03.見えない鎖
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「最悪」

 呟いたところで、空が自分の機嫌を直してくれるわけでもない。
 天気予報に逆らうことが間違いだった、と思う頃には窓の向こうでテニスコートが雨にさらされ、重苦しい雲の支配下になりさがってしまっていた。
 英二はため息をついた後、隣のクラスに顔を出してテニス部員を探す。相手も同じことを思っていたらしい、英二の顔を見るなり駆け寄ってきてくれたその親友は、肩をすくめて今日の部活中止の確認を取ってきた。

「どうする? 菊丸。今日に限って体育館使えないんだろ?」
「そうやって言ってたなあ、なんか吹奏楽部がなんとかかんとか」
「一応自主練、っていう形らしいけど」
「うーん……俺、帰るかな」

 ドアにもたれたまま、しとしとと降り注ぐ雨を見つめる。違う場所から見ても結局は同じ雨であり、逃れられない現実を前に英二はあっさりと見切りをつけることにした。親友が驚いて目を丸くする。

「自主練もしないで?」
「違うよ、今日たまたま前の学校の友達に連絡もらってたんだよね。久しぶりに打ちに行ってくる」

 ぼんやりと雨を見つめたまま状況を説明すると、親友の表情がいわくありげなものになった。なにかを聞きたそうな、言いたそうな顔つきで英二を見つめる。

「なに」
「いや、本当に友達なのかなーって」

 いつしか、雨が本降りになっている。確実に今日の練習は中止だ、と頭の半分で思いながら、残り半分でこの親友の真意を探る。やがて行き着いた答えに、英二はため息をつきながら窓の向こうを見つめた。

「そう毎日会う仲じゃないって、向こうにだって部活とか用事あるし。なんでお前の頭はいっつもそうなんだよ」
「いってえ! だ、だって」
「だってとか言うな!」
「だって、ここまで来るなんて相当じゃん! お前どれだけ惚れさせてるんだよ」

 脛を蹴り上げた足が、行き場をなくす。痛そうに足を振る親友は傍の席に腰を下ろし、憮然と頬杖をついて英二を見つめる。苛立ちと興味という、なかなか共存することのできない感情をないまぜにした表情に、英二は言葉を飲んだ。
 あの日以来、この親友の興味はに向けられることが多くなっていた。
 それは英二が彼女の存在を伝えていなかったことに起因しているのだが、彼にはその事実よりもむしろ青学からは遠く離れたこの淑徳にまで迎えにくるというの行動の方が興味をひいたらしく、これまで散々問いつめられた。その都度「偶然」という言葉を多用してきたが、今日はそれだけでは済みそうにないらしい。
 嫌な雨だ、と。自分がこの場から離れられない原因となってしまった景色を見つめながら、英二は小さく首を傾いでドアにもたれたまま腕を組んだ。

「むちゃくちゃ」
「……は?」
「もう、むちゃくちゃ。俺のためにご飯作ってお風呂用意してシャツにアイロンかけて宿題のヒントまでくれたりするぐらい、……ああ、あと朝ネクタイ結んでくれるぐらいもうむちゃくちゃ惚れてる」

 唖然とする親友の顔を見届けて、してやったり顔で英二は教室を出る。最初からこうすればよかったのか、とこの前泊めてくれたを思い出しながら自分の教室に戻ろうとすれば、背後から「自慢するな!」と悲しい叫びが届いた。
 昔はこうではなかったかもしれない、と久々に振り返る。
 用意された夕飯、それまでなら大差ない。しかし甘やかしに等しいその後の待遇に、その時こそ素直に甘えたものの、思えば中学生当時は全て「自分でやれ」と突っぱねられたことのあるものばかりだった。
 それでも、いつでも最終的には助けてくれたのがでもある。
 久しぶりに会ったから優しかったのだろう、そう思うことはとても簡単だった。

『雨、平気?部活中止?』

 メールの文面だけを見れば素っ気ない。しかしその少ない言葉の中に、どのような想いが隠されているかを見抜けない自分ではない。

「ずぶ濡れになってまでテニスするようなことはしませーん」

 透明なビニール傘には、空から延々と降り続く雨が無遠慮に落ちてくる。しばらく止みそうもない、と春の雨の気まぐれを思い出して電話をかければ、向こう側でが笑い声をあげるでもなくため息をついた。

『それ、1回やったことのある人が言ってもなんの説得力もないよ』
「違うよ、やったのは不二とおチビだよ。俺見てただけだもん」
『止めなかった段階で同じだと思うんだけどなあ』
「若かったから仕方ない」
『なにそれ』

 ようやくが笑う。正門をくぐり抜け、見知った顔に出会うたびに手だけを振りながら英二は駅への道をひとりで歩いた。

「とりあえず、中止だよ。もともと天気予報と学校の都合で部活はない予定だったから」
『都合?』
「吹奏楽部。体育館使ってなんかやるらしい」

 ふうん、という相槌を聞きながら、英二はふと周りの景色を見つめる。
 携帯電話の向こうから聞こえるの声は、この3年近く変わらない。しかし目の前にある景色は、彼女と共有することは決してない。近いようで遠い、届くようで届かない、その距離の存在を改めて知る。
 は何も知らないように、変わりない調子で言葉を繋げていた。

『じゃあ、今日そのまま帰るの?』
「ううん、今から不二と会う」
『不二くんと?』
「そっちも今日部活ないんでしょ? 不二が誘ってきたからさ。そっちに行こうかと思って」

 ネクタイが苦しい、と思った時、ふと会話が途切れる。軽く緩めながら英二は沈黙の意味を考える。
 もしかしたら、今ここで自分はを誘うべきだろうか。
 ふとそんな考えがよぎったが、英二はすぐに訂正を入れる。言葉に出すこともしない。かつてが駄々をこねてまで自分と不二の間、強いて言えばテニスに関する事柄に口を挟むことはほぼなかった。たとえ誘ったとしても断るだろう、そのような予想の前に沈黙だけが流れる。

『不二くん、嬉しそうにしてたのはそれだったのかあ。いいなあ、楽しんできてね』

 まるで英二の考えを読んだかのように、はさらりと送り出す言葉を口にした。
 雨が降っている。どんよりと重く垂れ込めた雲は気分を塞ぎ、何かを台無しにされた気分になる。なにか大事なものを、なにか自分の好きなものを奪われた気分になる。テニスと言ってしまえば確かにその通りで、それではその代わりになにを求めようか、という心を止める気にはならない。
 英二はしばらくたわいない会話をしながら駅への道を歩いていたが、改札前で立ち止まり、閉じた傘を振りながらそっと尋ねる。

「多分、夜には終わるんだけど」

 騒がしい周囲の雑音は、いつしか遠いものとなっていた。

「会える? それから。兄ちゃん、今日大学の友達の家に泊まるからいないんだよ」

 それを口にする理由は、もはや問うのも考えるのも愚か。
 一瞬の沈黙すらささやかすぎて、断られることも考えずに英二は何気ない素振りで改札を通り抜ける。周りには自分と同じ制服を着た人間がいて、雨とはいえまだ昼間で、今から人と会う約束すらしているのに、その言葉を口に出すことをためらう理由がまるでない。

『10時までに家に帰るようにしておく。終わったら連絡してね』

 の言葉を聞き届け、軽く相槌を打つだけの電話はそこで終了した。
 自分が電話をするまでなにをするのだろう、とは考えたが、頭に浮かんだ解答のどれもが正解のようで、そしてそのどれもが自分とは違う真っ当な時間の過ごし方で、どうしてこんなにも性格が違うのに付き合い続けていられるんだろう、と何気なく考えた時、携帯電話は次の着信を告げた。



「正門前で待たせたの。それは随分な仕打ちだね」

 辛らつな言葉と裏腹に不二は笑い声を上げた。
 電車を1本見過ごした後で英二は不二の電話を受けた。学校を出る前に送信した了解のメールを受けてのことらしい。テニス部同様雨のため部活動が中止となった運動部員たちでごった返すホームで、不二の声を聞く。青学の制服がひとつもない場所で聞く不二の声は、どこか新鮮で、けれどやはり異質だった。
 そして呼び出された、青学にほど近い屋内テニスコート。大石はクラス室長のため会議に出席しなければならず、この場所に来られないことを非常に残念がっていたと教えられた。
 しかし、それは偶然か。思わずそんな懐疑的な思いを抱いてしまうほど、穏やかに笑い声を上げる不二を見つめて英二は眉間に皺を寄せた。

「なんで」
「なんで、って。だって違う制服なんだよ? 目立つに決まってる。さんが目立ちたがり屋とは思えないなあ、僕には」

 それ以降は笑い声に取って代わられたが、その言葉の後にはどのような内容が待っていたのか、なんとなくは想像できる。だが青学のユニフォームを着てラケットを持つ、そんな不二の姿に小さな錯覚を起こしそうになるのが先だった。
 人もまばらなテニスコートの隅、お互い軽くラリーを打った後に腰掛けたその場所で、不二はようやく笑い声を止めて懐かしそうな表情をした。

「でも、相変わらずだね。……ううん、懐かしいと言う方が正しいのかな。さんが英二の面倒……まではいかないけど、何かしらを気にして行動していたりするのは」

 遠くを見つめるような瞳の中には、英二が見ても懐かしいと思える色が混ざっている。恐らく今声をかけたとしても、不二の目に映るのは高校1年生の自分ではなく中学3年生の自分だろう。
 しかし、どこか自分が蔑まれているかのような響きを持つ不二の言葉に、英二は黙っていられるほどまだ大人ではない。
 首にかけたスポーツタオルでぐっとこめかみの汗を拭い、照明眩しい天井を見上げた。

「仕方ないよ、学校に来てもらう約束なんてなかったからさ。見つけた俺の方がびっくりしたもん、なんでここにって。でも中に呼ぶわけにはいかないし、そうなると待ってもらう場所なんか外にしかないじゃん」
「うん、そうだね。でも驚いた、淑徳に行くのは英二との約束じゃなかったんだね」

 てっきり呼ばれたものだと思っていた、と呟く。小さな呟きに視線を向ければ、そこには今でも英二の目を奪う青と白のユニフォームがある。不二にはこの色が似合う、としみじみと思うほど、彼がそのユニフォームを着ている姿は自然を通り越した真理のようだ。
 今まで当たり前だったものが、距離を置くと途端そうであるべき理由が分かる。
 そして自分の手ではどうすることもできないその真理に気づく。不二が青学にいることは今まで当たり前だったが、自分が離れて初めて不二周助という男が青学にいる事実に自信と、小さな末恐ろしさも覚える。不二が着るとこのユニフォームも随分と格式のあるもののように見えた。
 どこか散漫になっているのを見抜かれたのか、不二がその時笑って首を傾いだ。

「でも、それがあの人なりの頑張りなのかもね」
「頑張り? なにそれ」
「離れると、見えるものがたくさんあるんだよ、きっと。それに向かって頑張っている、という感じかな」

 不二が立ち上がる。相変わらず人形のような髪をしている親友だ、とその背中を見つめながら思えば、青学のユニフォームが揺れて不二が振り返る。

「打とうか。なにかもやもやした気持ちがあるなら、打って発散してしまった方がいいよ」

 言葉の真意は分からなかった。
 分からなかったが、その視線と言葉と、そして笑みを受けて、立ち上がる自分がいた。





 色だけ変更しても、何の意味もないと思った。
 目の前に座り、自分の宿題を手伝っているの姿に英二は頬杖をしながら考える。家に戻っていないは制服姿のまま英二の前に現れた。紺が黒になっただけという青学の女子制服は、宵闇の前では変化という言葉とは悲しいほどに無縁だった。
 もともと変わった気がしない、と青学の中から出ていないはあっさりと口にしたが、それを客観的に見る立場になった英二からすれば、変わっていないからこそ懐古の念を強く抱かせる代物でしかない。そしてそこから伸びる手足が自分の好きなものであればあるほど、懐古の念はやがて自分の思いのままにしたいという勝手な衝動を作り上げる。
 思い出はいつでも優しいものだ。思い出は決して裏切らない。



 名前を呼べば顔を上げる恋人がそこにいる。手招きをすれば、それだけで意味を理解するがいる。
 抱き寄せてしまえば、それだけで従順な態度を見せる人が、そこにいる。

「一度会っちゃうと駄目だっていうことがよく分かった。俺、バカみたい」

 抱きしめて小さく呟く。はただ無言で英二の身体を抱きしめ返す。

「離れると余計だね。目の前にいると、なんか色々我がままになる」

 見上げる視線は、戸惑いのひとつも滲ませていなかった。ただじっと英二を見つめ、やがて口元を緩める。自分を抱きしめる小さな両手に力が込められるのも同時だった。

「私はそれで嬉しいから、いいと思うよ」

 英二を肯定する言葉だけを口にして、は英二の胸に顔を埋める。さらりと黒髪が流れるのを見つめれば、まがい物の自分の髪には生み出せない艶が目を奪う。
 唇を重ねることに、ためらいのひとつもなかった。
 愛しいと思う心がある。距離が離れたからこそ大切にしたいと思う心がある。はそれを受け入れてくれている。それを、認めてくれている理解してくれている。
 その証拠が、この瞬間ではないのかと。尋ねる相手もおらず尋ねて真偽を問う気持ちそのものがない。疑うべきものがなにもない、その感覚ではの手を中学時代と変わらぬ二段ベッドにいざなうまで時間はそう必要としなかった。

『それに向かって頑張っている、という感じかな』

 ふいによぎった不二の言葉を、は知っているのだろうか。押し倒した光景の中、なにひとつ自分に逆らおうとしないをじっと見つめ、英二は考える。
 自分にはない純粋な黒髪が、シーツの上で波を作る。その髪が、そしてどこか懐かしさを覚える青学の制服が、小さな嗜虐の心を芽生えさせる。

「……俺以外にそういうところ見せちゃ駄目だよ、絶対」

 余裕のある笑みを浮かべ、首筋に唇を寄せる。首元をさらけ出す姿勢になるのは服従の意味だということをと付き合うことで知った。
 制服に隠れるぎりぎりのところに跡をつけることを、は厭わなかった。
 それならば、この行為は他の誰でもないだけが認めてくれていること。以外に認められることに意味はないと、そう思った心は自然と口元に笑みを零させる。
 それがかつてが最も好きだと伝えた笑みであることに気づいたのは、彼女の手が耐えきれずに英二の首に手を回した瞬間だった。




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>> 04.それは最善か最悪か