02.秘めた想い
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 目的が決まると、人間というものはとても動きやすくできている。

「不二くん、ちょっと質問」
「なに?」
「ねえ、タオルってあっても大丈夫なもの? いっぱいあっても困らないもの? もらえるなら使ってもいいか、みたいな気分になるもの?」
「また極端な」

 そして不二という人は、その行動に対して苦笑しつつも付き合ってくれる。目的を聞かずとも、まるでこちらの意思に合わせたかのような笑みと答えを用意してくれる。

さんがあげるなら、何も考えずに使うと思うよ。考える理由がないんじゃないの、英二には。そういう感覚以外ないというか」

 英二の名前を出されて、ようやく自分が突拍子もない質問をぶつけたことに気がつく。しかし謝りの言葉を述べるよりも早く「行動を起こそうとしている人に対して、あげられるのは苦言じゃなくて助言だよね」と、教師のような回答が返ってきた。
 春を終えたがる空が、夏を呼び寄せるかのように晴れ渡る。夏を待ちわびるかのように白い白い雲を浮かばせ、泳がせ、遊ばせる。
 教室から見上げた空が、去年と、一昨年と同じ色をしている。
 だが今日は、そこで懐古の念にはとらわれない。目を伏せたりはしない。チャイムが鳴り、不二がひとりで席に向かって無言で授業の準備をする姿を、物寂しい瞳で見つめたりはしない。

(7時まで、することはたくさんある。きちんと考えて行動しないと、英二を待たせちゃう)

 窓際の席、開け放たれた窓から流れ込んでくる風に髪を遊ばれる。
 誘われるかのように再び空を仰げば、悩む必要などないと認めてくれているかのような爽快感ばかりが心に与えられた。





 部活が早く終わる、という一言に約束を願い出たのはからだった。
 会う時間と体調の余裕があれば、という前提の上でだったが、どこか自分の願いは断られないような予感がしながらメールを打った。中学の頃よりメールの回数は減っていたり返信速度は遅くなっていたが、それでも寝る前までに返ってきたメールには「大丈夫」の言葉がきちんと載せられていた。
 約束は午後7時、待ち合わせ場所はの自宅の最寄り駅。
 放課後、今日が部活のない日で本当によかったと不真面目なことを思いながら教室を出る。直前不二と目が合ったが、ただ笑顔で手を振られただけだった。
 自分よりも年上の人間の多い世界というのは、久しぶりだった。廊下の人波をかき分けるにも一定の躊躇が発生し、その時間がもったいないと今日ばかりは思ってしまう。靴を履き替えた時に大石の後ろ姿を見つけ、普段であれば声をかけるところだが今日はその準備もできなかった。
 約束まではまだ3時間以上もあると、英二は笑うだろうか。
 しかし笑われたとしても、慌てる気分を抑えようという気にはさらさらなれない。青春台駅で上り電車に乗り込み、行き着けの百貨店に向かう過程で既に今日の学校のことなど記憶に残そうとも思っていなかった。

(スポーツタオルなら、あっても損はしないよね。邪魔にならないはず)

 不二の言葉を思い出しながら2つほど柄の異なるものを選んだ。
 贈り物ですか、と店員に問われて一瞬戸惑ったが、は首を横に振って紙袋での包装のままでいいと伝えた。特に記念日なわけではない、逆に仰々しいほどに飾り付けてしまっては英二が気にする、それは本意でなかった。
 長袖の制服がかすかな暑さを感じさせる。夏はすぐにやってくるのだろう、と店を出た後に思うと、また足は加速する。
 約束の時間より先には一度家に帰り、玄関にリビング、部屋を片付ける。今日、両親は父親の仕事の都合で帰ってこない。後ろめたい気持ちがないわけではなかったが、ふたりでいる時間ができる、その喜びの前には勝てなかった。

『なんか予定より早く着けそう。6:30はあり?』

 だからそのようなメールひとつでも、嬉しさのあまりメールでの返信など考えもしない。もどかしさを楽しむ余裕など、ない。

「英二? 今どこ?」
『うわ、びっくりした。ええと、乗り換えの電車待ってるとこ。もうすぐ来るから、30分もしないうちに駅につけると思うんだけど』
「快速かな」
『ちょっと待って……ああ、うん。快速』
「じゃあ20分でつくから。分かった、迎えに行くね」
『え。今、家?』
「うん。だから……」
『いいよ、もう暗いから家にいて。俺自分で行けるし。そこで待ってて』

 文字を打つ時間すら惜しいと思ってしまえば、電話越しに聞こえるひとつひとつの言葉すら簡単に胸を弾ませる。
 その言葉も、出会った頃に比べれば随分と落ち着きというものを含むようになった。本人に言うと怒られるので言葉に出してしまうつもりはないが、その落ち着きが妙に心をくすぐることだけは嬉しさのあまり口にしてしまいそうだ。
 やがて、玄関のチャイムが鳴る。玄関前の靴箱の全身鏡で前髪や服装を整えることを忘れず、確認を取ってからドアを開ければそこに英二がいた。

「なんか、家に来るの久しぶりだね。ちょっと迷った」
「ごめんね、ありがとう」

 思わず手を差し出すが、英二は右手でそれを拒んだ。相変わらずのテニスバッグと軽そうな指定鞄という姿にどこか懐かしい気分になって思わず笑えば、どこをどう読み取ったのか「今日は実技が多かったの」と反論された。
 思えば、この恋人ははっと驚くほどにあっさりと人の心を明かすことが得意だった。外見は少しずつ変化していくのに、内面の大切な部分は変わっていない。変わっていく部分、変わらないでいてくれる部分、その両方を味わえるのはなんと贅沢なことだろう。その感覚が嬉しさを連れてくる。

「疲れたよね、早く上がって? ご飯も作ってあるから、お腹減ってたらすぐ用意するよ」
「本当?」

 その言葉に、英二は嬉しそうに笑みを浮かべて家の中に上がった。確かにこの家に来るのは久しぶりなのだろう、玄関で迎える彼の身長が記憶のものと随分と異なっているような印象を受けることに改めても時間の経過を知る。
 いや、だからこそなのだ。ブレザーではなくグレーのカーディガン姿に見慣れなさを感じるよりも、その姿をここに迎え入れられたことにこそ反応すべきだ。ほっと一息つきながらネクタイを緩める英二に笑みを零せば、少し大人になったと思っていた顔にむっとした表情が浮かんだ。

「まだ締めなれないの。外じゃないんだからいいじゃん」
「誰もなにも言ってないのに」
「その顔が言ってる」
「あはは、ごめん」

 軽く頭を小突かれる。謝りの言葉を口にすると、代わりにその手が頭を撫でた。その手の温もりが、昔と比べて随分と高いところから訪れている気がする。
 はそっと顔を上げ、英二を見つめる。目が合った恋人は、少しだけはにかんでもう一度だけ頭を撫でてくれた。
 夕食は、テレビもつけないままリビングでゆっくりとした時間を味わうかのように食べた。
 自宅の景色の中に英二が溶け込むことは珍しいことではない。中学生の頃から幾度となくあったこの光景に、今更あえて反応してしまうようななにかはない。しかし今日は中学生の頃とは違う、高校生としての姿だ。そしてそれを、当たり前のように迎え入れている英二の姿だ。自然と頬が緩むのを、英二に指摘されるまではそう時間は必要としなかった。

「だって、なんだか嬉しくて」

 追求されて、素直に口にする。英二は目を丸くした。

「なにそれ」
「仕方ないよ、英二中学生じゃなくなっちゃったんだもん」

 素直な感想を述べただけだったのだが、言葉としては曖昧でしかなかったらしい。箸を口にしたまま英二は眉根を寄せて、意味が分からないというようにを見つめる。
 その表情すら、落ち着いて見つめれば中学生の頃と違うのだと、本人に伝えればどのように思われるだろうか。目つきが心持ち丸みを失ったと、良い意味で伝えたらどのように思われるだろうか。そこまで細かく見ている自分を笑われるような気がして、いまだ言葉にはしていなかったが確信だけは確かにある。は小さく肩を竦めて笑った。

「卒業して、まだ1ヶ月しか経ってないけどね。でも英二、ちょっと大人になった」
「大人……? そんなこと言われたの、初めてなんだけど」
「うん、多分不二くんが聞いたら絶対否定する。でも私は分かるんだ、英二少し変わった」
「なにが」

 訝しげな視線が言葉を促す。は言葉を慎重に選ぶ。

「背が伸びたり、顔立ちが大人びたり。あ、あと口調がちょっと変わったかも。少しね、本当に少しなんだけどね。でも絶対変わったよ。私不二くんを納得させられる自信があるぐらい」
「……そう?」
「うん。高校生になったんだなあ、って思った。英二が頑張ってるんだなって」
「そんなに意識したつもりはないけど」
「残念、分かっちゃった」

 理想をあてはめているだけではないだろうか、その不安がないわけでもない。しかし不安を抱いて真っ直ぐに英二を見つめれば、そこには「中学生の頃とは違う」と感覚が訴えるなにかがある。他でもない自分がそう思ってしまう以上、自分が否定してしまうのも馬鹿らしい。いまだ不可解な顔をする英二をよそに、は立ち上がって空になったお碗を受け取りながらまた笑った。

「英二が頑張ってるなら、私も頑張らなきゃって思う。この前、格好よかったよ」
「この前? どこで」
「コートで。一瞬動けなくなった」

 青と白のユニフォームを着た英二を思い返すのは、難しいことではない。の中の菊丸英二といえば、青学のレギュラージャージを着た姿が一番鮮明に残っている。普段感情の赴くままに生きている表情が一瞬で変わる、それはあのレギュラージャージを着てテニスコートに立った瞬間であることを、身体はまだ忘れていない。
 しかし、ふと甦るあの夕陽のテニスコートでの姿。違うジャージ、違うコート。今までとは異なるものしかないその場所で、けれど英二の姿は誰よりも強く視界の中に入り込んできた。その意味を間違えるほど、自分は英二には無関心ではいられない。

「英二はやっぱりコートの上にいる時が一番格好いいなあって思った。先輩負かしちゃうぐらい、本当はシングルスもきちんと強いこととか、皆がもっともっと知ってくれればいいのにって思った。だからね、本当に嬉しかったんだよ。また見られて」

 もう一度盛ったお碗を渡し、黙って受け取る英二を見つめる。

「テニスをしている時の英二はね、卑怯だよ。格好よすぎるから」

 後から思えば、それは自分への言葉でもあったのかもしれない。それが恋人の生活の絶対の芯であることを深く自覚させる、自分への言い聞かせの瞬間であったのかもしれない。
 だがこの瞬間は、感情が思考回路を経由せずにそのまま口から零れ落ちていく、その感覚だった。そしてそれを、身体が厭っていなかった。その感覚だった。
 だから、英二に手首を掴まれても逃げる道など考えもしなかった。ただそれだけのことだったように思う。

「手放しで俺を褒める時のって、なに考えてるのか。当ててあげようか」
「……え?」

 腰掛けたままの英二が、悠然とした笑みを浮かべる時の意味を当ててもよかった。いや、むしろ分かっていた。
 無条件に抱き寄せられる。胸元に飛び込んできた英二の髪は相変わらず黒い。見慣れない光景だ、と思うよりも早く、あの瞳が見上げる角度を伴って自分を見つめる。
 見上げる、縋る角度のはずなのに、その視線から逃れられたことは一度とてない。

「俺に言うことを聞かせたい時か、それか、俺の言うことを聞きたい時か」

 他の誰でもない、答えは英二自身が一番分かっているように思えた。
 指も触れないうちに、視線に促されてそっと顔を下ろす。触れる直前に瞳を閉じれば、呼吸の自由など簡単に奪われる。けれど拘束された腕の中、自由というものとは無縁なその小さな世界で最も許されていることが、彼を独占できる事実だということは何よりの褒美のようだ。
 そっと離れた唇に合わせ、瞳を開ける。間近で見ることができる事実は、褒美だ。特権だ。そう思えば、身体は自然と彼に抱きつくようにできている。

「……本当? 今日誰も帰ってこないって」
「本当」
「分かってて俺を呼んだんだから、も大概だよね」
「……だって」
「うん、ごめん。俺も会いたかったから、これでいい」

 囁きで十分届くふたりだけの空間では、身体を離せば自然と唇が寄せられるようになっている。そっと離した先、瞳を見つめれば浮かぶ悠然とした笑みに自分の胸が高まることも決まってしまっている。
 早く食べて、と口走ってしまうのは時間の問題だった。



 今更なにか言葉を必要としているわけではない。
 声をかけたら反応をもらえるから、それ以上の反応をこちらが返す。違う高校に進学して、ようやく理解した「物理的距離」の大きさの前では、それを基本とすべきだと痛感した。会える時、距離をゼロにしてしまえる時には、最大限の気持ちを伝える。それは恋情だったり敬慕の念だったり、起源とする感情は様々であったけれども、それでもその言動によって相手が喜ぶ表情を見せてくれるのであればなにを厭うこともなかった。

「……英二ー」
「ん?」
「私、頑張るね」
「なにを」
「ちゃんと英二の彼女でいられるように」

 落とされたキスの後、ぼんやりと呟いた一言の意味を英二は深く考えなかった。しばらく沈黙した後「ふうん」といつもどおりの相槌を打って、の横に身体を並べる。まだ火照る頬も肌もそのままに、抱きしめられればそれが返事だった。

「頑張ってほしいと思ったこと、ないんだけどなあ」

 抱きしめられた腕の中、ぼんやりと呟いた一言を、も深く考えなかった。久方ぶりの抱かれる感覚に色々なものが麻痺していたというのは言い訳に過ぎなかったが、それでも安心する腕の中では考えることが億劫だった。
 ただ、この感覚をもらえる身であるならば。瞳を閉じて英二に抱きつく。
 この安寧をもらえる身であるならば、自分はそのための努力を惜しんではいけない。違う学校で得意のテニスで活躍する英二の邪魔になってはいけない、つりあうなにかを、つりあうと思われるなにかを持っていなければならない。
 その思いに従うことを改めて決意した時、額に寄せられた唇に小さな涙が零れた。




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>> 03.見えない鎖