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助言をすることは難しいことではない。
表情をひとつ、しっかりと見定めてしまえばいい。小さな揺れを見落とさなければいい。遠まわしな言葉を使ってくるのであれば、動く視線をひとつ丁寧に見つめてしまえばいい。
だからあの時、不二はをまずは見つめた。そしてタオルをと言われた時、彼女の気持ちがどこまで固まっているのかを見抜こうとした。あの時のの目は、進む方角に迷うというよりも自分の決めたゴールに突き進んでいいかという、そのたった一歩を求めているように見えた。
方向転換は求めていない。最後の一歩をと、その目が訴えていた。
「さんがあげるなら、何も考えずに使うと思うよ。考える理由がないんじゃないの、英二には。そういう感覚以外ないというか」
慌てることなくゆっくりとそう答えれば、の表情が安堵に満ちたあの瞬間を不二は忘れることができない。
しかしそうさせることが目的の言葉だった。その結果が得られないのは逆におかしい。だからその後、忙しなくも楽しそうに帰路についたの後ろ姿を笑顔で見送ることは造作もないことだった。
ただ、その後振った手が行き場をなくしたことを、彼女は知らない。
(……そういう感覚以外はないだろうけど、でもそれは意識して作るものじゃない)
たまに、ちょっとした時にであれば構わないだろう。しかし日常生活に溶け込んできた些細ながらも心情のこもった行動であったからこそ、心に根づきそして英二はの行動に対してそのような態度を取るようになった。それまでに2年の歳月を費やしているのは他ならぬ自身だ、だからこそあえて今更、意識して作るような状況でもないはずだ。
「不二、どうした。しかめ面して」
「難しいものだよね、と思って」
クラスを訪れた大石の疑問に小さく呟く。
冷静に今の状況を見つめる自分が一体どういう役割を持っているのか。久しぶりに自分の立場を考えられることに複雑ながらもやりがいを見出した時、それほどまでにふたりの存在が自分の中では大きな位置を占めていたことに気づく。
「ねえ、大石。普通、彼女とのことに口を挟まれたくはないよね」
「なんだ、急に。あの人となにかあったのか?」
「いや、僕のことじゃなくて。大石はどう考えているのかな、と思って」
問いかけに大石は素直に困った表情を見せる。軽々と口にすることではないと考えているのだろう、しかし質問に対して拒絶の態度を取らないこの親友の優しさに、自分は幾度となく救われてきた過去がある。その過去にねだるかのように尋ねれば、今日も大石は素直に考えてくれた。
「そうだなあ、事細かく指図されるのは困るだけど、アドバイスをもらえる瞬間もあることは確かだから、その状況によって異なるんじゃないのか。口を挟まれても素直に聞くことができる段階というか、レベルというか。そういうものが分かっていれば、大丈夫な気もするな」
そしてこの親友から返されるのは、至極真っ当な答えばかりだった。
期待を裏切るという言葉の意味や、そもそもそういう行動があることをまるで知らないかのような大石の素直な返答に、不二は少しだけ申し訳なさを含んだ笑みを浮かべる。
「大丈夫なんだ」
「大丈夫……だな、うん。誠意とお節介を区別することはできると思うし」
「たとえば、僕から言われても?」
「不二に? それこそ、段階なんていうものを飛び越えたものだろう」
驚いた顔をしたのは、大石の方だった。不二は返す言葉をなくす。
「俺の性格を知っている不二が言ったら、そのとおりにしなきゃと思える瞬間だろう、それは」
不二は窓の向こうの外を見つめる。
中等部よりやや東よりに位置する高等部からは、見える景色が少しばかり違う。見慣れるというまでには少し時間がかかりそうな気もしたが、ここが青学という名前を冠している場である以上、さほど心配はいらない。自分は青学という響きをもつものにことさら弱い。
「そうだね、個人的な感情は有効に使うべきだよね」
「……一体何の話をしているんだ? 不二」
「3年6組だった責任みたいなものかなあ。……そんなこと言ったら縁切られそうだけど」
そう呟き、大石とともに教室を出るために手にした鞄はいつもよりも軽く感じた。
責任という言葉に甘えてみるのもいいかもしれない、そう思った心を撫でるように校舎の外には春の風が心地よく流れていた。
口出しをすることも実は難しいことではない。
相手の感情ひとつ、しっかりと見定めてしまえばいい。些細な揺れを見落とさなければいい。言い訳をしようものならば、その根拠を動く視線の中に探し、真実がなんたるかを突きつけてしまえばいい。どちらが正しいのかはその瞬間にはっきりする。
しかし、それを許してくれるのは自分の周囲ではごく一部の人間だけであること、自分はそういう人間であることを不二は知っていた。そして今、目の前にいる人間はその相手だ。表情を見つめる視線に力がこもるのも仕方のないことだった。
「不二が呼び出すなんて珍しい」
どこにでも売っている透明のビニール傘をさした親友が現れたのは、昼下がりに降りはじめた雨が依然しとしとと地面を濡らし、重く垂れ込めた灰色の空を見上げることに飽きはじめたころだった。
「雨が降れば青学でも淑徳でも同じかなと思って」
「おかしいよなー、強豪って言いたいなら室内施設も作るべきだと思うんだよ、絶対。氷帝みたいな」
「随分と次元が違う比べ方だなあ」
「向日に頼んだら見せてくれたりしないのかな、中とか。すっごく興味あるんだけど」
「ものすごく嫌そうな顔をされて終わりだと思うよ、それ」
こうして顔をあわせるのは中等部の卒業以来だったが、英二はまるでそんな時間の存在など知らないとでも言うかのようなあっさりとした空気で言葉を振ってきた。様々な事象も気にするかしないかという本人の意識ひとつで随分と意味が変わってくるのだと、思えばこの親友に教えられてから既に3年が経とうとしていた。
「まあ、そういう学校だからこそ今こうして会えるわけだし。自慢の腕を見せてもらおうかな」
「皮肉ー。俺、ダブルス要員なんですけど」
「シングルスでも強いって証明はしているって聞いてるけど」
「……だろ、それ。強いんじゃなくて、先輩がそんなに強くなかっただけ。俺で勝てるんだよ? だって」
「でもさんは嬉しそうだったよ」
「そりゃ、勝てば嬉しいんだろうけど」
ふとその顔を見つめる。の名前を出した瞬間の自分の顔を、この親友は知っているのだろうかと思ったことが何度かある。今もまさにその瞬間だ、と不二は黙る。
日常の中に溶け込んで久しいのだろう、なにか重大な事件が起きていない限り英二の口から出てくるの名前は、実はまるで重みがない。さらりと、何事もなくその名前は口をついて出てくる。昔は名字で呼んでいたという歴史の始まりを知っている不二からすれば少し物足りない感覚になることもできたが、その表情を見れば寂寞の感情など不要なものであると教えられていた。
異質なものでも、重要性を増せば増すほど日常生活の中に埋まり、溶け込もうとするものなのだということを知らされていた。
「でも、正門前で待たせたの。それは随分な仕打ちだね」
だからこそだった。不二はラケットを軽く振った後、コート脇に腰掛ける英二に向かって静かにそう声をかけた。
「なんで」
「なんで、って。だって違う制服なんだよ? 目立つに決まってる。さんが目立ちたがり屋とは思えないなあ、僕には」
言葉の真意を、この親友は分かっていないだろう。そう思って視線を向ければ、予想どおり英二はしかめ面をして不二を見つめるばかり。期待を裏切らない親友の反応に、笑い声を上げることしかできなかった。
口出しをすべきなのだろう。直感はそう訴える。
(無理をして作った日常なんて、いつか崩れる時が必ずくる)
崩れるだけなら問題はない。崩れたものは修復することができる。完璧ではないにしろ、崩れた敗因から学び、次の一歩を踏み出すこともできる。元通りにはならない代わりに違う道ができる。経験は絶対に自分たちを裏切らない。
ただ、それは崩れる瞬間にふたりが同時に気づくことが前提だった。ひとりだけでは憔悴し、相手に苛立ちを覚え、最悪の場合ふたりとも気づかなければ修復前に完全に決壊をする。ふたりの意識がきちんとかみあっていてこそ、崩れることも認められるのだ。
「仕方ないよ、学校に来てもらう約束なんてなかったからさ。見つけた俺の方がびっくりしたもん、なんでここにって。でも中に呼ぶわけにはいかないし、そうなると待ってもらう場所なんか外にしかないじゃん」
その言葉を聞いていれば、自分の心配はどちらに向かうべきかを勝手に英二が教えてくれる。この親友は気づいていない、その事実を知るだけで十分だった。
「うん、そうだね。でも驚いた、淑徳に行くのは英二との約束じゃなかったんだね。てっきり呼ばれたものだと思っていた」
確認のために言葉を投げかける。やはり英二は納得のいかない顔をしていた。不二の勝手な判断に対して怒るというよりは、なぜそう思うのかを素直に疑問に思う顔だった。
その顔に、不二は小さな違和感を抱く。
(……気づかない? どうして)
が必死になってなにかを守ろうとしているのは分かる。しかしそれは英二からすれば快く受け止められるものではないだろう、受け止めているように見えるのはその真意に気づいていないだけだ。ただ、英二はそれに気づくべきなのだ。不可抗力で言いがかりで勝手な判断だと、そう罵られようとも、それでも青学で学生生活を共に送っている不二には、それに気づいてほしいという思いがあった。
距離は、怖いものなのだ。気づかないうちに予想外の力で自分を追い込む。相手を押し流す。それを楽しむことができるというのは、経験を積んだ後だ。簡単に乗り越えられるようなものなら、去年の秋このふたりはあれほどまでに悩んだりはしなかったはずなのだ。
なのに、この親友はまるで気づいていない。いや分かっていたことだった、だから口出しをするために今日この場に彼を呼び寄せた。
けれど今、現実を前に不二は自分の予定がどこか実を伴っていない焦燥に駆られる。
「でも、それがあの人なりの頑張りなのかもね」
気がつけば呟いていた。思いが勝手に言葉を作る。その原因に心ならず動揺した。
「頑張り? なにそれ」 「離れると、見えるものがたくさんあるんだよ、きっと。それに向かって頑張っている、という感じかな」
気づいてくれ、という思いがまた口を動かす。本当は頑張るなどという言葉ではもどかしい、生易しい。気づかない英二に対し、予定がかみ合わない心は焦燥しか積もらせない。
「打とうか。なにかもやもやした気持ちがあるなら、打って発散してしまった方がいいよ」
まさかそれが自分自身に対する言葉だとは、不二自身も思っていなかった。
それほど英二に対して苛立っていたとは思いたくない。気づいていない責任はあるかもしれないが、それに最初から気づくことができる人間が果たしてどれほどいるというのか。自分のことに関しても100パーセント正しい方法で過ごす自信があるわけでもないのに、他人に対してだけそれを求めるというのは鼻で笑われる行為だ。
「エゴだよ、それ」
だからその言葉を口にした時、頭に心にあったのは英二に対する思いだけではない。そうなっている、自分に対してもだった。
混雑したファーストフード店での会話は、自分でも驚くほど直球の話だった。まだ気づいていない英二に対してと、気づかないことに苛立ちにも似たものを感じる勝手な自分に対して口は止まることを知らなかった。
口出しをするという決意は、一体なんのためだったのか。自分でも分からなくなっていた。
そして着地点を見誤った口出しがいかにおこがましいのかを、不二は突きつけられることになる。
「でも、それは必死になってやることじゃない。頑張ろうなんて思ってすることじゃない。だったら、普通にできる」 「そうだね」 「だから、俺に対してもなにか頑張ってすることなんて、本当はないはずなんだ」
頬杖を解く瞬間が訪れた。
不二は目を見開き、真っ直ぐに英二を見つめる。気づいていないとばかり思っていた相手から零れる直球の言葉に、心は強引に予想と予定を突き破られてふらつく。
英二は既に気づいていた。いや、気づくということではない。それが当たり前であって日常であって、だからあえて言葉に出すことでもなかった。気づくという次元ではないのだ、それを気にするのは上辺しか知らない人間だけだと初めて理解したその瞬間、言葉をなくした自分に英二は驚きの表情を浮かべた。
「……やっぱり、そうなの? 不二がこの前言ってたことも、こういうこと?」
返す言葉はない。
その通りだ、と誰かは言うが、それと同じぐらいの力で自分の存在を誰かが笑う。口出しをするなどおこがましい、と思うにはそれで十分だった。
「なに気にしてるんだか。別に俺、そういうこと言った覚えないのに。昔から悪い癖なんだよな、全部勝手に悪い方向に考えてひとりで抱え込もうとする。……変わってないなあ」 「物理的な距離が目の前にできてしまった分、仕方ないとも思うけど」 「そうだとしても、そこまで深く考えることかな。あんなに卒業前に話したのに」
「真新しい環境の英二と、青学に残ったさんとでは状況が違いすぎるよ」
「それは、話したこと。青学にいた時に何度も話したことだし、そんなことで我がままを言うのを一番嫌がってるのはだ。改めて反応することじゃない、絶対」
返される言葉ひとつひとつがまるで正論だった。
妙な緊張が身体を襲う。言葉ひとつが返されるだけで自分の「口出し」は「お節介」であったことを知らされるが、しかしそれが苦痛でない。これはなんだ、と高揚にも似た動揺が心だけでなく身体全体を支配する。
「それは僕も知ってる。でも……そうだな、別に僕からすればどちらが悪いわけでも正しいわけでもないと思うんだけど」 「なに」
「こうなることを全く想像できなかったわけじゃないなら、だからこそ見過ごしてしまったというよりも予防していなかったということになるから。予想できたことに対してなんの対処もしないままだったのなら、英二にさんをとやかく言う権利はないとも思うけどね」
そうなるとは思っていない。それは他の誰でもない、自分が思っていない。
ただ、この場合英二はどのような反応を示すのか。
動揺は、やがて興味に変わっていた。
「どっちの味方なんだよ、不二は。俺説教される予定なかったんだけど」 「この状況を作った人間に丸投げされるのだけは嫌だなあと思っただけ」 「嫌って」 「だって、嫌でしょ。無関係の人間に支配されていいほど、彼女との関係をそんなに安いものにはしたくないな、僕は」
まるでそれは願いのようだった。自分にはできない、けれどこれが夢物語とは思わない。理想で終わる話だとは思っていない、自分にはできないけれどそれが現実に可能であることを見せつけてくれと懇願しているかのようだった。
英二は黙ったままだった。なにかをかみしめるように心に落とすように、ただ黙って頬杖をつき、視線を店内に向けていた。
事が早く、正しい方向に動くことを望んでいた。そして口出しというのは世話を焼く心ではなく、そうであってほしいと願う心から生まれるものだということを初めて知った。
授業中、の背中を見つめる。彼女は中等部の頃から自分や英二の視界に映る前方の席になることが多い。今でこそ不二はひとりでその背中を見つめるが、だからこそ今がなにを思っているかを考えることはさして難しいことではなかった。
(英二になにか言われたかな。……そうか、そうだよな、英二は自分で言うな、きっと)
落ち着いた、気が抜けたというよりも、落ち込むという言葉がひどく似合う背中に不二は頬杖をしたまま考える。古典の授業がまるで頭に入ってこなかった。折り目や汚れのひとつもない教科書がどこか嫌味にも見える。
(でも、落ち込むのすら羨ましいと言ったら。僕はさんにも嫌われるかな)
自嘲ぎみに思うとチャイムが鳴り、身体が自由になる。は相変わらずなにかが抜けたというよりもなにかをなくした動きしか見せていなかった。
ここで、自分はなにを言うべきでもないと不二は知っていた。
助言をすることも口出しをすることも簡単だ。相手を冷静に判断できる状況では、自分という人間はそれをさほど難しいとは思わないようにできている。
しかし、口出しという仮面をかぶった願いを口に出すのは少し恥ずかしい。
「さん」
「……なに?」
「暗いよ、背中。なんかオーラが出てる」
「ひどいなあ、そんなもの出てません」
「じゃあ次の数学でも頑張ってね」
「……喧嘩売ってるよ、不二くん。私が次の数学当てられてるの知ってるでしょ」
「さあ」
「嘘ばっかり」
他愛ない会話で彼女の顔に笑みを宿し、不二はそこで会話を止める。立ち上がって傍に寄るようなことはしない、ただ互いに腰掛けたまま言葉を交わす。それで十分だった。
窓の向こう、濁りのまったくない青空を見つめてあの日の会話を思い出す。
「英二とさんなら、大丈夫だよ。僕が保証する」
そう呟いた、あの瞬間の英二の表情をに見せてやりたかった。が思っているほど英二とて強くないし賢くない、今のと同じように悩むからこそ大切にしたいという思いも同じほどの強さで抱いているひとりの人間に過ぎないと、伝えてやりたかった。
「保証って……結局そこかよー、口出ししたくないって言いながら」
「仕方ないね、3年6組の責任だと諦めてるよ」
「責任って! 偉そう、なんだよそれ!」
「じゃあ、特権」
「変わってない!」
「そうかな。僕にとっては特権だよ、ふたりが仲良くしたり、喧嘩をしたりするのを見られるのは。3年の時はやれやれと思うこともあったけど、今は違う」
「……え?」
「特権なんだ。彼女とそういうことができる、と教えてもらえる、特権」
真意に、この親友は気づかないだろう。それでいいと不二は思っている。
なにかを教えられて動く親友なら、このふたりは去年の秋、あれほどふたりで悩みはしなかったのだ。考えるという行動を放棄するふたりであれば、不二はとっくにみきりをつけているはずなのだ。口出しとは努力を知らない人間に与えるものではない、努力をしてなにかにぶつかった人間に対して与えられるちょっとした足場なのだ。
そしてそれは、自分の都合のいい言い訳なのだ。不二は笑い、真意をそっと胸の内に秘める。
(英二とさんなら、それを自分たちの力で乗り越えてほしいんだ)
見つめた青空に浮かぶ白雲は、夏に恋をしているかのように真っ白で真っ直ぐで、たゆたうその姿に思わず笑みを零した。
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