03.小さな異変

 部活が終わる頃、決まって目にするものがあった。

「岳人、携帯鳴ってんで」
「あ、悪い」

 それはテニスコートに煌々と降り注ぐ夜間ライトでも、その人工灯に群れる虫の姿でもない。ましてやコートを、そして部室を占領する部員の疲れきった顔でもない。
 岳人は雑にユニフォームを脱ぎきり、中途半端に開けたロッカーの扉に掛けて鞄の中に手を伸ばす。上半身裸のまま鈍い振動音を頼りにそれを探し当てれば、久しぶりに持ち帰る教科書とノートの隙間からメールの着信を告げる赤い光が目に入った。

『部活お疲れ様!気をつけて帰ってね。』

 左手でボタンを操作しながら、そして右手で清涼飲料水のペットボトルを口元へと運びながら。さして珍しくもなくなったその文字を確認して、岳人は返信をすることなく携帯電話を閉じた。

「なんや、また御影からか」

 隣で着替えていた忍足がからかいを含んだ言葉で尋ねる。

「あー、まあ。そんなところ」
「お熱いことで」
「うっせえ」

 しかしそんな忍足に岳人は視線を向けることもなく、ただ右足で軽くその長い足を蹴った。わざとらしく忍足が非難の声を上げるが、岳人をはじめ誰一人その声を相手にする者はいなかった。
 忍足は大げさにため息をひとつ零し、その狙いを他の同級生に向ける。

「宍戸、見たか」
「は? なにが」
「向日くんが俺より彼女を選びよった。宍戸も見習わなあかんで」

 その言葉に忍足の右横でペットボトルに口をつけていた宍戸が吹き出す。ふざけた言葉に宍戸が怒りを返すよりも早く、岳人はもう一度忍足の足に蹴りを与えた。利き脚ではないのが非常に残念だった。

「お前ら、随分と余裕じゃねえか。今日の練習は一体どういう了見で手抜きをしていたのか説明しやがれ」
「なに言うとんねん跡部、岳人がひとりで暴れとるだけやないか」
「はっ?! 俺のせいにするんじゃねえよ!」
「どう考えてもお前のせいやないか」
「バカじゃねえのお前!」

 跡部の冷めた視線に忍足を睨むが、しかし自分よりも頭ひとつ分高い忍足を睨み上げてもさほどの効果は期待できないのが実情。部室が笑い声に包まれる中、今日も今日とて理不尽すぎるこの体格差を恨めしく思うものの、岳人はそれ以上の文句を口にはしなかった。
 これ以上なにかを言えば、幾分か機嫌の悪い跡部の格好の標的になることが簡単に見てとれる。
 別に跡部を恐れているわけではないが、自分から進んで火の粉を浴びたいとは思わない。その馴染んだ感覚に今更疑問を抱く理由はない。

「なんや、方向転換か? 岳人」

 そんな岳人の態度を異変と感じ取ったのか、カッターシャツのボタンを留めながら忍足が笑って尋ねた。岳人は簡単に首を振る。

「ちげーよ、疲れてんの。お前の冗談に付き合うのに」
「そらお前、しゃあないやろ。俺は常に会話に笑いと活きを求める男や」
「生憎とこことは東京都だ。残念だったな」
「東京が関西に馴染むのも悪いとは思わへんで」
「うぜえ、本気でうぜえ。ていうか侑士が東京に馴染めば話は簡単だろ、なんで俺たちがお前に従わなきゃ駄目なんだよ」
「岳人、男のプライドっちゅーもんはそう簡単に捨てたらあかん」
「はいはい、そうですね」

 そう言って簡単に忍足をあしらう。それもいつもの感覚だった。
 どこか優しくすら思う日常の時間の中に浸かりながら帰る準備を進める。しかしあとは帰るだけとなってしまえば、ネクタイを結ぶのもどこか億劫だ。岳人は襟元を緩めてネクタイを適当に結んでから、ペットボトルを鞄の中に放り込む。代わりに携帯電話を取り出して、そしてたたむことも適当にユニフォームをまとめた後、ようやくもう一度画面に目を落とした。

(やっぱ女子はまめだよな、こういうの)

 扉を閉めたロッカーにずるずるともたれかかり、しまいにはしゃがんだ。忍足の帰り支度が終わりそうにないことを横目で確認すると、その姿勢のまま岳人は返信を始める。慣れた文言を打つのにそう時間は必要としなかった。

『疲れたー。今から帰るわ』

 弱いというよりは柔らかい光を伴って画面がメール送信へと切り替わる。岳人は迷うことなく電源ボタンを押し、待機画面に戻ったことを確認するよりも前に画面を閉じてひょいと立ち上がった。
 その様子を見ていたのだろう、その時忍足が苦笑とともに呟いた。

「まあ、そんなもんがなくても彼氏彼女は成立するとは思うけどな」

 ロッカーが閉じる音につられて岳人は顔を上げる。やんわりとした笑みを浮かべている忍足のその言葉の意味はよく分からなかったが、しかしなんとなくからかわれていることだけは感じ取れる。
 岳人はしばし沈黙してその視線を甘んじて受けたものの、結局。

「あっても壊れるわけじゃないだろ?」

 ため息まじりにそう返せば、忍足は眼鏡の奥の細目を一瞬丸くし、幾度か瞬いた後に再び苦笑してみせた。

「どないしたん岳人、えらい賢いやないか今日は」
「『今日は』ってなんだよ、『今日は』って」
「褒め言葉や、素直に受け取っとき」
「侑士が人を褒めるっていうのはな、鼻で笑ってる時なんだよ」

 そんなたわいもない会話に時間を費やしていたその時、ぽつりと忍足が「所詮は本人同士の気持ち次第やからな」と、まるで人事のように呟いた。
 ますます意味が分からなくて、岳人はそれ以上の追及をすることもなく部室を後にした。
 ポケットの中にしまった携帯電話はおそらく詩歩からであろうメールの受信を告げていたが、なんとなく読むのも億劫で岳人はそのまま忍足と話しながら帰路についた。





 御影詩歩は、隣のクラスの女子だった。
 ただ、隣のクラスというだけではこの氷帝学園では赤の他人も等しい。1学年10クラス以上を抱える巨大校ともなれば、普通は簡単にその顔と名前を一致させることはできない。幼稚舎からの知り合いであればともかく、中等部より編入してきた他校出身の同級生に対して「同級生」以上の認識を築くには、それ相応の努力かもしくは時間が必要だ。

「岳人」

 その中でも、詩歩は典型的な幼稚舎からの推薦進学タイプだった。
 自分の名前を呼ぶ声に、紙パックのストローに口をつけたまま岳人は顔をあげる。交友棟の1階に設置されたサロンで今日の練習メニュー表を見ていたところであり、まさかこのタイミングでその声を聞くとは思ってもいなかった。
 サロンには4つのチェアで1組のテーブルが多数備え付けられている。今岳人が使用しているテーブルの向こう、向かい側のチェアの背もたれに手をかけて、詩歩はわずかに首を傾けて岳人を見つめていた。

「どうしたの? こんなところで」

 その手には自販機で購入したのだろう紅茶の紙パックがある。少し視線を後方にずらせば、見覚えのある詩歩のクラスの女子たち。どうやら長い昼休みの使い方が同じになってしまったようだった。
 残り少なくなったオレンジを飲みながら、岳人は無言でメニュー表を見せる。

「ああ……そっか、大会前だもんね。お疲れ様」

 詩歩は跡部の字で書かれたそれを一瞥しただけで意味を理解し、深く頷いた。
 南向きに設計されたサロンは、常にその時々の陽光を室内に運び込む。全面ガラス張りになっていることもあって、たとえ1階にあっても今の時期であれば夕方まで室内灯は必要としない。今もその証拠に詩歩の黒髪の中に天然の光が艶となって表れていた。

「ねえ、ちょっとここに座ってもいい?」
「え?」
「なんか、久しぶりだし。こうして岳人と話せるの」

 のんびりとそんなことを考えていた岳人に、詩歩は予想外な言葉をぶつけてきた。友達は、と尋ねる前にその細くて小さな指がクラスメイトたちに「先に行ってて」と合図し、彼女たちもそれを笑顔(というよりはむしろ好奇の色丸出しではあったが)で了承する。紙パック片手に岳人はただその成り行きを見守るしかなかった。

「いいの? あいつら。一緒に飲み物買いにきたんじゃねえの?」
「ああ、うん。もう買ったし。あとは教室に戻るだけだったから、大丈夫だよ」
「あ、そう」

 うん、ともう一度頷いて、詩歩は紙パックにストローを差す。向かい合って座るのは久しぶりで、どことなく新鮮ですらあった。
 詩歩と付き合い始めて、まだ3ヶ月も経っていなかった。
 忍足にすら疑われたが、きっかけは詩歩からの告白だった。去年一緒のクラスとなり、そのクラスとの別れを意識しなければならない3学期にそれは突然やってきた。当時でこそ岳人自身もなにかの間違いではないかと尋ね返すほどだったが、詩歩の想いの強さはその言葉そのものを聞かされた岳人が一番分かった。
 そして、今年。3年に進級しクラスが離れた今となっても、詩歩との関係はまだ続いている。岳人はこの関係に馴染んだ自分がいることを否定するつもりはなかった。

「今年はどう? 全国大会いけそう?」

 そんな岳人の回想の気分など露とも知らず、詩歩は笑みを浮かべながら尋ねる。
 なぜいつもこんなに嬉しそうなのだろう、と思いながら岳人は相槌を打ち、頬杖をついた。

「いけない方がおかしいだろ、今年も。ただあとはオーダーだよなー、俺はダブルス専門みたいなもんだから別に関係ないと言えば関係ないんだけど。ダブルスは俺のために空けとけっていう感じで」
「でも、忍足くんがシングルスにまわるってことも考えられるよね。その場合岳人は一体誰とダブルスができるの?」
「……」
「……あれ。候補になかった? 岳人の中では」
「ねえよ、そんなもん。侑士だって俺以外と組むこと嫌がるはずだ、絶対。うん、絶対」
「そうかなあ? 忍足くんは協調性があるもん、分からないよ。シングルスもできるしどんな人とでも要領よくテニスができそうだし」
「……御影、お前一体誰の応援してるんだよ」
「もちろん、岳人だよ?」
「嘘つけ! 侑士に協調性があるって言うことぐらい嘘っぽいんだよ、それは!」
「あはは、ごめん」

 岳人の反応に、詩歩は小さな声をあげて笑う。女子特有の線の柔らかさが目につく。派手ではない、けれどどこか存在感のあるその笑い方を前にすると、岳人はいつもそれ以上の言葉を口にすることができなかった。
 眠気が襲う、穏やかな午後。そしてどこか落ち着く空気。
 それがあるだけで、なにか満たされた気分になる自分はどこかおかしいと、岳人は分かってはいたがいつもそれ以上の詮索をしなかった。詩歩は一緒にいて違和感がない、それを感じるのが他でもない自分自身だからこそ、岳人はそれ以上なにを思うわけでもなかった。

「あ、そうだ。岳人」

 残りのジュースを飲み干そうとしている時、詩歩がふと会話の流れを変えた。岳人はストローを口にしたまま顔を詩歩へと向ける。

「ねえ、土曜って空いてる?」
「土曜?」
「うん、そう。今週のじゃなくて、来週の」

 左手で回していたボールペンを止めて、岳人は頭の中で今週の予定を思い出す。
 氷帝学園男子テニス部は基本的には土日も練習があり、大会前となればオフとされる水曜日もテニスコートに立つ日が多い。ましてや大会前の今、オフなどというものは基本的にはありえない。
 それを裏付けるかのように、最近の岳人の記憶の中に登場するあの憎き生徒会長兼部長の跡部の口は、オフという言葉を発していなかった。

「土曜は練習だろ、普通に。休みとか全然言ってなかったし、跡部」
「……あ」

 うろ覚えなその記憶を口にした瞬間、詩歩の顔から笑みが消えた。テーブルの上で腕を組んで、少しだけ前のめりになっていた姿勢が弱々しく椅子の背もたれに近づく。
 途端言葉をなくした詩歩に、岳人は目を丸くしてその様子を見つめた。

「……なんか、あった? 俺なにか約束してたっけ?」

 あまりにも分かりやすい詩歩の落胆ぶりにそう問いかけると、しかし詩歩は慌てて首を横に振った。

「ううん、違う。……正確には今から誘おうと思ってたっていう方が正しいのかな」
「え?」
「……映画。見に行きたいな、って思って」

 そっと、その言葉の反応をうかがうかのような視線が向けられる。
 岳人はその視線の意味を咄嗟に判断して、しばらく黙ったものの、やがて頷いた。

「いいよ、部活終わった後なら」
「……え?」
「土曜は基本的に午前中だからな、部活。遅くなっても3時だろ。それぐらいでもいいか?」
「う、うん。全然!」

 詩歩が嬉しそうにはにかむと、見計らったかのように予鈴のチャイムが鳴り響く。約束ね、と一言言い残して詩歩は慌てて席を立ち、教室へと戻っていった。その日は5時間目が移動教室であったらしく、一緒に教室に帰れなかったのが残念だったと。後に聞いた時、残念そうに詩歩は笑ってそう言ったけれども。
 けれども、その場に残っていない方がよかったのかもしれないと。そう思うのは偽善か。

(あれ)

 その時、岳人はふと自分の視界の中に見慣れた人物の横顔を見つける。
 その顔がこちらを向いていなくとも、その服が周囲の人間と同じ氷帝の制服であったとしてもすぐに分かる。それは自分にとってはあまり好ましくない長身をもつ、1歳年下の後輩の姿だった。

「なにしてんだ、鳳」
「え? あ!」

 徐々に交友棟から出て行く人の流れが形成されつつあった中、ひとり迷子になったかのようにその出口を見つめていた鳳は、岳人に自分の名前を呼ばれて慌てて振り返る。右手にプリントがあったことから、彼もまた自分と同じ時間の過ごし方をしていたことは容易に想像ができる。
 しかし鳳は、どこか落ち着かない雰囲気を隠せなかった。困惑と驚きの色をない交ぜにしたような表情を浮かべながら、岳人の顔を見たかと思えば交友棟の出口も相変わらず気にする。その理由の分からない態度に岳人はもう一度鳳の名前を呼ぶ。後輩の反射神経か、2度目の呼び声に鳳は慌てて岳人のテーブルのもとへと駆け寄った。

「なにしてんだよ、お前。なんか変なもんでもあったのか?」
「いや、そういうわけでは……」
「なんで。お前今、ずっと向こう向いてたじゃん」

 大きな身体の鳳の向こうは、もはや座ったままで確認できる場所ではない。ストローを口につけたまま岳人は立ち上がり、人の背中が流れていく出口を見つめた。しかしそこに面白い光景などなにもない。

「いや……その。俺の思っていたこととは違うことが、今あったんで」

 そんな岳人を申し訳なさそうに見下ろしながら、鳳は小さく呟く。言葉で聞かされても結局意味の分からないその言動に、岳人は眉根を寄せて彼を見上げた。

「は? なんだそれ。もっとはっきり言えって、意味分かんねえ」
「ですから、その」
「なんだよ」
「向日さんの彼女があの人だとは思っていなかったんで、ちょっと驚いて」

 本当ならば、言葉にすべきことはたくさんあった。いつの間に見ていた、いつから話を聞いていた、どうしてお前からそんな質問をされなくちゃならない。
 素直なのか鈍感なのか、それとも演出という言葉を用いるのが適切なのか。よく分からない後輩ではあるものの、そんな彼に生きた年数の違いだけで横暴になれる岳人には、それらの言葉をいつ、どの程度でも発してもよかったはずだったのだが。

「俺、あの人だと思ってたんです。ほら、去年の球技大会の時に向日さんと一緒に怒られてた、あの……コンビニの、ほら」

 戸惑いながらも驚きに負けた声が素直に言葉を発していく、その様子を岳人は止められなかった。

「……?」
「あ、そうです。向日さんはあの先輩と付き合ってるって、クラスの女子も言ってたし。俺もそう思ってたんです、けど……」

 言葉は最後、驚きからようやく戸惑いに主役を譲る。
 鳳のしまった、というような沈黙と表情に、岳人は気づかないふりをした。チャイムが鳴る。ただ無言で鳳の背中を叩き、教室に行けと促して空の紙パックを自動販売機横のごみ入れに投げ捨てる。

「あいつは友達だっての。なんであいつと俺が付き合わなきゃなんねえんだよ」

 鳳の戸惑いを打ち消すかのように淡々と呟いた言葉とは裏腹に、紙パックは岳人のコントロール力を無視して空しく床に転がり落ちた。



>>04.フェンス越し


06/09/20