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彼が目の前から姿を消したのは、つい1ヶ月前の出来事だった。
いつも近くにいて、いつも視界に映って、それを許してくれていた学校という場所とは無縁になる休日には、誰よりも一番近くにいることを彼本人が許してくれていた。出会った頃は幼さばかりに主導権を握られていた顔つきや体躯、性格も、3年という月日の流れの中でようやく落ち着きに代わり、3年の秋の日、窓の向こうを見つめる横顔に違う人を見ているのではないかと錯覚を起こしかけたのは秘密の話だ。
そんな彼が、1ヶ月前。ついに目の前からいなくなった。
桜はある。学校もある。色こそ変われど、制服もある。出会った頃のものはすべてここにある。
青春台にそびえる真白の校舎はこの地区のシンボルのようでもあり、学園の生徒のためだけに快速電車が停車することを許された青春台駅には、学園の規模とは裏腹に小さな改札駅と小さなホーム。出会った頃からこれも変わらない。改札を出たところにある真っ白な時計台と小さな噴水は、少しばかりレトロな雰囲気をかもし出すのが得意だった。
「珍しい、一緒になるなんて」
その駅で降りて、朝の青空を見つめる4年目の生活。今日も変わりなく始まるのだろうなどと思うこともなくなった晴れた日の朝、背後から飛んできた声には振り返る。
「不二くん」
「どうしたの、立ち止まって。なにか忘れ物でもしたの」
不二の言葉に、は首を横に振る。そう、と軽く相槌だけを打った不二はそれ以上の追及の言葉を用意することなく、の横に並ぶ。自然とふたりで学校までの緩やかな坂道を登った。
「不二くんこそ。珍しいね、部活は? 中等部組は早速同じ練習してるって聞いたけど」
「うん、もう始まってるよ。ただ今日はちょっと用事があって」
「不二くんが?」
「ううん、大和部長が。ゴールデンウィーク前にテストもあるから、たまにはって今日だけ朝練習なしになったんだ」
中等部時代はよく駅前から出ているバスを利用していた。それは不二も同じだ。しかし高等部に上がると、あれが中等部のための移動手段であったことがよく分かる。3年間、当然だと思っていたあの空間は高等部の生徒の配慮から生まれていたものであるという事実は、進学して気づくことができたもののひとつだった。
遠慮というよりは配慮、配慮というよりは心持ち。そして6年間という長いようで短いのかもしれない時間の、折り返しを迎えてしまった身にはこの坂道がどこか愛しく思えてくる。それが青春学園という校風の産物でもあった。
「でも、不二くんが新入生と同じ仕事をしているのって、まだ不思議だなあ」
笑って隣の親友を見つめる。不二は少し目を丸くしたが、困ったような笑みを浮かべた。
「僕だって新入生なんだけど、一応。1年生であることには変わりないしね」
「そうなんだけど。でも中等部の頃からいる子たちは、皆物珍しそうに見るんだよね。不二くんが学年の体操服を着てテニスしてるから」
「そう? 懐かしくて案外楽しかったりするよ、本人は」
「そう言えるのは、レギュラージャージに着替えることができる人だからだよね。さすが」
たいしたことじゃないよ、と不二はまた笑う。そこに嫌味や気疎さを感じさせないのは、彼の実力を知っているからか。それとも誰にでもそう感じさせるほど、言葉の裏に実力が見え隠れしているからなのか。不二と出会って3年経った今でもはよく分からない。
ただ、彼が青学のテニス部を愛していることだけは知っている。誰よりも知っている。
「レギュラー戦、いつから参加できるの?」
使い慣れた言葉を口にする。学校はもう近くだ、周りには同じ高等部の制服を着た生徒たちの波が大きくなる。視界を遮ろうとするそれらの色からそっと目を離し、見上げるように不二の横顔を見つめる。
気づけばこの親友は、随分と身長が伸びていた。
「今月からできるよ。去年の全国大会優勝の実績を評価して、だって」
「あれ、じゃあやっぱり高等部でも1年の間は出られないのが決まりなの?」
「どうかな、中等部で1年の手塚を出させたあの人のことだから、そのあたりは厳しくないと思うけど」
同じ黒の学生服。同じ指定鞄。同じ、テニスバッグ。
不二を囲むものはなにひとつ変わっていない。けれどその背は伸び、横顔からは幼さが薄れている。
1年経って桜が再び咲き誇る時期が巡ってきたように、時間というものは確実に流れて自分たちを変えていく。冷静に考えれば今自分が着ている制服は、もはや中等部のものと同じではない。紺色が黒色に変わり、味気なくなったような落ち着いたような、いまだに形容の仕方に悩む色合いだが、それでもいつか、その制服が身に馴染む時が必ずくるように、
「でも、青学にいる以上僕はレギュラーでいたい。レギュラーのひとりとして団体戦で戦い抜きたい」
時間の流れは人を成長させる。不二の口からその言葉を、自然と当然と零させたように。
曇りのない意志を前にして、嫌味など感じている暇はない。その真実に気づいたのは、高校生になってからだ。不二がその言葉を公然と口に出せるようになってから1年も経っていなかったが、その言葉が持つ余韻に浸っていた方がよほど心地よいと知ってからは、なにを疑うこともない。疑う暇があるなら不二の強さを目の当たりにすることの方がよほど有意義というものだ。
「大石くんもすぐにレギュラーだよね、いいなあ懐かしい。手塚くんも戻ってこられたらいいのにね。……不謹慎かな」
それを、傍近くで聞くことができるのは親友の特権だ。
3年間という月日を大切にすれば、このような幸福の時がある。15年しか生きていない身体でもそれを実感させてくれる、不二は大切な存在だった。
心の底から湧き出るなにか温かいものに押されて、自然と口にしてしまった言葉に不二が笑う。遠く、どこかやるせないような表情を一瞬見せたもののすぐにいつもどおりになり、目の前に迫った高等部の校舎を見上げて頬を緩めた。
「あのメンバーでテニスができたら、それが一番楽しいに決まってる。そうだね、だから手塚には戻ってくるなら早く戻ってきてもらいたい。せめて僕たちが、3年生になるまでには」
風が泳いだ。既に花びらを散らしてしまった桜の大樹たちが、その風に揺られてざわりと音を立てる。髪が後ろへと流れていくのを手で押さえながら、も不二と同様空を仰げば、そこには濁りのひとつもない真っ青な空だけがある。
テニスコートに映えるのは、この色だと。誰かが口にした記憶は遠くない。
「たとえ、『あの時』の全員でなかったとしても。それでもできる限りあの時のメンバーに近い形で、3年になる日を迎えたいと僕は思う」
その思いを不二が口にしたのは、これが初めてではない。
けれど、自然と頬が緩む感覚は、聞くたびに強さを増していく。見上げるようにして笑えば、不二はようやくその笑みに気づいて少し気恥ずかしそうに首を傾いだ。
「僕はそう言うけれど、でも誰でも同じ気持ちは持っていると思うんだよ。少なくとも僕が全国大会までに出会ってきた人間の多くはそうだった」
「真田くんと木手くんは覚えてる。手塚くんにあんなに怒鳴ることのできる人、初めて見た」
「随分とピンポイントだね、それ」
「それだけ手塚くんが青学ではすごいっていうこと。あと、そんな全国に行けた去年の青学は本当に強かったんだっていうこと」
昇降口の手前で呟いた言葉に、不二が一瞬立ち止まる。人の波が最も大きい場所で突然視界片隅から姿を消した彼に、は何気なく振り返る。
桜散り、青々と若葉を繁らせる校庭の木々。風が撫でてざわっと流れるように音を奏でたそれらを背景に、不二は立ち止まったままそっと笑みを浮かべた。
「英二だって、同じことを思っているはずだよ。今青学じゃないからこそ、絶対にね」
予鈴が鳴り響く。去年までの中等部の頃とは違う制服が慌てながら校舎の中へと吸い込まれていく。
不二を見つめた後、はそっと目を伏せる。不二の真っ直ぐな視線は今の自分の心では真正面からは受け止められなかった。
4月、高等部に進級して3週間目。やがて5月を迎えれば、去年と同じあの初夏の空がやってくる。場所こそ違えど、去年と同じようにテニスコートにあの青と白のジャージが映える日々が続く。それを着た不二が夏の大会に向けてラケットを握る日々が戻ってくる。
だが、そこに足りない人がいる。
「……まだ寂しいなんて言ったら、笑われるかな」
目に見えない穴が開いてしまったような自分の隣の空間。寂しさを紛らわすために今鞄を両手で持っていると言ったら、この親友は笑うだろうか。
「僕も同じだから、いいと思うよ。大石なんてもっとだから」
「そうかな」
「忘れなきゃ、と言うよりも、それだけ英二が大きな存在だった。そのことを大切にすればいいと思う」
不二は優しく、昇降口を指差す。漏れる言葉も棘ひとつない。
大きくなった不二の背中を追うようにして下駄箱を目指す。途中見上げた高等部校舎の白さが、太陽の光を反射してはそっと目を細めた。
英二が淑徳学院高等部への編入を決めたのは、中学3年の秋のことだった。
純粋な意味での中高一貫教育ではない青学は、他高校への進学率が高い方だと。まるで英二の編入を当然のこととするかのような乾の言葉は、当時こそ複雑な思いでしか受け止められなかったが、今となってはそれが一種の緩和剤のようになっていたことを知る。
あの言葉が、もしかしたら今の自分を創っているのかもしれない。そう思うほど、目の前の景色に自然と動揺することはなかった。
「え、今日淑徳に行くの? じゃあ英二によろしく伝えておいて。たまにはメールしなよって」
帰り際、部活に行く前の不二にそう告げると、彼はわずかに目を丸くしていた。けれどすぐにいつもどおり柔らかい笑みを浮かべて、右手を上げてコートへと向かっていった。
その隣にいつもあった後ろ姿は、今、視界の中にある。
私鉄で神奈川方面へと向かう途中、淑徳学院はある。
わずかに都心からはずれたおかげで、電車を降りて徒歩になったとしてもその校舎を見失うことはあまりない。閑静な住宅地に囲まれた中にそびえたつ白亜の校舎は、どことなく青学と似ていて妙な親近感を覚える。
その南西側、午後の日差しの恩恵を最も受ける場所に高等部のテニスコートはあった。
「菊丸ー、お前また先輩負かしたんだって? なんか部室で文句言われてたぞ」
白地の多い黒色とのユニフォーム。夕陽に照らされて赤く染まっても見えるそのユニフォームが風に翻り、名前を呼ばれた人はボールを持ったまま顔を上げる。
「文句って。ひどいなあ、それ。俺実力で勝ったんだけど。文句言うぐらいならまた試合やってくれればいいのに、先輩」
入学式前に染めたはずの髪は、太陽の前には勝てない。夕陽に染まった髪は昔の赤茶色を宿す。左右に流れた髪が風に遊ばれて軽がると揺れる、それも変わっていない。
後ろ姿ながらも、が彼の姿を見間違えるはずなどなかった。
「仕方ないだろ、あの先輩ここ上がりなんだから。お前みたいに他から来たやつは、気に食わないんだろうよ」
「そんなこと言われてもなあ。俺の方が強いし、仕方ない」
「そりゃそうだ」
「分かった、次ダブルスでやれば納得するかな」
「……そりゃお前、とどめをさすって言うんだよ」
飄々とした態度も変わっていない、笑い方も変わっていない。同級生なのだろう男子とラケット片手に笑いあっている姿は、まるで3年6組にいた頃を彷彿とさせて、は嬉しさと寂しさのない交ぜになった心境に物寂しさを覚える。
しかし、もの寂しさは風にかき消された。
「お前、ラインぎりぎりばっかり狙うなよ! いじめだ、いじめ!」
「残念、俺性格悪いんでー。そういうのが大好きなんでー。ほら」
「……! 菊丸、お前絶対友達なくすぞ!」
「残念、俺性格悪いけど人気だけは人並みなんだ」
ユニフォームを着た身体が嬉しさに踊るようにコートを行き来する。ラケットを持った右手がまるで歌を歌うかのような滑らかさ、自然さを伴ってボールを打ち込む。決して太くはない腕から繰り出されるサーブは、心なしかの記憶のものよりも速度を増しているように見えた。
口調は少し尖ったか。親友と思われる相手をからかう言葉遣いに少し首を傾げるが、その表情が柔らかさを増していることを思えば不安は消える。
「シングルスに行けよ、お前。中学の時もやったことあるんだろ? そっちの方が向いてる気がするんだけどなあ、俺」
その言葉を向けられるのはここが青学ではないからか、と一瞬ひやりとしつつも、
「ええ? なんで。俺がこっちに来たのは、ダブルス要員としてだろ。ダブルス以外、命令されない限りする気はないよ」
信念を滲ませる言葉を口にする身体がまとうものが、たとえ違うユニフォームだとしても、不安という名のものは心の中から消えていく。むしろ清々しいほどに、心は今目の前にいる彼の姿を焼き付ける。
息を飲むことは、戸惑うことよりも簡単だということを知る。
その時、風が吹いて髪が揺れた。
後ろ姿からやがて横顔、いつのまにかすっと伸びてしまったように見えるその輪郭を楽しむ間も与えず、その顔の持ち主はラケットを持ったままフェンスの外に視線を向ける。
「……?」
やがてその目は丸くなり、何度も瞬いた後慌ててフェンスに駆け寄ってきた。
がしゃんと音を立てて揺れたフェンスは、青学と同じ緑色だった。
「うわ、ごめん。今日部活30分延長になったんだ、メール送るの忘れてた」
「え? あ、うん。大丈夫だよ、待ってる」
「あーごめん、時間つぶせたのに。待ってて、すぐ片付けてくるから」
黒髪が翻る。なぜか大きく見える右手が振られ、その身体がフェンスから離れる。
正門、と叫ぶ声がしたのはそれからすぐのことだった。
髪を黒く染めたのは、そこが赤茶色こそ彼の地毛だと認めた青学ではなかったからだ。
教室でもなく昇降口でもなく、外界との通用路である正門で待ち合わせをするのは、ここが青学ではないからだ。
改めて、英二と自分は違う学校の人間になってしまったことを知る。
見慣れない景色の中に沈もうする太陽を眩しそうに見つめながら、は正門の壁にもたれて英二の到着を待つ。正門からは途切れることなく淑徳の生徒の帰宅の波が続いていたが、青学の制服を見られるたびに怪訝な顔をされ、居たたまれなさばかりが増した。
(待ち合わせ場所をきちんと決めておけばよかった。テニスもまともに見てないし、これは失敗かなあ)
淑徳に行く、とが言ったわけではない。ましてや英二が指示したわけでもない。会う約束ひとつだけで、実際は待ち合わせ場所はおろか待ち合わせの時刻すら決まっていなかった。そのような状況で突然訪れたのだから、英二が慌てても無理はない。間違えた、悪いことをしたという感情ばかりが頭の中を駆け巡る。
「ごめん、。お待たせ」
そんな時にでも、その声は一番に届くように身体が覚えてしまっている。
背後から届いた声に壁から離れて振り返り、視界中央に彼の姿を迎える。見慣れないブレザー姿に知らないテニスバッグを持った英二は、の顔を見てもう一度謝りの言葉を述べた。は首を横に振る。
「ううん、ごめん。私こそ。待ち合わせ場所、きちんと決めればよかったよね。部活が早く終わったから、ちょっと……」
「いいよ、全然。むしろここまで来てくれるなんて思ってなかったから、ちょっと嬉しかった」
本当にそう思っているように、英二は小さくはにかんだ。その一言と笑みでどれほどこちらの心が落ち着くのかを知っているのだろうか、と思わずにはいられなかった。
それほど心が過剰に反応するのは、ここが青学ではないからだろうか。いつも話し、笑っていた3年6組ではないからだろうか。違う制服を着て違うユニフォームでテニスをしているからだろうか、それとも。
4月になって、実は今日初めて会うからだろうか。
全てが正解のようで、はいまだ本心を英二には伝えていない。正解が分かったところでその結果どうなるのかも、正直なところどうしたいのかも決めていない。ただ曖昧に、抽象的に過ぎていく毎日を見送ることしかできていないのが現状だ。
「菊丸ー、先輩が探してた……あれ」
その時、正門からもうひとり淑徳の生徒が出てきた。の顔を見て一度足を止め、何度か英二と視線を左右させる。よくみればそれはテニスコートにいたあの同級生らしき人物であり、が軽く頭を下げると、慌てて相手も居住まいを正した。
「なに、お前。違う高校の子といつ知りあったんだよ、俺聞いてないぞ」
隠すつもりはないのだろう、耳打ちの姿勢ながらもに十分聞こえる大きさで彼が英二に尋ねる。直球なその言葉には返す言葉がなかったが、英二は何気なく
「知り合うもなにも。彼女だし」
いたら駄目なのかよ、と素朴な質問をもって耳打ちから離れる。離れた代わりに、の隣に並ぶ。
「2年だっけ? それぐらい?」
「え? あ、うん」
「だから『違う学校』じゃなくて、『前の学校』なの。残念、俺性格悪いけど彼女いるんで」
唖然とする親友をよそに、英二は屈託なく笑い、そしての隣を離れなかった。
後から思えばそれは、まるでスイッチかなにかのようだった。背中を押す、という言葉の意味を最も理解する瞬間だった。
彼女? と問いかける初対面の違う制服を着た人間に、はおずおずと頷く。大丈夫か、と英二の横顔を見上げたが、その顔はの反応に逆に目を丸くした。
春の空気の澄んだ夕暮れ。出会って3年、付き合い始めて2年目の春。
違う制服を着た恋人を横に、は心の中でそっと決意をする。自分に言い聞かせる。
与えられるなにかに心が躍り、嬉しさを噛み締めるならば、自分の役割はそれを守ることであり維持することであり、そしてなにより、それを相手にとって負担に思わせない満足のいくものであるようにすること。その努力が認められる瞬間が、もしかしたら今のような時なのかもしれないと。
心には温かいなにかがある。けれど自分はまだなにもしていない。ならば、なにをすべきか。なにを感じ取るべきか。
「英二」
「あ、ごめん。帰ろうか。じゃあなー」
思わず名を呼んだ瞬間、英二は当然のようにふたりきりの瞬間を作り上げた。
頑張る、という言葉を重く深く密度濃く。そう感じさせてやまない温もりが右手に訪れたのは、それからしばらくしてのことだった。
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