| 青と白 01 |
秋が深まる、肌がそれを感じ取っていた。 風が冷たさを含むようになった。見上げた空が澄んで見えた。夜空に浮かぶ星々は日々輝きを増した。やがて訪れる冬までの短い間、夏の名残と冬の予感という限られた狭間で生きる秋という季節は嫌いではなかった。 思えば、いつも秋にはなにかがあった。個人的な感情に都合よく作られている記憶の中に、秋を思い起こさせるものは多い。夏といえばテニス、と他の季節がひどく他のものに限定的になっているためかもしれなかった。 「今日の帰り、買い物つきあってくれない?」 中学3年の秋のある日。英二が頼んできたのは、5時間目が始まる寸前だった。 正確には既に始まっていた。予鈴も見逃す癖がついてしまった3年6組は、本鈴が鳴り響き、そして鳴り終わって余韻も消え去った後にようやくクラスの中が動き出す。それでも話し声はさきほどの続きを口にしていたり、いきなり隣のクラスに忘れ物を借りに行くことも珍しいことではない。そんな5時間目が始まって1分経つか経たないころ、英二がの目の前に立ってそう尋ねてきたのだ。 「いいけど、なにかあったの?」 「え、なんで?」 「今言うのが珍しいなと思って」 は自分の席につき、次の授業の準備をしていた。諦めは悪いが我がままではない(と言いきる)6組のクラスメイトたちは、もうすぐで全員が席につく。ちらりと周りを見たあと、英二は窓際の自分の席へと目を向けた。 「タイミングがなかっただけ、別に意味なんかないよ」 怒ったような疲れたような、呆れたような。確実に喜んだり嬉しがったりはしていない表情にため息ひとつを付け加えて、英二は自分の席へと戻る。 何事かとが目を丸くしてその背中を見送れば、英二の後ろの席に座る不二も同じような顔をして親友を迎えていた。 「結婚だって」 その日の会話は、すべてが唐突だった記憶がある。 学校を出た瞬間、突然切り出された会話は突拍子もない言葉から始まった。あまりに想像ができない(というよりも今の生活とまるで結びつかない)話に、目を丸くするよりも先には眉根を寄せてしまった。 「何の話?」 「だから、結婚」 「……誰が?」 「ん? ……ああ、うん。兄ちゃん。上のね」 問いかけにさしたる反応を示すことなく、ぼんやりとしたまま英二は答える。まるで寝起きのような反応の悪さだ。自分で呼び出しておきながら、とは喉もとまで出かかった言葉をため息に変える。 さんはすごいね、と不二に何度か言われたことがある。よく怒らないね、よく呆れないね、よく付き合えるね。渡された「褒め」言葉は様々だったが、そのどれもを不二が羨ましがっておらず、むしろ困ったように笑いながら言うのが常であった。そのたびに英二のつかみどころのない性格を思い知らされるのだが、慣れてしまえばその良し悪しを語るのは二の次になる。 「上のお兄さんって、大学卒業したばっかりじゃなかった?」 「うん」 「結婚するって前から決まってたの?」 「ううん」 「最近教えてもらったの?」 「うん」 文章で答えるのではなく「はい」か「いいえ」のみで答えられる質問だけを並べ、自分の疑問点を直接問いかけて、与えられた事実をこちらで組み立てていく。その方が早いから、と不二に告げれば、不二はただ笑うばかりだった。 今日も不二に笑われる光景なのだろう、と思ったが、それにしても今日の英二は様子がおかしかった。疑問と懸念がむくむくと形を大きくして、の口を閉じさせる。今は深く問いかけない方が賢明だと判断した。 (上のお兄さんなんて、英二が一番好きな兄弟だもん。嫌がるはずがない) 人の幸せを祝えないような心の狭い人間ではない。 (でも、嫌じゃなかったらこんな顔はしない……なあ、普通) ただし感情を素直すぎるほどに反映させた行動を取ってしまう時は、行動に規律も際限もない。これほどまで茫洋としながらも、けれどどこかもろく見える雰囲気を漂わせるのは非常に重症な時だった。 言葉を生み出すのも億劫になるほどへこたれてしまうのは、なぜだろう。 問いかける決意はためらいに勝つことができず、いつしか視界には英二の目的地であったらしい雑貨屋が映っていた。 「英二、よくこんなところ知ってるね。いつのまに?」 「姉ちゃんが好きなんだよね、こういうところ。だからいつのまにか覚えてる」 中学生の制服を身に着けたままでは少し入るのをためらってしまう、品のいい清爽さを漂わせる店だった。一瞬足を止めてしまったに対し、英二は勝手知ったる顔で店内に足を入れる。優しいピアノ曲が落ち着かない心をそっと撫でるかのようだった。 しかし、そんな音楽でも英二の心の隙間を埋めるまでには至らないらしい。そっと横顔を見つめるも、その顔にはまだ困惑に近い色が見え隠れしている。輸入雑貨を何気なく手に取るも興味など欠片も生まれないらしく、手に取っては棚に戻すという動作を緩慢な手つきで繰り返していた。 「……で、英二。ここに来た目的は?」 「ん? あー、うん。プレゼント。結婚するならお祝いしなきゃって」 「お兄さんに? あ、ふたりに?」 「うん」 その言葉とは裏腹な動きがまた繰り返される。付き合って、と言われた以上は傍を離れることもできず、探し物をしているようには見えない英二の横でただ時間が流れていくのだけを見送る。手は、依然目的のものを見つけられないでいるようだった。 「英二、買うものって決まってるの?」 「ううん、全然。だからにつきあってもらってるんだよ。なにかいいものない?」 「うーん、いいものねえ……」 向けられた視線に相変わらず楽しさの欠片も見つけられない。はプレゼントの候補を考える素振りを見せながら、頭の中では違うことを考えていた。 贈り物の候補ならいくつか目星はついていた。自分よりも英二のことを知り尽くしいてる兄弟である、英二がなにを贈ろうが常識外のものでない限りすべて笑顔で受け止められることは目に見えていた。 あの家は、家族の親愛の感情にはひどく敏感だ。 末っ子という絶対の上下関係の中で、それでも英二がどれほど上の兄弟から可愛がられているかを知っているので余計にそう思う。そして英二は自分の挙げたもののなかから素直に選ぼうとするだろう、それは彼女の立場として知っている。 しかし、は思っていることは口に出さないままに考え込んでいた。 (今英二が思っていることをきちんと知っておかないと、なにを言っても届かない気がする) 店内を移動する動きの軸が、の足に代わる。丁寧に陳列された雑貨を見つめながら、ふと振り返って英二の顔を真正面から見つめる。英二は、ただ静かにを見ていた。 「英二」 「うん?」 「結婚、反対なの?」 一瞬の沈黙が流れる。やや目を丸くした英二が一瞬息を飲み、瞬きをしてみせた。 「なんで?」 やがて目はいつもどおりの大きさに戻ったが、返される言葉は少ない。が沈黙してただ見つめる視線だけを送れば、居たたまれないというように英二が先に首を傾げて笑って見せた。 「反対なわけないじゃん、じゃなきゃ今ここにいないし」 「うん」 「だって、兄ちゃんだよ? そりゃたまにケンカもするけどさ、俺は仲いいと思ってるし。彼女の人も顔知ってるし話したことあるし」 「うん」 「……ただ、うん、そうだな」 「……」 「そんなに早く決めると思ってなかったら、びっくりしてるっていうのはあるかもしんない。だって俺、兄ちゃんの前の彼女の人知ってるし」 沈黙が持つ意味を肯定的に捉えられるようになったのは、英二と付き合い始めてからだとは思っている。むしろ、英二のおかげかもしれなかった。 聞き役に徹していれば、いずれ英二は心の奥底に留めておいたなにかを口に出すことができた。それは誘導尋問だと時折怒られることもあったし不二にはますます笑われるばかりだったが、それでも怒られることよりも笑われることよりも英二が自分の思いを言葉で発することができたことの方が断然多かった。 視線は相変わらずぼんやりとしている。しかし口はようやく呼吸ができたかのように、小さながらも絶え間なく言葉を紡いだ。 「本当はね、違うんだよ。今の人、高校の時に付き合ってたけど1回別れてるんだ。でも戻ってきたっていうか、戻したっていうか。詳しい経緯は聞いてないけど、そんなブランクがある感じの人」 「……ふうん」 「別れた後、兄ちゃんが一時すごい疲れたような顔してた時のことを知ってるからさ。なんかしっくりこないんだよね、本当は。俺なんか他人だけど」 英二の手がそっとティーカップに伸びる。陶器の器の上を流れるように描かれた青色が綺麗だ。 「でも俺はさ、戻るぐらいなら最初から別れなければいいと思うし、別れるぐらいならそれまでだとも思う。だっておかしいじゃん、別れることも戻ることもなんか中途半端で。そんな簡単なものかな、って。違うよね」 「……」 「だからかな、素直におめでとうって言いにくいのは」 白と青の対比が上質な風情を漂わせているのに、それを持つ英二の目はどこか切なく、口はどこか冷たかった。 英二の言葉を幾度か頭の中で反芻した後、はそっと店内を見渡す。輸入雑貨とはいえ陶磁器類が圧倒的に多く、目の前の商品は明らかに中学生の財布で簡単に買えるものではないことぐらい見るだけで分かる。英二の手はまだ白地のティーカップを持っていたが、それもお小遣いなどという幼い言葉でまかなえる範囲のものではなかった。 「別れた理由は知ってるの?」 英二は首を横に振る。手はまだカップを離さない。 「戻った理由は?」 「それも知らない」 ようやく手がカップをもとあった場所に戻す。しかし視線はぼんやりながらもその器を見つめていた。 今日は本当に感情が表に出やすい日だ。視線の行き先を横で見守りながら、ふと笑ってしまう。落ち着いた店内では小さな笑い声も簡単に相手の耳に届き、が笑っているのを見て英二は一瞬むっとしてみせる。 「私なんかもっと他人だから、本当は推測することもあつかましい話かもしれないけど」 ごめん、と小さく謝ったあと、は手を伸ばす。 「でも、別れたのも戻ったのも絶対中途半端な理由じゃないよね。だって英二のお兄さんだから」 先ほどまで英二が手にして離さなかったカップをそっと持つ。白と青という組み合わせが好きなのはなにも英二だけではない、それがどれほど美しい調和をしてみせるのかは、青学に通っている人間であれば誰よりも理解できる特権がある。 自分と同じものをが手にした光景を、英二は目を丸くしながら見つめる。そんな分かりやすい反応にはまた笑い、そして、カップを差し出した。 「自分でこれがいいって思ったら、多分それで間違ってないんだよ。本人が間違ってないって思えるのが一番いいと思うよ、他の人間が口出しするよりもね」 「……え?」 「だから、これでいいと思う。お揃いっていいよね、羨ましいなあ。あ、私もお金出すよ、お兄さんにはいっぱいお世話になってるから」 本人は無意識のつもりかもしれないが、物事の判断基準は日々の生活に作られている。だから青を好むし、白を愛すし、姉に連れられるというこの店を選ぶ。自由と責任を表裏で持ち合わせることを是とするあの家で育ったからこそ、兄の言動に違和感を覚える。 だがそれらが間違っていれば、もしかしたら今の自分は英二と付き合っていないかもしれない。出会っていないかもしれない、こうして隣に並ぶ喜びを知ることができなかったかもしれない。 そう思えば、今英二が悩むこともためらうことも、否定的に捉えることなどできるはずがない。一度手にして離せなかったカップは、戻すべきなのだ。 「……それって、兄ちゃんのことも言ってるの?」 「私はそう思ってるっていうだけだけどね。だめ?」 しばらくの沈黙のあと、英二は首を横に振った。少しだけ頬を緩めて。 「どうしてそういうふうに言えるのかなあ、びっくりだよ」 やがて笑い声が漏れる。眉尻がやや下がっていたため、諦めの苦笑にも見てとれる。 不二に言われた言葉を、英二本人から聞かされるのは滅多になかった。聞かされるたびに「そんなことはない」と言い続けている言葉を、今日はそっと心の中にしまいこむ。 「そうだよね、兄ちゃんには兄ちゃんの考えがあるよね。俺があの人と付き合ってるわけじゃないし、俺には分からないところがたくさんあるんだよね。……そりゃそうだ、そうじゃなきゃ兄ちゃんじゃないし」 「あ、英二」 「いいよ、俺ちゃんとお金持ってきてるから。こういう店だって知ってたし、予算内だよ」 サンプル品を持って、英二は店員のもとに行く。顔見知りに近いのかくだけた様子で幾度か言葉を交わした後、店員が店の奥からふたつの箱を持ってきた。 躊躇することなく買い求める英二の後ろ姿を見つめながら、は心の奥底にしまいこんだ言葉を頭の中で思い出す。 (私が英二を好きだからだよ、それだけだよ) 不二はすべてを見抜いた上で「すごいね」と言う。からかうことが前提なのだ。それが分かっているからもさして気にすることはない。 ただ、英二本人が賞賛の意味を込めて口にするのだけは、どこか小恥ずかしいというよりも居たたまれなさが先に立つ。思われることを期待しているかもしれないが、言ってほしいとは欠片も思っていなかった。 (すごいって思われたいんじゃなくて、嫌われたくないんだよ) 言葉に出せない感情を、英二はまだ知らない。気づいているかもしれないがそれを感じさせるような素振りは見せない。不二は気づいているが、言葉に出すことに何のメリットも見出せないので黙って付き合ってくれている。だからタイミングを見計らってからかわれる。 気づかれてはいけない強がりな感情は、いつも黙ることしか知らなかった。 「お待たせ。ありがと、付き合ってくれて」 渡された紙袋を手に、英二が戻ってくる。返事は軽い笑みですることしかできなかった。 店の外に出ると、夕闇に染められてしまった風が冷たさを増して頬を打つ。英二もマフラーの中に逃げるかのように肩をすくめる。 ひとつひとつの行動が卑怯だった。本人がいくら無意識だと言い張っても、意味などないと力強く宣言しても、視線はすべてに奪われるようになっている。その感覚の前では、この距離感は絶対に欠かすことのできないものだ。 頭の中ではさきほどの英二の言葉がまだ残っている。渦を巻いてその場に留まろうとしている。 (別れたら終わり、か) 正論だった。菊丸英二という人間を、自分は人よりも多く見ているし理解しているつもりでいる。その言葉はなにもおかしなところがない。ただ、怖くはある。 (理解はできる、でも受け止めることはできないだろうなあ) 秋の風は、まるで頭の中の考えを見抜いてせせら笑っているかのような冷たさがある。仰げば空は藍色に染まりきることができない濁った茜色が広がるばかり。居心地の悪い、と感じるにはそれで十分だった。 その時、英二の足が止まる。視界片隅から一瞬姿が消えて何事かと振り返れば、次に自分の手が握り締められていた。 「英二? ちょっと」 「いいから、いいから。付き合って、もう1こだけ」 なにかに気づいた視線が、の表情を確かめることなく見つめる一点に向かって歩を進める。強引に軌道修正をさせられた足は一瞬もつれそうになるが、店の中に入ってしまうと視界の明るさに動きそのものを止めてしまった。 小さな雑貨屋だった。さきほどとは雰囲気ががらりと異なる、自分たちと同じ年頃の客が声をあげている空気が広がる。雑多な雰囲気にも近い。 何事か、とただ呆然としていると、英二は軽く店内を見渡した後頬を緩めて歩を進める。 ついていった先には、見慣れた質感のティーカップが並べられていた。 「お礼させて。今日付き合ってくれた、お礼」 「……え? そんなこと、いいよ。付き合うって言ってもただ私の思ってることを言っただけなのに」 「俺には思いつかないことだから意味があるんじゃないの? そういうのは」 そもそも最初からこちらの意見など確認するつもりもないのだろう、英二はの表情を確かめないまま並べられたティーカップを見比べている。やがて一瞬だけ顔色を明るくし、迷うことなく手を伸ばす。 「値段は全然違うから、そこは見ないでね」 白い陶器に薄く細く、けれど鮮やかに伸びた青の線。 渡されたカップをしばし見つめ、そっと顔を上げると、同じものがもうひとつ。英二の手の中に既に収まっていた。 「に預けとく。うちに持って帰ったらなに言われるか分からないから、俺のも持ってて」 あ、お金は当然俺だよ。はい、貸して。 その後の言葉はあまり覚えていない。不二ですら知らないことなので、英二本人に聞かない限りこの時の記憶はもう完成することはないかもしれない。 「……お揃い?」 「お揃い。あれ、羨ましいんじゃないの?」 「え、あ……ああ、うん。それは」 「なんだよ、もっと喜ぶかと思ったのに」 「喜んでるよ!」 慌てて顔を上げて伝えれば、動揺の欠片も不機嫌の片鱗もなにもない笑みがひとつ。 「知ってるよ」 その時の笑顔だけははっきりと焼きついている。頭に胸に心に、いやむしろ身体全部が覚えている。自分にだけ向けてくれた笑みと言葉と、カップと。些細なことばかりでも、にとってはそれで十分だった。 秋の寒さは、隣の人に温めてもらえという合図でも送っているかのように冷たく風を流し、店を出た後の右手は大切な人によって丁寧に握り締められていた。 |
| >>02 08/12/05 |