02.春が認める

 食堂というのは混雑すべき場所で、それを疑ったことはない。
 ただ、その空間の中にひとりで投げ出されるというのはやはり少しばかり落ち着かない。自分が最上級生だったからよかったものの、1年生の頃にこんな荒業はできなかっただろう。そんなことを思いながらは昼食の箸を進める。
 食堂の中には、様々な光景があった。
 左斜め前、明らかに1年生と分かる女子の集団が歓声とともにおしゃべりに花を咲かせ、通路を挟んだ向こう側では有名なテニス部の2年生が他の部員と練習の仕方について熱く討論。四方八方から飛んでくる声が重なりすぎて言葉のひとつひとつはまったく意味が分からなかったが、とにかく食堂という場所はこの氷帝学園中等部に通う人間を、それぞれの雰囲気を壊すことなく受け入れる場所だということを改めて痛感させた。

「暇人」

 その時、突然はっきりとした意味を伴った言葉がの耳に飛び込んできた。
 それは今まさに心の中で呟こうと思った言葉そのもので、は箸をくわえたまま目を丸くして前方を見つめる。
 そこに現れたのは、つい数分前まで慌てて昼食を口に運んでいた親友の姿ではなく。

「めちゃくちゃつまらなそうな顔してんぞ、お前。余計不細工にみえる」

 中庭に接したガラス張りの向こうから訪れる陽光が、穏やかに注ぐ。照らされた髪はさらりと揺れるその中に艶を見せる。
 女子でも羨ましがるほどの滑らかさをもったその髪が、戸惑いなく右に傾くのを見つけた時、その人物は右下からの顔を覗き込んでいた。

?」
「あ、うんごめん。なに?」
「……お前、人の話聞いてなかっただろ。だから不細工……」
「うるさい、一言余計。あ、ちょっと。人のもの勝手に食べないでよ!」
「うわ、いって! なんだよお前、トマトひとつぐらいでケチケチすんな。女は心広くいけ」
「男は紳士的にいかないともてないよ、岳人」
「……」
「睨むぐらいならトマト返して」

 そう言ってが左手のひらを見せた時、相手は不満げに眉根を寄せながらも渋々と自分の箸でつまんでいたトマトをの皿に戻した。
 相変わらずだ、と視界に映すようになって久しいその相手を見ては思う。その感覚は喜怒哀楽のどれに属するものかはには分からなかったが、少なくとも嫌悪感の類ではない。
 それとも、彼本人が人にそう思わせることがうまいのか。

「なんだよ」

 そんな今更な疑問を抱くの視線に気づいて、自分の昼食である天ぷらうどんを口にしていた岳人は訝しげな視線を向けた。
 は首を振る。「ううん」と一言言えばそれだけで問題はない、「は?」との言動の不可解さに再び眉根を寄せつつも、それ以上の追及の道を岳人は選ばなかった。
 食堂は、相変わらず混雑と喧騒の色に包まれている。けれどそこに違和感はない。誰もが氷帝の制服に身を包んでしまっている以上、誰とどのような会話をしていようが不思議な目で見られることはない。そもそもこの全校生徒1600名を超える巨大校において、他者の行動に逐一目を光らせる人間もいない。
 そんな雰囲気だからこそ、自分と岳人の関係は成り立つのだろうと。驕りも謙遜も関係なく、は素直にそう思った。

「岳人、ひとり? 友達は?」

 目の前でうどんを食べ続ける岳人にそっと尋ねる。理想の味に遠かったのか、岳人は軽く返事をしつつも一度つまらなさそうな顔をしてからテーブルに備え付けてあった七味唐辛子に手を伸ばす。そして片手でふたを器用に回しながら再び口を開いた。

「あー、俺さっきまで委員会だったんだよな。で、今からようやくメシ。それでここに来てみたらお前がいたってわけ。ていうかお前の方こそひとりだろ」
「私? 私も委員会。ああ、桃子がね。さっきちょうど出て行ったところ」

 ああ、と納得して岳人はそのまま箸を進める。氷帝学園は何事においても生徒主体の行動を誉れとしており、委員会というひとつの言葉だけでもおおよその意味が通じる。
 そんな行きづまることのない、淀むことを知らない会話。それは素直に心地よいと思えるもの。も残りのサラダに箸を伸ばしながら会話を続けた。

「ねえ、委員会の集まりってなんだったの?」
「あ? ああ。来月球技大会があるだろ、あれの打ち合わせ」
「ふうん。大変だね、テニス部の大会も近いのに」
「だろ? ていうか跡部のヤローがさ、俺がいるのをいいことに雑用を全部押し付けるもんだから! あいつ、テニス部員は全員自分の僕だと思ってやがる絶対」

 部長に対する怒りの勢いは、語調だけではなくその利き手にも飛び火した。
 かけすぎだよ、と一言声をかけるよりも先に真っ赤になってしまった丼内。怒りにまかせて振りかけてしまった七味唐辛子に岳人が自分で嫌そうな顔をする。計画性がないのはいつものことだったが、さすがに何事においてもこのように振る舞われると手をかけずにはおられない。はため息ひとつと交換に箸を置く。

「はい。これ使ってないから」
「なんだよ、これ」
「スープ、少しすくいなよ。そんなに辛くしちゃうと身体に悪いし」
「あー。サンキュ」

 サラダを盛り分けるための小皿を差し出すと、岳人は素直に礼を言って器用に唐辛子のかたまりをすくい始めた。率直な性格ゆえに思ったことを口にしてしまうものの、そんな性格だからこそ人の言うことも聞く。相変わらずだ、と再び思うと思わず苦笑が零れた。

「岳人、3年生になったらもう少し落ち着くかと思ってたのに。全然変わらないね」

 左手で頬杖をつきながらからかうように呟く。その言葉に岳人がむっとして顔をあげた。利き手の左手にはいまだスープを取り分けるための小皿を持ったままという、少しばかり情けない格好ではあったが。

「なにが」
「だって。なんだか去年と全然変わってないんだもん、雰囲気とか」
「そりゃお前、1ヶ月ぐらいで変わったらむしろ変だろ、変。俺は侑士じゃねえ」
「忍足くん? なにその例え」
「あいつの女の趣味は1ヶ月おきに変わる。もうどれが本当なのか俺にも分かんねえ」
「……それは、岳人がいいようにあしらわれてるだけなんじゃないの……?」
「バカ言え、なんで俺があしらわれるんだよ。あいつ結構友達少ないぞ」

 そんな受け答えの仕方すら去年と変わっていないと言えば、おそらく今以上の反論が待っている。それはそれで面白そうでもあったが、は苦笑をするまでに留めて今一度箸を握りなおした。
 向日岳人とは、1年生の1年間のみ同じクラスだった。
 1学年10クラス以上を誇るこの氷帝学園において、まず同じクラスになること自体が願って叶うものではない。その中でも出身小学校の異なる、さらには性別まで異なるお互いがこのように違和感なく話をすることができる関係でいられることは、まさにこの学園のもつ雰囲気のおかげであるのが嬉しい矛盾でもある。
 3年生となった今年もクラスは離れてしまっていたが、それでもこうしてクラス、性別の垣根なく話ができる親友は少なくともにとっては岳人だけであったし、顔の広い岳人もそう多いわけではなかった。
 はいつしか苦笑を柔らかい笑みへと変える。温かくなる気持ちに促されるがままに。

「岳人」
「ん?」
「私、聞いちゃった」
「なにを」

 ようやく普通の色に戻ったスープを飲みながら(それでも味までもが完璧なわけではなく、蓮華ですくいながら何度かしかめ面をしてみせたが)、岳人が視線をちらりとに向ける。もとより男子にしては大きめの、それでも鋭さをともなった特徴的なその双眸のもつ力に一瞬身体が硬直するような感覚になるのはいつものこと。
 だがそれも慣れたもの。は心持ち前のめりになって口元に左手を添え、岳人が自然と向けた彼の右耳に囁く。

「岳人が2年の女子に言い寄られてるっていうこと」
「!」

 大きな瞳が一瞬で見開かれる。呆然という色があればまさにこのことか、と思える空気を見事なまでに一瞬でまとった岳人に、は思わず笑い出した。タイミングよくむせ返る声が飛んだことも拍車となって。

「やだ、岳人。反応よすぎ」
「ばっ……! お前、なんで知ってんだよ!」
「え? 噂。噂になってるんだもん」
「どこから!」
「そんなの私が発生源じゃない限り知らないじゃない」
「なんだよそれ、うっわ……。あーもう、絶対あいつらだ! 最悪だ!」

 そう小さく断言すると、岳人は苛立ちもそのままに文句を繰り返す。まるで言い訳のようだ、と思えるようなその態度には笑いが止まらなかったが、これ以上目の前の親友の不機嫌さを増す利点は今のところない。とりあえずは彼の混乱ぶりにこの場を任せよう、と箸を進める。
 向日岳人は、かつてクラスメイトで、話があって、今でもこうして理由を問わない会話をすることができる相手で、男子。
 それは一般的に言えば存外珍しいと呼ばれる類のもの。けれどその珍しさが妙な嬉しさを呼ぶ。男女の間に友情は成立しないと誰かが言った記憶もあったが、結局それも一般論の域を超えるものではないのだろうと思えてくる。なにより自分自身で今その理論を打破している実証を作り上げているのである、否定してはいけない理由がどこにもない。
 気が重いと思っていたひとりきりの昼食は、しかし目の前の親友のおかげで随分と楽しい時間にすることができている。それこそ事実だと、は嬉しく思いながら

「気をつけなよ。御影(みかげ)さんが可哀想だよ」

 その名前を口にした。
 その言葉に岳人は一瞬黙り込み、乱雑に頭をかく。

「あー……、気をつけてたつもりだったんだけどな。しまったな」

 それは食堂の騒がしさの中では簡単に掻き消えてしまうほどの大きさではあったけれど、それでもが聞き届けるには十分なもの。
 岳人は頬杖をついて視線を外へとずらし、小さくため息をついた。

「コートによく来るんだよな、その子が。追い返すってのも変だし、まあ話しかけられたら話しはするけど……でも時々だけだぞ?」
「そっか。でも噂が悪くなっていったら怖いしね、気をつけた方がいいかも」
「そうだな」

 岳人はもう一度ため息を零すが、同時に軽く頷いた。その様子を見ても安堵する。
 その名前は実生活に必要不可欠なものではない。しかし知らないわけにはいかない。

「岳人?」

 なぜなら、この場にいる限り。その名を宿すものとは無縁ではいられないからだ。
 背後から飛んできた柔らかい声に、岳人は振り返りも視線を向ける。そこには、数人の女子とともに食堂のトレイをもってこちらを見つめているひとりの女子の姿があった。
 背はやや低め、けれどその低さと声の柔らかさがあいまって自然に可愛らしさを演出することができている。少なくとも岳人と同じ身長のにはない可愛らしさがそこにある。
 そんなことを思いながら、は軽く頭を下げる。自然相手も会釈を見せた。

「なんだ、お前も今日こっちだったのか?」

 その間を、岳人の声が繋ぐ。
 顔の向きは既にそちらに向いていた。は岳人の横顔を見て、そしてその声を聞いてこの場の空気が一瞬にして岳人とその女子、御影詩歩(しほ)に流れていることを知る。知らないわけにはいかない、その名前だった。
 は食堂中央の柱にかけられた時計を見て予鈴まであと10分もないことを確認し、残っていた水を喉に流す。このざわめきの中、目の前のふたりの会話を耳にしながらひとつのことを考えていた。

「岳人、今日も8時まで練習?」
「多分な。あ、だから今日も帰るの無理だから」
「うん、分かった。怪我には気をつけて。日曜日の試合は応援しにいくからね」
「あ、来んの? あー、分かった。じゃあ差し入れ頼んでいい?」
「大丈夫、持っていく気満々だから」

 食堂の中にすんなりと馴染む、その会話。の言葉はひとつとして必要とせずとも成り立つその空気。他人事のようにその事実を目の前に見つめて、はなるべく詩歩の視界に入らないようにする。コップの中の水は既に空となっていた。
 手持ち無沙汰に気づいたその時、携帯電話が鳴った。
 スカートの内ポケットが震えてマナーモードの中で着信を伝えてくる。岳人の視線がこちらに向いていないことを確認して、は無言のうちに折りたたみ式の画面を開く。するとそこには見慣れたひとりの人物の名前があった。
 今日は火曜日か。次の時間は数学か。
 わずかに首を傾いで思いを巡らせながら、は通話ボタンを押した。

「もしもし」
『あ、俺』

 岳人を見つめて頬を綻ばせる詩歩が視界の片隅に映る。
 なぜこの子はこんなにも幸せそうに笑えるのだろう、と。そんなことをふと思いながらは口を開いた。

「うん、分かってる。なに、どうかした? 忘れ物?」
『あー……もしかして俺先週も同じことしてた?』
「うん。数学の教科書でしょ。違う?」
『悪い、当たり。机の上に出しっぱなしで忘れてきちゃって。借りてもいいか?』
「いいよ。どうしよう、今から教室に持っていった方がいい?」
『いや、俺がいくよ。今どこ? 教室?』
「ううん、食堂」
『食堂?』

 その時、突然電話が途切れた。
 いきなり訪れた色気のない機械音に、は携帯電話を耳から離して目を丸くする。画面表示に残されたのは46秒という通話時間ばかりで、自分の耳が間違ってはいないことだけは確認できてもこの先の展開の見当はつかない。は困惑に負けて眉根を寄せる。
 彼は、岳人ほどの慌て癖のある人物ではなかったはずだったのに。そんなことを思いながら諦めて通話ボタンを今一度押し、電話を終了させた時。



 その声に先に反応したのはではなく、岳人だった。
 横顔を向けていた岳人の視線が、引き寄せられるかのようにこちらに戻ってくる。その様子と、そして自分の耳が確認した声とを合わせても振り返る。
 そこには、教室に戻ろうとする生徒の大波の中、長身の男子の姿があった。

「あれ……もしかして、食堂にいた?」
「おう。後輩と今日の練習メニュー考えてたからな」

 岳人とは正反対とも言えるほどの黒髪が初夏の風に流れる。細目の彼には妙にそれが似合っていて、その様子を見るだけでも自分の心が落ち着くことをは知っている。
 その時、ふと彼の目がを通り越した。誰に向けられているのか、とが振り返るよりも早く、その目が一瞬驚いたあとに軽く右手が上がった。それが挨拶の意味だと気づき、振り返った瞬間に岳人が少し場に困りながら頭を軽く下げる。
 ほとんど会話をしない関係でありながら、同級生という共通項と、そしてを通して繋がる人間関係のもとで繰り広げられる挨拶。しかしどこか持て余しているような観が否めなくもない。

「彰太(しょうた)」

 そんな単純明快な岳人の態度に苦笑しながら、はトレイの上を片付けて横に立つ同級生、魚崎(うおざき)彰太に声をかける。彰太の視線は迷うことなくのもとに戻ってきた。

「今から教室にこれる? そのまま渡すよ、教科書」
「あ、うん。助かる」
「食器は? もう片付けた?」
「ああ、後輩が持っていってくれた。貸せよ、それ」
「え? いいよ、私のだし」
「教科書借りるお礼に」
「軽いお礼だなあ」

 呆れながらも、は彰太の手がひょいと軽くトレイを持つ様子を見つめて苦笑する。彰太がそれを持つと自分の手元にある時よりも随分と小さく、軽く見えてしまうのは今でも変わらない。
 クラスメイトの関係の時も、そして今、恋人となった関係の時も。
 そんな彰太の視線に促され、は席を立つ。

「じゃあね、岳人」
「おう」

 お互いに軽く、異なる利き手で挨拶を。
 は岳人と詩歩を残し、彰太の隣に並んで食堂の出口へと向かう。もう視界の中に岳人はいない、岳人を見て嬉しそうに笑う詩歩もいない。ただ彰太の姿ばかりが大きく映る。
 それは3年生に進級してすぐのこと。すべてを受け入れる食堂の中、この学園の中で迎えた3度目の春の出来事だった。



>>03.小さな異変


06/09/17