| ラストチャンス 01 |
抱きたくなった? なんて。慣れない香水に慣れない台詞、頷くのは簡単だった。 まるで俺を試すみたいに聞いてきた、あの時のあの子の顔は本当に色っぽかった。 中学生相手にそんな言葉は不釣合いで、そのうえ理性なんてすぐに飛ばすことのできる男の台詞に真実味なんてまるでないと分かってはいても、それでもその艶に溺れることにためらいはなかった。 理由は分からなかった。探さなくてもいいような気がした。香水のせいでもいいような気がした。 いや、はじめから。はなから答えなんて求められていないような気がした。 そんな自分勝手な俺の思考回路を、あの子はきっと知り尽くしていたんだろう。 知り尽くしていたからこそ、あの日。俺の言葉に頷いたんだろう。 1ヶ月前、俺はひとつの経験をした。 それを体験することができたのは、大した理由があったからじゃない。むしろ理由がないからこそできた。冷静に考えればそれまでの状況がある意味異常だった、だからその経験は別に不思議なものじゃない、当たり前のようなものだ。そう思うことはあまり苦ではなかったし、納得するまでそれほど時間は必要としなかった。 1ヶ月前。それは、俺が1年付き合った彼女と最後に言葉を交わした時。 「英二、さんと別れたんだって?」 独り身になってからしばらく経つ。それでも前と変わらずこうして生きていられるのだから、俺にとって彼女という存在はそこまで大切なものではないのかもしれない。 そんなふうに思い始めた頃になって、俺の親友はさらりとそんな質問をぶつけてきた。 俺は雑誌に落としていた視線だけをあげて、斜め前で俺を見下ろしている不二に向ける。予想通りその顔にはいつもの笑みがある。俺は頬杖をついたまま、じっとその目を見つめたけれどそれ以上の言葉は発せられることがなかった。 (俺が答えを言うのが先ってことか) こんな時、騒がしい教室がやけに鬱陶しくも、逆に救いのようにも感じる。俺の思考回路の邪魔をする敵であるのと同時に、マイナスの考えへとどこまでも落ちていくのを防いでくれる味方でもある。 どちらが正しいのかは分からないまま、俺は雑誌に視線を落としながら殊更つまらなさそうに吐き捨てた。 「別れたよ。もう1ヶ月ぐらい前の話だけど」 それで満足してくれるか、とちらりともう一度不二に視線を送れば、そこには意外にも少しだけ驚きの色を浮かべる表情があった。逆に俺の方が驚いてしまうほど。 「本当だったんだ、噂」 「噂?」 「仕方ないよ、2人があからさますぎるから」 それ以上不二はなにも言わなかった。まるでそんな会話はもともと存在すらしていなかったとでも言うように、何気ない顔をして俺の前の席に腰掛け、そして雑誌に目を落とす。そしてそのまま、こともなげに月刊プロテニスのレイトン・ヒューイットの特集に会話の話題を持ち込んだ。 こういうところは気が利くようで、本当は一番の曲者だと俺は思う。自分の聞きたい情報だけを引き出して、そして話をはぐらかすことによって「古傷をえぐってごめんね」と遠まわしに謝ってみせる。その変わり目が絶妙すぎて、絵に描いたみたいに鮮やかすぎて、俺はいつも反抗することができない。 それでも俺は不二の会話に付き合う。それが最善だと分かっているからだ。 最善であるからといってなにかが生み出されるわけじゃない。その対極に位置するのが「最悪」だからであって、それこそ今の会話の延長戦に他ならない。 (どうでもいいことに変わりはないけど、でもだからって思い出したいわけじゃない) 俺は不二に悟られないよう、心の中で舌打ちをした。 というのは俺の元彼女の名前だ。同級生だから不二もその名前と顔ぐらいは一致している。ただ、直接の面識はあまりない。 なぜなら俺は、と過ごす時間に比べたら不二といる時間の方がよっぽど多かった。と2人でいる姿よりも、俺個人でいる姿の方をずっとこの親友に見せてきた。付き合う前も付き合った後も、それは変わらなかった。 (ほら。不二と比べられる程度だったんだよ、あいつは) ヒューイットぐらい小さな頃からきちんとしたテニスをしていたら、俺たちももっとうまくなったのかな。いや、無理じゃない? どうして。遺伝も少なからず関係しているだろうしね。全面肯定することは馬鹿げていても、全面否定することの方がきっと非科学的だと思うよ。 (付き合い始めた時は、もっとのめりこむと思ってた。放課後は無理でも学校にいる間はバカ騒ぎして楽しめればそれが一番いいって、ずっとそう思ってた。でも) でもあれだけの精神力は並じゃないよな、プロの世界って本当に普通じゃないって気がする。だろうね、僕たちみたいなアマチュア……までもいかない人間が言う「普通」なんて、プロの人たちからすれば本当に基準の低いものでしかないだろうしね。それは彼らの努力を認めないっていう意味にもなっちゃうんじゃないかな。じゃあ俺たちってあれだな、本当に中途半端にテニスができるっていうだけなんだろうなー。 (のめりこめなかった。あいつといるよりも不二といる方が楽しいと思った。テニスをしている時の方がもっともっと楽しかった。だから) 別れて当然の結果だったんだ。 その答えをもう一度心の中で呟いた瞬間、ヒューイットの会話は終わった。 それまで惰性で答えてきた声を自分で途切れさせた。不二が成り立たせた「テニスだけの」会話を自分で終わらせた。最善の策を、俺は自分で見放した。 その時、俺の目は窓の外へと向けられていた。 そこには、体育の授業のためにグラウンドにぽつぽつと集まり始めている緑色のジャージを着た同級生の姿がある。何組の授業だろう、なんて何気なく思って見ていれば、そこに回りから頭ひとつ分飛び出た乾の姿を見つけてそれが11組の授業だということに気づく。その瞬間。 「……別れて正解だと思っていた?」 不二の質問に、俺は返す言葉を見つけられなかった。 「意地を張るなとは言わないけど、自分を苦しめるだけの嘘は英二にはまだ早いよ」 本当に不二はお節介だった。でもそのお節介を、俺は振り切れなかった。 忌々しいぐらい、悔しいぐらい、その時俺の目はの姿を見つけてしまっていた。 むしゃくしゃしていたら1日が終わっていた。 なにに対して怒っているのか分からないまま、けれどどうしても拭いきれない鬱陶しさを抱えたまま俺は教室を出た。眉間に皺が寄っていることには気づけても、その改善方法はまったく分からなかった。 今日はテスト3日前だから部活はもうない。こういう時は大抵青春台駅までは不二と歩いて帰るのに、その肝心の不二が「今日は彼女と帰るから」と宣言してさっさと6組を出て行った。俺に対するあてつけかと思った。 そこまで思って、俺は舌打ちをする。 (なにを気にしてるんだか、俺。バカらしい) 乱暴な音を立てて廊下を渡り、ようやく下駄箱前に辿りついたかと思えばおかしすぎる混雑ぶりに今度はうんざりする。どうしてこんなにも笑い声をあげる人間が多いんだろう、なんて的外れもいいところなことを思いながら、履き慣れたというよりは履き潰してしまったアディダスのスニーカーを取り出す。不二の下駄箱にはもう靴はなかった。 『菊丸くんって本当にアディダスが好きだよね』 バタバタと廊下を走り去っていく同級生の女子の騒がしさに嫌気がさす。その嫌気に押されてスニーカーを地面に落としたその瞬間、あの時の声はこの騒がしさの中で突然よみがえった。 『あー、テニス用品はあんまり買わないけどね。なんで?』 『レギュラージャージを着ない時は、黒のアディダスジャージ。お気に入りのスニーカーはアディダスの定番、スリーストライプのブラック。つまり菊丸くんはアディダス好き』 『は?』 『菊丸英二派の女子の間じゃ常識なの。あ、でも少数なんだけどね』 『……あのなあ。自分の彼氏のことをそんなふうに言うか? 普通』 『でもスニーカーの種類は3種類あって、そのうちのひとつが実は滅多に学校には履いてこないお気に入りのナイキだっていうことを知っているのは、私だけ』 それはいつ聞いた台詞だったのか、詳しくは覚えていない。ただ雨の匂いがしたことだけは覚えている。朝練中に雨が降ったせいでレギュラージャージはずぶ濡れ、コートも使用不可。そんな薄暗い放課後、学校では滅多に着ないアディダスのジャージを着て、体育館での走りこみの練習をした。その後だった。 その時にもらった差し入れのアクエリアスは、妙においしかった。 赤い傘を差して体育館前で待っていてくれたの横顔を、素直に綺麗だと思った。 (……で? それを今更思い出して、それでなに) 自分のことを鼻で笑いながら心の中で尋ねてみても、もちろん答えを用意する人間なんて自分以外にいるはずもない。そして俺はそれに対して答えを用意できているはずもない。そもそもあれだ、俺は用意したいのかどうかも分からないんだ。 でも、ひとつだけは気づいている。いくら俺でも自分のことだからこそ気づいている。 俺は本当は、今の状態に100%満足しているわけじゃないということを。 けれどそれは、絶対に恋愛感情の残りからくるものじゃないということを。 (アホらし。余計勉強する気なくなるじゃん) だから俺は否定的な考えを用意し続ける。恋愛感情でもないのに今更に対してなにを思うのか、あの関係になにを思い出そうとしているのか、自分のことながら俺はすごくそれに腹が立って、こうして頭ごなしに否定の言葉ばかり繰り返す。 不二の言葉を借りれば、それは「自分を苦しめるだけの嘘」というやつになるんだろうけど、自分がそれを認めなければなにも問題はない。不二には俺の頭の中にまで入ってこれる権利なんかないんだ。 だから俺は、何度も何度も。言葉で自分を抑えつける。 全否定の言葉で、心の中に残っている透明じゃないなにかを押さえ込むために。 学校指定の鞄(部活がない時は大抵この鞄を使っている)をショルダー型にして左肩にかけ、適当に靴を履いて適当にシューズを下駄箱に戻して、そして適当に両手をポケットにいれたまま昇降口を出る。いきなり視界に入ってきた夏の日差しの強さに、一瞬眩暈がした。 (……早くテストなんて終わればいいのに。早く部活が始まればいいんだ、そうしたらこんなこと) 期末テスト前の今日、空は俺がテニスコートに寄らないことを不思議がるみたいに青く晴れ渡っている。こんな日だからこそコートに立ちたいと思った。 なにも考えられないぐらいに思考回路を熱で殺してしまえばいい、なにも考えなくてもいいぐらいにテニスに熱中してしまえばいい。そうすればテニスだけを好きでいられる。いつもの俺でいることができる。心からそう思った。 けれど無理やりテニスの話題に頭を占領させて校門を出ようと思った、その時。 それは、突然やってきた。 思わず立ち止まってしまったほど。目を丸くして、視線を動かせなくなってしまったほど。 「菊丸くん」 夏の風の中に、懐かしい匂い。その香りと一緒になってその声は飛んできた。 校門脇、電車通学の人間だったらそこを通らなければ絶対に帰れないというその場所で。は1ヶ月前の「いつも」と同じ顔、同じ声、同じ香りを漂わせて俺の名前を呼んだ。 目にはかすかな不安の色。俺を見上げてくるその視線に怯えがあることを、俺は見逃さなかった。 これはなんの冗談なのか。俺はでき過ぎたこの光景に、驚きを通り越して呆れる。けれどすぐに動揺がそんな呆れを飲み込んで、俺の心臓を激しく叩きだした。 「……なに? どうしたの、こんなところで」 それでも俺は平静を保つ。の目の中にある不安に気づかないふりをする、拾ってあげるような優しい態度もとらない。 どうしてそんな態度をとったのか、俺には分からない。ただ、自分を冷めた言葉で抑えつけようとするシステムの効果だと思えばすぐに納得はいった。 「少しだけ、時間をもらえない?」 でもは怯まなかった。俺の突き放した態度に(俺の外面の良さを知っているこの子なら、それがどういう意味なのかは絶対に分かっているはずなのに)一瞬下唇を噛んだけれど、目を逸らすことだけはしなかった。 俺は、のそんな言葉に冷めた目をしたまま答える。 「なんで?」 「……話したいことがあるから。聞きたいことがあるから」 「……俺ら、もう終わったと思うんだけど」 「だから」 だからこそ。そう言いたいのはすぐに分かった。1年の経験は中途半端なところで役に立つ。 俺はしばらく黙ったけれど、結局頷くという選択肢を選んだ。それだけでにはきちん伝わったようで、俺たちは本当に久しぶりに肩を並べて駅まで歩いた。 どうしてこの時頷いたのか、俺には分からない。 ただ、これは。いつも自分を冷めた言葉で客観視しようとしていた感覚とはまるで違う、予定外の自分の反応だった。 それでも一度並んで歩き出してしまえば、止まる理由が今度は見つからない。 会話はなかった。ただ昔を思い出す、甘い香りだけが俺たちの間にあった。 付き合うきっかけは、 2年になってしばらく経った時に告白をされて、俺はそれを受けた。ただそれだけ。 付き合って問題はなかった。お互い口下手じゃなかったし、1年の時に同じクラスだったというだけでも十分な共通点になったから、会話に困るようなこともなかった。がテニスに関心を示してくれたことも大きかったと思う。俺の生活の基本はテニスだったから、それを理解してくれる子じゃなきゃ俺は付き合わなかった。 不二の言葉を借りれば、は「俺には勿体無い」彼女だった。 そんなとはあまり学校では彼氏彼女っぽくはしていなかった。それぐらいに俺はテニスに熱中していて(ちょうど3年の先輩とのレギュラー取りに躍起になっていた)、そんな事情もあって俺は確かによりもテニスの時間を大切にしていたけれど、それはとの時間が苦痛だったからという理由は欠片もない。嫌悪感を感じていたら、きっと今、俺はこの子と一緒に歩いていない。 ただ、生憎と当時の俺はまだが俺のことを好きでいてくれるレベルまでの感情には達していなかった。だからそれは駄目だと思うのと同時に、できる限りの力で頑張って改善しよう、追いつこうと思っていた。 けれど、その改善を実感できる前に俺たちは終わった。 別れの台詞は覚えていない。正確に言えばどちらが切り出したかという、そんなはっきりしたものは俺の記憶の中には残っていなくて、なんとなく2人同時にその結論に達したという印象の方が強かった。 そんなあやふやな記憶を辿りながら、俺は結局行く場所も見つからなくて、の了承をとってから家へと帰った。さすがに部屋にいれることはルール違反だろうと思い、誰もいないがらんどうのリビングに促す。俺は鞄をソファの上に放り投げ、キッチンへと向かった。 冷蔵庫の中には、昨日母さんが買ってきてくれたオレンジジュースがある。自分が喉が渇いていたせいもあってそれをグラスになみなみと注ぎ、一度飲み干してからもう一度注ぐ。今度はふたつのグラスに。こんなものが沈黙の慰めになるとは思ってはいなかったけれど、どこか落ち着かない雰囲気が勝手に俺をそうさせていた。 「ごめんね、急に」 「いいよ、別に。待たせてたのも悪いし」 「……携帯だと、つかまらないかなと思って」 「ああ、気づかないかもね。俺移動してる時はあんまり触らないし」 そういう意味じゃないと分かっていたけれど、俺はあえてそう繋いだ。 俺は1人掛け、は3人掛けのソファに腰を下ろす。直角状に座った俺たちは、お互いに視線を向け合わなければ目が合うことはない。沈黙を埋めるためにはオレンジジュースを飲むことと芸能人の離婚騒動を伝えるワイドショーを見ること。暑苦しさに負けてクーラーをつけると、冷風に首筋の汗がひやりと反応した。 「……あのね」 グラスを両手でもち、着色料で綺麗に仕上がったオレンジ色を見つめながら。はようやく口を開く。俺は面白くもないテレビに顔を向けたまま、そっと視線だけをに向けた。 前髪がさらりとエアコンの風に揺れる。前は耳の位置ぐらいまであった前髪が目の高さにまで戻ったのは、付き合ってから俺がその方が好きだと言ったせいだ。雰囲気ががらりと変わったことを、今でもよく覚えている。 肌は割と綺麗な方だと思う。比べる対象をもたないからよく分からないけれど、白い肌は運動部の俺からすれば天然記念物のようなもの。ラケットをもたいないから指は細いし、むしろ折れるんじゃないかと思うほど。 (……また、今更なことを) 俺はため息にも似た重い息をひとつ、ゆっくりと吐き捨てた。自分でも呆れるほどに、どうしてこんなことを思うのかが分からなくなってきていた。 終わったこと。済んだこと。もう無関係なこと。 いくらでも説明できるのに、その言葉で片付けられるのに、それなのに俺はいまだにこうして片付けたはずのことを蒸し返そうとしている。非生産的という言葉は絶対にこういう時に使うのだと心から思った。 俺は黙ったまま、の言葉を待つ素振りを見せながら同じ言葉を心の中で、頭の中で繰り返した。 別れることはも了解したことだと。 これは、お互いが納得した結論だったはずだと。 何度も何度も、くどいぐらいにうんざりするぐらいに。こんな馬鹿なことをもう思わないようにするために。なのに。 「私、まだ菊丸くんのことが好きで仕方ないんだよ」 そんな俺の思考回路は、のその一言で簡単に止まった。 手はグラスをもったまま、目はを見つめたまま、口は中途半端に開いたまま。 分かっていた。そんな言葉は望んでもいなかったはずの俺が今取るべき態度はひとつしかないと、嫌になるぐらいに分かっていた。拒絶の一言を容易すればいいだけの話だった、それなのに。 今この空間には、返す言葉も態度もなにもかも持っていない自分しかいなかった。 |
| >>02 05/05/21 |