青と白 02

 時間を重ねていくにつれ、秋の風は冷たさを増していくように思えた。
 中等部を卒業し、違う色の制服で迎えた最初の秋は少しだけ新鮮さがあった。それは隣に並ぶ恋人の制服が、中学のものとまるで異なっていたからかもしれない。だがそれも2度目を迎えてしまうと、幾重もの時をまとった秋の風には勝てない。
 高校2年の秋、見上げた秋の空はいつかと同じように透き通りすぎて、色味を失って、儚くも見えていた。

「意味わかんないし」

 カーペット越しにフローリングの床の冷たさがすべて伝わってしまうようだった。
 呟きは背後から。視線はぶつかってはいなかったが、耳だけはその声を逃すことなく聞いてしまう。身体がそのようにできてしまっているのだ、英二から逃れられるものは多くない。
 床が冷たい。だから動けないのだ、と思いたかった。

「なにそれ。なんでまたそういう話になるの。もう聞き飽きたよ、俺」

 語尾だけを取れば普段とあまり変わらない。くだけた言い方に慣れきっているのは彼の口だけではない、自分の耳もだ。そこに異変はないと身体が訴えている。
 ただ、その言葉に載せられた感情に対しては振り向くなという強い命令が飛んでくる。
 景色は映る。しかしただの物のようにしか見えない。色の存在を理解しても意味の理解ができない。
 振り返らない、言葉を返さないにやがて大きなため息が零れ、ガタンとなにかが動く音がする。

「で、なんで勝手に疲れてるの? 俺の知らないところで話勝手に進めて、結論だけ持ってきて、しかも俺は悪者? なにそれ。約束が違うって、それじゃ」

 振り返れば冷めた視線だった。気性の激しい人であることは知っていたが、怒りが頂点を越えてしまうと不気味なほどに冷静になる。その変化も知っていたが、受け止められるほどの度胸はまだ育っていなかった。

「本気でむかついた」

 もう一度ため息が零れる。
 視界中央に映る英二に、怒り以外の感情は見つけられない。

「……むかついたとしても、それは私が謝ったとしても、英二だって謝ることがあるよ」

 違った。それは予定とは違う、そんなことを言ってはいけない。
 頭のどこかはそのようなサイレンを送っていたが、心の中のどろりとした感情はそれに従えるほどの余裕がまるでなかった。
 自分に送られる冷めた視線。蔑む色にしか染まっていないそれは受け入れることも屈辱だった。理不尽だ、と身体のどこかが訴えている以上、冷静に言葉で反論することができない。言葉を考えるよりも早く感情が心の中を支配して余裕をますます奪っていく。

「私だってそんなに聞き分けができるわけじゃないんだよ、いつでも落ち着いていられるわけじゃないんだよ。他の子と一緒にいるって聞いて、それで普通にいられるほど大人じゃないんだよ。それ知ってるのに、どうしてまだ」

 無表情がわずかに揺れる。ただし動揺の意味ではない。
 くどい、とその顔が言っていた。

「……それは、ちゃんと伝えたつもりなんだけど。ただのクラスの子だって。そういう話で片付いてるよね、それも」
「だけど」
「そりゃ、俺だって馬鹿じゃないから相手の気持ちがどういうものか大体分かってるよ。だから距離は絶対におくし隙は見せないって、にそう言ったよね? 俺」

 それは聞かされていた。だが人間というのは自分に甘い生き物なのだ、その時こそ直の言葉として納得することができたとしても、生まれ落ちた後の言葉を信じ続けることは簡単なことではない。
 信じることに抵抗はまるでなくとも、時にその心を凌駕してしまう不安は無視はできない。それに勝てるほど、自分はあの秋の風ほどこの身体に年月を刻み込んではいない。

「信じてないの?」
「信じてるよ、分かってるよ。でも」
「……」
「毎日違う場所にいてこうして会えるのが滅多にないのに、なのに、なのになんで、そんな時にその子の話を普通に出すの。私それを聞いて平気でいられるほど大人じゃないよ」

 息継ぎをどこでしたかは分からない。
 ただ、息を吸った瞬間は慌てて顔を上げた瞬間でもあった。

「……またそれ? 何度目、それ」

 無表情がさらに冷たく見える。呆れ果てるという言葉の意味をすべて詰め込んだような表情だ。目から感情の色が消え、冷たく見放すような視線しか生まれない。

「分かってることを何度言えば気が済むの。変えられないことを何回愚痴れば満足するんだよ。がいつまでもそんなふうじゃ、俺がいくら言ったって信じてもらえないじゃん」

 中学生の頃、怒るといえば感情が怒声を伴って表れるのが常だった。あの頃は心の中身が言葉となって簡単に表に出てきてくれて、本心を読み取ることは難しくなかった。
 だが今目の前にいる高校生の英二は、歳月を身にまとって変わってしまった。透けて見えないものが多くなった。感情が心の裏側に隠れて、いや隠してしまうことが多くなった。感情を読み取られないように冷えた表情をすることが多くなった。
 そしてそれは、決まって同じ台詞を伴った。

「ああ、もう。なんで今でもこんな話しなくちゃならないんだよ、とっくの昔に片付いた話のはずなのに」
「……ごめん」
「謝ってほしいわけじゃないって。その話はやめようよって言ってるの、意味がないから」
「ごめん」
「……だから」

 ため息がとめどなく零れる。自己嫌悪の感情と隠しきれない苛立ちがないまぜになって不快感ばかりが積み重なる。
 いつからこうなってしまったのだろう、と考えることが多くなっていた。
 居慣れた自分の部屋。見慣れた英二の姿。慣れ親しんだものだけで構成されている世界は、けれど時にもろい。昔は強く感じなかった感情、寂寞だったり憤りだったりがあっさりと頭をもたげ、言葉になって生まれ落ちてしまう。そして気づけば、英二が不快な顔をする。その繰り返しだった。

「……もういいよ、今日はもう帰る。あんまりその話したくないし」

 窓の向こうの空には秋の夕暮れが漂っている。置き去りにされる感覚を植えつける色だ。
 マフラーをまく音がする。鞄を取る音がする。部屋の中の空気が動いて、顔を上げる。
 見上げた先には、自分を冷静に見下ろす英二の瞳があった。

「こういうふうになりたくて、付き合ってるわけじゃないのに」

 間があっただろうか。それとも見つめられてすぐだっただろうか。
 静かに零れ落ちたその言葉に、身体は動く方法を忘れた。
 通り過ぎようとする英二を止める術はない。声も死んでいる。ただ窓の向こうの景色ばかりが視界を占領する。
 沈黙を破る音が響くまで、二度と身体は動かないとすら思えた。

「……なんでこれが割れるかなあ」

 激しい音を立ててなにかが割れた音が響き、顔を動かす。英二は苛立ちなのか悲しみなのか分からない小さな声で呟く。床には、青と白で作られた陶器のカップが無残な欠片となって散らばっていた。

「だめ」

 口論の途中でも、その破片を拾い上げようとする右手を見て思わず手を伸ばす。つまんだ指先から青と白の破片が再び床に転がり、乾いた音を立てた。
 みじめだ。割れた破片も、それを知っている。

「……過保護だよ、俺もう高2だよ。それぐらい知ってるよ」

 だから英二は、突き放す言葉を再び口にする。
 顔を上げては聞けなかった。目を合わせては聞けなかった。
 膝を折り、そっと欠片を拾い集める姿を、英二はただ無言でしか見守ってくれなかった。
 なにをしているのだろうという問いかけは、することも疲れていた。ひとつひとつ拾い集める破片が手のひらに少しずつ重みを与えていく、その感覚が増せば増すほど口は閉じ、その代わりに瞳の奥が熱くなった。

「ごめんね、英二」

 ようやく開いた口が最初に言葉にできたのは、謝罪の言葉だった。

「ごめん、また言って。いつも言って。ごめんね、いつも気にさせて」

 どのような表情をしているのだろうという問いかけにも、することに疲れていた。恐らく辟易した表情でしか見ていないのだ、相手を傷つける発言をした自分にはそれしか受け入れる道はないはずなのだ。
 すべての欠片を拾い終わる。
 2年前、同じ秋の日。買ってもらったカップは破片となって初めての手のひらにすべておさまっていた。





さんでもそうなるんだ、っていうのが素直な感想だって言ったら怒る?」

 ドラマかなにかのようだね、と平然と言ってのける。その顔に動揺の欠片もない。まるでそうなることを見透かしていたかのような反応だった。

「いや、あの子と絶対の距離をおかない英二にも非はあることは前提でね。でも距離については、さすがにもうそろそろ口に出すのはタブーだと思う」

 不二はつまらなさそうに呟いてみせた。不二ならそのように答えるだろう、と予想済であり、逆に言えばそれが事実でありそれが前提であることを再確認するためのようでもあった。
 秋の風が校舎の窓を揺らす。時折のせられてくる枯れ葉が痛そうに窓にぶつかる。今日は風の強い日で、男子テニス部は自主練習に変更になっていた。

「納得してたはずだよね、それは。しかも1年の最初に。それからもう随分経つのに、どうして今更その話が盛り返されるのかな」

 誰もいない教室、机に寄りかかるように腰かけた不二の表情は夕陽の逆光のためうまく読み取ることができない。ただ淡々と繰り返される言葉が、暗に責める響きを持たせていることだけは理解できた。
 不二は中学時代より周りの男子に打ち解けた雰囲気は強くなったが、けれどその発する言葉はまるで揺らいでいない。変わっていない。昔を思えば「不二らしくない」とたしなめる人間がひとりやふたりではないだろう今の姿勢も、言葉を聞けばそこにはきちんと昔からの不二が存在することが分かるので、なにも気にならない。
 それよりもむしろ、今はその「変わっていない」言葉の方がの胸をつく。
 責められているのは、明らかに自分の方だった。

「そりゃ英二も怒るよ、済んだ話を持ち出されるのが好きじゃないなんていうこと、さんなら知ってるはずなのに」
「……それは、知ってるけど」
「『でも気になって』なんていう言い分は通じないだろうね、英二には。じゃあ前の話し合いに意味がないってことになるから。引き延ばすことが苦手なタイプだしね。……まあ、勝手に引きずることはあるけど」

 呆れた感情に支配されたため息がひとつ、教室の中に響く。秋の夕空とあいまって、その音はとても突き放されたような感覚に陥れる力を持っている。
 不二の言葉がすべてだった。正論だった。正論に対して返す言葉を持たない今の自分は、今回の件が自分のわがままから起きているやましさを理解している。
 しかし理解はしても、改善する術はない。
 椅子に腰かけたままうつむいて黙ってしまったを、不二はしばらく見つめているようだった。やがてもう一度、先ほどと同じ響きをしたため息が零れて不二の身体が動く。

「僕からすれば、英二も英二なんだけど」

 でもやっぱり今回はさんが悪いと思う。そう付け加えて不二はの鞄を差し出す。

「英二に対してつくしすぎてきた、その結果のひとつかもしれないね」
「……え?」
「英二からすれば、家族以外でさんほど自分の言動を理解してくれる人なんていなかったはずだから。打てば響く生活に慣れてしまうと、例外はそう簡単には受け入れにくいんだよ」

 不二の言葉はいつも理解するまでに時間がかかる。ただし、彼の言葉が本質から外れることは滅多にない。
 頭の中でその言葉を繰り返しながら鞄を受け取れば、不二は小さく笑った。

「でも、そこまで怒るとはね。よほど英二はさんに甘えてるんだよ」

 相変わらずだ、と呟く不二の言葉の意味は、分かるようで分からなかった。
 ただ理解できたのは、苦笑する不二の顔が中学時代となにも変わらなかったということだけだった。

「ケンカなんて、仲直りするのは目に見えてるんだ。だから正直、僕はあんまり心配してないよ」
「どこから来るの、その自信。羨ましいなあ」
「うん、英二だからね。さんだからね。だってさん、本当に気にしてきたでしよう」
「……え?」
「色々と気にかけてくれる人に対して、自分に都合の悪いところは気にするな、なんて言う男だったら、僕は英二ととっくの昔に縁を切っていると思うからね」

 扱いの難しい人だよね、と笑う不二につられてもようやく頬を緩める。
 校舎の外を行く秋の風は既に幾分か冬の様相を呈している。見上げれば夕陽は既にはるか西のビル群の向こうに隠れ、ぼんやりと淀んだ茜色を浮かばせている。
 青学の見慣れた景色の中にひとりでいると、落ち着いて考えられるものがたくさんある。昨日の自分はこの夕陽を同じ気持ちで見つめていただろうか、もっと冷静に考えられていただろうか。思う疑問は数多くあれど、隣に英二がいたあの状況で冷静になれるものなど、本当はなにひとつないことは分かっている。

「一度別れたら、おしまい。英二がそういう考えの人だってことは知ってるから。なにが正しいのかは分からないけど、でもまだ無理。私は英二と一緒にいたい」

 だから呟く。本人を前にして言えなければ意味がないと分かっていても、それでも言葉にして自分を落ち着かせるために呟く。
 不二はただ沈黙して隣を歩いてくれる。変わらぬ夕陽のようだ。

「カップはその代償なんだよ。私の代わりに壊れてくれたって、そう思う」

 戒めとするには随分と大切なものを壊してくれたものだ、いや戒めにするためにはそれほどに大切なものでなくてはならなかったのかもしれない。
 夕空に思う言葉は、なにひとつ本人には伝えられていない。けれど。

「そう思えるほどさんが英二のことを大切に想ってくれていることは、僕なんかよりも英二の方がもっと分かってるよ」

 ともに同じ年月を過ごしてきた不二の言葉が、心を救う。
 夕陽もそれを認めてくれているかのように、青学の校舎を暖かい茜色に染め上げていた。



>>03


09/01/03