諾うはどちら 15歳

さん、英二から預かりものだよ」

 教室の後ろから響く透き通った声に、呼ばれた者以外の女子まで振り向く。の髪をセットしてくれていた親友までもが手を止めて、ぱっと顔色を明るくしてそちらを見つめるものだから、は中途半端な髪型のまま振りかえらざるをえなかった。

「不二くん」
「また英二借りてたんだね。いつもありがとう」
「どういたしまして。……というか、本人は? もしかしてまた不二くんに押しつけた?」
「本人? うん、手塚に怒られに行ってる」
「え、なんで?」
「ああ、ごめん。語弊があるかな。手塚に今日の朝練やりすぎて朝の会に遅れたことを謝りに行ってる、が正解」

 そうなんだ、と櫛を手にした親友は笑う。適度な強さで髪を引っ張られる姿勢のまま教科書を受け取ると、不二に笑われた。この学校で不二に遠慮なくそのような姿を見せられるのはだけだよと、ありがたいのかからかわれているのか分からない言葉を親友からもらうのはいつものことだ。
 不二周助という人間は、基本的に人に好かれるようにできている。成績優秀で品行方正、眉目秀麗というお決まりの言葉を羅列しても全く違和感もないし負けてもいない。おまけに伝統ある青学テニス部の三強の肩書を維持するだけの努力家でもある。好きにならない女子の方が珍しい、好きになっていないと言い張るのは諦めた女子の台詞だと親友は断言してやまない。

「もう大会前だもんね。練習大変?」
「いつも通りだよ。ああ、違うか。今年の1年ですごいのがいるから、みんな本気で全国狙うようになって、それで、あれ」

 夏の蒸し暑さに負けて、髪の毛をアレンジするのが得意な親友にうなじに風が通る髪型にしてもらった。完成したところで、不二が笑って廊下を指さす。
 副部長の大石に宥められながら1組の方から帰ってくるその顔には、不本意という言葉が張りついているかのような不機嫌な表情が浮かべられていた。仕方なくない? とのいる教室の中にまで届いてくる。もともと男子にしては目の大きい彼は表情の変化が手に取るように分かる人で、遠目からでも渋々手塚に謝りに行っていたことが見てとれた。
 英二、と5組の教室から不二が声をかける。は貸していた英語の教科書を振ってみせる。それだけで全てを察した英二は、大石と一緒に手を振って6組の方へと廊下を進んでいった。

さんがいないと、英二の学校生活は成り立たないだろうね」

 笑いながら呟く不二に、は涼しくなった首元を触りながら曖昧に笑い返した。不二と話したい人間はいくらでもいる、変な沈黙が生まれるよりも早く親友が不二に言葉をかけるし、それらを適温で受け止める度量の広さが不二にもある。会話がいくつか往来かした後で不二はきちんと時計を確認し、先に親友が戻っていったであろう6組へと帰っていった。

「不二くんにあれだけ話しかけてもらえるのも珍しいのに、そこで不二くんに恋しないも珍しい」
「不二くんに片想いとか恐れ多い。不二くんと両想いになりたい子なんてどれだけいるんだろうね」
「それはもう、山のように」
「確かに」

 の前の席に腰かけて櫛をもてあそぶ親友と、他愛ない学校の噂話。小学校の頃とは比べ物にならないほど規模の大きくなった学校で、縁の少ない女子にまで名前が上る不二とテニス部に少しだけ同情するものの、仕方ないという気分があっさりと上回るのも事実だ。目立つのだから仕方ない、格好いいのだから仕方ない。その投げやりのような理論は親友にもある程度の理解を得ているので、今日もは笑いながらテニス部の話題に触れる。

「それで、の片想いは報われる予定はあるの? 不二くんよりは倍率低いでしょ?」
「受験みたい。ていうか当たり前みたいに低いとか言わないで」

 高いのは嫌なくせに、と笑いながら親友が席を立つ。教室内に5時間目の開始を告げるチャイムが響き渡ると同時に、英語の教師が入室してきた。プラスチックの櫛をひらひらと振って自分の席へと戻る親友の背中を見送った後、手元に戻ってきた教科書をそっと開く。
 4時間目まで預けられていた先は、居心地はよかっただろうか。貸し出した時と寸分変わらぬ状態で返された教科書に問いかけてみても、きっと自分は一つの答えしか受け入れるつもりはないだろう。楽しかったでしょうと。

(私の代わりにどれだけ6組に行ってるの。羨ましい)

 同じ部分に触れていただろうか、とページを繰りながら考える。一方通行な想いを抱いて1年以上経つ相手の温もりは、どこにも感じられなかった。



 この学校にいて男子テニス部員に片想いをすると、苦行のような扱いをされる。
 かつて全国に出場することもざらにあった青春学園のテニス部は、今でもこのコートでプレーすることを楽しみに入学してくる新入生を数多く受け入れるそれなりの強豪校である。特にと同級生の手塚や不二、乾あたりが揃っている今年のテニス部は前評判が高く、都大会止まりが多かったここ最近の戦績を大きく塗り替えるのではないかと期待されているらしい。
 今の目の前で昼食を取る男子生徒も、その一員として日々の青春をテニス部に費やしていた。生活の中心をテニスに据えて、その端くれや通りすがりに自分の存在は彼に思い出してもらえる。日中携帯電話が震えれば、大抵の場合は英語の教科書とともに待ち合わせの場所に向かう。

「あー、助かる! ありがとう。え、ていうか次の小テストってここ? 範囲広すぎない?」
「英二、3年になってから英語の教科書忘れすぎじゃない?」
「6組より5組の方が進度が早いからさ、要領よくできるじゃん」
「それは要領いいとは多分言わない。ずる賢いって言う、絶対」
「まあまあ、こうやってお礼してるんだからさ。ほら」

 どうぞ、と差し出されたのは食堂で人気の白玉ぜんざいだった。夏季限定で安価で販売されるそれは夏の涼を求める生徒にはすこぶる評判の良いメニューで、たとえ願っても毎度買い求めることは難しい、いわばその日の食堂の勝者の証だ。それを難なく手に入れてくる英二はどれだけ食堂に精通しているのかと問いかけたくなるほど、お弁当を持参していたの前で日替わりメニューを当然のように食べていた。
 腐れ縁という言葉は好きではなかったが、英二との関係はそれ以上にぴったりくる言葉が見当たらないほど不思議に続いた縁の結果だった。同じ小学校出身で二人だけが青春学園を受験して、10クラス以上もある学年で2年連続同じクラスで時を過ごしてきた。それを偶然の一言で片づけることを他の誰でもないの心が嫌がるようになったのは、2年生になった頃だっただろうか。いくら席替えをしてもそれなりに近くになった席、ペアになることも多かった日直、そして同じ時間帯で乗り合わせることが多かった電車。時間を共有するタイミングはおかしなほどに恵まれていて、英二がテニスに打ち込む姿を見つめる時間も比例して増えていった。教室内では男子たちと笑いながら遊び倒し、電車では疲れのあまりうたた寝ばかりをし、そしてテニスコートに立てば表情も変えてラケットとボールを自在に操る。そんな様々な表情を見せつけられる毎日では、彼に目を奪われない方が難しい。奪われることに慣れても、今度は淡い恋心を抱かない方が難しい。生来の人懐こさは女子にとっては扱いに困る類のものだった。

「いつも思うんだけどね、英二」
「なに?」
「まさか私が、白玉ぜんざいが欲しくて教科書の書き込み頑張ってる……とは思ってないよね?」
「え、嬉しくないの? ていうか足りないってこと? 太るの嫌だって言ってたくせに。あ、それか秋の団子の催促?」
「英二が言ったんじゃないの、私が太ったって。お団子なんて食べてる場合じゃ」
「太ったとは言ってない、大きくなったって言ったはず。俺にどれだけ見られてると思ってるんだよ、は」

 この人は、好き嫌いははっきりしているが基本的には人懐こい、むしろ無頓着だ。そんな部分が恋愛面では遺憾なく発揮されてしまって、他人が自分に対して抱いている好意をあまり気に留めない。一度後輩からの告白をあっさりと断っている場面に遭遇してしまった際、その印象を伝えたこともあったが、手塚や不二の方が告白されて振ってるよと言われて終わりだった。
 羨ましい境遇だなと思うと同時に、自分の想いもその中の一つとしてあっさりと片づけられてしまうのだろうかと悩んだ時期もあった。それならばこの想いを言葉に出すことなく、本人に伝えることなく心の中でそっと大事にしていた方が、目の前の関係を維持できるもしれない。中学3年生でできる未来予測などたかが知れている、大局を見つめる力など備わっているはずもない。目先の幸せに固執することで、こうして気兼ねなく話せる関係を維持できるのであればそれは一種の幸せのはずだ。そう思っていた。
 英二の視線が、時折違うところを向いていることに気づくまでは。

「今日も可愛いね、あの子」

 青春学園の食堂にどれだけの人数が集まることができると思っているのだろう。10クラス以上もある学年の中で、どれほどその姿を見つめる機会があるというのだろう。愚痴にも似た言葉を、は気づかないふりをして心の奥底にしまい込む。

「可愛いとか言うなよ。ていうか、当たり前みたいに言わなくていいって」
「じゃあなんて言えばいい?」
「だから、言わなくていいんだって。秘密でいいよ」

 反論はそこなのか、と笑いたくなるのを懸命に堪える。第三者から見れば学年の高嶺の花に恋する同級生の姿だ、ただそれだけだ。それだけで終わりたかったのが本音だ。
 若干ぬるくなった白玉ぜんざいをスプーンでつつきながら、は目の前で同じメニューを食す相手を見つめる。このシーンだけ切り抜いてしまえば、仲良く同じものを食べる恋人同士に見てもらえるだろうか。自分に都合の良い枠で英二と自分だけの世界を作ってしまえば、特別な人という立場は自分に与えてもらえるのだろうか。甘い白玉を口にしながら考えるが、その傲慢な期待をあっさりと切り捨てるように英二は違う方向を向いてしまう。
 どうしてその目は、自分を向いてくれないのだろう。どうして一番輝いているテニスコートに立つ時と同じ熱量で、真剣な表情であちらを向いてしまうのだろう。問いかけは、しかしこの世には出てこられない。は今日も白玉と一緒に痛々しい想いを飲み込む。何度目と知れない痛みを甘さで濁す。

「ねえ、英二。告白しないの?」

 自分に与えられている役割は分かっている。彼の背中を後押しすることだ。幸福を手に入れるためのお膳立てをすることだ。

「しないよ。するはずがないじゃん、俺と接点なんてほとんどないのに」

 彼もそんなの「誠意」を理解してくれている。接点の多いの前で、接点を探し求めなければならない人の話を平然としている。
 は接触する機会の多い、視界にその姿を入れることの多い生活の中で菊丸英二という人を好きになった経緯がある。だから同じ小学校に通ったことも、同じクラスになったこともない彼女のことを好きになる理由がよく分からなかったが、その想いに偽りないことだけは理解しているつもりだった。片想いをしているその横顔が、瞳が、が心疼くものでしかなかったからだ。誰かを求めている表情はこんなにも人の視線を釘付けにするのだろうかと思うほど、目を奪われて仕方なかったからだ。

「英二なら、確率も低くないと思うけどな。どう?」
「その言い方だと低くないかも、なだけで高いわけじゃないって言われてる気がするな」
「倍率も下がりそう」
「受験みたいに言うなって。ていうか人の話をネタにしなくていいんだって」

 お互いの実らぬ片想いに笑いあう。こちらの想いは気づかれることもなかったが、はそれでいいと思っていた。自分は彼の好きな相手ではない、けれどその他大多数の同級生でもない。その中間に位置して、教科書も食堂の時間も共有することができる今の立場は、恵まれている方なのだと自分に言い聞かせる。

「あー、どうしてにばれたかな。こうやって毎回からかわれる俺の身にもなってよ」
「私がどれだけ英二を見てきたと思ってるの、ていうか大きくなった私はいろいろと見えてくものがあるんです」
「……めっちゃ根に持ってるじゃん。内緒にしてよ、せめて」
「分かってる。内緒」

 真剣な顔で呟かれた後、こちらも真顔で頷けばやがて笑い声が零れる。自分の感情を表に出さなければ、英二との関係はこんなにもスムーズだ。内緒話をしてくれる相手は自分だけで済むはずだ。こちらを向いてもらえない悲しさをそのような自惚れで慰めても、誰かに文句を言われる筋合いなどないと思いながら日々は過ぎ去っていく。

「人から物を借りるのに、どうして英二が呼び出すの?」

 いつもの通り英語の教科書を貸してほしいというメッセージかと携帯電話を開いてみたら、呼び出し場所を屋上に指定されたこともあった。息を切らしながら小走りでたどり着いたその場所で、英二は笑って手招きをした。

「今日の進路相談疲れなかった? 俺は疲れた」
「高等部の説明しただけなのに?」
「みんな行くじゃん、どうせ。それなのにこの暑い日にどうしてみんなを集めるかなっていう話」

 その暑い日に日焼けを気にする女子を平然と屋上に呼び出しているのはどこの誰か、と問いかける口は黙ったが目が語ってしまっていたらしい。珍しく購買部のパンで昼食を済ませていた英二は笑いながら、こっちこっちとを呼び寄せる。
 手すり越しに校舎の高さを吹き抜けていく風が心地よい。暑さゆえに誰もいない屋上で、クラスの違う女子を呼び出す意味をこの人は分かっているのだろうか。それとも、教科書という媒体がなければ自分という存在は用のないものなのだろうか。いつになっても答えを聞くのが怖くて口に出せない質問だったが。

「あれ、もしかしては高等部に上がらないの?」

 若干不機嫌な様子を感じ取った英二は、隣に座り込んだの顔を覗き込む。小学校の時でもここまで近くになったことのない顔には慌てて首を振り、英語の教科書を押しつけた。

「上でも教科書が目当てなの?」
「半分は」
「半分?」
「あとは、どうかな。これが普通だと思うと、変わってほしくないとは思うかな」

 誰かにこの絵を描いてほしかった。写真を撮ってほしかった。自分と英二はこんなにも近しい距離で、近しい感情を共有できていることを証拠として残しておきたかった。たとえそこに恋愛感情は挟まれていなくとも、自分だけが特別なこの隣の席に座ることができるのだと思うことが、何よりの慰めだった。
 この人は、もっと自分の魅力を理解したらいいと思う。すぐに手塚や不二を引き合いに出して話をはぐらかす癖など捨ててしまえばいいのに、と思う。

「高校でもテニスする? 英二」
「多分ね。だってテニスしてたらは教科書貸してくれるだろ?」

 そして好意を寄せている者にとって、その人懐こい笑みは片想いから逃げられなくする力を持っていることを理解してほしいと思う。恋しいと思う心を否定しない優しさにますます縋りたくなる事実を、いつの日か気づいてほしいと思う。
 やがて小さな異変に気づいたのは、大石が先か自分が先か。
 その日、英二は英語の教科書以外に国語の教科書も貸してほしいと言った。教科書から滅多に宿題の出ない国語など、学校に置きっぱなしにしているのが常である。それを忘れるという表現自体不思議だったが、不二が借りに来た時点では違和感を覚えた。
 食堂にその姿は確かにあった。あったが、これまでの生活で覗き見ることができた生来の快活さは鳴りを潜め、ただ時間を費やしいてるだけの姿には足を止める。テニス部の仲間と来たのであろう、名前を呼ばれれば顔を上げて笑顔を向けていたが、全て受け身の反応でしかなかった。どうしたの、と声をかけるタイミングはこちらからは見つけられない。メッセージでも送ろうかと思って携帯電話を取りに慌てて食堂を出た後、5組の教室では親友から話を聞かされた。

「あの子、彼氏ができたんだって」

 梅雨開けを待つばかりの教室の湿気には辟易する。そんな不快感を一掃するかのように親友の手が髪の毛を梳いていく。あの子というだけで話は通じるほど、学年の中では可愛らしさの際立つ女子だった。英二が密かに想いを寄せていることは誰にも知られていなかったが、その秘密を共有しているは思わず心臓が飛び跳ねそうになった。
 そう、と曖昧な相槌を打って窓の外を眺める。しとしとと細い雨を降らせる雲は昼までには東へ去っていくと聞いている。しかし雲が去り、雨が止み太陽が顔を覗かせても、英語の教科書は返ってこなかった。

「あれ、どうしたの。さんがコートに来るなんて珍しいね」

 英語の宿題をしなければならないというのは真っ当な理由になる。部活が終わるまで待って、近寄ったテニスコートでしかし最初にその姿を見つけられたのは不二だった。
 誰より本人に気づかれたくない片想いを封じ込めておくには、恋する姿を見られなければいい。安直ながらそのような想いで3年生の時間を過ごしてきたにとって、そこは未知の世界でもあった。夕暮れの近いテニスコートで不二に見つかって声をかけられるほど、稀有なものであったことは確かだ。そこは自分のこれまでの努力を褒めてあげるべきなのだろうが、その時のにとっては瑣末なことでしかない。

「ごめんね、英二に用事があって。どこにいるか知ってる?」
「水飲み場だよ。もしかしてまた教科書借りっぱなしだった?」

 の姿にそれ以上の驚きを見せることなく、不二は笑って校舎の方角を指さした。部活は終わったからそのまま部室に行ってしまうかも、という優しい情報まで添えてもらい、は不二のそつのない性格に感謝しながら慌てて校舎へと戻る。
 水飲み場で顔を洗っている英二は、教室や廊下で見かけるよりもずっと大きな体をしているように見えた。それは伝統の青学のユニフォーム姿をこれほどまでの至近距離で見たことがなかったせいだと、こんなことがきっかけで近づけることになるのかと、おかしさや悲しさがない交ぜになった心は一瞬だけ声をかけるのをためらう。しかし周囲に敏感な英二は、タオル片手にあっさりと振り返ってを視界の中央に収めた。

「どうしたの、珍しい。何か用事でもあった? ……あ、教科書か。ごめん、待って」

 小学校の時よりも、1年の時よりも2年の時よりも背の伸びた英二は、が見上げることでその表情を伝えてくれる。そして見間違いでなければ、誰よりもこの人を理解しているという自惚れに浸ってよいのであれば、その顔は明らかに何かを隠すことに必死になって、そして疲れた顔だった。

「聞いたよ」
「なにを」
「あの子のこと」

 しばらくの沈黙の中で、英二は何度か俯きかけた。水に濡れた髪を触ったり、タオルを首にかけて両手をポケットの中に隠したり。ただ所在ない様子に見えてその実、必死に何かの感情を隠そうとしている一連の行動に、は確信する。

「……英二、知ってた?」
「そりゃ、もちろん。目に入っちゃうからね」

 そう、と呟いてはそれ以上の言葉を出すことができなかった。
 今日という日を、この人はどのような気持ちで学校生活を送ったのだろう。に教科書を返さなかった点以外はもしかしたら真面目に中学3年生を演じていたのかもしれない。6組で英二が気落ちしているところなどを見せれば、気にする人間は一人や二人では済まされないことをこの人はよく理解している。そして、行き場のなくなった恋情の扱い方に困る気持ちは、が一番よく分かっている。
 本当ならば、喜ぶべきなのだろうか。恋しい人の視線が行き先を見失ってしまった事実をどこか喜んでいるかもしれない心を、けれどは知らないふりをする。水飲み場の端にもたれかかって黙った英二を静かに見つめ、拒絶されるまで傍についてあげることしかできなかったが。

「あれ、英二。……と、さん?」

 その時、後ろから飛んできた河村の声に慌てては振り返り、英二は顔を上げる。話を聞かれていたか、とその顔をうかがうも、河村の顔にはいつもの通り柔和な笑みが浮かぶばかり。しかしその後ろに立つ乾の目だけは真っ直ぐにこちらを見つめ、英二が一瞬息を飲むのがにも伝わった。
 どうしたの、と笑いながら問いかける河村には適当に返事をすれば事足りるが、無言の乾は何を考えているのか分からない。沈黙の長さですら何かを考察する材料にされていそうだというのに、英二もも何を言えば正解なのか全く見当がつかない。

「ついに結論が出たのか? 英二」
「結論?」
「いや、今日のお前は思い煩っていただろう。何に悩んでいたかまでは聞かないが」

 やがて眼鏡のブリッジを長い指で押し上げながら用意された言葉に、戸惑うよりも先に反応したのは英二だった。

「馬鹿言うな、解決したよ。ほら」

 唐突な響きは、唐突な温もりとともに訪れた。英二の左手があっさりとの右手を掴み、交差する指を見せつけられる。河村が驚くのと同じぐらい自分も驚いていたのではないかと思ったが、曖昧な相槌を打つ乾の前でそれ以上の動揺は見せられなかった。
 何より、そうせざるをえなかった理由がには痛いほど分かっていた。

「そうなんだ。ていうかいつかそうなると思ってたよ。さん、英二のことお願いね」
「ちょっと待ってよタカさん、どうして俺がお願いされる方じゃないんだよ」
「これまでの英二の行動を鑑みても、それ以上に適切な言葉はないと思うが。これまで無償で英二に教科書を貸し続けてくれたのは以外に誰がいる。白玉ぜんざいはお礼などとは言わないぞ、あれはお詫びだ」
「あはは、美味しそうに食べてたよね二人とも。そっか、よかったよかった」

 河村と乾はあっけらかんとした口調であっさり英二の宣言を認めると、そのまま帰途についた。呆然とするの横で、英二は拒絶も否定もしない。やがて、そっと手の温もりは消えた。温かみや形がまだそこに残っているようでは空虚になった手のひらをぎゅっと閉じる。英二はまるでその様子に気づいていなかった。
 ただその目は、真っ直ぐ校門へと向けられ続けていた。英二が昨日まで視線を送り続けていた人が、誰かと一緒にそこにいた。

「……諦められる? 演技してたら」
「どうかな。目の前で見せられるのはなかなかの試練だと思わない?」

 そうだね、と英二の視線の先を追う。
 夕暮れの中で、あの黒髪は溶け込むような艶を出す。同じ女子から見ても羨望の眼差しを用意するしかないほどだ。そしてその人が選んだ恋人なのだから組み合わせとしては美しく完璧で、たとえ彼のことを好きな女子がどれほど嫉妬に狂おうとも、誰も同情しないだろう。
 だから、隣の想い人は口を噤んでしまう。男子の自分も同じ立場であることを理解しているのだ。

「お似合いっていう言葉を、俺はもっと嬉しい気持ちで言いたかった」
「そうだね」
「もっと学校で、盛大に祝ってやりたかった。目の前に来られても動揺なんかしないで、からかってやれるぐらいに」

 うん、とが頷いた時、視線に気づいたのだろうか片方が振り返って手を振った。

「じゃあね、英二」
「また明日なー、不二」

 夕暮れの校舎に響く親友同士の別れの挨拶。今日もこれまで通りに言えている英二に、は感心しながらも心が締め付けられて仕方ない。昨日までは何の意図もなく口に出せた言葉を、今この人は精一杯の思いで喉の奥から絞り出して言葉にしている。親友に悟られまいと、大切にしてきた片想いを必死に笑顔の下に押し込んで。も、同じように大切な片想いを冷静な表情の下に隠しこんで。
 誰かを大切に思うということは、自分を幾らか犠牲にすることが必須条件なのだろう。それは惚れた側の義務だとは思う。自分が今英二の隣で、英二が通常とは異なる感情を抱く相手であると不二に知ってもらうためには、英二の嘘に本気の片想いは必要なかった。
 黙って不二と彼女を見送る英二をそっと見上げる。表情を消した彼の雰囲気がこれほど大人びて見えることを、この学校のどれだけの人間が知っているだろう。恋人関係という嘘に付き合うという、片想いを封じ込める苦痛に耐えられる者だけに許された悲しい特権を、自分は今手にしている。は英二のユニフォームの裾を掴み、帰ろうよと言った。

、しばらく俺の彼女のふりしてくれる?」
「……え?」
「乾に嘘ついたなんてばれたら、余計に探られるから。俺、今それだけは避けたい」

 一番欲しかった言葉を、悲しくなるほど聞きたくなかった言葉とともに。
 英二の問いかけには何の迷いもなく頷いた。裾をもう一度ひき、英二の視線を自分だけに向けさせて。たとえ自分の姿が映るその瞳が、本当の想い人を見送る苦しさに苛まれた悲しい色をしていたとしても。
 不二の背中は見えなくなった。校庭には誰もいない。だから人恋しさを思わせる夕暮れの中でも、その手は繋がれることはない。
 今日は頑張ったね。そう呟くと、英二は悲しそうに笑った。



>>20歳


21/06/18再録