風の旋律 02

「付き合ってほしい、なんて言える立場じゃないことは分かってる。でももう限界だった」

 そう呟く彼の横顔は、本来であれば遠く見つめるからこそ美しいと思っていた。
 しかし、それはあまりに彼を過小評価していただけなのか。それとも、あまりに自分は彼を想う気持ちの大きさに気づいていなかったのだろうか。
 夕陽に愛でられ、暖色に染め上がる横顔。しゅっと細い一本の筆で歪むことなく書かれたような、整った顔立ち。ふわりと吹いた夕方の風に一瞬目が細められた時、胸が高鳴ったのは嘘ではない。はフルートを持つことで動揺を隠そうとする。けれど。

「たとえ君と話すのが、これが初めてだとしても」

 夕暮れに馴染む低音に、そしてその言葉に。眩暈すら起きそうだった。



 初めて不二周助という同級生の存在を知ったのは、いつだっただろうか。

「10組にすごく格好いい人がいる!」

 入学して間もない頃、クラスの女子が黄色い声をあげていたことは覚えている。

「テニス部、今年も関東大会出られなかったんだって」

 伝統ある男子テニス部が今は低迷ぎみだということを教えられたことも覚えている。
 彼に関する情報は、すべて他人の口から発せられた言葉によって形成されていた。自分から聞き出さなくとも、青春学園という場所に生活の基点を置いていれば(そして偶然ながら彼と同じ年の入学を果たしてしまえば)それは別段おかしなことではなかった。

「手塚くんと不二くんって目立つよね。知らない人いないんじゃないの」

 その言葉に反論した記憶はなかった。
 正確に言えば、彼の名前が先行するのではなく、彼が所属している部活がこの学園内においては特別な意味を持っていて、そして彼を取り巻くチームメイトの存在が突出した雰囲気を持っているためだった。さらにその部活の中でも「レギュラー」という選ばれた人間にしか与えられない地位を獲得している以上、彼がどのような活躍をしようが知らないわけにはいかないし、また知らないまま学園生活を過ごすことは許されなかった。
 青学という学校は、男子テニス部にかくも優しい。

「仕方ないよね、あのジャージじゃ。たった8人しか着られないんでしょ? 目だって仕方ないよね」

 親友の言葉は真実を示していて、頷いてしまえば最後、あの青と白と赤のジャージを見つけてしまった日はそれこそ幸運のなにかのような感覚になれた。
 2年、夏。開け放たれた窓からじわりと熱を帯びて迫ってくる風に顔を上げる。冷房などという快適な響きとは無縁の音楽室の中、午前の部活が一区切りしたところでその風は突然やってきた。
 楽器を片付けようとしていたはその時、ふと窓の向こうの青空を見つめる。昨夜なにかの祭りかのような勢いを伴って降り注がれた雨が通り過ぎたおかげか、そこには雲ひとつない青色が広がっている。ふわりと髪を揺らす風は、雨が通り過ぎた後の余韻を楽しんでいるかのようだった。
 そして誘われるように覗いた階下。陽光に照らされてちかちかとなにかが光るグラウンドとは離れた場所に、テニス部のコートがあった。
 赤、緑、青。青学の学年指定体操服の見慣れた色の中に、鮮やかな青と白がラインを描くユニフォームが風に揺れていた。

「手塚くん、9月から正式に部長になるんだって。さすがだよね」

 いつのまにか自分の手は手摺りに、身体は太陽の光にさらされるまでに窓際に近く。横から突然飛んできた声に慌てて振り返るようなことがなければ、自分のその移動には気づかなかった。

「……え?」
「だから、手塚くん。え、違うの? 手塚くんを見ていたんじゃなかったの?」

 部活の仲間の驚きを含んだ問いかけに、はふるふると首を横に振る。むしろこちらの方が驚いた、とその表情で訴えれば、親友は一度目を丸くした後視線を窓の外へと向けた。
 しばらくその視線は小さなテニスコートの上を撫でるように動いていたが、やがてひとつの場所で止まると口から納得のため息が零れた。

「ああ、不二くん」
「……『ああ』、って。なに、その意味」
「ううん、別に。もそっちなのか、と思ったぐらいで」

 だから何、と再度言葉を投げかけようとすると、親友の手があっさりとテニスコートを示す。
 夏の空を仰ぐテニスコート。そこに、あの青と白のユニフォームが風に揺れている。
 コートの中には不二の姿があった。それが試合なのか練習なのか、素人のにはなにも分からなかったが、真剣みを帯びた内容であることは不二の動き方から見て取れる。相手は2年生のジャージを着用している、非レギュラーだった。

「ライバル多いよー、競争率高いよー。というか本当は彼女がいるのかもしれないよー」
「あのねえ、誰がいつ不二くんのことを」
「その目が言ってます。顔に書いてあります」

 冷めた目で親友に訴えようとも、その表情に盛り込まれてしまった好奇心の色の方がよほど強く、それ以上のの言葉はなにひとつ認めてもらえなかった。

(不二くんが人気があることぐらい、同じ学年なら知ってるよ)

 延々に続きそうな親友の話を遠くに聞きながら、は楽器を手にしたまま校舎からテニスコートを見下ろす。時折頬を撫でる風はいつのまにか心地よく、その爽快さを感じると同時にコートの中ではあのユニフォームが揺れる。
 小さく、遠い。その感覚になんの疑いもなかった。
 どれほどの時間青空の下のテニスコートを見つめていただろう、その時親友がふと小さく呟いた。

「でも、本当にどうなんだろうね。私たちの学年の男子、ものすごく強いらしいから来年にはもっと有名になるかもしれないけど、でも不二くんって」
「うん?」
「話すきっかけがないと、絶対話さないじゃない。手塚くんとは別の意味で。どういう人と仲良いとか、そういうところ、全然分からないよね」

 言われてみれば、とは自分の記憶の中の不二を掘り起こす。外見、評判、印象。外から手に入れられる情報は確かに多く、記憶の中で彼を形成することに問題はなかった。
 だがそこまで試みて、はひとつの事実に気づく。

「……ああ、確かに。声、知らないかも」
「同じクラスになったことないしね」
「うん。知らない、全然。見たことしかないんだ、そういえば」

 でしょう、と親友が頷く。あまりに大きな事実に、むしろが唖然とした。しかしそれも仕方ないのかもしれないとすぐに落ち着く。
 不二周助という人間を、は当たり障りのない共通認識の中でしか知らなかった。クラス、部活、出身小学校、委員会。そのどれも一定のコネクションを使えば知りえる事実であり、また彼がテニス部に在籍している以上知ろうと思わずとも知ることができるのがこの学校だ。そもそもとて、不二に対して特別な思いがあるわけではない。学校で生活している以上聞かざるをえないというのが事実に近い。
 彼は、知ることよりも知られることの方が多い人間だ。
 たとえばそれは店の店員と同義で、何百人という客を相手にする店員は客の顔を覚えるまで相当数の時間と努力が必要だが、客からすれば店員というのは数の知れたものである。一度では難しくとも数回同じ店員と顔を合わせれば自然と覚えてしまう、その感覚に近いものがあった。
 だから、この学園にいる以上、不二がテニス部レギュラーである以上。自分が不二のことを知るのは必然であり、理由などいらないと思うことに何の疑問もなかった。
 あの日、あの秋の日。コートに立つ彼を間近に見てしまうまでは。

「あー、すっごい疲れる。俺もう不二にシングルスで勝てる気がしない」

 偶然通りかかったテニスコート前。普段であれば近づくことなど体育の授業と掃除当番でしかありえないその場所に、偶然近寄ることがあったことがすべてだった。
 文化祭を前に、音楽室と音楽準備室の大掃除をしておこうと。時期外れなその計画に誰もがため息をついたが、夏のコンクールが終わったこの時期の音楽準備室の荒れ具合は尋常ではない。誰のものともしれないメンテナンス用品を楽器ごとに分け、飛び出したままの楽譜をすべて順番どおりに整える。作業自体は単純だがその数が膨大なため、時間だけは必要とするその大掃除があの時、偶然にもやってきた。
 どこに潜んでいたのだろう、と首を傾げたくなるほどのごみをゴミ袋につめ、分別場まで運ぶその過程。突然飛んできたその声に、は足を止めた。

「シングルスで勝とうと思うなら、同じタイプで攻めるか真反対になるかだな。例えば自分のテニススタイルを変えて、テクニックを圧倒する……」
「力?」
「か、オールラウンド、もしくはテクニックで真っ向勝負」
「ええ? ありえない。パワー型になっても今度はタカさんに勝てない。オールラウンドなんて手塚に任せておけばいい、というか不二だけに勝てばいいってもんじゃないし」
「そう決め付けるのもどうかと思うが、まあ否定はしない。お前の俊敏性を殺してまで力型に転向しても、メリットはさほどない気がするな」
「地道に頑張るしかないか、ああ」

 緑色の小さなひし形の向こうに広がるテニスコートから、悩み深き声が届く。コート脇に座り込んで頭を抱える後ろ姿に見覚えはなかったが、その声は何度か耳にしたことがあった。菊丸というその珍しい名前も手伝っていたかもしれない。
 その横には、見たことがある長身で黒縁眼鏡の同級生。乾という名前はこの時は知らなかったが、同じ2年生であることは知っていた。
 それにしても、不二という人間は同級生どころか仲間内でも無視できないなにかを持っている人らしい。菊丸の言葉に改めて彼の特徴を思い知り、同級生という感覚はなにか間違っているのではないかとすら思えた。

「お望みなら、今勝負してあげようか英二」

 その時、風に乗ってその声はやってきた。
 ゴミ袋を手にし、動き出そうとした足が再び止まる。視界の中が再びあの緑色のコートに支配される。
 その中央に、レギュラージャージを着た不二の姿があった。

「うっわ、お前性格悪い! 『あげようか』だって、『あげようか』! そんなの乾とやれ」
「いいだろう、俺も不二のデータが欲しいと思っていたところだ。来月のレギュラー戦に備えておきたくてな」
「……乗るなよ、乾。そんなことされたら俺惨めなだけじゃん」

 背中と横顔しかない舞台。言葉をひとつも発することがない自分はまるで観客で、その会話の中に入り込むことは許されない。しかし傍観はいくらでも許されていて、コートから少し距離を取っていた今の立ち位置に自分を褒めつつも、はコートの中で繰り広げられる3人の会話を聞く。
 レギュラージャージに身を包み、夏の名残に負けて腕まくりをした不二の姿は素直に綺麗だと思った。

「でも、新人戦まで間もないしね。どうせなら手塚の希望どおりの結果がいいし、そのための練習ならいくらでも付き合うよ」

 妙に身体が緊張する感覚には気づかないふりをして、不二だけを見つめる。
 声は低いか高いかと言われれば、そのどちらでもない。独特の、真似のできない艶があった。周りに溢れている男子の声とはどんなに甘い目をしても同じ括りをすることができない。一度聞いてしまうと決して忘れられない声だ。
 しかし、口にする言葉はまるで模範かなにかか。そつなく無駄のない言葉をあっさりと並べることができる同級生に、唖然とする感覚しか与えてもらえない。

「手塚の希望、ねえ。そんなの手塚に限ったことじゃないし。優勝以外なに狙うんだよ」
「それは確かに」
「だから、その練習。僕、シングルスかダブルスかまだ分からないし、その意味でも英二との練習は絶対に効果的だと思うんだよね」

 菊丸の言葉が雑という意味ではない。しかし不二の言葉には柔らかさがある。それが心の本質からくるものかどうかは判断できないが、しかし人にそう思わせるだけの力がある。

「新人戦が終わったらすぐに来年の夏に向けての練習だしね、今頑張ることに何一つ損はないと思うから」

 はその横顔を見つめ、幾度か瞬きをした後、ぎゅっとゴミ袋を掴む手に力を込める。

(いいなあ、格好いい)

 思えばそれは、とても短絡的思考の産物で。直感だけを是とした、余計なものを一切排除した素直な感想でしかなかった。
 しかし不二の持つ独特の雰囲気を嫌いと思うよりも好きだと思うことの方がよほど簡単で、よほど心に安寧をもたらして、やがて高揚に取って代わられる。それがまったく不快でない。
 じわりと熱を込める手のひらの素直さにますます心臓を跳ねさせ、は慌ててその場から離れる。

「手塚、少し英二と練習させてもらえる」
「ああ、構わない」

 どこか大きめに響いたその声を、背中で聞く。分別場を目指す足は、頬の紅潮を誰にも見せないためだけに使われているようだった。
 不二周助という人間に恋愛感情を抱くことは、まるで難しいことではなかった。

 そこからの時間はおかしなほどに不二に振り回された。
 テニス部の話題を聞けば不二の様子を真っ先に知りたいと思ったし、テニス部の姿を見つければそこに不二の姿がないかを探すことが当たり前だった。青と白のレギュラージャージを見つけた時など最たるもので、不二であるかないかだけが問題だった。
 話したこともない相手。自分は知っていても相手にはまったく知られていない一方通行の恋愛。

「不二くん彼女いるのかなあ、何人か振られてるって話は聞くんだけど」

 いつのまにか恋愛においても味方になってくれていた親友の言葉は、日に日に重くなる。しかしゴールなど、どのように想定してよいものか分からない。

(話したこともない人なのに、どこまで望んでいいの?)

 答えは見つからないまま、いつしか音楽室からテニスコートを見つめることが日課になっていた。
 晩夏がようやく終焉を迎え、いよいよ外は秋によって染められる。澄んだ秋空が夜になって浮かべる星たちはとても綺麗だ。台地にある青春学園中等部の校舎にいれば、秋冬になれば夕方以降の空に誰もが一度は目を奪われる。同じ空を彼はテニスコートから何の邪魔もなく見つめることができるのだろう、そして同じ空を自分も見られるのだろう。そう思えることですら幸せなことなのかもしれない、いつしかそのように思うまま時間だけが流れた。
 秋の文化祭が来るまでは、それが当然の出来事だった。

「テニス部の出店、すごい混んでたよ。手塚くんが売ってるんだって!」

 舞台上で公演の準備をしながら、親友の言葉にため息をつきたくなる。文化部にとって文化祭とは遊ぶ場ではない、部活の場だ。不二の姿を見たい、業務的ではあっても不二と言葉を交わせるチャンスを使ってみたい、そのような思いは自分が吹奏楽部であるという事実の前に簡単にかき消されていた。

「もう、いい。どうせ行けないんだから、テニス部の話しないで」
「なによ、聞けなかったら聞けないで怒るくせに」
「今は聞きたくない方」
「はいはい。不二くん一筋なのも大変だねえ」

 からかう言葉に素直に反応している余裕はなかった。楽譜をぼんやりと見つめながら、自分の道のない片想いに胸が痛くなり気分が悪くなる。眉間に皺を寄せてしまっていたのか、同じフルートの後輩が心配げにこちらを見ていたが、上手く取り繕うことも面倒だった。

(せめて、話せることができたら。そうしたらなにか変わるかもしれないんだけど)

 それが良い方向に転がるのか悪い方向に転がるのか、まるで見当がつかなかったがしかし欲求は目先のことにばかり向く。

(こんな、名前も知らない人間に好かれたって絶対に嬉しくなんか思ってもらえない)

 本当は分かっていた。話してしまえば次の欲求が生まれ、綺麗事など考える暇もなくなり、もしかしたらそれが不二に嫌われる要因になるのかもしれないと。しかしそれでも欲求を止めることができなかった。
 だから、そう。あの時。
 舞台に照明が落とされ、拍手で迎えられて椅子についた後。何百回と練習してきたメロディだ、もはや間違えることが難しい。その落ち着いた気分でいつもどおりフルートを口元に添えていたあの時、暗い舞台下の様子になど気づいてしまったのだ。

(……うそ!)

 フルートパートの楽譜が休符を綴っていたことが救いだった。視界片隅、暗い体育館の下手側の壁。そこにジャージ姿の不二の姿を見つけて、慌てては膝を固く合わせる。もともと合っていたものに強引に力を込めたものだから、がつんと痛みが身体中を通り抜ける。しかしそれすら熱に取って代わられた。
 舞台を見ているだけだ、自分を見ているわけではない。それが当たり前だ。
 そう自分に言い聞かせながら、ソロパートを演奏しきる。息をついてフルートをそっと口から離し、休符に手助けを借りて舞台下を見て、たとえそこで不二の視線がこちらを向いていても動揺などしてはいけない。それは分かっていた。
 だがそれでも、あの最後の瞬間。

「不二くん、いたね。よかったね」

 親友の言葉が届いたのは、舞台上手に下がった後。
 一斉に立ち上がり、観客に礼をしたあの時、不二を見つめてしまった自分を受け入れてくれるような視線の向きをしていた、あの瞬間だけは都合よく捉えてもいいと誰かに認めてもらいたかった。
 話したこともない相手に、自分のことも知らない相手に見つめてもらえることだけで身体が嬉しがっていた。



>>03


08/02/28