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繋いだ手の温もりは、去年となんら変わりなかった。
温かい、と感じられるように外の風は春の冷たさの部分ばかりを見せる。髪が遊ばれ一瞬目を瞑り、整えながら天を仰げば、温もりを与えてくれる手の持ち主はきちんと自分の行動を見守ってくれていた。
「ごめん」
「なんで」
立ち止まってしまったことを謝ると、英二はあっさりと笑う。
なぜ自分が今こうしているのか、にはまったく分からなかった。
手を取った英二は、の反応に安心させる言葉はかけてもその足を止めることはしなかった。3年間通った学校から青春台駅までの道のりなど身体が覚えてしまっている、の反応を待つよりも早く足が動いてしまうのだ。
連れ去られ、自分の意思とは関係ないところで流れ去っていく4年目の景色を真横に、はただぼんやりと英二の横顔を見つめる。
「なに?」
「……なんだか、不思議だね。英二がここを歩いているのって」
言いたいことはもっと他にあった。聞きたいことはそれ以上にあった。けれど突然の事態にまだついていくことができていない思考回路は味気のない質問だけを口にする。むしろ心の奥底にしまっておこうと決めていた言葉を出してしまう。
それでも、英二は笑うだけだった。
「来ようと思ったら来れる距離なんだよ。毎日、いつもは無理でも、距離は無理じゃないんだよ。青学だから、俺は道にも迷わない」
言葉の意味を理解するよりも早く、道を歩けと繋いだ手が急く。
「でも、その話は後ね。今は俺に付き合って」
強引に次の道へと誘う。強引なのは手だけではなかったが、その言葉にが不快感を抱くよりも前に視界の中に青春台の風景が飛び込んでくる。
春の午後の風は、冷たいと思いながらもしかし心を静めるために吹いているかのように穏やかだった。英二と初めて出会ったあの日、中等部の入学式とまるで同じように。
電車を乗り継ぎ、たどりついた場所は複合型の劇場だった。
「まずは、映画だったかな」
「映画?」
うん、と英二は掲示されたポスターを見比べながらうなずく。その反応の仕方も、見上げる瞳も全く揺るがない。純粋に今この時間の中を生きている。心からそう思っているのだろうと分かり、は口を閉じる。
昨日、たとえ触れたくとも触れる資格をなくしたとばかり思っていたものが、確かに今目の前にある。
これを、どうすればいいのか。問う相手はいない。どう感じてよいのか、驕る自分を殺すことに必死になる。
「、なに見たい? 大体時間が揃ってるから、今からならどれも見られるみたいだよ」
「え? う、うん」
「あ、でもは……これか。あ、それかこっち。正解、でしょ」
彼がなにをしようとしていて、なにを伝えようとしているのかを探ることに必死だった。だからうなずくことしかできない。ついていかなければならない、手間を取らせてはいけない。英二本人が喜ばしく思うものでないとしても、もはや習性に近いその感覚はそうやすやすと自分の思考回路から離れようとはしない。思考回路すら飛び越えて、身体の芯深くに埋まっているようでもあった。
「でもねー、俺はあっちなんだよね。CMで流れてるの見て、もうすっごい気になってた」
は顔を上げ、英二を見つめる。
英二が指差す先にはいかにも彼が好きそうな映画が紹介されており、しばらく内容を見つめたあと、そっと視線を向ける。
「だから、じゃんけん。俺が勝ったらこっち、が勝ったらそれ」
こっちが見たい、と宣言するに違いない。そのつもりでいた頭は返事の仕方を忘れる。
それでも英二がじゃんけんで最初に出す手は覚えている、忘れていない。
「あー、負けた。じゃあそっちね」
「……うん」
「なに、見たくない?」
「ううん」
慌てて首を横に振る。返事は、笑顔と差し伸べられた右手だった。
映画の内容は確かに分かりやすかった。感情移入がしやすく、自分の好みであると英二が宣言したことに嘘偽りはなかった。
ただ映画の感動よりも、英二がこの映画を迷うことなく勧めたことの方に心は揺れ動いていた。高揚ではなく不安ばかりが心臓を支配していた。
(卑怯だよ、どうしていつもそうなの)
暗い館内で、手を握ることも変わらない。
英二は感情表現が大げさであるとか、隠すことがないとか言われがちだが、3年6組当時教室内で恋愛感情を出すことは滅多になかった。付き合っていることを隠すことはなくとも、日常生活の中にそれを溶け込ませることが基本であって、決して恋人の感情を中心とした言動を繰り返すわけではなかった。学校を出た時だけ、ふたりきりの時だけ。それこそ不二ですらすべてを知らないように、英二は自分たちの瞬間だけにこうして大切にしてくれる感情を示してくれていた。
それが、今日も変わっていない。昨日の続きであるはずの今も、変わらない。
映画の内容よりも自分の手の体温にすべての感覚を奪われる気分だった。
「絶対そうだと思ったんだ、俺の読みは間違ってなかった」
劇場を出た時、英二は満足げにそう言った。
予定はしていても阻止できるほど強い意思は持っていない、分かっていたはずの展開ながら最後涙とともにクレジットを見送らなければならなかったを見ての一言だった。
眩しくすら思える照明に必死に自分の赤い目を見られないようにしながら顔を上げれば、英二は自信たっぷりに笑う。
「泣ける人も大変だね。人よりたくさん涙を持ってるから」
「……そんなことないよ」
あらかじめ用意するのは涙ではなく泣かないという意思だ。ただその意思の防波堤をあっさりと越えて涙というものは溢れてくる。自然の摂理にも似たその感覚を、英二はひどく珍しそうに見つめる。
「私、泣きすぎるのは駄目だって思ってるんだから。だってひとりの時ならまだいいけど、こうやって人と一緒の時はちょっと」
「恥ずかしいとか?」
「うん」
「ふうん、そんなものなんだ」
会場を出ていく人の波が、エレベーターの中にぞくぞく吸い込まれていく。やがて喧騒はおさまり、広い空間の中で英二の声だけが耳に届く。
「でも俺は、それがだと思ってたよ。俺、まだのこときちんと知らないんだね」
不思議な表情だ、と思ったのはしばらく経ったあとのことだ。何度か上下への移動を繰り返し、ようやくすいてきたエレベーターに並ぶ列に連れられた時、その横顔を見て初めては気がつく。
寂しいということもできる、でも嬉しそうにも見える。そんな表情の英二を見るのは初めてで、言葉をなくすことは簡単だった。
映画館を出た後、入ろうと誘ったカフェへの道を英二はやんわりと断った。
拒絶の瞬間、の頭は一瞬で昨日の電話を思い出して続く言葉を用意できなかった。代わりに飛び出た青学の方に行きたいという英二の言葉に肯定も否定もできず、ただついていくことしかできなかった。
忘れてはいけないのだ、昨夜自分の行動を否定されたことは。突然の来訪と突然のデートに思考回路が記憶に従っていなかっただけなのだ、それを英二は思い出すように促したのだろう。
それでも、繋ぐ手の温もりは優しい。
忘れるなと釘が打たれる、けれどそれを抜いてもよいと言われている気分になる。中途半端に緩められた、鍵穴に鍵がかけられたままの枷だ。居心地の悪さだけが増していく。
やがて、視界が変わった。混雑を抱く街並みから、輝く夕陽の恩恵を最も受けられる河原の光景が目の前に広がった時、は足を止めた。
「……英二、これ」
「気づいた? さすがだね」
俺だったら絶対に分からないだろうなあ、と英二は笑う。
それは、あの日と同じ道のりだった。
あの日と同じように、夕陽に照らされる英二の横顔。暖色の似合う彼は夕陽を受けるのがうまい。それを綺麗に見せる方法を知っている。
中学3年の、半年前の自分はそのように思うことができていたであろうか。思い返そうとはするが、目の前の現実に思考回路は記憶を引きずり出すことを拒む。ただ肌だけが、かつてこれほど緊張の面持ちで彼を見つめたことがないことだけは伝えてくれていた。
「話すなら、きちんと話さなきゃと思ったんだ。あの高台のテニスコートは一度そうやって話した場所だから、じゃあが気にする場所、まだひっかかる場所ってどこだろうって考えた時、ここしか思いつかなかった」
秋の夕暮れ、肌を痛める木枯らし。季節は春になり夕暮れの濃さも肌寒さもあの頃に比べれば随分と薄れてしまったが、英二の言葉ひとつひとつがあの時の記憶を痛々しいまで強烈に、鮮明に甦らせる。
あの日、夕陽にきらめいていた川面。
それは半年前、淑徳への編入に決心がつかなかった英二に距離を置くべきだとが提案し、英二がそれを受け入れた場所だった。あの日のの止めようのない涙を、英二に隠しながら零したそれを唯一知っている場所だった。
「淑徳に行く話はしても、どうして行きたいかっていう話をしてに納得してもらっても、その後どうするかは全然話してなかったよね。正直、俺は話すことを思いつかなかったし話す必要すら分かんなかった。だって今までなにか特別な目的を作って付き合ってきたわけじゃないんだから」
足を止めるに相応しい緩やかな勾配を持つ場所は、青学に通う人間ならば知っている。ここは学園が建つ青春台から一望でき、勝手知ったる場所だ。自然と足はそこに向く。
「でも、はそうじゃなかったんだよね。俺、のこと分かってるようで本当は全然分かってなかった。今の状況をがどう思うかなんて、本当上辺だけでしか考えてなかった」
ゆったりと海へと向かう川の流れに、英二は目を細める。
隣に並び見上げた横顔は、その目はやはり綺麗だった。
「ここで面倒だ、って思わない俺でよかった。もし何も考えずにそう思ってみたり、に言ってたりしたらどうなってたか……そう考えるとぞっとする」
口を挟むべきでない、と気づくのに時間は必要としなかった。は口を閉じたまま、ただ黙って英二の言葉を待つ。
昨日の出来事が薄れないままの身体には、それが精一杯だった。
そんな自分の心境は見透かされているのだろうか。それとも、予定されているものなのだろうか。答えはまだ横顔からは伝わってこない。
しばらくの沈黙をおいて、やがて英二はを見つめた。
「だから話すよ。俺もまだまとめられてないから、うまく伝えられるかどうか分かんないけど」
柔らかく風が髪を撫でる。
沈黙するに英二は少し目を丸くし、ああ、と納得して小さく謝った。
「話したいって言っても違うよ、約束ごとを決めるっていう意味じゃないからね。電話は必ず毎日とか、メール何回とか……」
「そんなこと、言わない私」
「……知ってる。俺にテニスに集中させようとしてくれてる、そんなこと知ってるって」
笑いながら答えると、視線はまた川面に移された。
「でもね、俺はそれが嫌なんだ。おかしいでしょ、それ。なんで俺ばっかり楽になってんの、って思う。だから約束」
「……え?」
「がなにかを気にしてひとりで考えて悩んでってなる前に、俺が気づく努力をする約束」
意味を自分の中に落とすまで、どれほどの時間が必要だったのかは分からない。突然英二が難しい言葉を、抽象的な言葉を並べだしたようにしか思えなかった。似合わないとすら思った。
だが、その目を見れば今自分が感じるべきものはそれではない。
「うまくできる自信なんかないよ、ただ一緒にいるだけとも違うし、ただつくすことでもないと思うし。そんなのが……」
「望んでない」
「うん、だよね。ていうかそんなのが今までしてくれてたことと同じだから、俺までやったら何がなんだか分からなくなる。それでおかしくなるなんて絶対嫌だ、バカみたい」
英二の右手から離れた小石が川面を跳ねていく。軽い音を立てて夕陽が踊る橙色の中に沈んだ。
「青学に来てみて分かった。ひとりだけ違う場所っていうのは、変なことばかり考えるね。俺はすぐに慣れるほうだからいいけど、は違ったんだよね。がどういう映画が好きで、泣くぐらい好きでっていう、自分で経験したことは分かっていても、でもそれ以上のことを知らなかったのと同じ。……まあ、のこと全部分かってるなんてそれも嘘だし」
分かっていたら今ここに来ていない、と付け加えて英二は自嘲の笑みを浮かべる。
心の中に足跡をつけられる感覚だった。あまり好ましいつけ方ではない、自分の領域にぐっと入り込むつけ方だ。言葉がでてこないのはその足が喉をおさえているからに違いない。
「だから、適当にしないよもう。気づくようにする、考えるようにする。自分でなにも考えずににだけなにかを言うって、そんなのおかしいもんね。それを言いたかったんだ」
だが、言葉を殺させる人間を見つめることはまるで苦ではなかった。
真っ直ぐだった。揺らぎがなかった、汚れも淀みも濁りもなかった。夕陽を受けて橙色に染まる頬に触れたいと思うほど心をしめつけた。
「どうして英二はいつもそうなの。どうしてそう言えるの。また私、ついていけなくなるよ」
しめつけはやがて、心の奥底にたまっていた本音を吐き出させる。
英二は首を傾げ、大きな目を幾度か瞬かせた。
「勉強できるのはなのに?」
「テニスができるのは英二じゃない」
「俺はと不二が簡単に勉強できるのを見て、結構ショックを受けてたんだけどなあ」
「勉強はみんなやればできるよ、テニスは選ばれた人じゃないとできないよ」
「それこそ嘘だし」
そんな言葉は手塚にでも言ってやれ、と自嘲でもなく英二は笑う。その笑い方には目を丸くする。違和感が再び言葉を隠してしまった。
菊丸英二という人間がテニスにかける思いを、一度でも無下に扱ったことはない。扱えるはずがない、3年間という限られた時間であってもそれを間近で見て、間近で見ることを許された場所にいられたのは自分なのだ。
「私ができるのは、みんなができることで、そんな私が英二の彼女でいるためには本当にもっともっとなにか努力をしなくちゃだめなんだよ、だって私、本当に英二の彼女でいていい特別なものがないんだよ。推薦までもらえるんだもん、英二のテニスは大切なんだよ」
「……」
「だから、そんな私にこれ以上英二がなにかをするのは余計間違ってる、私そんなこと期待してたんじゃない、そんなのだめだよ、英二は私と違うんだから」
ないものねだりとは分かっていた。だが自分の手にないものは輝いて見えるものなのだ、ましてや輝かせるためにこちらには見えないところで努力が積み重ねられていたことを知った後では、もはや触れることもおこがましい。それほどのものを持っていることを、英二はまるで自覚していない。
見ているところが違う、と心の中で呟く。
近寄ろうとしても、やはりどこかすれ違う。かみ合わない会話に昨日の英二の電話越しの声がよみがえる。自分も英二も、どこか食い違っている。そう思えば声もどこか遠くなる。
なぜまた、いまさらここに来ているのだろう。すれ違いはもう十分だった。相手のことを知り尽くしていないのは自分もなのだ、けれどそれはいけないことなのだと身体のすべてが怖がっている。
「俺、と一緒なんだけどなあ」
その声は、怯える身体にそっと投げかけられた。
「俺がテニスで、が勉強だとするじゃん。あ、今口答え禁止ね。口閉じて」
人差し指が触れるか触れないかのところで伸ばされる。
遠いと思ったはずの声が、耳の奥まで響く。見上げれば自分だけを見つめる英二の瞳がそこにある。
「でも正直、それって違うよね。は俺がテニスができるから好きになった?」
小さく首を横に振る。英二は柔らかい目をして笑った。
「……だよね、俺もを勉強だけで見た記憶なんかないよ。俺のテニスだって、俺があってのテニスじゃなきゃ意味がない。テニスができる男なんてごろごろいる、それこそは俺と同じくらい、不二を見てる。でも不二じゃなくて俺なんだ、だからテニスと勉強は関係ないよ。そんなことだけでいろんなこと考えるの、意味ないよ」
普段なら、こういうこと言うのはなんだけどなあと英二は最後にまた笑った。
言葉が出ない。怖くてではない、悩んでではない。言葉にするまでのものが心の中にない。心の中がなにか言葉にできないものに完全に埋まってしまっている。
できるのは、ただ英二を見上げることだけだ。
青春学園入学式、あの出会った頃より随分と背が高くなった恋人は、けれど浮かべる笑みの柔らかさを変えていない。
「好きな人のためになにかをしたいと思うのは、だけじゃないんだよ。なんで俺にはさせてくれないの」
青春学園中等部、あのつきあい始めた頃より随分と落ち着いた声を出すようになった恋人は、けれど自分を見つめる瞳を揺るがせることは決してない。今日も。
「だから、がなにかをしてくれることに、俺は気づく努力をする。悩んだら一番に気づくやつになる。気づいてないことがやましかったんだろうね、昨日の俺は。だからあんな電話したんだ。でも、もう駄目。今日から俺気づいちゃうから。……今日からでごめん、遅くて」
変わったものと変わらないもの。変わらないものは、今日という日も自分の心を温かく満たすことしか知らない。
「どうして対等にしてくれるのかなあ、おかしいよ英二」
目の奥が熱くなる感覚に負ける。自然と泣いてしまう感覚やそれを恥ずかしがっている感覚を理解できないと英二は言うが、泣かせる瞬間だけは映画よりもなによりも一番理解しているのではないかと思えるほど、その目は真っ直ぐだ。言葉は重い。
川の流れが優しく耳に届く。半年前の川は、もっと冷たい音しかしなかった。
風が頬を撫でる。秋の風は、もっともっと心の奥底まで冷やしていった。
変わらないものがあるとしたら、それは夕陽の赤さと、
「自分の方が好きだと思われる方がよっぽど心外。なめるなって、俺、結構のこと好きなんだけど」
「……結構?」
「ううん、だいぶ」
「だいぶ」
「……たくさん」
「じゃあ、まだ私の方が上」
「なんだよそれー、ひとりで恋愛したってなにも楽しくないのに」
「……え?」
「ひとりだったら、俺今ここでにキスすることもできないよ」
迷いも本音も自分に真正面からぶつけてくれる恋人の想いだ。
春の夕陽は、記憶を遡ることができなかったのだろう。川面と英二の横顔を照らすことばかりして、あの秋の日をこちらに伝えることには手が届いていない。
ただ、優しさだけは変わらない。
今日の夕陽は、涙を隠すことではなくそっと訪れたキスを隠すために赤く揺らめき、静かに川面を染めていた。
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