺らすのは、頬をかすめるのは。彼の吐息であることを。 「片付けなきゃならねえ仕事がある。先にコートに行ってあいつらに予定表どおりに動けと伝えてこい、樺地」 「ウス」 気づいて息を飲んだ瞬間、ドアの向こうから聞こえてきたのはこの部屋の主の声だった。 「やべ、跡部!」 小さな叫び声を上げて岳人が顔を上げる。咄嗟に仰ぎ見たその顔にあるのは、跡部という第三者の登場に対する動揺の色。そこに、に対する感情など見つけることの方が難しい。 過剰反応しているのは自分だけか、と。思わず心の中で呟きそうになったその瞬間、けれど。 「!」 「早く!」 右手が強引に引っ張られ、身体が勝手に床から離れる。普段軽くはないラケットを振り回している左手の握力に敵う力など、今のにはない。 抑えた声で急かす岳人の手に引っ張られるがまま、の身体は部屋の中にあるもうひとつの部屋の中へと連れ込まれる。そこは生徒会室の中にあるコピー室。 しかし、連れ込まれた先の空間は予想以上に「劣悪」であることは、岳人にも予想できていなかったらしい。 「ああ、あと。向日がいたら呼んで来い。委員会のことを忘れてやがる、あいつ」 「ウス」 「ユニフォームに着替えていたら制服に着替えさせろ。部活と委員会は別だ。着替えているに決まってるがな、あいつなら」 天井まで繋がっていない薄い壁の向こうから、ガラリという曇りない響きを伴ってドアがサッシの上を滑る。簡易ドアの下の隙間から廊下の光が滑り込んでくる。 その様子を、は頬に、額に、手に胸に。岳人の体温を感じながら、息を殺して見つめ、聞いていた。 生徒会室の中にコピー室があることは聞いていた。各委員会の委員長と生徒会との組織関係が密な学園にとって、事務作業をできる場は遠く離れた職員コピー室よりもこの場所の方がなにかと融通がきく。それは委員会活動を通して生徒の自主性を学園の風紀に反映させるこの氷帝学園に通う身としては、至極理屈の通った設定だった。 しかし、その場が。まさかここまでダンボールや資料に埋め尽くされた場所だということまでは、聞いていなかった。 最初にを中に連れ込んだ岳人の方もあまりの窮屈具合に呆然として動けていない。彼の右手には解き放たれたままのバレーボール対戦表。現況の因はまさにそれであることを知りながら、しかしふたりは動けない。 まるで抱き合うかたちに近い姿勢のまま、ははやる鼓動が岳人に伝わらないようにと。それだけを願い始めた。 (岳人は) 甦るのは、出会った頃の記憶。今も小さいという言葉とはさほど無縁ではない。朝礼など、クラス内で身長順に並ばなければならない時には大抵彼は男子の列の前半にいる。160cmに満たない身長は、女子の列に並んでもけして最後尾にはなれない。 しかし、小さいという言葉が頼りないという意味とは同義ではないことを、は身をもって知る。 (ずっと私と同じ身長なのに。小さいのに、子どもっぽいのに) 繰り返す言葉は繰り返すほど、まるで現状を否定するなと訴えられているかのよう。 真横にある岳人の顔を、はそっと見つめる。とどまった空気の中、その小さな動きがの髪から岳人の頬に伝わる。 (桃子とは違うんだ) 返された岳人の瞳は、2年前と変わらない色であっても、形は鋭さを増している。 隣に並ぶ「親友」の体温を前に、は自分を見つめる視線を受け止めることしかできなかった。 |
| >>06.終わりか、始まりか 06/10/08 |