| 諾うはどちら 20歳 |
思い描いていた大学生活は、呆気なく終わりを迎えた。 高望みをしていたわけではない、自惚れていたわけでもないはずだ。海外で活躍する手塚や越前、大学テニスで全国大会常連の不二と自分は違う。自分の実力がどの程度なのかは理解しているつもりだったし、なにより中学の頃からずっと一緒にペアを組んできた親友が医学の道に進むと同時にテニスを趣味の範囲に縮めてしまった時に、ある程度自分の限界は予想できていた。 だがそれは、全てをやり終えて大学4年で満足した時に打たれるピリオドのはずだった。 怪我で膝を痛めて大学2年で全てを終わらせてしまう未来など、想像したことすらなかった。 「楽しそうじゃないか、英二」 「どこが」 「まるで竜崎先生に弟子入りに行くみたいで。楽しそうだなあ、羨ましいよ」 慰めてくれているのか本心で言っているのか、この純粋な親友は時々読めないことがある。叔父に憧れて医学の道に進んだ大石とは同じ大学でもなかなか会えなかったが、偶然にも英二の学部と大石の医学部は校舎が近く、その間にある図書館はどちらの学部生も利用できるような揃えになっていたため、こうして図書館で鉢合わせることがよくあった。 「いいなあ大石、大学にあと4年もいられるんだよな。楽しそうだよなそっちの方が」 「おいおい、楽しいの一言で済ませられるほど楽じゃないんだぞ、こっちは」 「そっくりそのまま返してやる。今から教員免許の単位揃えるのも楽じゃないって」 確かにな、と向かいの席に座って大石は何重にも重なったテキストを手に取る。中学の社会科に関するテキストはなんとなく言わんとすることが分かったらしいが、教職に関するテキストには物珍しさが勝った顔をして、時折英二とテキストを交互に見比べて笑っていた。 「なんで笑うんだよ、大石。今から取るのは無理だって思ってる?」 「違う、違う。いきなりこれだけのテキストを揃えるのも大変だっただろうと思って。よかったな、履修登録前に決心できて」 それは本心からの笑みだろう。怪我のことを伝えた時に一番心配して様々な医療機関に当たってくれたのは、外ならぬ大石だった。だが中学時代からの膝に負担のかかるテニススタイルによる影響は如何ともしがたく、決定的な怪我ではなかったものの、英二は大学2年でテニスを諦める道を選んだ。 たまに大石と気軽に打ち合う程度のテニスしかしなくなったが、医学部の勉強でテニスに割く時間を減らさざるをえなかったことに少しだけ後悔していた親友は、一緒に打ち合えることに悪いと思いながらも嬉しくなるよと常々口にした。 潮時と言えばそれまで。過去に戻って膝に負担のかからないテニスを強いることもできないし、たとえ強いることができたとしても、それは青学の中で自分のポジションを失うことになる。どちらにしろこの結末しか現実として残されていなかったのだと思い至った時、大学3年の前期の履修登録表が目についたのだった。 「実習は間に合うのか? 教育学部はもっと早くからいろいろとしているんだろう?」 「あっちは免許2つ取らないと卒業できないらしいからね。俺は中学だけでいいよ、だから別に実習も4年になった時だけでいい。それまでに単位を揃えられたら。それにさ」 「うん?」 「実習は青学の中等部なんだから、困ったら竜崎先生が絶対助けてくれる」 笑って自信満々に新品の教科書を機嫌よく叩くと、大石はよくテニス部で見せていた困ったような笑い方をした。 「だからか。今度中等部に練習教えに行くんだろ? 賄賂だな」 「人聞きの悪いこと言うなよ。『やだよ、年を取るっていうのは』ってばっかり言ってたから、代わりに練習の監督」 ありえない、と大石にしては珍しく大きな声で笑ったものだから、司書たちに冷然と注意された。声を上げたのは大石なのに自分も一緒に叱られるのは納得がいかなかったが。 「さんには伝えたのか? 実習準備で来年忙しくなるんだろう?」 一通り説教をくらい、教職関係のテキストを興味深げに眺めながら、ふとした呟きの一言。テキストに目を落としていた大石は、その時英二の表情が固まったことに気づかなかっただろう。 教員免許の話どころかテニスをやめたことも伝えていないとは、心配性の親友の前では到底打ち明けることなどできなかった。 「古典のノートもいる? はい」 高等部で何度その文字の世話になっただろう。整然と書き込まれたノートに助けてもらっただろう。何も言わずとも教科書以外も自分の手元に回ってくるようになったこれらのおかげで、高校時代のテストはほとんど乗り越えることができていた。 そのように甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる彼女の姿を、周囲は当然恋人だと思い込んでいた。聞かれた時だけ自分でも口にした。は否定しなかった。だからそれが高校3年間の「事実」であり、誰も偽りに気づかなかった。 誰も想像していなかっただろう、手を繋いだのはたった一度きり。盛大な嘘をつくために必要だった偽装のあの瞬間だけだったことを。それ以外の接触は、何もないまま高校生活を過ごしていたことを。 「英二、亜久津に会ったんだって?」 嘘が見破られたのは意外なところからだった。放課後の食堂でのノートを写していた、あれは高校2年の秋のことだったように思う。 「亜久津? ええ、どこで?」 「亜久津が見たって言ってたよ。この前あそこの河川敷で」 テスト前のテニス部員の習慣だった。河村は既にテニスと距離を取り、将来に向かって修行に邁進している頃だったが、テニス部の仲間と集まることは中学の頃から相変わらず続けていた。テスト前の部活が禁止となる1週間前は、いつもこうして放課後の食堂に集まってテスト勉強という名前のノート写しや問題集の解きあいをしていたのだ。 たまたまその日は、英二と河村、そして乾しかいない日だった。理系の乾のテキストに眩暈がしそうだった矢先の一言に、英二は手が止まる。 「……河川、敷?」 「うん、さんと一緒にいたんだって? そういえば亜久津が心配してたよ」 亜久津が心配するとは何事か、と乾が無言で視線をこちらに向ける。亜久津に関して随分と整った言い方をする河村は、押し黙る英二と追及の眼差しを向ける乾をよそに、にこにこと「さんと喧嘩でもしたのかって」と亜久津の代弁をしてみせた。 河村の一言で、英二は忘れようとしていたあの日のことを思い出す。あれはたまたま、不二にのことを尋ねられた時だった。最近どうしたの、一緒にいないね。その一言に英二はなぜか慌ててと示し合わせて下校時に一緒に不二を見送った。そして持て余した時間は、持て余した距離感とともに河川敷で費やすことにした時だった。 「そろそろ限界だという意味じゃないのか、英二」 ぽつりとつぶやいた乾は、淡々と自分のノートに意味の分からない数式を書き続けていた。理系に進んだこの男のやっていることは、文系の英二から見れば高等部になってますますわからなくなっている。しかし今はその言葉の方が意味が分からなかった。ただじわりと、シャープペンシルを握る手のひらに嫌な汗をかくばかり。 「……なにが?」 「をそろそろ解放してやらないと、お互い傷が深くなりすぎるんじゃないかという意味だ」 真意を問いたださずとも答えは出ていた。申し訳なさそうに河村が頷く、それだけで英二は全てを察して視線をノートに移す。3年目の嘘に随分と前から気づいていたという二人は、いつこの話題に触れるべきかずっと悩んでいたという。 ノートに溢れる誠意は、恋愛感情だということに気づいたのはいつ頃か。高等部に上がって、与えられる優しさの居心地の良さに気づいた頃か。けれど本人が必死に隠そうとするから、あえて英二も気づかないふりをしてきた。それは嘘を嘘として疑問に思わなくなる効果もあって、結局乾たちに指摘されるに至ってしまったのだろう。 始まりは2年以上前の出来事だった。つまり2年以上、との不思議な関係は途切れることはなかった。 「拒否されない、と思っているならそれは間違いだからな、英二。それはおこがましいという類の回答だぞ」 「……乾が恋愛の話するなんて怖いんだけど」 「それほど周囲の人間が気にしているということだ。気にさせられているとでも言うべきか」 課題を終え、乾はさっさと家路についてしまった。食堂に取り残された英二は、付き合ってくれている河村の沈黙の優しさに甘えたまま、痛みに疼く胸を我慢したまま、ただひたすらのノートを写し、テスト勉強をした。 久しぶりに思い出した高校時代の記憶は、快晴の寝起きとして迎えるには優しくないものだった。 夢のような感覚が頭の中を駆け巡っているが、一言一句記憶の会話と間違いのない正確な夢など気味が悪い。それだけ心の中に抑え込んでいる記憶なのだろうか、と少しだけ苛立ちながら英二は携帯電話を見つめる。アラームの設定時刻より早く起きた自分はそれほどテニスを教えに行きたいのか、竜崎に会いたいのか。 (結局、別れるようなことをしなかったからか) 今でも携帯電話のアドレスは登録されている。メッセージの交換を最後に行ったのはつい2週間前だ。それは普通の恋人同士であれば時間が空きすぎたものかもしれないが、自分たちは偽ることを是としている。誰も見ていないところでは、演技をする必要もない。大学が離れてしまった今では、偶然が働かない限り二人で会うこともあまりないのだ。 ベッドに横になったまま、カーテン越しの朝陽を眩しく思いながら乾の言葉を思い出す。解放しないまま3年近く過ぎてしまった、始まりから5年を迎える今をどうしようかと思う。お互いに一歩を踏み出せないまま続いたこの5年の関係をどうしたらいいのか、もはや英二にも分からなくなっていた。 「竜崎先生ー」 「おお、菊丸。悪いね、いきなり助っ人頼んで」 「いいですよ、大丈夫です。先生には来年助けてもらわなきゃだし」 「もうそんな年なんだねえ、年を取るはずだよ」 「あれ、珍しい。先生は年寄り扱いするなって怒るまでが先生でしょ」 そうありたいものだね、と豪快に笑い飛ばして竜崎は英二と連れ立ってテニスコートへと向かった。どこか晴れない気分のままたどり着いた青学だったが、英二は青空の下に堂々と座しているコートに思わず目を細める。 懐かしい光景、においだった。この場所でどれほどの時間を過ごしたか分からない、どれほどの種類の感情を抱いたか分からない。自分よりも強い実力者たちに最初こそ羨望や嫉妬を抱けど、チームという見方に変われば安心感に取って代わった、そんな小さな成長を見守ってくれていた場所でもある。年をとったのは自分の方かもしれない、と思いながら、英二は後輩たちに自分を紹介する竜崎の隣で頭を一度下げた。 今の青学は全国に行けるレベルではなく、また都大会止まりだと竜崎は笑っていた。自身も定年を数年後に控えており、後継者を探したいと呟いていたのは最近のことだ。その候補というわけでもなかったが、テニスをやめたと報告した際に教員免許を取るつもりだと告げたら、あっさりとここに連れてこられたのだった。 試合に出られるようなテニスはもうできなくなったが、指導側であれば全国大会出場の経験は大きな強みとなる。現役で活躍している手塚たちにはできない芸当で、案外自分はこちらの方が向いているのかもしれないと、後輩たちと笑いながらテニスをしていた時だった。 まさか、そこにいるとは思わなかったのだ。予想の欠片も用意していなかったのだ。 菊丸、と竜崎に呼ばれて振り返ったフェンス越しに、の姿を見つけることになるとは夢にも思っていなかったのだ。 「今、国語科で実習をしているだ。お前たち、同級生だっただろう? 久しぶりに話していってもいいんだよ」 竜崎が悪意ない言葉を残してテニスコートから去っていく。悪い冗談だ、と思う心は多分には見透かされていただろう。この人はこちらのことに関しては、英二自身よりもよく知っている節がある。 「……教員免許を取る予定なんて、知らなかった」 やがて呟いた言葉は、少しだけ失望にも似た色をしたもの。中学高校と聞き続けていたはずなのに、スーツ姿のから届けられるその低い声は随分と他人行儀な気がした。英二は所在なげに髪の毛を触った後、小さくため息を一つ零してフェンスにもたれかかる。中学生だった当時から変わらない景色は、しかし今、中学校の懐かしさを思い起こさせるものとは少し異なる空気が漂っている。それは自分が私服でコートに立っているからか。がスーツを着ているからか。距離があるからか。目が、合わないからか。 の疑問も当然だった、確かに伝えていなかった。しかし伝えなければならないとは言われていなかったし、何より自分の傷に触れていい人間はまだ自分以外に見つけたくなかった。 「もっと違う道に行くと思ってた、テニスとか」 しかしは遠慮なくその話題に触れてきた。本人としては安全な道のつもりだったのかもしれない、確かに沈黙を埋めるためには一番手っ取り早い話題だっただろう。高校の時までであれば。大学生になることで随分自分たちは違う道を歩むようになっているのだと痛感させられる。 「テニスね、やめたんだ」 「え?」 「怪我したんだよね。もうできないから、教える側に回ったんだよ」 端的に説明して、理解してもらってまた距離のある関係に戻った方が楽だと思えた。テニスをしていない自分など、彼女の中ではその存在意義をどれほど失ってしまうのかと尋ねるのも想像するのも恐ろしかった。 フェンスを離れようとすると、一緒に帰りたいと珍しくが自分の希望を告げた。拒否する権利は自分にはない。英二は曖昧に頷いて、コートでの練習を終えたあと随分と小さくなったように見える正門前でを待った。 思えば、それがを待つ初めての時だった。高校の時まで、いつもは自分の用事に合わせてくれていた。学校の外に一歩出ればほぼ他人の関係だったし、校舎内で会うにしても英二がの元に行ったり、待ち合わせ場所を指定したり呼び出したりすることができた。そして大抵、は自分よりも早く到着したり駆け足で来てくれたりして、無駄な時間を過ごさなくてもいいように気を配ってくれていた。 (待ってるのって、時間が長いものなんだな) 携帯電話のメッセージの返信も、そうだったのかもしれない。自分は好きなタイミングで返信をしていたが、それは決して早いと呼べるものではなかったと思う。恋人同士を装うにしてももう少し配慮があってもいいだろうと思えるほど自分たちの言葉のやり取りは淡白だった上に、表に見える言動の裏にある思いやりの心は、ひどく自分は冷めたものだったかもしれない。 この関係を続けるにしろ終わらせるにしろ、もう少し自分は何かを慮るべきではないのか。大石が、河村が乾がそれぞれのやり方で自分を気遣ってくれたように。そう思っていた時、が大きな鞄とともに正門の裏から顔を覗かせた。 「ごめんね、待ったよね。遅くなってごめんね」 見慣れないスーツ姿だったが、随分と似合っている。実習も3週目の終わりに差し掛かり型がしっかりしていないと本人は言うが、英二には着こなしているようにしか見えなかった。 「英二が中等部のコートに立ってると、すごくコートが小さく見えるね。私びっくりしちゃった」 「そう? 乾なんか来たらミニチュアみたいに見えるんじゃない」 「あはは、そうかも。みんなは元気? まだ会ってるの?」 「会ってるよ。無駄に元気。不二もさ、」 その時、の表情が一瞬で固まった。ああ、と英二は歩きながら心の中でため息をつく。高校時代、思えば不二の名前は極力出さないようにしていた。しかし不二と仲違いしたことは一度もなく、むしろ高校生になって幾分かくだけた不二は英二の悪乗りに付き合ってくれる場面すらあり、大石とはまた違った親友関係をうまく続けることができていた。 目の前に彼女が来たこともあった。当たり前のように笑顔で手を振ることができた。二人を堂々とひやかすことすらできた。けれどそれを、の前では一言も話さなかった。おかしなほどに心は揺れなくて、失恋という経験をした自分は何だったのかとがっかりするほどだったのだ。 思えば、自分は彼女の整ったものにただ目を奪われていただけなのではいかと思う。不二と一緒にいることで随分と鍛えられたはずのその目も、中学当時はまだ付け入る隙があるほど不完全なものでしかなかったのだろう。整ったものが整ったものと一緒になって並んでいる絵は、綺麗だと思うことはあっても嫉妬の対象にはならない。そう、テニスの実力で手塚や不二に対する嫉妬の感情をあっさりと放棄できたあの時と同じように。 「みんな元気そうなら、よかった。英二も」 英二の困惑をよそに、はいつのまにか表情も整えて笑って言った。曖昧に相槌を打ち、青春台駅へと向かう。高校までの時と同様、決して手を繋ぐことはなかった。 きちんと言葉に出して終わらせなければならないのだろうか、と誰かに心の中で問いかける。答えを用意してくれる者はいない。唯一の解答権を手にしているばすの自分も、なぜかすぐには答えたがらない。面倒だし億劫だと思う心だけは強く感じるので、やはり今日も自分は別離を切り出さないのだろうと他人事のように思うだけだ。 「英二」 延長戦はいつまで続けていいのだろうかと考えていた矢先、ホームにその人は立っていた。 英二もも、揃って足を止める。竜崎に用事があったと淡々と述べるのは不二だった。そしてが英二の隣に立っている姿に、小さな喜びを見つけたような笑みを浮かべる。 「さん、元気だった? 変わりない?」 英二ははっと俯きかけた顔を上げる。突然目の前に降って湧いた機会だった。もし今ここでが否定してくれれば、第三者の不二に伝える形で言葉に出してくれればあっさりとこの関係は終わるだろう。自分で手を下さない後ろめたさは自分を卑怯者だと罵ったが、最短距離の結末に焦りが出る。 しかし、は曖昧に笑うだけだった。不二もそれ以上尋ねようとしなかった。 快速電車に先に乗り込んだ不二を見送った後、会話は途切れた。二人で会えば他愛無い会話をしていたのはいつの日のことか思い出せないような、長い沈黙だった。 「ちょっと、付き合って」 そしてあの日以来の手を握り、電車に乗って向かったのは自分の家だった。 末っ子の特権は成人してからますます強化された。兄弟たちはことごとく自立して家を出ていき、時間にゆとりのできた両親は英二が一人暮らしを望むのを拒否する条件として度々旅行に出かけることを提案した。1泊どころではないその旅程は英二に疑似的な一人暮らしを体験させてくれるものであり、両親と末っ子の協定のような形で今日も続けられている。 おかげで、夕闇の時間帯に異性を部屋に入れたとしても、誰にも文句は言われない。追及もされない。いや追及をするなら、であるべきだった。しかしは手を繋がれたまま、ただ黙って青学からここまでついてきてしまっていた。その従順さに英二は呆れる。 「いつまで俺に付き合ってくれるつもりだった?」 電気もつけないまま連れ込んだ自室で、静かに問いかける。は答えない。沈黙が昔のような優しさを生み出すこともなく、英二は苛立ってその手を掴む。 掴んだ手首は、思った以上に細い。当たり前だ、近くにはあっても見ていることしかしなかったその白い腕は、自分のもののようで自分のものではない。この年になって初めて触れてみて、如実に伝わる温もりに緊張する自分はばかげていると英二は思う。 「……何言ってるの、英二」 「どうして不二の前で嘘だよって言わなかったの? 嘘です、付き合ってませんって。お人好しにもほどがあるよ」 後から振り返ればそれは口にすべきものではなく、心に思うことすらあってはならない類の感情だった。中学3年当時のこちらの都合に合わせて特別な関係を演じてくれていた人に、その気持ちに気づいていないふりをして甘え続けていた人にそれを無垢なふりをして利用してきた人間が抱いていい感情では絶対になかった。第三者であれば鼻で笑える情けない感情だ。 嫌われなければ、終わらない。終わらせなければならない。自分の本物であったかどうかも分からない失恋に5年も付き合わせた責任の取り方は、英二にはそれしか思いつかなかった。 「キスでもされたらどうするつもり?」 唇を重ねることが難しいとは思わない。相手であることも何の障害にもならない。好ましくない感情を抱いていれば、そもそも中学時代にあれほど言葉を交わしたり、彼女の物に触れたり、優しさに甘え倒すこともしなかった。 むしろ、ここで男の暴挙に出れば幻滅してくれるだろうと英二は思っていた。傷つける言葉を羅列しなくても、効率的に働かせられない頭で言い訳を考えるよりも、一瞬で全てを終わらせられる。そう思ったからこそ、薄暗い部屋で手を握り顔を近づけたというのに、はただ真っ直ぐ英二を見つめて拒もうとしなかった。 その先を拒んだのは、唇が触れ合う寸前で止めた英二だった。 「……嫌がればいいのに、こんなことする俺」 間近で囁く。藍色と灰色が混ざったような世界の中で見るの目は大きく、とても澄んでいた。実習で生活が乱れているのか、少し肌荒れをしているのが逆に生々しい。これまで遠目に見るだけで、触れることのなかったからは想像できなかった温もりや香りに一瞬体のバランスが崩れそうになった。 黙った英二に、ただは小さく笑った。 「それでもいいと思えるぐらい好きだったのに」 呼気が頬に触れる距離で呟かれた瞬間、視界の片隅に頬を伝うものが映った。の手が伸びて首の後ろに回される。今までで一番近い距離で、涙を浮かべたまま嘘の恋人は懇願した。 「それなら、これで最後にしてよ。もう好きになんかならない」 言葉の最後は、もしかしたら途切れてしまっていたかもしれない。 どちらともなく近づいた唇が触れ合った瞬間、嘘の壊し方はなんて簡単なんだろうと思った。けれどそれが正解かは分からない。ただ視界には、ベッドに押し倒したの黒い髪が広がっている。 夕闇はいつしか雨の気配に変わり、外の世界にはただひたすら何かを遮断するような大粒の雨が降り注いでいた。 |
| >>25歳 21/06/18再録 |