諾うはどちら 25歳

 僕の8年間近くの心の重しを、親友は知らない。
 角度を変えれば悪意とも判断できる僕の行動は、確かに10年前は無意識の産物のはずだった。示された好意を迎え入れる準備はとっくの昔にできていたから、ただ素直に受け入れた。それだけのはずの出来事を、僕は親友を傷つけるという結末のために使ってしまっていた。
 そのような事実に気づいつたのは高校2年の秋のことで、テニス部を去ってから生来持ち合わせていた世話焼きの精神が爆発したタカさんという親友が、難しいタイミングの中で教えてくれていた。
 その時僕は、こう返した。

「いや、英二はさんが好きだったよね?」

 そうなんだけどね、と返したタカさんの困った顔を、僕は忘れない。その隣で「何度かトラップはしかけてみたんだが」と慣れない恋愛話をすることに辟易した乾が遠い目をしていたことも忘れられない(そしてもっと言うなれば、当時彼には僕とタカさん以外には秘密にしていた彼女がいた)。
 2年間以上僕に秘密にし続けた彼の「本音」は、年月を経れば経るほどひどく扱いに困る、こじれた感情のようになっていた。

「あれだけを利用しておきながら、違うんです本当は違う子が好きなんですとは随分都合のいい話なんだが。カムフラージュするにしてももう少し違う言い方もあっただろうに」
「嫌いな子だったら教科書借りに行かないよなあ。どうしてまめに食堂でおごってたのか、英二自分でも気づいてないんだろうね」

 それぞれ柳(に備わった知識)と亜久津の母という恋愛に関するエキスパートを味方につけている二人は、あっさりと英二の嘘を見破いてみせる。第三者から見ればそれ以外にどんな正解があるのか考えられないほど真っ当な推理で、特にタカさんに至っては亜久津とともに寿司屋に顔を出してくれる彼の母に全て推論を用意してもらっていたらしい。辞めた人間には違う見方ができるんだよとちょっと自信満々に語っていた姿が忘れられない。
 それでも僕は、いつか英二がきちんと自分で答えを見つけられるものだと思っていた。人の好意に無頓着なようでその実裏切ることが苦手な彼は、人の誠意には気づきやすい。それはかつて、ダブルスのパートナーである大石に怪我を秘密にされていたことのショックがいい形で昇華できて、人に信頼してもらうためには自分が成長しなければならないと思うようになったのが大きい。
 これほど英二を分析することができる僕に、隠し事を続ける英二は非常に浅はかだと断言できる。乾のように僕もいくつか罠をしかけてみたことはあったが、全て全力でかわされてきた。その横顔は、作られた片想いを引きずる自分に酔っているようで、その横顔を違うところから見ているさんが大変そうで、正直なところ僕は

「不毛だねえ」

 としみじみと呟いてしまったのだった。もちろんタカさんと乾は僕に反論しなかった。
 英二の嘘に付き合ってあげるほど僕はお人好しでもなければ、さんを裏切れるほど非道でもない。僕と英二の記憶には、いつもどこかにさんがいるのが中学時代だった。

さん、英二から預かりものだよ」

 そう言って彼女の5組を訪れた回数は数知れず。どうして僕が、と思うことがなかったのは、さんとその親友が面白かったからに他ならない。さんは英二への片想いを必死に隠している様が単純にいじらしくて僕に何かできないかなと思わせるばかりだったし、そんなさんの親友は若干声が大きいのでよく「不二くんにあんな態度を取るなんて」とさんをからかっていたのを聞いていた。それはそうだろう、だって彼女は英二しか見ていない。そう突っ込みを入れたかったのは一度や二度ではない。

さんがいないと、英二の学校生活は成り立たないだろうね」

 一度、踏み込んでそのように言ってみたこともあった気がする。誰が見ても英二とさんの隠れた両想いだったから、いい加減ゴールを用意すればいいのにと少々じれったく思っていた時期だった。さんは曖昧に笑うだけで、その後で親友の方が大きな声で英二の倍率の低さについて語っていたと2組に帰ろうとしていた大石が廊下で耳にしている。英二は外部受験をするのかと真剣に僕に問いかけてきた副部長の姿も、忘れられない。
 英二に同じ問いかけをすると、「そうだね」とあっさりと認められた。しかしその裏で、さんに違う女子のことを語っていたことまでは僕でも想像できなかった。タカさんと乾の打ち明け話で初めて知る真実に、さんが過度ないじらしさを見せ続ける二人の関係の答えを知る。付き合っているというわりにはどこかよそよそしい二人。その理由に僕が関わっていたとは、驚きを通り越してちょっと腹立たしくもある。

「……ああ、ということは。この前のあれは、まさしく演技ということなんだね。ねえタカさん」
「ああ、河川敷の話? そういうことなんだろうね。変にフットワーク軽いから準備できるんだろうけど、それに付き合わされるさんが大変だよ」
「自分の身内と思っていないと、あそこまで傍若無人な振る舞いは許されないものなんだがな。が甘やかしすぎたな、これは」

 確かに、とタカさんと頷きながら僕は思い出す。タカさんたちにこうして英二の片想いの話を打ち明けられる前、英二とさんの距離感に違和感を覚えながらもまだ純粋に二人を応援していた1週間ほど前だっただろうか。朝の練習の後、コートで「最近どうしたの。一緒にいないね」と英二に尋ねてしまっていた。ただ純粋に気になったからだったというのに、英二はわざとらしくその日の帰りにさんと一緒にいる姿を見せつけてきた。そして話は亜久津(の母)の発見に繋がる。大人な彼女の目から見ればその違和感は明らかで、そろそろ気づかせてあげたらとタカさんに優しくアドバイスをしてくれていたらしい。そこまで他人を巻き込んでおきながらいまだに本当の結論に気づこうとしない英二に、じれったさ以外の何を感じることができるだろう。だから僕はタカさんと乾を前に、解き終わった問題集を片付けながら笑って呟いた。

「僕を騙そうとするなんて、英二もいい度胸してるよね」

 呟いた一言に、なぜかタカさんと乾は同意しなかったけれど。一瞬無表情になっていたけれど。
 その後も僕の奮戦は続いた。自分の恋愛を放っておいて英二に構っていたこともある。おかげで彼女と何度か喧嘩した。英二が片想いの相手を違う名前に設定しているものだから、さんは苦しんでいるし僕は怒られる。心から心配しているのは多分タカさんだけで、乾はただ面白がっている。不毛という以外に表現の仕方が見つからないまま、高校生活は過ぎていった。ある意味英二の勝利である。
 しかし、英二の勝利ということはその陰にさんの並々ならぬ努力や忍耐が隠されていることを、僕たちは知っている。そしておそらく英二も薄々気づいていた。だから彼女が違う大学を受験する話になった時、英二はあまり驚かなかったのだろう。それは嘘が限界にきていた、お互いに本音をぶつけあう時だったというのに、何も進展させないまま二人は違う大学生活を送る道を選んでしまった。
 卒業式、英二の第二ボタンを受け取った後に少しだけ泣いていたさんの姿が忘れられない。

さん、もう僕知ってるから。無理に演技しなくていいから」

 英二のいないところで、僕は後輩から贈られた花束を抱えたままそっと呟く。さんはとても驚いた顔をしていて、周囲からは既に見破られているのに必死に取り繕ってきたさんの努力が、その表情だけでもよく分かった。
 僕は英二の親友だけれど、だからといって全てを黙って許すというのは違うとその時ほど強く思ったことはない。桃たちと笑いあっている姿はテニス部の3年生としては理想的だったかもしれないが、あまりに他の誰かに犠牲を強いるやり方に、そして本人もひどく息苦しさを感じているであろう生き方に、誰かが終わりを告げなければ次が始まらないとつくづく思う。
 しかしそんな僕の心はさんには丸わかりだったらしく、笑って首を横に振るだけだった。

「それでも好きだから、仕方ないんだと思ってる」
さん」
「不二くんも、英二と仲がいいから怒ってくれるんでしょ? 一緒だよ」

 それが、高校生活で僕が見たさんの最後の姿だった。
 学部こそ違えど、示し合わせたように全員が青春学園の大学に進学した。ただし僕とさん、手塚を除いて。手塚は学業を第一に考えられるような状況にないほどのテニスの実力者となってしまっていたし、僕はテニスの引き抜きがあった。手塚がいないのであれば青学にさほどこだわる必要もなく、また大石もタカさんに続いてテニスから離れる選択をしていたから、僕は青学から離れるという道をあまり難なく選ぶことができた。
 英二が怪我でテニスをやめたと聞かされたのは、大学2年の新進テニス選手権大会のあとだったと思う。竜崎先生に後輩指導について色々と学ぶことのあった僕は、それを英二ではなくため息まじりの竜崎先生に聞かされた。アクロバティックを褒め称え続けた先生には何か思うところがあったのかもしれない。しかし、その後に付け加えられた情報に僕は驚かされることになる。

「4年になったらうちで教育実習をするそうだ。私の定年前でよかった。ま、もう少しばかり面倒見てあげられそうだよ」
「実習? 誰がですか」
「何言ってるんだい、菊丸だよ」

 また勝手なことを、と僕が怒ったのは秘密だ。英二に選択権のある人生なのだから横槍は不躾である、それは分かっている。しかし僕に伝えていないということは、恐らく他の誰にも伝えていないということで、

「そりゃもちろん、伝えていないだろう」
「伝える勇気があったらもっと早く付き合えてるよね、あの二人は」

 カウンター越しに寿司を握るタカさんと、無表情で食べ続ける乾はあっさり同意してくれた。
 不二も世話焼きだな、と呟いた乾の一言はあまり耳に届かなかった。笑ったタカさんの用意してくれたお寿司は中学時代に比べると格段に上品になっていて、皆自分の経験を人生に反映させていることがよく分かる。それなのに僕の親友は、相変わらず前進を嫌って紆余曲折という言葉を都合のいいように解釈しているようにしか見えない。
 だから僕は、一撃を与えられる時を待っていた。物好きだな、と乾が呟いたことは気にしていない。不二の本気は怖いからなと笑ったタカさんは援護射撃をするよという意味だと解釈した。
 あの日、英二とさんが青学で鉢合わせになることを僕が知っていたと言ったら、英二はどのような顔をするだろう。
 違う大学で教育学部だった彼女は、実習先の都合で附属中学ではなく母校の青学に1ヶ月の教育実習に来ていた。竜崎先生と会う約束をしていた日にそれを知った僕は、英二が教員免許を取る予定だということを思い出してあっさりと作戦を思いつく。

「先生、テニス部は誰に任せるか決まっているんですか?」
「さて、誰がいいだろうねえ。不二がやってくれるのかい?」
「僕より適任だと思う人がいるんですけど」
「お前より適任? そりゃ随分と大口じゃないかい?」

 職員室で笑い飛ばす先生の姿は相変わらずで、そこで英二の名前を出して妙に納得されるのを予想するのは簡単だった。英二の未練を見抜いて違う形でテニスを続けさせたいと考えていたに違いない先生が、英二に監督補助を命じるまでそう時間はかからなかっただろう。
 全ては僕の計画通りだった。二人が鉢合わせればまずそれで話が進むだろうし、もし僕がそこに加わることができたら前進速度も上げられるかもしれない。ついには大石まで加わったタカさんの店の定例会でその計画を伝えたら、全員に沈黙された。

「不二は俺よりお節介だったんだな」

 会議の新人である大石に呟かれた一言の真意は、考えないようにした。
 よく晴れた、初夏の青空の下だった。僕は竜崎先生の元を訪れていた。そしてフェンス越しに話す二人を見て、普通にお似合いなのにと思った。安易かもしれないが、バランスがいいというのはあのような二人なのにと、会話の届かない場所で思っていた。
 どうして嘘にこだわるんだろう、という怒りに近い感情を胸に抱いたまま、僕は用事を済ませて駅へと向かう。そして僕を見つけた英二とさんが、気まずさを隠しきれていないことに悲しくなる。

さん、元気だった? 変わりない?」

 最後の助け舟だった。英二が本心を告げてもいい、僕は盛大に祝う準備はできていた。さんが困ってもいい、それならば僕は英二に真実を知っていることを告げるつもりだった。嘘のつもりだろうけど、嘘になっていないよと。
 それなのに、そこでさんは曖昧に笑って誤魔化してきた。英二も何も言わなかった。ああ、まだ中学時代の嘘が二人を縛り付けている。どちらかが互いの願いをきちんと伝えない限り、同じ気持ちを抱いていることをお互いが伝えてお互いが受け入れない限り、この二人の意味のない恋人関係は延々と続いていく。
 それでも、僕はそれ以上先に踏み込むことができなかった。壊さないでとさんの目が訴えていた。
 その後、二人がどうなったのかは知らない。僕は先に電車に乗り込んだし、英二からの連絡もなかった。あの後天気は急変して、不思議な色の夕闇から大雨に変わったことだけは覚えている。そして会えば他愛無い会話をするのは常なることで、そこにさんの名前が出てこなくとも違和感がない生活を送ることができるだけの度量が大学生活にはあった。もはや変わらなくてもいいのではないかと思うようになっていたほどだ。

「終わったよ」

 25歳になった今、仕事帰りに英二と訪れた居酒屋でそう聞かされるまでは。
 日本酒を口に運びかけた手が止まる。英二は淡々とビールを口にしていたが、珍しくまるで酔いが回っていないようだった。だからこそ、余計に先ほどの言葉が重さを増して耳に残る。
 この男はいきなり何を言っているのだろう。どうせ片付いていないだろう、まだ延々と付き合っているのか付き合っていないのか分からない関係を二人の世界で続けているのだろうと、酔いに任せて久々に問いただした本当の答えは、8年目にしてあっさりと返された。この場に乾たちがいないのが口惜しい。いや、せっかくビールから始まって気分よく仕事上がりの酔いに浸ることができた時間が全て吹き飛んでしまったかのように感じるのも寂しい。
 そんな僕の勝手な心情などもちろん慮ることなく、英二はなぜか急にさんとの話を始めた。

「だから、終わらせたんだって。不二と会ったあの日に」
「あの日? いつ」
「とぼけるなよ、わざと竜崎先生に会いにきてたくせに。向こうが実習してた時だよ」

 僕の考えを幾分か見透かされていたのは心外だったが、悔しがるよりも先に話の続きを聞きたい気持ちが勝ってしまう。珍しく僕の表情にも表れてしまっていたのだろう、焼き鳥を食べながら少し英二は笑った。

「あの後俺の家行って、話して終わった」
「……」
「なんだよ、その目」
「いや、あの大雨の日に? 家に行って? 話して終わり?」

 よく覚えてるな、と英二は笑って塩つきの焼き鳥を僕の取り皿に移す。僕たちは周囲からは正反対の性格に見られがちだが、案外共通点は多い。だからこそ高校6年間の間に連れあう仲であったし、大学卒業後もこうして時間が合えばたまに飲みに出かけたりする。アルコールのお供に刺身や唐揚げや焼き鳥ばかりを平然と選ぶ好みが共通しているのはテニス部時代の名残のようだった。意見が合わないところといえば焼き鳥をタレで食べるか塩で食べるかという点ぐらいだ。もちろん英二はその点を覚えていて、喧嘩になる前に焼き鳥は必ず2種類の味付けで注文する。
 そんな英二の誠意にありがとうを言う暇もなく、僕は疑問符を片付けられない気持ち悪さに話を急かす。まるで分かって焦らしているのか、英二は笑うばかりだったが。

「話すまでに何があったかは不二の想像に任せるけど、でもまあきちんと方は付けたよっていうことで。だから終わったよって。はい、おしまい」
「……さんはそれで納得した?」

 明け透けな内容に突然舵をきった居酒屋での会話だった。いや、アルコールの力があるからこそ語られる内容なのかもしれない。タカさんのお店で素面で乾に詰問されては話せない内容だろう。だから僕も遠慮がなくなる。この際疑問点を全て明かしてもらわないと、少なからず納得のいかないこの結末を自分の中で片づけられそうになかった。

「したよ。それがいいって向こうが言った」
「いや、嘘だよそれ」
「なんでだよ、なんだよその自信」
さんが簡単に英二を諦めると思う? 僕は思わないよ。あれだけ英二の我がままに付き合って、しかも5年も。それで話して終わり? 片を付けた? いやいや、ありえないよ」

 妙にさんの肩を持つ僕の言葉に、英二はおかしそうに笑うだけだった。曖昧な関係に終止符を打つというのは、これほどまでに人をすっきりとさせるものなのだろうか。いや、させたいと思っていたからこそ僕たちは陰で奮闘していたわけだけど、その結末は180度違うものであってほしかった。
 大学卒業後、無事に教員採用試験に合格して英二は青学の中等部の社会科教師になっていた。晴れて竜崎先生の跡を引き継ぐ大役を任されたわけで、珍しく手塚もコートに様子を見に行ったというのだから、顧問の英二の株は果てしないほど上がってしまったと聞いている。それは手塚に憧れる男子生徒はもちろん、あの手塚と対等に話している英二に、女子テニス部が好奇の目線を送っていたというのだから掴みとしては最高の仕上がりだっただろう。
 今の英二は、怪我をした大学生の時と比較すると随分と充実した道を歩んでいるように見える。それは先ほどの英二の言葉が嘘偽りなければ、さんとの関係が終わった後になる。なんて皮肉だ。それとも違う恋愛でも見つけたというのか、僕は日本酒を飲むペース配分が若干うまくいっていないことに気づきつつも、妙な苛立たしさに勝てる術を他に見つけられない。
 さんが親友に恋をしているあの姿は、僕の中学時代の立派な思い出の一つだったというのに。それをこの親友は、あっさりと踏みにじって自分だけ先に行こうとしている。それがやるせなくて、勝手に英二の分の日本酒まで注文していた。

「なんで不二が怒ってるんだよ」

 いつの間にか日本酒も飲みこなすようになっていた英二は、美味しくたしなむ飲み方を満喫しながら笑う。

「怒ってはいない。怒ってはいないけど、気に入らない」
「一緒じゃん」
「いや、僕だけじゃなくて乾たちも絶対に同じことを言うと思うよ。僕を説得できないなら、乾たちも絶対に納得しない。タカさんなんか泣くと思うよ」

 説得ね、と枝豆を取り出しながら呟く。もともと僕よりも身長の高い彼は、25歳にもなると表情からも幼さの残る丸みが取れて、シャツとネクタイの似合う男になっていた。その横顔を多分さんが見ていたら、きっと今の僕以上に納得しようとしないだろう。どうしてさんの連絡先を調べておかなかったのだろうなどと、この時の僕は見当違いも甚だしい憤りを抱えて日本酒を飲んでいた。

「じゃあ、別の証人が来てくれたら納得するの? 不二は」

 くだを巻くような僕の態度に辟易したのか、英二は携帯電話を取り出して突然誰かに電話をし始めた。日本酒の入った津軽びいどろの縁をなぞりながら、時々笑いながら。どうしてそこまで笑っていられるのか僕にはまるで分からず、たとえどのように弁の立つ証人がやって来ようとも、英二一人が勝手に納得しているような物事の終わり方に納得してやるものかとすら思っていた。

「あれ、不二くん」

 しばらくして、その人が目の前に現れるまでは。
 何度津軽びいどろの色が変わったか分からないほど飲み続けていた手を、その時ばかりは簡単に止めてしまった。まるで英二と同じように笑いながら店内に入ってきたのは、そして英二の隣に当然のように腰かけたのは、5年ぶりに見るさんだった。

「私もお邪魔していいの? いつもありがとうね、不二くん」
「はい、不二。証人」

 なに飲む、と当たり前のように問いかける英二に、カシスソーダと当たり前のように答えるさん。メニューをまるで見ないまま料理もいくつか追加していく二人を見て、僕はようやく事の顛末を知る。

「……さん、このお店初めてじゃないね?」
「不二くんが教えてくれたんでしょう? ありがとうね」

 にこにこと、美しいグラスに入れられたカシスソーダを美味しそうに飲むさんに、僕はもう何も言えなかった。

「……いつから?」
「だから、終わったって言ったじゃん。あの時にきちんと片を付けて、ちゃんと付き合いましょうと。だから付き合ってるふりをするのはおしまいにしたってこと」
「……まさか英二にそんな言葉のレトリックをうまく使われる日が来るとは、僕は夢にも思わなかったよ」
「……もしかして英二、本当に何も話してないの?」

 消沈しかける僕の耳に、聞き捨てならないさんの声が飛んでくる。この期に及んでまだ僕に隠し事をしているというのであれば、二人の口の堅さに辟易したくなるほどだ。そんな僕の心情も知らず、さんは英二を丸い目で見つめている。その従順さは昔と何も変わっていない。僕をからかって楽しいのだろう英二は、にやにやとしたままさんに「今どこで働いてるんだっけ」と頬杖をつきながら問いかけた。

「青学の中等部だよ。国語の先生してるの、私」

 僕は今すぐ乾に電話をしたかった。タカさんを呼び出して、大石にこの相方の説教をしてもらいたかった。
 母校に二人揃って赴任など、そんな絵に描いたような展開をこの二人は当然のごとく享受していた。しかも舞台は青学で、それはまるで嘘で塗り固めてしまった15歳のあの時の関係を修正していくかのような作業だ。そんな事態になっていたことを、この親友は今日まで一言も教えてはくれなかった。

「僕を騙そうとするなんて、さんもいい度胸してるよね」

 唐突に宣戦布告をする僕を、さんは笑ってたしなめてくる。あの英二を何年も恋い慕ってきたこの人の忍耐力をなめてはいけなかった。中学時代に僕が作り上げた綺麗な外面とは異なる言動をしてみせようとも、きっとこの人は笑いながらかわしてしまうのだろう。

「最初に不二くんに知ってもらいたかったから。不二くんなら一番納得してくれるかなって」

 両想いであることを認めるべきだと、この数年僕はずっとこの二人に対して思ってきた。思い出すと戻りたくもなる懐かしい学生生活の一端を担っている二人の関係は、最後報われるべきだという思いだけで僕たちは勝手に奮戦してきたつもりだ。
 ただ要求を受け入れなければならないのは、英二でもさんでもなく僕たちの方だったという結末に、僕はこの8年間、若干の責任という負い目を感じながら頑張ってきた自分が無駄な努力をしていたことを思い知らされる。
 そもそも、人の恋愛話に横槍を入れるのはやはり無粋で不躾なものでしかないのだろう。この年になって英二に教えられるとは思わなかったが、二人の左手に指輪が光っているのを見て、学校の先生も結婚前にこんなことをするんだなと微笑ましく感じられた。かたくなになりかけた心をほぐす妙な嬉しさに僕は浸る。

「というわけで、はい。3月に予定してるから、不二も来てよ」
「お願いします、不二くん」

 金箔の封緘シールの貼られた厚みのある封筒に、立派に書き込まれた僕の名前。国語の教師にはなんてことない芸当なのだろう美しく書き込まれたその名前に、僕は妙な嬉しさというものをあっさりと見失う。忘れてはいけなかった、この二人は事なかれを演じることに関しては5年以上その腕を磨いてきた人たちなのだ。

「ご祝儀は今日の分を差し引いておくよ」
「なんでだよ」

 それでも、僕のため息と英二とのやり取りにさんが笑ってくれるのだから、僕たちの無粋で不躾な横槍も少しは意味のあったものだと思える。久々に美味しいお酒を飲んだと思わせてくれるその封筒を、僕は結局帰りの電車の中でも見つめてしまっていた。
 


21/06/18再録