08.明日へと続く道
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「本質をつけば、それをエゴのかたまりって言うんじゃないのかな」

 珍しく不二は不機嫌そうに呟いた。不機嫌はもう通り越していたかもしれない、呆れたくとも親友の話ゆえに突き放すことができず、心がすっきりしなくてしかめ面をしているという感じでもあった。
 見抜くことがうまくなったものだ、と英二はストローを口にしたまま不二の顔を見つめて思う。この親友は心の中を覗かれることをとても嫌がるが、3年という月日は人間の感情を絶対視しなくともよいだけの経験をもたらしてくれる。不二には悪かったが、自分の感覚が正解からはそう離れていないことはすぐに分かった。
 だが、そんな英二の考えを読んでしまのが不二でもある。
 惰性のように飲んでいたストローから口を離し、椅子の背もたれに体重を預けてじっと英二を見つめる。高校生になって増したように見える瞳の怜悧さは、このような場合では追いつめられている感じしかしない。

「英二の言い分を聞かずに僕の感想を言わせてもらうとね」
「うん」
「結局、さんがなにかをすることを止めたわけじゃなくて、むしろそれを黙認しているようなものだし、もしエスカレートしても俺が受け止めてやる大丈夫、だからつくしてくれていいんだよって、無責任に勝手に言ってるようにしか聞こえないんだけど、僕には」

 今日は随分と機嫌が悪いらしい。前置きがあったとはいえ、その口調は常日頃の不二を思えば随分と角のある種類に含まれる。もともと無駄のない綺麗な顔をしているのに、口調まで近寄りがたくなってしまっては普通の人間ならば怯むことしかできないだろう。
 しかし英二は、ストローから口を離した後しばらく店内を見つめ、小さく首を傾げた。

「でもなあ」
「なに」
って案外あれだよ、賢くないんだよ。自分のことになると」

 それではお前は賢いのか、と不二の目が疑問を抱いているのはすぐに分かったが、英二は言葉を訂正しなかった。

「違う意味で賢くて、それこそ今の不二みたいに俺じゃ手がまわらないところにまで気づいたり深読みしたりして逆に落ち込む。しかも俺は口がうまくなくて、説得とか向いてない。だとするとさ、言葉で納得させることって本当に意味がないと思うんだよね」
「別に僕は最初から全部に気づいてるわけじゃないんだけどね」
「『見える』んだっけ」
「そう」
「不二ほどずば抜けてはいなくても、も似たようなものだよ。まあ俺があんまり状況判断がうまい方じゃないっていうだけだけどさ」

 要領のよさには自信があるが、真の意味での世渡り上手とは不二のようなことを言うのだと思う。不二本人はそんな自分の生き方にもどかしさを覚える瞬間が少なからずあるようだが、傍から見れば不二ほど成功に近い生き方をしている人間は英二の周りにはいない。その成功は、社会的価値があるものに限られてはいたが。
 は自分よりも不二に近い。ただもっと弱いところがあって、不二がその弱さを見せないように努力して実際見せていない(こちらが感づくこととはまた別)のとは対照的に、の場合は透けて見えてしまう。それは英二だからだと不二もも笑ったが、個人感情を抜きにしてもが不二より強いとは思えない。
 英二は視線を不二に戻し、けだるげに壁に身体を預ける。
 部活がなかった身体は逆に重い。だが思考回路はやけに覚めていた。

「だとすると、ただを止めようとすることには意味がないよ。逆効果。落ち込ませるだけ。それだけは俺、自信もって言えるよ」

 不二が頬杖をつき、つまらなさそうに店内に視線を向ける。呆れているというよりは、不機嫌だというよりは、考え込むような時間の使い方だった。

「だったら、俺がそこにつきあった方が早くない? つきあうって言い方もおかしいけど、それが苦じゃないんだったら相手を止めることよりも相手に自分が近づいた方が早いし、それが正解だよきっと」
「……」
「傍から見たら馬鹿げてるようでもね。俺はそれで正解だと思った」

 単純なことだった。ただ、人間がふたりいるだけなのだ。
 ひとりで考えて起こした行動が、たとえそれが相手のことを思って起こした行動だったとしても、最初の段階で読み間違いをしていたら行動のすべてに意味がなくなる。間違ったゴールに向かって正しい結果が得られるはずがない。

「って、それに気づくまで3年もかかってるんだけどね。長いなー、でも短かったのかなー。まだ知らないことなんてたくさんあるはずだから、本当はこれで決着じゃないんだけど」

 ただ、経験だけは残る。生きる。
 それだけは、不二には負けない。との間で培った経験は、不二の見解に必ず勝る。その自信が妙に自分を大人びて見させているようで、言い終わった後英二は苦笑した。

「そう言いきれるのは、きっといいことなんだろうね。僕には分からないけど」

 苦笑はやがて、不二の独白に飲み込まれる。
 騒がしい店内で、不二の声だけはいつも透き通って聞こえた。高すぎず低すぎず、脳内に残ることに秀でた声は今日は少し落ち着きがない。怒ったり、呆れたり、そして、寂しそうに響く。

「でも、そうだね。英二のように思える心というか、その姿勢はきっと誰でも大切なんだろうね。それこそ手塚のように、ひとつの負けを無駄にしない生き方みたいなものが」
「あいつはすごかった。人一倍負けず嫌い。でも、それをちゃんと結果で返してくるからなあ。あいつどれだけ青学好きなんだよって」
「青学が好きね、それは確かに。大石は青学というよりも手塚と英二が好きだった」
「でも、手塚に似合わないよな。好きっていう言葉」
「彼女しか聞いたことないんじゃないの、それこそ」
「確かに」

 今は遠い海の向こうにいる自分たちの部長を思い出し、今度は素直に笑う。今でこそ不二と着る制服は異なってしまったが、それは手塚も同じことで、河村にいたってはテニスからも離れてしまっている。
 けれどきっとあの時のメンバー全員が、青春学園中等部での記憶を色褪せたもののようには決して抱いていない。
 青学で得たものは大きすぎる、と改めて思い直すと、自然と笑みが零れて仕方なかった。

「好きなものには執着しなくちゃ駄目だっていうことなんだろうね、結局」

 しばらく思い出に浸っていると、ふと不二が真っ直ぐな視線を向けて尋ねてきた。
 思えば、会話の方向はいつからこのようになっているのだろうか。のことについてたしなめられていたのではなかったのだろうか、と疑問が頭をもたげてきたが、だが不二の視線を前に疑問はあっさりと陰に隠れる。

「したもん勝ちだち思うけど。好きなものなら」
「難しいことを言うね、英二は。それができない人間だっているのに」

 自分のことを言っている、と気づいた時、英二は不二を見つめて小さくため息をついた。

「不二が執着しないやつだったら、多分もっとテニスを適当にやってるよ」

 この親友は、時々こうなる。プライドが高いというよりは自分という生き物に対する責任が何であるかを難しく考えすぎるのだ。このあたりはも似ていて、英二は扱いに困ったことがない。

「残念、惰性でテニスをするようなやつだったら最後の全国大会で手塚とスミレちゃんがメンバーにいれませーん。というわけで不二はそんなことはありません。はい、おしまい」
「テニスはね」
「……なに、今日はやけにつっかかるね。俺なんかした?」

 眉間に皺を寄せて尋ねる。不二は曖昧に笑った。

「僕の前でのろけた。それぐらいかな」
「のろけてないよ、むしろむしろつっこまれたよ不二に」
「一連の流れを見ているとね、腹が立ってきて」
「……今日はやけに直球だね、俺が悪いことしてるみたいなんだけど」
「今回のことで、英二をすごいというか怖いとすら思ったことを言ってあげようか」

 不二の目が、真っ直ぐに英二を見つめる。どこか翳りがあるように見えたのは、照明の当たり方のためか。返す言葉を探しているうちに、不二は小さくため息をついた。

さんが自分のもとから離れていくとは、全然考えていなかった。好きで当たり前だと思っていた、好きなことが前提でしか話が進まなかった。それは羨ましくもあるし、怖くもある。僕にはできないよ」

 皮肉ではなく、本心からそう思っているのであろうことはその目を見ていれば分かった。
 不二の言葉をどのように受け止めていいのか、一瞬躊躇する。確かにそれは考えていなかった、そもそも目がそちらを向かなかったのだ。
 だがそれが特別なこととも思わなかった。視点を変えるだけで今回の出来事はどのようにも見られるのだという、それを伝えているに過ぎないと英二は不二の言葉と目を見て思う。

「それが、3年分のご褒美なんじゃない?」

 それならば、一応の解決を自分たちの力で遂げた先日の河原での話し合いは、間違いではなかったことになる。不二の意図するものとは違うものを、違う安心感を抱いて英二は苦笑するしかなかった。
 その時、携帯電話がメールの着信を告げる。送信相手が誰かを確認し、中身を確認するとようやく使い慣れてきた淑徳の鞄を持ち、手早く返信をする。いつのまにか食べ終えていたトレイの上を片付けるのは片手でもできた。

「俺、頭よくないけどさ。でも3年分はきちんと過ごしたよ。そのご褒美なんだよ、きっと」
「またのろけられた。もういいよ、さっさと帰りなよ。片付けぐらいしておくから」
「あ、来週の約束忘れるなよ。本当に乾呼んどいてよ、俺聞きたいことあるから」
「はいはい」

 困ったように笑いながらさっさと行けと手を振る不二に、英二は笑い返して店を出る。最後の不二の笑みは、いつものものだった。
 不二が口にした言葉を、早足の中で繰り返し思い出す。怖いとまで言うのはあまりに自分の経験とかけ離れていたことだからだろう、ここでも経験がものを言う。不二がおかしいわけでも自分がおかしいわけでもない、ただ経験したことのない知らないものに対して不二が過剰に反応した、それだけだった。
 ふと、自分の口にした言葉が甦る。
 褒美とはよく言ったものだ。こんな時にまで自分の方が楽をした生き方をしているようで、夕方の風は自惚れるなと諭してくれているかのように冷たい。
 だが、気づいている分この前とは違う。

「お待たせ」

 今日という日を昨日の続きで、1間前の続きで1年前の続きで、出会った頃の続きで感じられることを、当たり前とは思わない。

「不二くん、大丈夫? 会うなら会うって教えてくれれば、私時間ずらしたのに」
「先約は。不二は今日たまたまそうなっただけ、じゃあ順番はこっちが先だよ」
「あ、そうなんだ。最近不二くん英二のこと大好きだよね、なんとなく」
「俺がいなくなって寂しいんじゃない? ようやく分かってきたか、不二のやつ」
「……それ、言っておくね。自惚れてたって」

 感情が離れていかないかを心配するよりも、感情があることに喜びを見出した方がよほど楽しい生き方ができる気がする。それは不二よりも楽天的になれる自分の特権だと、英二は思う。
 そしてその楽天的な生き方につきあってくれる人がいるならば、それは精一杯自分も相手のためになにかできることを考えるべきだ、作るべきだ行うべきだ。それが分かっただけでも、3年分を過ごした意味は重い。

「あ、そうだ。日曜日だけど、練習夕方で終わるって。その後からなら会えるよ」
「夕方……ああ、うん大丈夫。よかった、時間もらっておかないと怖かったから」
「怖い? なにが」
「英二の中間テスト」

 勝ち誇ったような笑みを浮かべるに、ため息をつくことも今となっては特権のようだ。

「よかったー、学校で様子を見られないからどうしようかって不二くんと相談してたところだったの。頑張って赤点だけは免れようね、英二」
「……、俺そろそろもう少しレベル上げてもらってもいいと思うんだけど……」
「淑徳の方が青学よりレベル高いから、それは無理」
「俺の努力がないこと前提だよね、その話。ね、そうだよね」
「努力してくれるの? どれぐらい? 計画は?」
「……」
「……私も、できることならもう少し勉強ができる方がいいとは思うんだけど」

 ため息をついたあと、は首を傾いで困ったように笑った。

「でも、どうでもいいって思うよ、本当は。英二がなにを頑張ってるのかは知ってるから」

 目を合わさず、街の混雑を見つめたまま呟く。けれどその言葉だけは一言も漏れずに英二の耳に届く。自分の声がどれほどの力を持っているのか、すべて見透かしたかのような声だった。証拠に英二は、反論をするよりも先に言葉を噛み締める沈黙を持つ。そして、最後には笑うしかないのだ。

「褒められたので、ちょっと機嫌がよくなった」
「そうなんだ。で、このあとどうする?」

 悠然とした笑みを浮かべるは、嫌いではない。やわらかい線を持つその笑い方は、他の人間がするよりもずっと優しく見えることを知っているからだ。特に今は夕陽を受けて温かくも見える。
 英二は顔を上げ、夕闇に染まろうとする空を仰ぐ。今日は雲ひとつない晴天だった、だから夕陽もいつもより綺麗に見える。風が冷たく感じると、勝手な印象で明日はもっと青空が広がる気分になる。それは冬のテニスコートで春を待ちわびる癖がついてしまったからだったが、今日の空はそれを錯覚にしなくてもよいと言っている。
 澄み渡る明日の青空を思い、自然と頬が緩むのもそのままに、英二はの手を取って笑った。

「独り占めしたくなったから、俺の家に行く」

 隠すことなく本音を告げれば、は一瞬目を丸くしたもののやがて声を上げて笑い、手を握り返した。

「可愛がってもらえるなら、喜んで」

 違う制服、違う道。違う時間に違う生き方。
 異なるものばかりを迎えた4月、けれど心は穏やかだ。満たされることしか知らない。
 心を写し取ったかのように澄んだ夕空は、淀みない藍色を迎え入れて遠く一番星を輝かせていた。



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end.