04.それは最善か最悪か
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 耳に残るのだ、彼の言葉は。声は。
 寝起き、真っ先に耳の奥に響いてきたのは自分を呼ぶ母親でも姉でも、ましてや泊まりに行っているはずの兄の声でもない。約束をしなければ絶対に会うことのない、今となっては他校となってしまっていた不二の声であることに、英二は一瞬自分を疑った。
 卒業して以来、その声を聞いたわけではなかった。連絡手段は専らメールであったし、正直なところ声を聞いたのは先日の電話が久しぶりのことだった。身体か心が懐かしがって忘れないのだろうか、と自分の子どもっぽさに呆れながらあくびをすれば、また不二の声が聞こえた。
 それがあの人なりの頑張りだ、と。そう伝えた親友の、言葉の真意は相変わらずつかめなかった。
 ただ不二が遠まわしにこちらを悩ませるような言い方をする時は、きまってなにかが起きた。予言者か、とかつて皮肉を込めて笑ったことがあったが、煙が見えるから仕方ないよとまた意味の分からないことを返されて終わった。
 クローゼットにしまってある制服は、もう違うものだというのに。それでもまだ自分は不二には敵わないのだろうかと首を傾げた時、セットしてあった目覚まし時計がようやく鳴った。



 3週間も経つと、教室の雰囲気がどのようなものかはおおよそ理解できる。
 入学当時のまま五十音順の席順のせいで、中等部時代の指定席だった窓際からは遠く離れた廊下に近い席で英二はシャープペンシルをくるりと回して顔を上げる。手元にはやりかけの英語の宿題が広がっていたが、視線は自然と教室の入り口へと向いていた。
 そこに立つのは、クラスの女子。名前を覚えることはまだできておらず、どこの中学出身だったかも知らない。思えば中学の時よりもクラスの女子と話すことは少なくなっているようで、まだ自分がこの環境に解けきっていないことを知る。
 しかし落ち込むのは後回しだった。ドアの向こう、廊下側に立つ人の姿に英二は少しだけ目を丸くする。
 それは、確かにテニス部の親友の姿だった。
 会話の中身は聞こえなかったが、ふたりの距離が一般的ではないことなど見て知れる。無意識のうちに回したシャープペンシルが勢い余って床に転げ落ち、慌てて拾いなおしても彼らの視線がこちらに向くことはなかった。

(同じ学校だったら、あんなふうに簡単に話せたりするんだろうな)

 どこか他人事のように見つめる。回したシャープペンシルは、今度は落ちなかった。
 やがて手持ち無沙汰が、鞄の中にしまってあった携帯電話を取り出させる。ちらりと壁掛け時計を見て予鈴までの時間を確認してから、とりとめもない言葉でメールを送信した。
 その返事が、この昼休みの間に返ってくる予定はなかった。
 机の上で突然震えだした携帯電話を、慌てて手のひらの中に収める。周囲の雑音がそれを消してくれていたが、英二は隠れるようにして机の下で画面を見つめる。

『今日、英語のテストあったよね?大丈夫だった?不二くんも心配してたよ。』

 見慣れた文面だった。しかしそれを見つめる目は、一瞬戸惑いを覚える。
 しかし、なぜだと問う思考回路をよそに、気づけば手は返事をしたためていた。条件反射という言葉の意味には本当は恐ろしいものも含まれているのではないかと思うほど、指は勝手にボタンを押し続ける。

『今から。まあできるよ、多分。ていうか不二って。あいつ心配じゃないだろ、絶対。』
『笑顔で心配。』
『ほら!』
『ごめんごめん、って。不二くんが。』
『実況中継すんなよ!』

 その時、予鈴が鳴り響く。最後のメールを送信した後、結局やり途中になってしまった英語のノートに適当に英文を書き綴りながら、さきほどの戸惑いを思い出す。
 メールを打ち合っている最中はなにも気にならないほどの、些細ななにか。しかし些細ながらも心のどこかに残り、英二はいつのまにか首を傾げていた。
 歪む英文もそのままに、けれど、震える携帯電話だけはすぐに手に。
 それが違和感の原因だと気づいた時には、見慣れたはずの文面すら異なって見えた。

『いいよ。部活終わったら連絡してね』

 今日、会おうかと。何気なく問いかけたメールに対する返事に英二は顔をしかめる。
 その返事が返ってくることはどこか予想していた。最近の彼女は、妙に自分に甘い。けれど記憶の糸を辿ればそのような瞬間があるのは別段珍しいことでもなく、今までであれば気にも留めないはずだった。
 ただ、その返信が異様なほどに速いと思ってしまうことだけは、自分の感覚が正しいはずだった。

(……なんか、変。うまくいきすぎる)

 確定している約束ならまだしも、お互いの意思を見計らう段階でのメールに対しては、は慎重だった。時折呆れてしまうほど考え込むことが多かった。2年も付き合えばそれが当たり前にもなり、逆にこのように即決をされると妙に身体が落ち着かない。
 授業開始を告げるチャイムが鳴り響く。見計らっていたかのように教師が教室の中に入ってきた。慌てて席に着こうとするクラスメイトたちが作り出す雑音の中で、英二は携帯電話を閉じて目を伏せたまま考える。
 文字から目を離しても違和感が拭えない。どこか自分が浮いているような感覚だ。
 時間の流れが、自分の関与しないところでなにか知らない動きをしていたかのような、自分はひとりその流れに取り残されていたかのような不安がある。
 もしかしたら、事態は知らぬところで進んでいたのではないか。知らぬ間、気づかぬ間にこの流れは形成され、自分はその流れにあっさりと飲み込まれていたのではないか。
 根底にあるものはまるで見えなかったが、しかし現状が「作られた」ものである予感だけはひしひしと伝わってくる。
 窓の向こうの空を見つめる。春の空は去年と変わらず、青いままだった。
 ラケットを握り、汗を流せば片付くかと妙な期待をしても無駄に終わった。自分の心の中だけなら留めることができたかもしれないが、例の親友はあの日以来ことごとくの話を会話の中にねじ込むので、否応なしに彼女のことを考えざるをえなくなる。

「だからあ、なんか人に聞かれるほどのものなんかないってば! うるさいよお前!」
「そう言うのは本人だけ。周りからすれば、聞きたいことなんかこれでもかってほどにあるもんだぞ、普通」

 思い切って拒絶の態度を取ってみても、さらりと正論を口にされれば口をつぐむしかない。実際自分の記憶はとの出来事といえばそう生易しいことばかりではなかったことも相まって、第二の言葉も出られずにつまる。その態度が余計に親友を調子に乗らせる。

「そうだよなあ、2年だろ。そう短い時間じゃないって」

 呟きがどこか棘を持っている。正面からか、それとも背後にか。ラケットを握ったままじっと彼を見つめるが、英二にはよく分からない。
 ただ、棘があることだけは見える。というよりも分かった。棘というよりも重しであることも、ようやく分かった。
 2年という時間が長いのか短いのか、本当のところ英二はよく知らない。
 しかし当たり前のことが当たり前でないという感覚は、自分の置かれている状況を変えることでようやく見えてくるものでもある。青学にいた時は不二や大石と共にいた時は当然のことだったものが、なにひとつこの世の定理ではなかったことを知らされたのは、彼らと離れてからだった。

「しかも、1年の時からある意味そういう関係だったんだろ? それが中学卒業して、こういう状況でもまだ付き合ってる。俺じゃなくても、普通ある程度の興味は持つんじゃないか?」
「興味とかもたれるようなもの、別になにもしてないんだけど」
「でもな、2年だから。2年もそのままでいるっていうのは、やっぱりすごいよ」

 どこかに感じる棘を忘れないように、それでも負けないように英二は考え込む。
 2年の間が一筋縄ではなかったことを、この親友は知らない。それなりに紆余曲折があり、自分たちはただ時間が流れるままに生きてきたわけではない。特別ななにかを作り上げたわけではなく、特別ななにかが起こった時にそれを改善したり修復したりすることにはその時々の感情と神経のすべてを懸けて対処してきた。それだけだった。
 時間の重みが、どこか食い違う。それとも自分の考えがおかしいのか。英二は一度ラケットを回した後、空いた手で髪を乱してため息をつく。ユニフォームの汗はとっくにひいていた。

「別に、普通だよ。そりゃ学校が変わったから色々違うことも出てきて最初は何したらいいのか全然分からなかったけど、今はちゃんと時間作るようにしてるし」
「時間? お前が?」
「作ってるよ。向こうも何時に終わるのか聞いてくれたりもするし、俺が先に時間を見つければちゃんと向こうに言うし。向こうも合わせてくれるし」

 弾むボールを軽くコートに叩き続けながら呟く。右手はグリップを握り締める感覚に慣れすぎて、もはや手首を動かすことになんの違和感もない。

「それがなに? そういうの、多分普通じゃない? 離れた分、気にしようとするのはさ。俺もちょっと行きすぎかなあ、と思うこともあるけど、でも最初だからこんなもんかなとも思うし」

 教室で感じた不安を言葉にして並べてみる。予想以上にしっくりくる表現に、英二は自分でもそのとおりだなと心の中で相槌を打ちそうになる。

「なにか、変? なにか気になる?」

 納得する答えを覆す、上回るなにかがあるとすれば、それは今の自分には分からないのかもしれない。ふいに尋ねてみる気になったその言葉に、親友は一度首を傾げた後、ぽつりと呟いた。

「なんか、糸が張ってるっていうか水が桶にぎりぎりに溜まってるっていうか、そんな感じに見える」

 ボールが弾む。しかしラケットは、手首は動きを止めた。
 言葉の意味は最初分からなかった。なぜ抽象的な言葉を使う、と反論するタイミングを逸するほどに、分からない言葉が頭をがつんと叩き、揺らし、そして胸の奥底に鉛のような重さを伴って落ちていく。
 心の中をかき乱すには、それで十分だった。
 肯定的ではない、否定というよりも危惧の意味を大いに含んだその言葉を引きずったまま約束の時間がやってくる。部活は終わった。電話をする約束になっていたのは、その時だ。
 そして電話は、待つという時間を感じることもないままに繋がった。
 小さな動揺を隠しながら現在の居場所を尋ねれば、予想外の返事が返ってくる。英二は一瞬言葉をなくし、それでも彼女の前では平静を装うと部活の疲労を都合にして慌てて部室から出る。
 待ち合わせ場所は、淑徳学院の最寄り駅近くにあるカフェだった。
 お気に入りのラテをテーブルに、は課題をしていた。その姿をガラス越しに見つめて一瞬言葉をなくすよりも、がこちらに気づくことが先だった。

「……どこか買い物とかに行ってもよかったのに」
「そうすると、時間かけちゃうから。部活で疲れてるのは英二なんだから、英二を待たせるわけにはいかないよ」

 簡単に微笑まれることが怖いと思ったのは、これが初めてかもしれなかった。
 英二は立ちすくむ。動かない英二を見てが不思議そうにこちらを見つめていたが、鞄を下ろすことも席に掛けることも身体が許さなかった。座れば、という言葉でようやく動いても、目だけはを直視することを拒んだ。
 どうする、という動揺が胸に渦巻く。
 親友の言葉も、そして先日の不二の言葉もこれですべて辻褄が合った。今まで気づいていなかった自分の方が愚かだと思われるほどに、目の前の恋人が一体なにを考え、なにを思い、なにを信じて行動しているのかは一目瞭然だった。
 英二はそっと顔を上げ、生温い空気の中で尋ねる。

「……、無理してない?」

 は一瞬だけ目を丸くした。

「してないよ。どうして」

 しかし一瞬でしかなかった。問いかけられて、逆に英二は答えられなかった。
 の浮かべる表情が嘘をついていないことなど、誰に聞かなくとも自分が一番よく知っていた



 嘘をついていないとすれば、確かに無理はしていないのだろう。本人にその自覚はない。
 しかし、周りから見た印象はそんなの心情とはまるでかけ離れている。正反対と言ってもいいほどだ。そして英二は、それらの言葉の方がよほど真実を示していると思えた。
 しかし、の表情を一番読み取れるのは自分だという自信がそれに負けているとは思いたくもなかった。

「エゴだよ、それ」

 中学時代の親友は遠慮という言葉を知らない。いや、遠慮という生易しいものを求めて彼をこの場に呼び寄せたわけではないので、むしろそちらの方が好ましいはずなのだが、やはり直接聞かされる言葉は胸にこたえる。

「英二はそう思いたいかもしれないけどね、でも仕方ないよ。むしろ英二がそこで分かってあげないとどうしようもなくなる気がするよ、これ」

 気だるげに頬杖をつきながら言葉を紡ぐ不二に、英二は押し黙る。
 部活帰りの不二を捕まえて連れ込んだファーストフード店。夕方を過ぎた店内のざわめきは高校生などの若者に支配されており、その雑音が逆に心を落ち着かせる。不二も同じなのだろう、くつろいだ姿勢ではあったが声にも視線にも揺らぎがなかった。

「不二に聞きたいことがある」
「なに?」
「学校で、ってどんなふうなの? 中学の時とは違うの?」

 冷めたポテトはもはや口に運ぶ気にならない。氷で薄まったオレンジジュースは惰性で飲むばかり。すべて作業のような感覚になってしまっているおかげで、思考回路はひとつのことに集中できていた。
 問いかけに、不二はちらりと英二に視線を向ける。表情を確認した後、その目は再びざわめきを作り上げる店内へと逸らされた。

「違わないよ。真面目に勉強して、真面目に生活して。本当に不思議だよね、あの人。真面目というか素直というか、きちんとしていること以外があまり想像できない」

 確かにそのとおりだった。英二の中の記憶のも、自分とは異なり度を越えたなにかをする姿は想像できない。どうして付き合っているのかと問われるほど、自分たちは性格が異なりすぎた。

「でも、それは必死になってやることじゃない。頑張ろうなんて思ってすることじゃない。だったら、普通にできる」
「そうだね」
「だから、俺に対してもなにか頑張ってすることなんて、本当はないはずなんだ」

 しかし、異なるからこそ見えるものもある。
 不二が目を向ける。やや驚き、しかし本当はどこか予想していた、というような目だった。

「……やっぱり、そうなの? 不二がこの前言ってたことも、こういうこと?」

 無言が返事だった。返事がないことが返事だった。英二は予想していた展開に深く息を吐き、眉根を寄せる。

「なに気にしてるんだか。別に俺、そういうこと言った覚えないのに。昔から悪い癖なんだよな、全部勝手に悪い方向に考えてひとりで抱え込もうとする。……変わってないなあ」
「物理的な距離が目の前にできてしまった分、仕方ないとも思うけど」
「そうだとしても、そこまで深く考えることかな。あんなに卒業前に話したのに」

 季節は春だったが、英二の記憶の中に秋の出来事は深く重く刻み込まれていた。春の桜が色褪せてしまうほど、あの秋の夕暮れの方がよほど鮮明な色をしていた。桜の柔らかな色に目を細めるよりも、夕空の茜色を思い出すことを忘れなかった。
 それほどまでに、自分はとあの秋を大切に過ごした。英二にはその自信があった。

「真新しい環境の英二と、青学に残ったさんとでは状況が違いすぎるよ」

 不二は第三者としての言葉を吐き、それが正論であることは確かだった。そのような言葉を用意してくれる人間でなければ、自分は今ここに不二を呼んでいない。

「それは、話したこと。青学にいた時に何度も話したことだし、そんなことで我がままを言うのを一番嫌がってるのはだ。改めて反応することじゃない、絶対」

 しかし、正論よりも自分の信念を今は守りたかった。信じたかった。
 ただなぜだろう、不二の言葉を真っ向から否定する気持ちだけは芽生えなかった。

「それは僕も知ってる。でも……そうだな、別に僕からすればどちらが悪いわけでも正しいわけでもないと思うんだけど」
「なに」
「こうなることを全く想像できなかったわけじゃないなら、だからこそ見過ごしてしまったというよりも予防していなかったということになるから。予想できたことに対してなんの対処もしないままだったのなら、英二にさんをとやかく言う権利はないとも思うけどね」

 一瞬だけ店内のざわめきが遠いものになる。目の前にいる不二という親友が、ただの置物のように見える。さらりと髪が揺れて視線が時計を見つめる動きを前に、ようやく感覚が常なるものに戻る。身体を強張らせていたと知ったのはその後だった。

「そこでさんを重いと思うのなら、別の道を選ぶ権利だってある。別にふたり、絶対に一緒にいなければいけないなんて誰も決めていない」

 暗に違う未来を突きつける不二に、英二は皮肉な笑みを浮かべる。

「……俺が? なに言ってんの、不二。なんでここでその考えがでるの、俺にそんな気は」
さんにだってあるよ、選ぶ権利は」

 身体を強張らせるほど、距離というものがとてつもない力を持っていることを知ったのも、その時だった。
 予想もしなかった不二の言葉に、一瞬顔は間抜けな表情を浮かべてしまう。しかし言葉の重みが一瞬で胸に突っ込んできて、心を塞がれてしまったかのような圧迫感に冷や汗にも似たものを感じた。

「どっちの味方なんだよ、不二は。俺説教される予定なかったんだけど」
「この状況を作った人間に丸投げされるのだけは嫌だなあと思っただけ」
「嫌って」
「だって、嫌でしょ。無関係の人間に支配されていいほど、彼女との関係をそんなに安いものにはしたくないな、僕は」

 得体の知れないなにかを追い払うかのように強がりを見せても、所詮相手は不二だった。中学時代と変わらず、正論を叩きつけられて言葉は生きる道をなくす。
 返せる信念は、いつのまにか影を潜めてしまっていた。





 たとえばそれがたったひとつの行動でも止められるものだとしたら、その行動を起こすのは不二ではない。自分でしかなかった。
 そう思えば、不二の言葉は痛いほどに胸に染みる。携帯電話を握り締める手が汗ばんでしまうのも仕方のないことだと思えた。
 好きかと問われれば、好きだと答える心しか持ち合わせていない。
 ならば自分はどうするか。折りたたみ式の携帯電話を無造作に何度も開き、閉じる。居心地のよい自分のベッドの上で時間を流すことで少しは気持ちも落ち着くかと思ったが、不二の声が響くだけで何の変化もなかった。
 別れるべきかと問われれば、別れたくないと答えるよりもその問いを見下す心しか持ちたくない。
 一度大きく息を吸った後、英二は携帯電話の画面を見つめる。軽く下唇を噛み締めた後、着信履歴の一番上に記載されていた名前に電話をかけた。
 予想するよりも早く、相手は電話に出た。

『もしもし』

『うん?』
「ねえ、お願い。無理するのやめようよ。俺、そんなの嫌だよ」

 自分の予想は、まだ彼女の行動に追いついていなかった。その事実に、口は躊躇という言葉を振り切った。真っ先に真正面から、ただその言葉だけを紡ぐ。

が無理してまで俺の生活に合わせてるの、もう見たくない。辛いよ、そんなの。そんなことをしてほしくて俺淑徳に来たんじゃない、高校生になったんじゃない」

 知らないところで自分は彼女を追い込んでいた。急き立てていた。ならば今、自分は彼女の行動を止めるべく先手を打たなければならない。自分というものを犠牲にした行動を歓迎できないと、伝えなければならない。その役割は第三者の不二ではなく、自分でなければならない。
 英二の唐突な言葉に、電話の向こうのは黙る。黙るというよりも言葉に見捨てられたような沈黙だった。

「……だから、ね。昔みたいにしようよ、場所が違っても。俺、それがいいよ」

 最後は懇願のようだった。縋る色が滲み出ていて、自分は今泣く寸前の子どものような顔をしていることがなんとなく分かった。
 なんと言われるか、どのような反応が返ってくるか、それは予想していなかった。ただ止めなければという想いばかりが先行していた。止めることが自分の役割だと信じて疑わなかった。
 だからが了解の意を伝える言葉を、ただそれだけを呟いた瞬間、胸に真っ先に去来したのは安堵だった。彼女の行動を止められたという、その安心だった。
 それ以上の言葉が返ってこなかったことの意味を考えられるほど、大きな視野を持てるほど、英二の心とて成長していなかった。




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>> 05.たとえ一歩であっても