| 風の旋律 04 |
「僕のことなんか、絶対知らないし興味もないと思っていた」 咄嗟に口に出た、綺麗さの欠片もない言葉に不二が丁寧な反応を返す。その柔らかい笑い方を今まで見たことなどなくて、は今ようやくこの空気が選ばれたものであることを実感する。 そんなことあるはずがない、むしろ私の方が知られていないと思っていたと。伝えたいことは山ほどあったが、浮かされた熱は思考回路も蝕む。ふるふると首を横に振るばかりの単調な動作を繰り返すばかり。情けない、そう思うことでようやく口だけが自由になる。 「不二くんが思っているよりも、もっとずっと。私は不二くんを知っているし、見ていたよ」 その言葉には意味があった。一瞬や一言などでは到底言い表すことができない、長い長い片想いの沈黙の意味を含んでいた。 けれど、夕陽の輝きの中で不二はそっと笑む。 どんなに惨めで情けなくて未来の見えない想いだったとしても、あの日、あの時。諦めないでよかったと、は涙を堪えることに精一杯だった。 あの雪の日を、一生忘れない自信があった。 行ってしまった各駅停車の電車。ちらちらと舞い降りる雪を連れ去る勢いとともに最後尾の車体が過ぎ去るのを、ただは黙って見送った。 乗るべき電車に乗れない、今日という日をもどかしく思った。 東京にとっては久しぶりの雪。他の交通機関は随分と麻痺してしまったようだが、青春台駅を通り過ぎる電車は時刻表どおりだ。それは恵まれていることなのに、定刻どおりに不二を乗せて去ってしまった電車を恨めしく思う心があるのも事実。はうつむき瞳を閉じ、深くため息をついた。 (今日がフルートの練習の日じゃなかったら) そっと開いた視界の中に、手袋をした自分の手とフルートケースが映る。マフラーの中に口元まで隠れ、唇を噛み締めてしまうほど心がどうしても納得していなかった。 それは偶然だった。 いくら雪が降れど、文化部が天候に影響されることなどまずほとんどない。積もり具合や夕方からの天気予報をもとに教師は部活を実行する判断を下した。しかし運動部は軒並み部活中止を宣言し、音楽室から見えるグラウンドはただひたすら雪化粧をするしか役目を与えてもらえなかった。 「テニス部も中止かあ、残念だね」 隣で呟かれた親友の言葉は、今でも耳が覚えている。その言葉に退屈を教えられたのも覚えている。青と白の、あのジャージが映えないテニスコートがこれほどまでに寂しい風景を見せるとは思ってもいなかった。 どのように過ごしたのか特別記憶するまでもないほどに、その日の練習メニューをこなす。アンサンブルコンテストまで時間もあまりない、集中するものがあればそれで事足りる話だった。ただ、雪の寒さが窓の隙間からすり抜けて伝わってきて、フルートの音の調子やキイに触れる手の感触がいつもと異なる。雪が楽しく思えないのは久しぶりだった。 けれどその後、待っていたのは信じられない光景。 (……ありえない、なんで) 部活を終え、小学生の頃から続けているフルートの練習時間に間に合うようにと。改札をすり抜け、いつもは乗らない快速電車を待つべくホーム中央のベンチに向かった、その瞬間の出来事だった。 ベンチにいた先客。見間違えるはずなどない、それは不二だった。 (どうしよう、座ったらおかしいかな。でもすぐ隣っていうわけじゃないし) そんなことを思っているうちに、足は簡単にホーム中央へとたどり着いてしまう。そこまで来ておきながら立って電車を待つというのは逆に滑稽だ、そうに違いないと。は自分に言い聞かせ、そっとベンチの端に腰掛ける。顔が知られていないのは皮肉にもこのような時に初めて効果を発揮する。 不二は、ただ真っ直ぐ線路に降り積もる雪を見つめていた。 (……相変わらず、綺麗な顔だなあ) それが彼にとって褒め言葉にならないということを知るのは、もっと後のこと。話したこともないにとって、不二の感情がどこに判断基準を置いているかなど見当がつかない。ただ与えられる彼の外見、雰囲気ばかりに心を揺さぶられる。それだけの力を持っている相手に恋をしてしまった自分の末路がどのようなものか、今だけは気づかないふりをする。 丁寧に、綺麗に首周りを包むマフラー。寒さに耐えかねて口元まで隠してしまうことのあると同じ、けれど不二はそのマフラーの外見は崩さない程度に首をすくめていた。時折零れる白い吐息の跡はふわりと風に流されて消える。色素の薄い伽羅色に近い髪は傍で見れば見るほど繊細だった。 (そっか、電車通学なんだ。というかどうして今ここに? 今日、部活なかったんじゃないのかな……) 尋ねることのできない質問は、雪が積もる様子さながら積もりに積もっていく。それこそ雪と沈黙さえあれば、いくらでもその山を大きくすることができるような気すらした。 ただ、その山を崩す手段は分からない。雪は溶けて消えても、沈黙の中にやがてアナウンスが流れても、の心の中の山は消える方法を持たない。 「3番線、電車がまいります。白線の内側に下がってお待ちください」 やがて、沈黙が止む。 静寂を破るように響いた事務的なその声にはっと顔を上げると、さきほどよりも小ぶりになった雪たちが舞う視界の片隅にグレーのコート姿が映る。の動揺に気づくこともなく、不二はベンチを離れホームに立った。 髪が風に揺れる後ろ姿を、はただ黙って見つめる。 その背中が恋しいものとなったのは、もう随分と昔のことのよう。見つめることが癖となったのも、今となっては当たり前のことのよう。胸の奥がどろりと零れ落ちるような熱に侵食されて、喉の奥が言葉を作ろうともがく感覚は一度や二度のことではない。 けれど唇は、震えることでそれらを押し留めきた。今日もそうだ。いつもその繰り返しで、不二との接点をなにひとつ持てないまま今日という日を迎えている。 (私は、とんでもない人を好きになってしまった) はベンチの背もたれに身体を預け、深いため息とともに不二の背中を見つめる。見つめているだけで胸が熱くなる感覚を与える彼が、むしろ恨めしい。 やがて風とともに電車が訪れ、人の少ない電車の中に不二が乗り込む。当たり前だが振り返ることはない。そのまま空いた席に腰掛け、背中を見つめるだけの権利も奪われてしまうのだろう。そう思った。 「ドアが閉まります。ドア付近の方は……」 そんなことを説明しなくとも不二はとうに座席付近に移動してしまった。アナウンスにそう愚痴りながら、それでも最後の名残だけでもとは顔を上げる。 その瞬間、与えられたのは名残ではなかった。 ドアが閉まる。しかしガラスの向こう側、見つめたその先で不二は確かにこちらに視線を向けた。横顔が見える、そう思った時には視線が直にこちらを向いていた。 たった2度目の視線の交差。 (……勘違いされるよ、不二くん。駄目だよ目なんか合わせたら) 息を飲んだ。手に力を込めた。けれど言葉は今日も出ることなく、去り行く電車をただ見送るしかなかった。 心に残ったのは嬉しさよりも、暴走してしまいそうな片想いの惨めさだった。 それでもまだ、自分から話す機会を作ろうとしなかったのは、どこかに甘えがあったからなのだろう。実りない片想いの先にあるものを、見てみぬふりをしていたからなのだろう。 「不二くんに彼女ができたらどうする気? というか本当はもう彼女がいたりしたらどうするの?」 興味よりも心配の色を帯びるようになった親友の声に、返す言葉は常に決まっていた。 「やだなあ、話したこともないんだよ。片想いすぎるよ、そんなこと気にすることのできる立場じゃないよ」 笑いながらその言葉を用意するのは難しいことではなかったけれど、言葉の先に待っているものを想像するのは容易ではなかった。いや、あまりに自分に都合が悪すぎて考えたくなかった。 不二に、特別な人がいたら。できたら。 考えなかったことはない。考えないわけにはいかない。独りよがりでよいと思い願う感情でありながら、それが最大の幸福だとは考えられないのが片想いの我がままだ。 「それに、実際彼女がいるかどうかは分からないんでしょ? 誰も見たことがないって」 「それはそうだけど、でもあの不二くんだよ? 隠そうとしたら隠しきれそうじゃない」 「でも噂のひとつもないよ。だから、多分いない」 我がままな感情は自分に都合よくできていて、見たくないものを閉ざす力がある。 なにそれ、と根拠のない言葉に親友は辟易を通り越して怒りすら抱いているように見えた。しかしにその怒りを鎮める策などない。その策がどのようなものかは知りながら、しかし実行するだけの勇気はなかった。 (私のことなんて、知らないはずだから。告白しても意味がない) 冬の風は冷たく、自分に甘い言葉など投げかけてはくれない。 待つ姿勢だけの自分に、不二が気づいてくれるはずもない。テニスコートに立つ彼が決してこちらに視線を向けるはずがないのと同じ、背中しか向けないのと同じ、寄せる想いはいつだって一方通行で、そして我がままだった。 答えを出せぬまま、春は訪れる。 3年生たちを卒業式で送り出し、広い校舎から人が消える。いくら1、2年生が在籍していようとも、400名近くが一気にいなくなるという事実は侮れない。駅、バス、昇降口、廊下に食堂。人の流れを形成するすべてにおいて隙間ができる。違和感という感覚に直結しているその隙間の中に、春の風が吹いていた。 「ー。お目当ての人は向こうですよー」 「! ちょ、ちょっと!」 「せっかくのチャンスなのに、こういう時ぐらいしっかり見ないでどうするの」 終着駅を知らない鈍行列車のような、そんなの行動についに親友の目は慰めに取って代わられた。しかし時にそれは度を過ぎ、は簡単に振り回される結果ばかりをあてがわれる。レクリエーションのその日も、まるで誰かに聞かせんとするような大きさの声で呟く親友を止めるのに必死だった。 けれど、視界の中に不二が映る。その事実だけは確実にの頬を緩めさせる。 青学の中では最も奇抜だと言われ続ける緑色の学年ジャージも、不二が着てしまえばなにもおかしなところがない。それは贔屓目だとさすがの親友も呆れたが、事実今日の彼のどこをどう見ればおかしいのか逆に問いただせばため息しか返されなかった。 (格好いいものは格好いい。好きなんだもん、格好よく見えて当たり前だし格好よくないはずがない) 心の中の呟きは、片想いが長引くにつれ大胆さを増すばかりだった。 春風が踊る中、グラウンド。丁寧な白線で仕切られた敵陣の向こう側に、クラスメイトと地面に腰を下ろして歓談している不二の姿がある。今日の日差しは春にしてはいささか強く、同じ気持ちなのか不二はジャージを肘までまくりあげていた。 学級委員がビブス型ゼッケンの仕分けをするのを手伝いながら、ふと手を止めて横顔を見つめる。 風が吹けば、あの日あの時、雪の中のあの景色と重なって見えた。 (ねえ、不二くん。不二くんからすればどうってことのないただの同級生でしかないけど。迷惑なのかもしれないって、本当は気づいているんだけど、でも) ベンチの至近距離、あの時味わった感覚。 ドア越しの視線の交差、あの瞬間震えた感覚。 (私は、本当に不二くんのことが大好きで仕方ない) それらを嘘とするならば、どうして今この熱が身体を侵そうものか。 小さく下唇を噛み締め、はゼッケンを抱きしめる。傍にいられる時間などそう滅多にあるものではない、あったとしてもそれは彼が背中を向けている時だけだ。 けれど今日は違う、視線が合うことはなくとも目の前に彼がいる。笑みを、声を、仕草を堪能できる距離に不二は今いてくれている。その事実の前で、身体の熱が鎮まることなどあるはずがない。 「さん、それ。向こうのクラスの人に渡してきてもらっていい?」 その時、学級委員が投げかけてくれた言葉にすぐには反応できないほど、身体と心に潜む熱は強敵だった。 だがもう一度名前を呼ばれて、は慌てて振り返る。ゼッケンを強く抱きしめたままだったことに気づくのはその後だが、学級委員はさして気にする様子もなくの背後を指差す。 そこには、不二たちの姿があった。 「……私?」 「うん、そう。ゼッケン、向こうのクラスだけがつければいいんだって」 どこかかみ合わない会話ながら、言葉に背中を押してもらえば後は動くしかない。は何度か目を瞬かせながらも、視線を何度も送っては戻しながらも、しばらくして足を動かす。 声は、言葉は、目は。なにが正しいのだ、なにが不二に嫌われない態度なのだ、誰も答えてはくれない質問をぐるぐると頭の中で回しながら近づけば、やがて必然的に不二が顔を上げる。春の太陽が作るの影が、不二の足にかかる。 真っ直ぐに自分を見上げる不二に、頭が痺れる感覚とはまさにこのことかと知った。 「それ、俺たちの?」 しかし、その言葉は不二の口からは零れなかった。 聞き覚えのない、一瞬で身体が「違う」と反応する声には不二の隣に視線を向ける。不二とさきほどまで話していた男子が、の持つゼッケンに気づいて笑顔で手を差し伸べていた。 「……あ、うん。そう。はい」 「サンキュ」 1枚、また1枚。ゼッケンが離れていく手は、やがてなにも持っていない不二の存在に気づいて動きを止める。 頬が熱いのは今日の日差しのせいだ、と言葉を探しながら自分に言い聞かせる。 だが不二はそんなを見上げる姿勢のまま、そっと笑みを浮かべた。 「ありがとう」 たった5文字が、簡単に涙腺を揺らす。 慌てて背中を向け、あれほど恋焦がれた不二の姿をあっさりと視界から消しては自分のクラスの輪の中に戻る。 (何も言わないでどうするの! 話すチャンスだったのに!) しかしいくら自分を叱ろうとも後の祭り。もはや振り返るにも振り返れない、あの笑みをもう一度見ようとも見られないこのもどかしさは、まるで片想いを都合よく利用してきた今までの自分への報いのよう。 会話ひとつできない、言葉を交わしたことのない相手。 そんな自分を、不二がどう思っているかなど考えるだけでも恐ろしかった。 (だから片想いじゃなきゃ駄目なんだ、私は) 敵陣に立ってレクリエーションを楽しむ不二の姿を見て、うつろな心の中でそう思う。至近距離を楽しめると思ったはずの時間は、それ以上の接触は不可能だと伝えられる時間でもあった。 やがて50分という時間は過ぎ、何事もなかったかのようにレクリエーションは終わる。に与えられたのはドッジボールの疲労感と誰にも言えない虚脱感と、そして、体育教官室へと戻さなければならないゼッケンの束。 解散の波の中、不二のつけていたゼッケンを探す気力もないままに仕事を終え、は春の日差しの眩しさに苛立ちすら覚えながら昇降口を目指す。 「この前の話、やっぱり駄目?」 その時、小さく響く女子の声。はふと足を止め、声の響いた先を見つめる。 そこは体育館脇、グラウンドから校舎へと戻る生徒たちからは気づかれにくい、建物の陰の中にあった。 一度心臓が大きく飛び跳ねる。息を飲み、は呆然とその後ろ姿を見つめる。見間違えることなどあるはずがない、それは不二だった。 「その話は、もうきちんと返事をしたと思うんだけど」 「でも、私どうしても不二くんのことが好きなんだもん」 不二と誰か知らない女子の会話は、に気づかぬまま続いていく。は慌てて身を隠す。ふたりの死角になるためには体育館の壁に近寄らねばならず、皮肉にも会話の内容は鮮明さを増す。 紡ぎだされる会話は、まるで針だ。金槌だ。ちくりと心臓を刺したかと思えば、その痛みに唇が震えそうになる前に金槌ががつんと頭を殴る感覚。実際に経験したことなどなくとも、今身体中の熱が頭に上っていくのが分かる。唇が痛く、頬が熱く、涙腺が震える。 「駄目なの、諦められないの。だって同じクラスなんだよ? 毎日見るんだよ? そんなの諦めろっていうのが無理だよ、好きな人が目の前にいて違う人なんか好きになれるはずがないじゃない」 「僕の答えは変わらないし、この前の返事以外にはなにも言えないよ」 「だから、それが無理なの。ねえ、お願い。試しでもいいから付き合ってよ、好きになってもらうのなんてその後でいいの、今好きじゃなくてもいいの。『そういう目で見たことがない』なんていう理由だけなら諦めることなんてできないよ」 正論だ、と誰かは言うが、滑稽だ、と誰かが笑う。不二を好きなのは彼女ひとりだけではない、声に出さない人間ならいくらでもいると、同じ想いを抱き同じ辛さに直面している人間ならいくらでもいると、怒りに負けて叫びだしたくなるのをは必死に堪える。 やがて沈黙の中、不二のため息が聞こえたような気がした。 「そうだとしても、僕は君と付き合うことはできない。それは変わらない」 「不二くん」 「……ああ、うん、まどろこしい言い方しかできない僕が悪いね。でも、付き合うなんてそう簡単にすることじゃないよ。そんな目先だけを見た言葉、叶えられなかった後の自分が辛いだけだよ。心が折れる」 頑として動かない意思が、強くはなくともぶれない語調の中から滲み出す。 柔らかい印象とはまるで異なる、誰の意見も寄せ付けない言葉。仰いだ春の空と同じような透明度をもった言葉に、場違いながら高揚を覚える。好きになった人はとんでもない人だったが、けれど好きになって当然と思える人だ。改めて感じたその時、 「それに、本当のことを言えば」 「……え?」 「たとえ付き合ったとしても本当に意味がない、先がないんだよ。僕、好きな人がいるから」 視界に映る雲が、鳥が、一瞬動きを止めた。 息を飲み、ぐっと五指を組む。無意識に胸元で組んだそれに心臓の異常な速さが伝わり、は慌てて視線を動かす。 (好きな人がいる) なにかが動いていないと涙腺が代わりに動くぞと訴えてくる。いても立ってもおられず、は会話の続きを聞くことなくふたりに気づかれないように体育館傍を離れ、校舎へと急ぎ足で戻る。 (知ってる、そんなことありえる話だって知ってる。知ってて好きだったはず、その覚悟はしていたはず) 言い聞かせるように繰り返し呟く言葉は心に届けば届くほど、身体の中の熱をかき混ぜる。湧き上がらせる。 好きだという感情ひとつは、生きるための呼吸すら乱しにかかるほど凶暴だ。 昇降口までたどり着いた時、は息を切らしながらただ呆然と春の空を見上げた。涙はまだ出ない。その事実にはむなしく失笑した。 (それでも諦められない私なんて、好きになってもらう価値もないのかもしれない) 諦めなければならない現実は突きつけられている。それでも足掻きたい我がままな片想いが、ただ涙腺の暴走を止めてくれているようだった。 |
| >>05 08/03/13 |