風の旋律 03

「……自己紹介とかした方がいいよね。ごめん、急な話で」

 そろそろ冷えてきたのだろうか、色だけ暖かい空気の中に漂う風に煽られ、顔を上げる。の沈黙の表情を目の当たりにし、不二は今更ながら躊躇の言葉を送る。
 自分が強引な空気を作っていることは分かっていた。彼女の口が先ほどから開かれないことに、自分の色々な意味での敗北を知る。もしかしたら受け入れてもらえないかもしれない、いやそもそもそれは真っ先に想定すべき結果であって、自分はやはり自己満足の世界でしか話を進めていない。自嘲の笑みが零れ落ちそうになるのを必死で堪えながら視線を向ければ、は慌てて首を横に振った。

「知ってる、大丈夫。私不二くんのこと、知ってるから」

 小さな紅潮。それは頬の色ではない、抱きしめたくなるほどの愛らしさで言葉の中から零れ落ちてくる。
 そのまとまっていない言葉を発してしまう原因はなにか。自分に都合よく捉えてもよいものか、と目をわずかに細めれば、は小さく俯いて楽器を握り締めた。
 許されるならば、今すぐにでも自分の腕の中に閉じ込めたいと思った。



 冬になれば自分の時間が多くなる。それは夕闇の時間がテニスコートに落ちてくるのが早くなるせいで、体育館で基礎体力のための練習をすることもあったが大半は部員の自主練習に任せられていた。

「強豪校って言うなら、照明ぐらいつけてくれてもいいと思うんだけど」

 菊丸の素直な愚痴に手塚も黙っていたところを見ると、やはり練習時間としては物足りないというのが部員全員の思いらしい。不二としては短い時間ながらも密度の濃い練習をすれば相応の効果があり、そうすることができる自信があったが、「それは不二ぐらいだ」と大石に苦笑された。
 そしてその日、東京に珍しく雪が降った。数年ぶりの強力な寒波らしく、夏の日には部員の汗に汚されるはずのテニスコートが真っ白に染められてしまっては、竜崎も手塚も部活の中止を告げるしかなかった。

「でも体育館を貸してもらえることになった。夕方までは体育館で基礎練習だ」

 青学はテニス部に優しすぎやしないか、と大石の言葉を聞いた時にそう思ったが、「石川校長はテニス部のOBだからな」という竜崎の一言で納得してしまう青学の雰囲気が、不二は嫌いではなかった。
 寒い冬、レギュラージャージは重宝される。菊丸や今月レギュラーに昇格した桃城などは制服の上によく羽織っており、それはどうかと不二も一度は首を捻り手塚などは相変わらず眉間に皺を寄せていたが、乾と河村にそそのかされて試してみると、抜け出せないという結果しか待っていなかった。

「不二が着ると、当たり前のように見えるからいい。うん、不二ずっと着てて」

 そう思わせる自分の素行とはいかなるものか、気にならないわけではないが菊丸や河村が笑顔で繰り返すものを、無下にはできない。その日も不二は長い昼休みの間ジャージに袖を通し、大石からの伝言を河村に伝えるべく教室を出る。
 レギュラージャージが青学においてどのような意味を持っているのかは知ってはいたが、時折それがもっと個人的な都合に効果的に働けばよいのにと思うことがあった。

(たとえば、僕を見つけてもらう目印とか)

 青学が、そしてテニス部が嫌いではないからこそそう思えることだが、今となってはそこにやましい思いがあるのも事実。
 そう、たとえばまさに今。締め切った窓の隙間をかいくぐってまで外の寒波を伝えたがる冬の風にため息をつきたくなりながらも、寒い廊下を渡って河村の教室に行こうとするのは。

「タカさん、伝言」

 携帯電話を使えば一瞬で済む伝言をわざわざ自分の足で伝えに行こうとするのは、他でもない。

「ああ、不二。目立つねえ、不二がその格好すると」
「英二のあの『絶対脱ぐなよ着続けろよ』オーラの前じゃ、脱ぐに脱げなくなってきたよ」
「はは、そうだね」

 その教室には、の姿がある。そのひとつに振り回されているだけだった。
 河村はどこまで理解してくれているのか分からなかったが、あえてなにも問いただそうとはせずいつも教室で不二を待っていてくれた。時には教室に呼んでくれるようなことすらあった。河村だけにはすべてを伝えてしまおうか、そう思ったことがないわけではないが、しかしあえて触れないようにしてくれている彼の誠意に甘えたまま冬を迎えている。
 つい最近席替えをしたらしいこのクラスで、はまた廊下側の席になっていた。
 今が夏ならよかったのに、と思いながら不二は河村の手招きに従い教室の中に入る。夏ならばその姿を廊下からも見られるよう窓が開いてくれたのに、と。嘆いても詮無きことと理解しながら、恋に落ちてしまえばそんな自分の我がままも思うだけなら無罪だとしていた。

「今日、テニスコート使えないから体育館で夕方まで基礎練習だって」
「そうだよねえ、この天気なら無理だよね。あ、それ桃に伝えた?」
「ううん、まだ。桃には英二から連絡がいくと思うけど」
「早く伝えないと、桃のことだからコートで雪合戦とかしそうだね」
「ありえるね。そして手塚に怒られる」
「海堂が巻き添えにならないよう、早く伝えてあげなきゃね」

 たわいない話をしながら、そっとの後ろ姿を見つめる。河村が窓際の席になったのは何の幸運だろう、そしてそこに呼んでくれる彼の優しさにはやはり頭が上がらない。
 秋に出会った時よりも幾分か伸びたように見えるの黒髪が、不二は好きだった。

ー。ごめん、教科書貸して。英語の」
「あ、うん。いいよ」

 冬になり、ようやく耳にすることができた彼女の声に与えられた高揚は今でも胸の中にある。偶然の名前を呼んだ、名前も知らない同級生に不二は勝手に心の中で感謝する。
 相変わらず言葉を交わしたことも、文化祭のあの日以来目が合うこともなかったが、不二は現状に少なからず満足していた。

(知っていることがひとつずつ増えるだけで、嬉しくなるものもあるんだな)

 河村の前の席に腰掛け、大粒のまま振り続ける雪を窓の向こうに泳がしながら思う。極端な考えではあったが、しかし菊丸や河村のことを知るのとはまた違う、自分の心をせきたてるような勢いをもって訪れる嬉しさに流されることが心地よくすらあった。
 重症だ。の横顔を見つめながら、不二は心の中で笑う。

「あ、そういえば。不二、聞いた?」
「え、なにを?」

 5時間目の準備をする河村が唐突に話を振る。頬杖を解きを視界から消すように河村に視線をけ向ければ、そこには優しい笑みがあった。

「3年の卒業式の次の日、1年と2年だけのレクリエーションがあるだろ?」
「ああ、うん。それが?」
「その日、俺のクラスは不二のクラスと合同なんだって」

 それにどのような意味があるかなど、もはや河村に聞くまでもない。
 思わず目を丸くし、そしてその言葉の中に含まれた「共有」という感覚に軽く頭が痺れる。言葉を返せないことがもはや河村にとっては答えのようなものだったが、その時の不二には答えを返すことよりもとの共有時間をもつことに思いを馳せることの方がよほど勝っていた。
 後から思えば、話をすることなど本当はもっと簡単だった。なにかしら理由をつけて会話を振ればいい、極端な話河村を通して話の場を持てばそれで済んだことだった、そうすれば事態はもっと円滑な流れで動いてくれたのかもしれない。
 しかしその時の不二には、それを思いつくだけの余裕などなかった。

「男女合同、混合ドッジボール。うちのクラスの女子で不二のファンがいるから、あんまり強く投げちゃ駄目だからね」

 河村の言葉に、3月への期待を膨らませることだけで精一杯だった。



 1日に1回、その姿を見ることができれば恵まれている。青学にいればそれが当然だ。
 その、まるで慈悲かなにかに縋りうやうやしく頭を垂れているような自分の考え方は、冷静になればおかしなものだった。事態を自分で切り開くという積極的方法があるというのに、こんな時に限って臆病風が自分を包む。体よく生きることはできても結局都合の悪そうなことからは逃げ出したり穏便な道を選ぼうとする自分は小心者だということに気づいた時期でもあった。

「最近不二がおかしい」
「なんだ、それ」
「なんかおかしい。なんか艶がある」
「……なんだ、それ」

 遠くストレッチをしながら菊丸が訝しげにこちらを見るも(そしてそんな菊丸に大石がさらに訝しげな表情をするも)、それに反応するのも勿体無い。頭の中にその時がいれば、どうしてもそちらを優先したくなる。

(一度、話してしまえば簡単だとは分かってるし、話してみたい気持ちだってある。自分だけを向かせてみたい)

 願いという可愛らしいものではない。もはやそれは異性に対する素直な欲求だ。自分だけを見させ、自分だけに言葉を紡がせ、自分にだけその温もりを享受させ、自分にだけ許す。そして自分はそれ以上の視線を送り、言葉を作り、温もりに包み、包容の相手となる。エゴイスティックで救いもなにもなかったが、それを止める気にはもうならなかった。
 雪雲のせいで夕闇に染まるのも早い外を窓越しに見つめながら、煌々と照明の灯る体育館の中で不二はストレッチの傍ら外に目を向ける。今日は音楽室は見られない。

「不二ー。なあなあ、俺にだけ話してみたりしない?」
「なんのこと?」
「またまた。なんか俺に隠してない?」
「英二が単語テストで赤点取って怒られたのを彼女に隠そうとしてることなら知ってるよ」
「それ関係ないし! ていうかお前いつ見たんだよ、違うクラスなのに!」

 親友を軽くあしらえるほど、重症だということを痛感させられる日だった。
 夕方になり、ようやく雪は小降りになる。ちらほらと粉雪になって、それこそ風に遊ばれて縦横無尽に駆け回るそれらを見送りながら、不二は改札口を抜ける。快速電車が去った後の上りホームは閑散としていた。

「じゃあなー、不二。明日には普通になれよー」
「なにそれ、英二」
「なんとなく」
「あはは、なんだよそれ。不二、じゃあね」

 菊丸と河村は下りホームから、同じ上り組の手塚と大石は部長副部長業務で居残り。地元組の桃城はこんな雪でも豪快に自転車で帰っていった。
 もともと広義では学区内になる不二は、決まって各駅停車の電車しか乗らなかった。青学の傍を流れる一級河川のために電車通学となっているが、距離自体は埼玉から越境通学している河村とは比べ物にならないほど近い。雪も止まないうちに家に着くのだろう、と空を見上げながらホーム中央にあるベンチに腰掛けた。
 普段よりもきつめにまいたマフラーの中に口元までうずまりながら、そして両手をコートのポケットの中に入れたまま不二はまたのことを想う。

(いつかは、言うべき時がくるんだろうか)

 初めての経験では、それがいつどのタイミングなのか全く見当がつかない。その意味では先輩になる菊丸に助言を請うのもひとつの手段だったが、誰にもこの想いを伝えていない現状ではそれも気がひける。ため息をひとつ、不二は静かに電車が来るのを待った。
 ひとつのことに集中すると、物理的にも精神的にも視野が狭くなる。悪い癖だった。
 降り止むなんて嘘ではないかと思えるほど延々と繰り返される雪の行進を見つめ続けていたその時、ふと視界片隅に先ほどまではなかった色が映った。なんだ、とその時ようやくすぼめていた首を少しばかり伸ばして視界を右方へと移す。
 そこにあった横顔に、不二は絶句した。

(……ありえない、なんで)

 そこにいたのは、紛れもなくさきほどまで自分の思考を支配していただった。
 品のいいグレーのダッフルコートに女子たちが愛用するチェックのマフラー。手元にはあのフルートケース。不二の好きな黒髪の先はそのマフラーの中に吸い込まれ、頬にぴったりと寄り添っているように見える。白い肌と寒さに負けた赤い頬、そこに並ぶ黒の艶は並大抵のものではなかった。
 だが、それを落ち着いて愛でることができるのは距離がある時だけだ。
 不二はとっさに、自分の動揺を悟られまいと真正面を見つめる。見えない心臓だけが派手に暴れ、コートのポケットの中に隠れた手だけがじわりと雪を裏切る熱をともす。
 雪が落ちていく。線路が白く染まり、沈黙の中を埋めていく。近すぎる距離が痛い。
 けれどだからこそ痛感する。

(僕は、この子のことが本当に好きなんだ)

 今日はそういう日なのか、と誰かに尋ねたかった。答えなど自分の身体が既に用意してくれていたが。

「3番線、電車がまいります。白線の内側に下がってお待ちください」

 雪と沈黙の世界の中、唐突に響いた「次」の瞬間への連結の言葉。はっと不二は顔を上げ、自分が乗る電車であることを確認する。無造作に置いたままだった指定鞄を手に取り、立ち上がる。は腰掛けたままだった。

(……ああ、そうか。どこの小学校出身かも知らないんだ、僕は)

 今立ち上がらないということは、次の快速電車。頭の中で判断できた時には、視界の中からの姿が消えていた。不二は雪に飾られていく線路を見つめながら、そっと自嘲の笑みを浮かべる。

(好きなのに、知らないことが多すぎる。そもそも電車通学なことも今知った)

 知るだけでいいと思っていた、昼の心はどこへやら。次を次をと落ち着くこともましてや萎むことも隠れることも知らない感情は、強引なほどに上りつめることしか考えていない。

(知らない人間からの感情なんて、迷惑以外のなんだっていうんだ)

 まるで今までの自分に確かめるかのように呟く。残念ながら答えは明らかだった。
 粉雪が嵐に巻き込まれるかのように舞い上がり、頬を殴るかのような冷たさを持った風が電車とともに訪れる。人もまばらな各駅停車の電車のドアが開き、不二は振り返ることなくそれに乗り込む。
 暖かい車内に、しかし。

(でも)

 取り込まれることよりも、身体は振り返ることを選ぶ。
 ドアが閉まる。機械音とともに外の雪を追い払い、分厚いガラスの向こうに取り残された景色を見る。

(知らないから、なんていう理由で引き下がるなんていうことを、僕はしたくない)

 エゴだ。分かっている。それは今まで自分に想いを寄せてきた女子たちに対する言葉とはまったくもって矛盾しており、むしろそこで引き下がってくれた彼女たちを見下しているとすら思われても仕方ない。それは不二も分かっている。
 それでも、その瞬間。ドア越し、雪越し、風越しに見つめたホームのベンチに腰掛けたままのが、振り返った瞬間に視線を寄越していた事実の前では、エゴは意味を持つ。

(話したこともない。僕のことを知らないかもしれない。でも、目だけは合うんだ)

 そしてその視線は、自分が寄越すよりも早くこちらに向けられていたのだ。たとえあの文化祭以来だとしても、確かにそれは今目の前にあるのだ。
 微笑を用意する余裕などどこにもない。目が合えばいいと願いながら、その実合ってしまえばどのように反応すればいいのかなんて分かっていない。電車は人間の感情には気づかないまま動き出し、不二の視界からはあっさりとの姿が消える。
 川の上にしんしんと降り注いでは消える雪を見つめながら、不二はそっとうつむいて瞳を閉じた。

(僕が、目を合わせたいと思う相手なんて今までいなかったんだ)

 それだけは今までとは違うと。面識のない他人から寄せられる好意となんら変わりない自分の感情だとしても、自分の意思が働いてそしてエゴを受け入れてくれるようななにかを感じられる今の状況では、「知らない」という言葉は跳ね返すべきものにしたい。
 冬の風が冷たく、優しさなど感じたこともなかったが、今だけは雪の存在に感謝したいと思えた。



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08/02/29