04.フェンス越し

 春の風がコートの上を泳いでいく。
 髪を揺らすその柔らかな空気の流れに、岳人はそっと空を見上げて目を細める。昨夜の雨が嘘のようだ。このコートに来るまでにグラウンドの中にはいくつもの水溜りを見つけることができたが、性能が自慢のテニスコートの中では雨の記憶など必要ない。ラケットを持つ左手に力をこめ、岳人は視線をコート内に戻す。身は高揚に任せればよかった。

「練習試合言うても、ほんまはあれやな。俺らの腕ならしや」
「そりゃそうだろ。都大会も始まってないのに俺ら正レギュラーが本気でやったら向こうが可哀相だっての」
「まあ、救いは今日の正レギュラーが一部だけっちゅうこっちゃな」
「跡部が出たら救いもなにもなくなるよなあ」

 ごもっとも、と忍足は笑う。普段は冷静で落ち着いた男と一般的に認知されているこの男も、ことテニスになると遠慮というものを知らない。優しさとは無縁の余裕をふりかざして、臆すこともましてや飾ることもせずに自分の力を信じる言葉を口にするこの親友が、岳人は嫌いではなかった。

「とりあえず、今日の目標は?」

 南中を目指して右肩上がりな曲線を描く太陽に、若干目を細めながら岳人は忍足を仰ぎ見る。嫌いではない仲間を見上げることにはなんの苦痛も生じない。

「そうやなあ、まあストレートで勝つこと、は当然のこととしてやな」
「まだあるのかよ」
「あとまあ、岳人の見せ場でも作ったろか」

 忍足はそう呟いた後、視線を岳人の左側へと向けた。
 テニスコートに設置されている観客席との境界線である塀にもたれていた岳人は、どこを見ているのかと顔の向きを変えてその視線の先を追う。すると青色のフェンスの向こうに見慣れた人の姿を見つけた。

「行ってきてええで。跡部もおらんし」
「え? あー、うん。悪い」
「あとでジュース1本やけどな」
「なんでだよ」

 ひらひらと忍足の手のひらが揺れる。その大きな手がいつものように彼のポケットの中に収まるのを見届けるよりも早く、岳人は反動をつけて塀から離れた。
 シングルスの宍戸、樺地たちが黙々と準備練習をしているコートの前を足早に通り過ぎ、たどり着いた外との境界線を形作るフェンスに手をかける。
 その瞬間、空洞のひし形の向こうでがにっと笑った。

「練習試合、今日だったんだね。見にきちゃった」
「なんだよ、その冷やかし顔は。お前応援する気ゼロだろ」
「失礼な。ちゃんと応援しますよ」

 どこかで交わしたような会話だと思いながら、岳人も結局の笑みにつれられて口元を緩めた。
 かしゃん、と金網の揺れる音を楽しみながらフェンスにもたれる。入れば、と促す視線と指先を向ければ、フェンスの向こうでは首を横に振った。

「とりあえず様子を見に来ただけだから。まとあとで来るよ」
「あと?」
「今日の目的は、岳人の応援だけじゃないんで」

 ゆるりと頬を緩めたかと思えば、の細い指がコートの外を指す。まるで先ほどの忍足の時と同じようにその指す方向を見つめれば、晴れ渡った春の青空の下、コートの開放感とはほど遠い体育館が映った。
 ああ、と岳人は頷く代わりに小さく声を漏らす。そしてこの状況下、そちらの事実の方が重要であることに気づくにはさほど時間は必要としなかった。岳人は小さく息を吐く。

「魚崎ね。いいのかよ、こんなところで油売ってて」
「大丈夫、バスケ部は10時半からだから。それにまだ挨拶に行ってないしね」
「は? なんだそれ。お前、先にこっちに来たのか?」
「彰太は試合前は人と話さないからね。話すとしたら試合のあとって決まってるの。ご心配どうもね、岳人くん」
「別にお前らの心配をしたいわけじゃねえ」

 鼻で笑って返すと、は困ったように眉尻を下げて笑った。
 冷静になって思い返せば、が岳人のためだけに休日に学校にやってきたという記憶は数えるほどしかなかった。それは至極当然な出来事だと、岳人はすんなり納得して再び空を仰いだ。
 たわいない会話を試合前の時間と春の空気の中に流す。そして視界に薄い涙色の空の柔らかさを与えながら、岳人は両手をポケットの中に押し込んでふと考える。

(こいつでも、彼氏のために色んなことをするんだよな。女って分かんねえ)

 気づけば、の左手にあるのはいつもの学校の指定鞄ではなく、ペットボトルの入った紙袋。それが魚崎彰太への差し入れであることに気づくのは、さして難しいことではなかった。

「お前はそれなんだな」
「え?」
「差し入れ」

 突然の話の方向転換に、は一度目を丸くする。しかしすぐに岳人の視線の行き先に気づいてああ、と左手を軽く上げた。

「動き回っていつも汗だくなんだよね、試合の後。だからこれでいいかなーって。無難? だめ?」
「無難すぎて面白みがないんじゃねえ?」
「面白みなんて求めてません、なにそれ。御影さんは大変だねえ」
「なんでそこであいつの名前が出てくるんだよ」
「だって岳人に差し入れをもってくるのは、御影さんでしょ?」

 大袈裟なため息が零れる。わざとらしくその名前を出すをじろりと睨めば、簡単に気づかない素振りをされた。
 しかし、普段「歯に衣着せぬ」が定番になっているとの関係に、岳人は怒りではなくため息を返す。

「あーあー、そうですよ。あいつはできた女ですよ。お前なんかよりもずっと」
「うわ、嫌だ。のろけないでよ、こんなところで」
「お前に言われたくねえよ! 大体、お前はなあ」
「向日先輩!」

 その時。
 振り返った岳人の耳に最初に飛び込んできたのは、の買い言葉ではなかった。
 岳人とは目を丸くして、声が飛んできた方向を見つめる。会話の中に突然入り込んできたその声は、のものよりも少し高く、そして目に映ったのはよりも少し低い―――

「先輩、今日も見に来ちゃいました。応援しててもいいですか?」

 見上げる視線からの願いの言葉。片隅に映るのものとは色の異なる学年章が左胸に光る。2年生だった。
 の表情がわずかに強張る。2年生は気づいてはいなかったが、岳人にはその小さな変化が手に取るように分かった。視線こそは寄越さなかったが、表情の消えた横顔には動揺に似たようなものが見える気がしてならない。
 しまった、と心の中で舌打ちをして岳人は2年生にようやく視線を向けた。

「あー、うん。別にいいけど……」
「本当ですか? よかった! 頑張ってくださいね、応援してます!」

 自分が聞いてもけして優しさと直結したようには聞こえない言葉に、しかし後輩は見上げる瞳をみるみるうちに柔らかい曲線で描き、安堵の色に染める。笑った口元からのぞく小さな八重歯が幼い可愛らしさを強調した。
 岳人と言葉を交わせたことがよほど嬉しかったのだろう、相手は嬉しさを隠しきれないまま深く頭を下げた後、テニスコートの観客席へと向かっていった。
 後ろ姿が観客席の中に消えたことを確認して、岳人はため息をつく。先日に指摘された相手に、まさかこのようなタイミングで声をかけられるとは思ってもみなかった。詩歩がいないだけよかったのかもしれない、と青空に慰めの言葉を用意してもらっていると、がようやくその視線を岳人に向ける。
 また怒られるか、とフェンス越しに岳人が見つめると、しかしその顔には慎重な面持ちがあった。

「岳人」
「ん?」
「御影さんといる時には、あの子に見つからないようにした方がいいかもしれない。岳人が気をつけた方がいいと思う」

 少しだけ困惑、そして少しだけ苛立ち。判別の難しい表情で呟くに、岳人は眉をひそめてため息をついた。

「分かってるって、それは。同じことを2回も……」
「違う、私が思ってた以上だったから」
「……え?」

 その時、跡部の声が練習の終了を告げる。しかし岳人はフェンス際から離れず、言葉をためらうを真っ直ぐに見つめる。なんだ、と息を飲む。跡部が自分の名前を呼ぶ。その間に流れた沈黙の量は分からない。けれど。

「あの子、私ですらよく思ってない。そういう顔してた」

 前髪をさらりと風に揺らしながら遠く観客席を見つめて呟いたその言葉だけは、聞き逃さなかった。

「……んだよ、それ」
「私ですら嫌そうに見るんだもん、御影さんにどんな顔をするのか簡単に想像できるよ。だから」

 続きの言葉を、岳人はあえて尋ねなかった。沈黙の中に漂うの小さな圧迫に、ただ観客席を見つめるばかり。視界の片隅でため息が零れた。

「もてる人の彼女が大変だっていうことは知ってたけど、私の立場も駄目なんだね、あの子にとっては。難しいなあ……」

 呟いたの言葉は、静かに風の中に消える。
 自分への言葉というよりも自身への戒めのようにも聞こえるそれに、小さく違和感を覚えるもしかし岳人に返す言葉はなかった。





 試合に勝つことに難しさはない。むしろ勝たないことの方が難しい。一度テニスに集中してしまえば、聞きなれた声援も跡部の声も、鳳の見下ろす視線にも気づかない。
 樺地から無言で差し出されたタオルを乱暴に受け取り、岳人は浅くベンチに腰掛ける。両脚を伸ばして顎を上げ、無理やり開いた喉の奥に強引に清涼飲料水を流し込んだ。喉や胃が痛くなるほどの冷たさが心地よかった。

「岳人、最後のあれはあんまよくなかったで」
「あー、分かってる。悪い、体力きれた」

 頭上に輝く太陽に見られないように、タオルを顔の上にかぶせてから軽く左手を上げる。視界には映らなかったが、隣に腰掛けた忍足がひとつ息を吐いたのが分かった。
 身体は痺れを訴えていた。それが疲れからくるものなのか、興奮からくるものなのかは岳人自身にも判断しにくい。左手はとうの昔にラケットを手離してはいたものの、その指先から生まれる熱が引くことを知らないために身体のどこもかしこも高揚と離れられずにいる。
 しかし、それが苦痛ではない。
 まだ融通のきく右手でふわりとタオルを取り、目を細めて太陽を見つめる。滑るようにこめかみの横を流れ落ちていった汗を、まるで冷ますかのように心地よい風が流れていった。

「それにしても、今日は力入っとったやないか。どないしたん、岳人」
「え? あー、別に」
「嘘はあかんで」
「嘘じゃねえって」

 コートでは樺地のシングルスが始まっている。普段大人しい樺地が声を荒げてプレイするこの瞬間は、観客席の視線が樺地ひとりに集中してしまって先ほどの勝者への称賛の空気は簡単に消えてなくなる。
 しかしその解放感が、心地よさを増幅させる。それに促されるかのように岳人は観客席に視線を向けた。

「ああ、なるほど。そういうわけか」

 忍足の声がわざとらしく響いた時、岳人の視界の中には嬉しそうに笑顔を向ける詩歩の姿があった。
 別に忍足の言葉に促されたわけではなかったが、運悪く同じタイミングで岳人は左手を詩歩に向かって上げてしまった。なにもかもを見透かしたかのような顔のこの相方を睨むもあとの祭り。試合を見つめている後輩の鳳をその話題でからかうのもすべて自分の手の届かないところで行われ、この男に逆らう術はないことを今日この時にまで実感させられる。

「人のことをネタにする前に、自分の生き方でも正せっての」
「失礼な、十分真っ当な生き方やで」
「あーそうですか、聞き飽きたぜその台詞」

 首にかけていたタオルをばさりと忍足に投げつけ、岳人はベンチを立つ。相変わらず周囲の視界はコート上に集中しており、小柄な岳人が立ち歩いたとしても誰も気に留めない。ただひとり鳳がこちらに視線を向けたが、身長と体力以外でこの後輩に負けることは癪だ。岳人はその視線を無視して観客席側に近づく。
 呼ばずとも、意思を見せなくとも。仕切り塀を隔てて、すぐ傍に詩歩の姿が現れるまでそう時間はかからなかった。

「おめでとう! よかった、勝ってくれて」
「なんだよそれ、俺が負けるっての?」
「そうは思ってないけど。でもやっぱり嬉しいじゃない、勝ってくれると」

 そう言うと詩歩は再び嬉しさをこらえきれないように笑う。あの時がすごかった、その時は手のひらが熱くなったと語る口は当分止まる様子がない。岳人は絶えず生まれる自分への称賛の言葉を気恥ずかしさに負けて傲慢な態度で受け取りながら、今日何度目となるだろう空を仰ぐ。心地よさは比べ物にならなかった。

「……でも、私だけが喜んでるんじゃないんだろうなあ、きっと」

 しかし心地よさは、詩歩の言葉によって突然その姿を消した。
 岳人は顔だけ振り返り、ためらいの素振りを見せる詩歩を見つめる。

「なにそれ」
「……試合の前、話してたよね? ……さんと」

 返された窺う視線と、その言葉と。それを受け取った瞬間、先日の鳳が脳裏によぎったのはなんという偶然だろう。
 岳人は一瞬息を飲む。なぜ自分がその反応をするのかは分からなかったが、それ以上に詩歩の言葉の意味が分からない。

「友達だろ。話してなにがまずいんだよ」
「ううん、ちょっと」

 詩歩はそう言って曖昧に会話を終わらせようとしたが、しかし。

「私には真似できない雰囲気があるから、いつも。少し妬けちゃうんだよね」

 わずかに視線を落として呟いた言葉は、風に運ばれてコートの上に消える。
 ごめんね、と付け足されたその真意を岳人は尋ねることはしなかった。視線をコートへと戻し、歴然の差のもとで繰り広げられる展開の読める試合を見つめながら、いつもであればつまらないと一蹴するそれを見つめることで沈黙を埋める。頭の中にはただひとつの言葉だけが巡っていた。

(鳳だけじゃなくて、お前までそういうこと言うのかよ。なんだ、それ)

 怒りというよりは、驚きと。辟易というよりは、小さな困惑と。
 それらの思いとともにコートを見つめる岳人は、行き場をなくしてしまったひとつのものを心の中に抱いて小さくため息をつく。

『御影さんといる時には、あの子に見つからないようにした方がいいかもしれない。岳人が気をつけた方がいいと思う』

 重く呟いたの言葉ばかりが巡る。
 どこかからみあわない様々な視線の方向の意味を、その時の岳人はどのように解すればいいのか、ましてやどのようにしたいとも思っていなかった。
 ただ、ひたすら。の言葉をどこに向けるのが正しいのかが分からなくなっていた。



>>05.不意と真実


06/10/01