| 風の旋律 05 |
「好きなんだ、君のことが。どうしても諦めきれないんだ。だから付き合ってほしくて、今日はここまで来た」 出会いは突然だった。あの秋の日の感覚は今でも肌が覚えている。 だから、最初の言葉は唐突でも構わない。むしろそんな自分の気持ちを見せつけたいと思える自分は敗者なのかもしれない。 それでも今、目の前の顔は真っ直ぐに自分だけを見つめてくれている。それならば負けることになんの不満があろうかと不二の頬が緩めば、桜の花びらひとひら。 秋から傍にいてくれた沈黙を埋める風が、淡い桃色を舞わせた。 春が始まり、桜が我が世を謳歌する。広い青春学園を囲うように植えられた桜並木は壮大で、3度目となる今年も目を奪われて仕方ない。夕方の風に吹かれる花びらたちは悠然とテニスコートにまで舞い降り、感傷的な気分になるための方法を教えてくれているかのようだった。 あの子もこの桜を見ただろうか。そう思うだけで、心は切なく揺さぶられる。 テニスコートの中で不二は天を仰ぎ、そして夕闇に包まれかけそうになっている校舎を見つめる。音楽室には明かりが灯り、明るい室内を動く人の姿があるように見える。だろうか、そう思う感覚はとうに身に染みこまれていた。 (末期なことは分かっている。でも、一歩を踏み出すなにかは) なんだろう、と問いかけることのできる相手はいない。強いて言うなれば自分に優しい己の心のみ、そしてその心は「分からない」という答えしか用意しない。 先延ばしをする間に、桜が咲いてしまっていた。夕方の少し肌寒い風の中で不二は笑う。 (いつまでも続くものなんかないのに、いつまでこの状態を続けるつもりだろう僕は) やがて桜も新入生という新しい波を受け入れきった時、役目を終えてその姿を消す。時間は確実に流れてきたしこれからも当然流れていく。人ひとりの感情に左右される暇はない、その中でまるで生産性のない己の心は我慢という言葉にかこつけて地団駄を踏んでいる子どものようだった。 風に遊ばれる髪もそのままに、不二は自分の名前を呼んだ菊丸のもとへと足を向ける。コート脇に腰を下ろし小休憩を取っていた彼は、なにを言わずとも「どうしたの」と問いかけの言葉を寄越した。 「自分の欲しいものがあったらどうする? 英二」 夕焼けに頬を染められた親友が、わずかに目を丸くする。しかしその後、さも当然かのように笑った。 「取りに行くに決まってる。そうした方が、もっとずっと早く嬉しくなることができる」 親友の言葉は風の中に溶け込む。 出会って半年。言葉ひとつも交わしたことのない相手に、なにを伝えるべきか。そろそろ、答えを知るべきだった。認める時期が訪れていた。 夕方が遅くなっている。空を青色が占める時間が増えている。 視界にテニスコートが映る時間が、長くなっている。 窓にもたれ、片付けなければならないフルートもそのままには窓の向こうの景色を見つめる。藍色に足を突っ込むのはまだ早い、と西の空は薄い青色を漂わせている。4月ともなれば日暮れも遅く、テニスコートは照明などなくとも十分あのレギュラージャージの色を目立たせてくれていた。 むしろ目立つためのあの配色なのではないか、とは自嘲気味に思う。 (目がいって仕方ない。目立ちすぎて困る。本当はもう見ちゃ駄目なのかもしれないのに) それでもなお視界の中に入ってこようとするあの色は、そろそろ自分が強烈な力を持っていることを自覚してもらいたいものだと思うとため息がひとつ零れた。 そろそろ、と誰かが言う。そろそろ、と自分も思っている。 目を開けば変わらずそこにはテニスコートがある。あの夏の日以来見つめることが常となってしまったコートは秋と冬を越え、春を迎えた。それほどの時間が流れていた。 そろそろだ。は春風に頬を撫でられて唇を結ぶ。 (見るだけじゃなく、想うことも駄目だって。そろそろ、言い聞かせなくちゃならない) それは、あの体育館脇での不二の言葉を聞いた日以来の心の枷だった。 いつしか3年生となってしまっていたこの身体のように、いつしか胸に潜む想いも現実を受け入れられる日が来る。枷はそのようにも囁く。 自分にとって一番大切な不二が一番と望む人と結ばれることを、心から祈ることができるのだろうと囁く。いや、そうでなくてはならないとも思う。思うが。 「……いやだなあ」 小さな呟きは誰にも届かない。そもそもこんな薄汚い本音は誰に聞かれたくもない。 靄のようなものと言えば響きはよいが、ようは薄汚い欲求がはけ口を知らないで、心の中に淀んで溜まり続けているだけだ。それが心地よいものとはまるで思えない。けれどその状態を今まで引きずってきたのは、他でもない自分自身。幾度となくあったはずの「制止」のチャンスに見てみぬふりをしてきたのは、紛れもなく自分自身。自業自得の言葉は重い。 しかし、それが身にこたえると感じられる今こそ潮時なのではないか。は果てないなにかを見るようなぼんやりとした視線でテニスコートを見つめる。 (片想いが楽しいだなんて、そんなの嘘だ。楽しいなんて言えるのは綺麗な人だけだ) 風が、ひと吹き。桜の花びらを舞わせる。髪が揺れた瞬間はコートに背を向ける。 苦しすぎて苛立たしすぎて涙に逃れるぐらいならば、もういっそのことやめてしまえと。出口のない感情の迷路に留まり続けて涙に頼ることしかできないぐらいなら、もういっそのこと不二を諦めろと。 まだ言葉を交わしたこともない関係であることを、幸福に思うべきだと。 思う心に、瞳は静かに最後の涙を流す道を選んだ。 きっかけなどもはやどうでもいい。話すなにかさえあれば、少なくともこちらを向かせる自信はある。 菊丸あたりは「またお前はそういうことを言う」と愚痴を零しそうな考えだが、しかし不二とて曖昧に、安直に都合よく未来を計算しているわけではない。あの雪の日の出来事がある以上、少なくともそれは全く望みのないことではないはずだった。 (それを自意識過剰というのかな。でもまあいいや) 一度決意した心は、面白いほどに単純だった。極端な話食事がなくとも睡眠がなくとも、自分を突き動かすエネルギーには事足りているような浮き足立った感覚だった。 証拠に、足は活発だった。が訪れそうな場所にはなにかと理由をつけて足を向けるようにしたし、河村はなぜかそんな不二の行動に付き合ってくれることが多かった。そんな自分への褒美なのか決まってはその場所に訪れたし、時折横顔がきちんとこちらに向けられるような仕草は当たり前となっていた。 (あとは、いつ言うか) 中庭に接する食堂で、親友と話をして笑うの横顔につられて笑みを零しかけそうになりながら考える。桜の季節ともなってしまえば制服の上に着るレギュラージャージは御役御免となっていたが、もはや自分を見てもらおうという感覚はこの際どうでもよかった。 振り向かせてしまえば、あの目はいつでも自分だけを見る。 おぞましいことこの上ないエゴイスティックな欲求に、河村が見ていないところで自嘲の笑みを浮かべる。自分の心の中はどれほど自己中心的という言葉が好きなのだろうと思うと、自然とため息が零れた。 それでも、と。不二は真っ白なテーブルの上で頬杖をつき、風に揺れる桜の大樹を見つめ、ただだけの動向に注意を向けながら、桜を泳がせる風に撫でられて考える。 「タカさん」 「ん? なんだい」 「僕、そろそろ決心しようかと思って。なあなあで過ぎていくことに、もう飽きた」 一度決めてしまった心は、自己中心的だからこそ未来を強引に作ることができると信じている今の自分が、存外嫌いではない。 ぽつりと呟いた一言に、最初河村は唖然としていたけれども、すぐにいつもどおりの笑みを浮かべて深く一度だけ頷いた。 「不二が決めて悪い方向になったことはないよ」 それは買いかぶりすぎだ、僕は体裁よく生きることが上手いだけで決心という動作はそのためのオプションに過ぎないと。返すべき本音は喉もとにまで上ってきたが、今ばかりは河村のその一言に縋ることにする。 詳細は説明せず、ただありがとうと感謝の言葉を述べて席を立つ。河村の無言がなによりの返事だった。不二はそっと目を細めて食堂出口へと向かう。いつのまにかの姿はなくなっていた。 決意を抱く心は、面白いほどに素直に身体を動かす力を持っている。 いつ言うか、などではない。もう今日にでも言ってしまえばいいのだ。場所に困る必要もない、なぜなら自分は彼女がいつどこに姿を見せるのか、テニスコートから半年見上げた場所を見誤るようなことはしない。 不二が混雑の空間から離れ、食堂出口へとたどり着いたとき、それは突然やってきた。 「不二くん」 背後から名前を呼ばれ、ふいに振り返る。そこには顔こそ見覚えがあれど、名前など欠片も思い出せない(そもそも知りもしない)女子の姿。わずかに頬を赤らめ、そっと上目遣いで自分を見つめる相手に、不二はなんの感情もなくわずかに首を傾いで尋ねる。 「なに?」 「聞いてもらいたい話があって。……ちょっと、いいかな」 小さくとも聞き取れる大きさで呟いた、その言葉の先は簡単に予想できた。むしろ知らない相手であることがその結末をより一層鮮明に描かせる。またか、と思わないこともなかったが、話を聞く前から断るようなむげな態度を取るわけにはいかない。この一瞬には、自分では想像できない努力と緊張が漂っている。 それが今までの不二の行いだった。返す答えは決まっていながら、断りの言葉を入れるよりも話を聞かないことの方が失礼だという意識に繋がる、その感覚を今まで疑ったことはなかった。 「……中庭でもいい?」 「うん」 「分かった」 声をかけたはいいものの、その先をどのように導けばいいのか分からない女子に言葉を向け、頷く態度を得て不二はくるりと踵を返す。 「……っ!」 「あ、ごめ……!」 振り返った矢先、身体に小さな衝撃が走って不二は咄嗟に謝りの言葉を述べる。人にぶつかったのは明白だった、慌てて視界をやや下方に向ければ自分よりも小さい女子が口元を手で覆い、ふるふると首を横に振る。 どうしてすぐに気づかなかったのか、と責めるのはその後。いや、どうしてもっと早く気づいていなかったのかと責めたくなったのは、もっと後。 手を伸ばせば抱きしめてしまえる距離、そこにいたのはだった。 まるで言葉を殺しているようにも見える、その口元を隠した表情のままは顔を上げる。あれほどこいねがった至近距離で、の瞳は理想的なほどに澄んでいたことを知る。見上げられたその一瞬で身体が硬直したことを悟れば、もはや自分の心がなにに支配されているかなど明白だった。 しかし、満たされたはずの心はの行動に一瞬で動揺に支配される。 は言葉を返すよりも早く、不二の後ろに立つ女子の姿を見て目を丸くした。幾度か瞬きをした後、不二の好きなあの黒髪を翻して食堂から出て行く。呼びかけるよりも追いかけるよりも早く、不二の視界からはの姿が消えた。 手を伸ばせば届く距離にいながら、出せない距離。不二はもどかしさに苛立つ。 (もう限界だ) 表情の意味も聞けない。呼び止める関係もない。 声を聞く権利すらない。 改めて突きつけられた「現状」は、決意を抱いた心に研ぎ澄まされた刃を突き刺すかのよう。じわりと滲む汗はまるで血のようで、不二はどっと吹き出た汗が一瞬で冷や汗に変わるのを知る。 「……ごめん、その話聞けない。聞いても、ひとつの返事しかできない、僕は」 動揺を隠しながら呟けば、女子は下唇を噛み締めて首を横に振った。拒絶ではなく了承の意味だと知ったのは、彼女が背を向けてから。しかし同じ「首を振る」という動作ながら、まったく心に響かない目の前の出来事に不二はただ立ち尽くす。答えは出ていた。 (一目惚れだ、もう見た時から気になっていたんだ。そんな子を手離す理由なんかない) 勝手だと笑われるか。いや、菊丸と河村は笑顔で同意してくれるだろう。そう思えば足は自然と傷つけられた痛みよりもそれを跳ね除ける強さにだけ反応する。 予鈴が鳴り響く。渡り廊下に流れる春の風は清爽な香りがした。 諦めると決めた心は、一瞬で崩れ去った。 昨日の夕陽を覚えている。桜舞うテニスコートの景色も覚えている。冬を越したコートに翻る、レギュラージャージを着る不二の姿に涙を流した感覚も覚えている。 なのに、昨日の決意だけはもう忘れてしまった。はため息とともに笑う。 (ごめん、不二くん) 知らない人間からの告白なんて気持ち悪いでしょう、と心の中では理解しながらしかしはシャープペンシルを握る手の動きを止めない。 食堂での出来事がすべてだった。諦めようと思った心は、あの瞬間場違いな嫉妬に支配され、それを悟られまいと慌てて不二の前から姿を消したはいいものの一度くすぶってしまった炎に気づかないふりをすることができるほどは大人ではなかった。 5時間目、国語の授業。開かれたノートはまだ真っ白のままで、薄いグレーの罫線が美しくも見える。だが黒板の内容を写すわけでもなく、はノートの上に用意した無地の便箋に文字を連ねる。 クラスメイトとやり取りをするためだけに使ってきた、まるで可愛げのない水色の便箋。告白には似合わないな、と手を走らせながら改めて思えば苦笑とため息が零れた。 『不二くんのことがずっと好きでした』 初めて文字にした本音は、芸術性の欠片もまるでない。しかしそれがすべてだ、それ以上の言葉は必要ではなかった。 『話したこともない私のことを、不二くんが知っているはずもないので、なにを伝えていいのかも本当はよく分かっていません』 開け放たれた窓の向こう、午後の日差しの中で桜が揺れる。柔らかくもろいあの花びらを擦り合わせるかのように風が吹き、の目を細めさせる。 『だから、もし話を聞いてもらえるなら、今日の午後6時に音楽室に来てもらえますか』 都合のよい未来を、桜の中で描くことを今日という日は許してくれるだろうか。それとも。 『駄目なら、この手紙は無視してください』 最後の最後まで、姑息な手段に頼る自分を笑う未来しか認めてくれないだろうか。 書き終えた手紙を見つめ、は視線を外へと向ける。答えが出る、その感覚に背筋が震える。 春、区切りの時。殺すべき想いを封印するのではなく、相手に息の根を止めてもらうというのは建前だ。ただ、伝える権利だけは最後の我がままとして認めてもらいたい、それだけだった。 今日だ。今日しかない。これ以上先延ばしにする意味はない。 レギュラージャージに身を包み、ベンチに腰掛けて靴紐を結びなおす。さらりと頬を撫でる髪を風が揺らし、顔を上げれば見事なまでに透き通った青空。時折そこを横切っていく真っ白い雲は清々しさしかなく、そんな視界の中に桜の花びらが舞えば気持ちが高揚するのも無理はなかった。 不二はラケットのグリップを握り締め、ゆっくりとひとつ深呼吸をする。 部活が終わるのは午後5時半。そこから片付け等を行って部室に戻り、制服に着替え終えるまでに約30分。明日から新入生の体験入部が始まる都合で、今日まではみっちり通常練習を行う予定になっている。その予定が遅れることはあれども早まることは決してないはずだ、に会えるとすればそれは早くとも午後6時。 (6時なら、まだ音楽室には電気がついている。もし帰ろうものなら追いかけるだけだ) 運動部であることを最大限利用させてもらおうじゃないか、と手塚の背中に向かって心の中で呟く。気配を感じ取ったのか手塚が振り返ったが、不二は愛想笑いもそこそこに音楽室を見つめる。 思えば、運動部だからこそ音楽室を見つめられたしテニス部だからこそレギュラージャージで自分を表現することもできた。恋愛というものは自分のすべてを武器にすることができる、そう思うと告白という手段も武器のひとつのようで不二はそっと笑った。 不二の下駄箱に、室内用シューズしか残っていないことを確認する。 よし、とは周りの誰にも見られないようにそっと手紙をその中に入れる。古典的だと笑われようとも、話したこともない自分にとってはこれが精一杯の接点だった。始業式の日の掲示で今年6組となったことは知っていても今の席を知るわけではないし、河村を頼るのは問題外だ。唯一分かるとすればそれはネームプレートの貼られた下駄箱だけ。勝手に扉を開ける申し訳なさを前に心の中で何度も謝り、そっと扉を閉じた。 明日だ。明日しかない。これ以上先延ばしにする必要はない。 明日、不二にこの手紙を読んでもらって結果を決めてもらう。扉を閉じた手をそっと離し、今一度不二の名前を見つめては心の中で何度も何度も決意の言葉を繰り返す。 (不二くんに決めてもらえるなら、それが一番いい。むしろ贅沢なぐらい) 話をしたくともできない、想いを伝えることもできない女子もいる中で、不二に答えを決めてもらえるのはある意味特権だ。ただし未来がどちらに転ぶかを完全に相手に委ねる以上、未練は無用。その時はその時として、きちんと自分の気持ちにけじめをつけなければならないと改めては自分に言い聞かせて昇降口を離れる。 明日、すべてが出る。長かった9ヶ月に終わりがくる。 夏の風も秋の風も冬の風も、そして今春の風も、言葉ひとつを交わすこともできなかった自分たちの間をいつも埋めてくれていた。小さな感謝の気持ちを抱くとまるでそれに応えるかのように、風に乗せられた桜の花びらが渡り廊下を横切っていった。 「不二ー、お前今日校舎に戻るって本当?」 「なんで? 確かに戻る予定だけど」 「ああうん、お前知ってんのかなあと思って。昇降口、鍵が壊れたからもう閉鎖したんだって。だから校舎の中に戻りたければ体育教官室の前からそのまま裸足で行けって」 「ええ? なにそれ」 「サッカー部がボールぶつけたんだってさ」 「その程度で壊れるうちの校舎って……」 「ふむ、新聞部がそのあたりは細かく記事にするだろう。なぜサッカー部なのか、なぜ昇降口なのか、なぜボールごときで……」 「乾ー、うるさいよー。お前頼むから新入生の前で怖い先輩になるなよ絶対」 「なにを言う、俺ほど優しい先輩はいないぞ」 「……そんな優しい乾からの情報でした。というわけで、不二」 「え? あ、うん」 「校舎に入りたければそうしなよ。人の出入り、全部そこに限定するって言ってたから」 「……ありがとう、英二」 「お礼の代わりは6組に寄って俺の忘れ物を取ってきてくれるってことでいいよ、うん」 「……」 「不二くんは諦めたんじゃなかったの」 「今日まで。今日が最後にするから」 「あ、そう。結局分からないことだらけだったね、あの人。テニスが強いってことぐらいしか教えてもらってない気がする」 「それで十分。そのおかげで、私はここから見ることができたんだよ」 「盲目」 「知ってます」 「まあ、でも」 「……うん?」 「不二くんを見るための努力だけは惜しまなかったことだけは、すごいよ。もったいないね、片想い」 「……」 「不二」 「ああ、タカさん。今日はありがとう。……いや、今日までありがとう?」 「それだと、一生の別れみたいだよ」 「あはは、そうだね。でも違うよ、もっと前向きな意味。もう自分で自分のことはしなきゃ」 「今日?」 「今日」 「そっか、頑張れ」 「精一杯、やれるだけのことは。……うん、頑張る」 「……いつまで?」 「明日まで」 「今日は」 「6時ぐらいまで、見てる。だから先に帰ってていいよ」 「部活が早く終わっても帰らない理由はそれか。分かった、また明日ね」 「うん」 「ほどほどにねー」 「あはは、それは無理! だって見てるだけで幸せだもん、もう」 「のろけはいいでーす」 「大丈夫、明日には終わらせるから。……必ず、明日には」 夕陽に桜が照らされる。薄桃色が濃い珊瑚色にまで染め上がる。咲き誇る自分に対してかそれともそんな自分を見つめてくれる人々に対してか、夕空には桜の花びらが嬉しそうに舞っていた。 秋の日には想像できなかった景色。その桜を見送り、不二は制服に着替えるのも面倒でレギャラージャージのまま校舎内に戻る。途中、体育教師がスリッパを貸してくれたことは幸運以外のなにものでもない。昇降口に戻る時間は、すべて音楽室へと向かう間の高揚に捧げることにする。 そして訪れた音楽室に、はいた。 「好きなんだ、君のことが。どうしても諦めきれないんだ。だから付き合ってほしくて、今日はここまで来た」 そしてようやくぶつけられた言葉。初めて成立する会話の始まりの言葉は告白の言葉。それならば今までの無言の意味もあろうと、もはや納得することになんのためらいもない。 「付き合ってほしい、なんて言える立場じゃないことは分かってる。でももう限界だった。たとえ君と話すのが、これが初めてだとしても」 「……不二くん、あの」 「あ……ああ、……自己紹介とかした方がいいよね。ごめん、急な話で」 「知ってる、大丈夫。私不二くんのこと、知ってるから」 「……僕のことなんか、絶対知らないし興味もないと思っていた」 「……不二くんが思っているよりも、もっとずっと。私は不二くんを知っているし、見ていたよ」 そして返される言葉が自分にとって優しいものであれば、自惚れることにもためらいなどあるはずがない。 嬉しさを噛み締めると涙腺は反応するらしい、ということを実感できる空気に酔いしれる。 もう十分だった。不二は笑い、やや首を傾いだ視界の中に映るに問いかける。 「僕の彼女になってくれますか、さん」 思い返すは文化祭、教室、駅のホーム、あのグラウンド。 いつでも沈黙の中に流れていた風が、また吹く。いつでも風は優しかった、目に見えないなにかを耳に届かないなにかを運んでいてくれるかのようだった。胸はいつだってその風のおかげで熱をともすことに喜びを覚えた。 そして、今日。はまた言葉を返してくれなかったけれど、しかし不二の目の前で小さくゆっくりと頷いてみせる。 片想いの身には、それで十分だった。 手紙、と小さくが呟くのは昇降口までたどりついた時。 慌てて先を行こうとする彼女の姿に、不二は今日なにが起きていたのかをぼんやりと予想する。どうやら思いつめていたのは自分だけではなかったらしい、とひとりでしみじみと思えば、今まで見たことがないほどの真っ赤な表情で(むしろ涙が出る一歩手前というほどの赤らみで)が「なかったことにして」と懇願する。 しかし、と名のつくものに拒絶の感情を抱く理由などどこにもない。 家で見るから、という理由を苦笑とともに答えれば、の手が自分の下駄箱に伸びそしてしぶしぶと差し出されるシンプルな水色の封筒。実は素直に感動していたと告げられるのはもっと後のことで、この時の不二はまずはの体裁を守るためにきちんと目の前でジャージのポケットの中にしまい、そして 「そんな小さなすれ違いに動揺している暇なんか、もうないよ」 もう誰も咎めない愛情の言葉を、一番聞いてもらいたい人に囁く。 笑いながら手をさし伸ばせば、今日は風ではなく人の温もりがそっと触れてくれた。 |
| 08/03/30 |