風の旋律 01

「好きなんだ、君のことが。どうしても諦めきれないんだ」

 緩く組んでいたはずの五指は、その言葉に自然と力を込めた。じわりと手の内に汗が滲む。緊張が生々しく伝わって不二は心の中で自分に呆れそうになる。
 けれど、呆れるのは後にしよう。ため息をつくのは後にしよう。そう思い、窓から流れる風に誘われて今一度。夕焼けが滲む音楽室で、その橙色の美しい空気の中で、腰掛けたまま想い人を真っ直ぐに見つめる。
 彼女はただ、目を丸くしていた。
 けれどそれが自分の言葉に対する最初の反応だと思えば、それすら愛おしいと思える。

「だから付き合ってほしくて、今日はここまで来た」

 それは3年になって間もない頃。まだ春の中の冷たさを感じ取ることができる、4月の夕暮れの出来事だった。





 体育館でも寄ってみるか、と。その時そう突然呟いた菊丸の言葉に、今思えばなんの意図があったのか。恐らく本人からすれば覚えてもいないような何気ない一言に過ぎなかったのだろうが、不二にとってはそれがすべてだった。

「珍しい。英二が文化的ななにかを吸収しようとするところを初めて見た気がするよ、僕」
「え、なに。今なにがやってるの」
「吹奏楽部の演奏だよ、お昼からは」
「……寝に行くか」

 自分で言っておきながらつまらなさそうな答えを寄越した仲間に、不二は笑ってから文化祭のパンフレットを差し出す。菊丸は欠伸を堪えながら受け取り、使い慣れないそれを一瞥してから「体育館でいい」と不二に返した。
 文化祭もたけなわ。青く澄んだ秋空の下、窓の開け放たれた心地よい校舎の中を体育館へと向かって歩く。
 菊丸とはクラスは違ったが、まわりからは不思議がられるほど気の合う部活仲間だった。男子テニス部で毎年行っている出店の休憩時間が重なり、今更クラスに戻るのも面倒だという理由も一致してふたりで校内を巡ろうと決まったのが、つい今しがた。
 しかし2年生になってしまうと、去年のような感動や興奮も少ない。最たる目的も、限られた休憩時間内では抱くことも難しい。結局は不二も菊丸の意見に従うことにし、ふたりで体育館を目指す。

「静かな音楽の方をやってくれると助かるんだけどなー……」
「今日は文化祭だよ、英二。それは無理な注文だよ」
「1曲ぐらいそういうのがあってもいいって」
「その瞬間にたどりつければ、の話だけどね」

 周りを見渡しても、どこにも静謐という言葉と寄り添っているような雰囲気などない。教室の中からは明るい声が響き、通り過ぎる生徒たちからは笑みが零れ、そして空も青い。開放感あふれるこの文化祭という瞬間に、自分の主観だけを信じて疑わないこの親友が、不二は嫌いではなかった。
 途中、初めての文化祭に興奮して遊んでいる新入生の桃城の姿を笑って見送る。やがて開会式を行った体育館にたどり着くと、扉は後方のものしか開けられておらず、吹奏楽部員だろう女子がこちらだと手で案内をした。

「休憩、何時までだっけ」
「2時半。最後の稼ぎ時は全員で売りつくす、大和先輩の命令だって」
「先輩、卒業した感じしないよなあ相変わらず」

 笑いながら、暗幕が下りた入り口からそっと館内へと足を入れる。一瞬で昼の陽光と断絶されるその空間は、慰め程度にきいている空調の冷たさが心地よかった。
 慣れない暗闇の中、不二は唯一光を宿している舞台を見つめる。
 中央に立つ指揮者から扇形を描くような、整然とした演奏者たちの配置。全員が同じ制服を着ているので、誰が誰なのかはまったく判別つかない。クラスの中にも何人か吹奏楽部員がいることは知っていたが、どの楽器だろうと探してみるよりも早く、菊丸が居場所を探すための歩を進めてしまった。

「普通に椅子に座ると、抜け出せなくなるじゃん」

 そしてたどりついたのは、舞台下手側にあたる体育館の壁。
 その言い訳はもっとものように聞こえたが、堅苦しい休憩を取りたくないという本能が見え隠れしていたのもまた事実。しかし午前中の彼の働きを知っている不二は、これぐらいの報いがあってもいいだろうと苦笑しつつも菊丸のそれに倣った。
 まるで菊丸を待っていたかのように、舞台からはゆったりとした旋律が奏でられていた。

「あ、俺そういえばこの前吹奏楽部の子になんかもらった。なんだっけ、誰だっけ」

 小声ながらも、音楽という空気にまったく溶け込もうとしないのは彼だからこそか。腰を下ろした途端関係のない話をし始めた菊丸に苦笑を止められないながら、「誰に」と問いかける。壁に宿っていた冷房の風の名残と、じんじんと体内に響く演奏の低音が妙に合い、不思議なほど落ち着いていた。

「多分1年生。音楽室から見てたって言ってたけど……」
「それ、普通に告白じゃないの英二」
「似たような感じ。あ、でも断ったけど」
「当たり前だよ、断らないと彼女が怒る」

 そりゃそうだ、と突然真面目な顔をして菊丸は納得した。

「でも俺は彼女いるからそういうふうに言うけどさ、問題は不二だよ」
「僕?」

 突然話の方向が変わる。予想しない展開に不二はやや目を丸くし、菊丸の横顔を見つめる。舞台の照明の恩恵を受けてわずかに見える彼の横顔には、少しばかり不満の色があった。

「そう。彼女いないと、告白された時の振り方に説得力がないよ」

 その一言で菊丸の言わんとすることが分かり、不二は曖昧な相槌を打って視線を舞台へと向ける。この前のことを見られていたか、と少しばかりばつが悪い思いになった。
 名前も知らない同級生に告白されたのは、つい数日前のことだった。
 告白という場面にも、知らない相手からの好意というものにも、不二は免疫がないわけではない。数えるという愚かな行為はしていないが、少なくとも昨日体験したことも一度や二度のことではなかった。
 相手の顔を思い出しながら、不二は菊丸に伝わらないようにそっとため息をつく。

(顔も名前も、ましてや性格も知らない相手と付き合うことの方がひどいと思うけど)

 付き合う過程で求められるものに対し、好意が追いつく自信がない。そう振る舞うことができないわけではないが、それを偽善だと言われれば話はまったくもって成立しない。ならば最初から付き合うなどということをしなければいい、それが不二の持論だった。

「分からないでもないけどさ、でもそうするとさ」

 不二の心を読んでいたかのように、菊丸がぽつりと呟く。

「不二は一体、いつ恋愛するんだろうって気になることがある。だってそもそも、初対面の時がない相手なんかいないだろ。俺と不二が初めて会った時みたいに。初めて会って、今こうしているみたいに」

 菊丸の言葉はひどく率直で、時折不二を黙らせる。テストでもテニスでもこの親友に負けたことはなかったが、しかし不二では発想できない考えを遠慮なしに投げ込んでくる時の菊丸には、不二は黙ることしかできない。
 やがて、流行の歌に敏感な菊丸にとって吹奏楽というものは無縁以外のなにものでもないらしく、瞼が重そうに動いていった。寝ていいよ、と笑いながら言うと親友は素直にその言葉に甘えた。
 菊丸が寝てしまうと、不二がすることは舞台に視線を向けることだけになっていた。

(そんなこと言われても、親友になるのと恋人になるのとでは意味が違う)

 緩く五指を組み、少し行儀が悪いかと思いつつ投げ出した足をそのままにしながら、ぼんやりと舞台を見つめる。

(それこそ、一目惚れでもしない限り。それも僕からしない限り彼女はできないだろうな)

 音楽は山場を迎えたのか、突然金管楽器の鋭い高音が館内に響き渡った。
 菊丸が起きやしないか、とそっと左に視線を移すも、その心配はまるでない。しばらくはひとりで楽しむか、と不二は気持ちを固めて舞台に視線を向け続けた。
 その時、ふわりと。絢爛さが全面に出された曲調の中に、ふわりと溶け込む装いで柔らかい木管楽器の音が響いた。

(……フルートか)

 視線が上手側、前列へと向かう。女子の制服ばかりが並ぶその場所の中、照明に照らされる銀色の楽器がちかちかと鋭く反射の瞬間を生み出す。
 そこに彼女はいた。
 初めこそ無意識だった。囚われたのはその柔らかい音であり、光る楽器であり、曲が進めば進むほど金管楽器の主旋律よりもそこに載せたフルートの音色が目だって聴こえた、それがすべてだった。
 それが、次。どのフルートの音色からなのかが気になっていく。視線が動く。さらう。

(あの子だ)

 やがてたどり着いたのは、フルートのソロパートが金管楽器の上に載せられた瞬間。フルートの列中央に腰掛ける女子の姿だった。
 品の良さはすぐに分かった。遠目でもそして素人でも、その指がいかに繊細で、いかにフルートを知っている動きをしているのかが分かる。指揮者と楽譜とを行き来する視線が動くたび、見えるはずのない睫毛が揺れている感覚に一瞬こちらが瞬きをしてしまう。
 不二はただ、黙ってその姿を見つめていた。時計を気にするのを忘れてしまうまでに。
 音楽はそのまま最高潮を迎え、菊丸が目覚めないまま公演の終了を告げる。
 指揮者の合図で部員たちが立ち上がったその瞬間、盛大な拍手に包まれる空間の中、その視線がこちらを向いたような気がした。
 一瞬、身体が震えそうになった感覚は、しばらく不二の身体から離れなかった。



 いつしか彼女を探す癖がついた。
 しかし学年も、そもそも名前も知らない人間をこの学園内で探すというのはいささか馬鹿げた行為だ。1学年12クラス、全校生徒数は1100名をゆうに越える青春学園。東京都に留まらず千葉や神奈川、埼玉からも通学者のいるこの規模の中では、知っている人間よりも知らない人間の方が当然多い。むしろそれが当然の世界。
 相手は、漏れることなく後者のタイプだった。
 さて、と不二は丁寧に考えを重ねる。考えるべきことは色々あったが、しかし客観的に見て笑い出したくなるほど随分と自分が熱狂的になってしまっている事実を前に、抵抗よりも従順になる道の方が楽しそうに思えた。

「吹奏楽部? ああ、誰か入ってるんじゃない? ……調べたことはないけど」

 自分の主観に忠実に生きる男は、こういう場合は頼りにならない。

「ふむ、吹奏楽。最低限のデータはあるが、個人情報となるとしばらく日数が必要だな。猶予はどれほどだ」

 自分の主観を絶対視している男には、やましさが先行して申し訳なくて頼めない。

「吹奏楽? またどうして……はっ、まさか不二、なにか部活で悩みごとが……?!」

 自分の主観を心配というゴールに向かわせてしまう男には、以下同文。

「ええ、吹奏楽? うーん、ごめん不二。俺、全然知り合いいないよ。ごめんな」

 自分の主観以前に相手を敬う気持ちを出してしまう男にも、以下同文。しかし、

だろう」

 自分の主観に最も忠実であり、絶対視し、心配からくる統制の取れた支配を実行する(そのための努力を惜しまない)男が、最後に答えを用意している予定はまるでなかった。
 目の前であっさりと答えを用意した手塚に不二は不意打ちをくらって目を丸くする。2年生当時の手塚は1年の時のような幼さは大分隠れてしまっていたが、しかしそれでも目の丸みは完全には失われていなかった。身長も目立って高いわけではなく、品行方正な優等生を絵に描いたらこのような雰囲気だろうと納得してしまう、そんな男だった。

「……驚いた、まさか手塚が知っているなんて」

 コート脇、次回のレギュラー戦のための資料を作っている手塚の横顔に素直な驚きをぶつければ、長い睫毛が微かに揺れて不二を見上げる。ベンチに腰掛けた手塚と立ったままの不二では、視界の高さがいつもと逆転していた。
 秋の風が心地よく流れ去っていくテニスコート。悠然としたその空気の中、

「去年、同じクラスだった」

 それがどうした、という素っ気ない素振りで手塚は再び作業に戻る。深く質問の意味を追究してこない手塚の性格に感謝すら抱きながら、不二はしばらくの沈黙を見送った後話を再開する。

「この前文化祭で演奏しているのを見たんだけど、すごいね。素人の僕でも上手いのがすぐに分かったよ」
「小学生の頃から続けているらしいという話は聞いたな。あくまで人づての話だが」
「へえ、そうなんだ。うちの吹奏楽部って強いんだよね? たしか」
「らしいな」
「その中でもソロを吹くことができるって、すごく上手いっていうことだよね」
「だろうな」

 という同級生に対する自分の感情がどのようなものなのか、この時の不二はまだはかりかねていた。だから当たり障りのない会話のみを続けると、手塚は深読みしない姿勢のまま言葉を返してくる。
 しかし、その会話にやがて不二は小さな不快感を抱く自分に気づく。
 すべての会話が手塚の知りうる範囲のことばかりであることに、どこか違和感を覚える。

「……手塚、どうでもいい話なんだけど」
「なんだ」
さんと仲良かった?」

 唐突すぎるその質問に、不二自身言葉にしてしまった後心の中で唖然とする。冷や汗すら感じてしまいそうな急発進の自分の言葉。なにをしているんだ、と思わず息を飲んで手塚にそっと視線を向ける。
 手塚は顔を上げ、静かに不二を見つめた後わずかに首を傾げた。

「仲が良い、という度合いが不二の言うものと一致しているかどうかは分からないが……クラスメイトだ、話すことはあるだろう。それだけだ」
 
 返された言葉に、心が一瞬で冷静になる。風が流れたのはその反応を褒めてくれているかのよう。
 だがその過程に気づいた不二は、挨拶も軽くフェンスから離れてコートの外に出る。水を飲みにいく、という理由をひとつ添えるだけで大石は何の疑問も抱かず笑顔で見送ってくれた。
 足早にテニスコートから離れる。ただ、誰にも見られないところで下唇を噛み締めた。

(馬鹿だ、僕は)

 速度は意図しないところで速くなる。いつしか小走りに近くなり、目的だったはずの水飲み場ですら簡単に通過する。やがて動揺から生まれた荒い呼吸に気づかされて顔を上げれば、そこには校舎。
 音楽室を最上階に持つ、青空の中に立つ真っ白な校舎の姿だった。

(今、間違いなく僕は手塚に嫉妬していた。絶対に。勝手に動揺していた)

 それは、と。台地に立つ青学を愛でるように吹き続ける秋の風が、前髪を揺らして視界を遮る。頬にかかる髪が小さな刺激を与えて今この感覚が現実に他ならないと伝える。
 邪魔な前髪を振り払うため、一度頭を振って見上げた音楽室。
 そこにがいるという事実に、高揚を覚える。じわりと滲む手のひらの熱に、現実がなにかを思い知らされる。天を仰ぐその視界をやや狭め、ゆっくりと心の中で呟く。

(興味で止めるべきだ。なにも知らない相手なんて)

 名前以外知らない。部活以外知らない。今、何組なのかも知らない。そんな相手に興味以上の感情を抱くことはまるで生産性がないと頭は理解している。今ここが地上で音楽室が4階にあるのと同じ、立つ場所ですら異なって手が届くはずがないのが良い例ではないか。何度も頭の中はそれを自分に訴える。
 けれどその時、開け放たれた窓から吹奏楽部の音が零れ落ちる。
 不二は静かに息を整え、ただそっと音楽室を見つめる。

(……自分のことを知ってもらえていない相手なんて、そんなの)

 どうすればいいんだ。呟いたその言葉は風にさらわれ、青い空へと消える。
 戒めの言葉を用意しなければならない自分の今の状況が何を意味しているのか、それに気づくまで、そう時間はかからなかった。不二は苦笑する。ああ、とひとつ諦めの色の混じったため息をつけばそれが全て。久しぶりに自分の意思を離れた心の波は、自分の気づかないところで勝手に力を強く増してしまっていた。
 を校舎の中で探すようになっていく感覚が生まれたのは、それから間もなくのことだった。見つけても声をかけることができない、見つめることしかできない感覚に苛立ちすら覚えるようになるのも、それからしばらくしてのことだった。



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08/02/28