| ラストチャンス 02 |
それは望みもしない一言。 カランとグラスの中で氷が溶ける音が響く。デリカシーのないクーラーの音が耳障りにすら思えた。沈黙の中、規則正しく自分の任務を忘れずに働いているのはクーラーと時計の秒針だけ。 そんな世界で俺は、今なにをするのが一番正しいことなのか分からなかった。 「……なに、突然」 答えの出ないまま、取り繕った笑顔で苦笑する。笑いたいなどとは欠片も思っていない状態で笑うのは、頬が痛かった。 「俺たち、もう彼氏彼女の関係じゃないし。1ヶ月前に……別れただろ」 「……それは、分かってるけど」 「今更それはないんじゃないの? もう終わったことに対して」 「それも分かってるけど」 「……分かってないよ。分かってないから、そんなこと言うんだろ?」 「……」 の細い指がぐっとグラスをつかむ。表情は見えない。相変わらずクーラーの風にさらさらと前髪を揺らしながら、ただじっとグラスの中のオレンジを見つめている。 冷たい人間だと思われたか。の声がなくなってようやく俺は気づく。 でも俺は、本当に本当の意味で、自分がなにをすればいいのか分からなかった。いや、なにをしたいのかが分からなかった。 動揺はしている。それは否定しない。なにがあるのか見えなくなってしまうぐらい、心の中で深く色濃く渦巻いているものがあることにも気づいている。でもそれがいったいどういう仕組みでそんな動きをしているのか、それが本当に分からなかった。 「俺の知ってるは、もっと物分りのいい女だよ。……というか」 それでも言葉だけは出てくる。考えてのものじゃない、思ってのものでもない。まるで機械みたいにさらさらと、淀みなんてまったく知らないままにストレートな言葉ばかりが口から零れ落ちてくる。 俺は、その流れに反抗しなかった。 たとえそれが自分の本意ではないとしても、反抗する方法を知らなかった。 「別れたくなかったら、あの時そう言えばよかったんだよ」 「……それは」 「今更そんなこと言われても、俺が困るとは思わなかったの?」 だから結局、口はエスカレートして歯止めをきかせない俺を無視して、そう言った。 今その言葉を口にすることは傷をえぐるも同じことだと、それだけは分かっていたはずのそんな一言を言葉にしてしまった。 の肩が震える。泣いてしまったかもしれない、そんな危惧はいくらしてもしたりないぐらい、は返事をしなかった。ただ痛い沈黙だけが流れていく。 そんな明らかに気まずさが度を越した空間の中で、俺はようやく思い出す。 『私は英二くんの彼女でいていいのかな』 ある日突然呟いたその台詞に、俺は驚いた。 前触れがあったのかどうかも分からない。突然その言葉から始まった(変わった)空気と時間、それがすべて。 なんで、とか。どうして、とか。必要なのはそれを考えることじゃなかった。この時の俺はそんなことを考えられるだけの余裕なんてものはまったくなかった。 必要なのは、「流されない」自分を作ることだと頭に教えられていたからだ。 『なにそれ』 『……』 『……なに、そのだんまり。意味分かんないんだけど』 『……あのね、英二くん』 『そんなこと思ってたの? 1年間ずっと? ……なにそれ』 本当は動揺していた。正直、怖さにも似た動揺だった。 でもそれをそのままに見せるということが、俺にはできなかった。 『普通に失礼じゃない? 俺に対して』 『それは』 『それとも、なに。別れたいっていうことを言いたいの?』 他にもできなかったことがあった。 の目を見て話すこと。に説明の時間を与えること。 でも一番できなかったのは、自分を止めること。 『……いいよ、別に。別れても。がそうしたいんなら、俺に止める権利はないし』 無意味に格好つけた言葉だけは簡単に口から出る。 無理に自分の感情を殺す俺に、は黙る。けれど顔だけは背けない。俺はそんなの本心が分からない、言葉の意味が分からない。 この時、俺の動揺は苛立ちに取って代わった。 『……』 『……そうなんじゃないの?』 『……ううん。違う。違うけど。……そうだよね』 『なにが』 『英二くんにとって、やっぱり私はそこまでなのかもしれない。今のでよく分かった』 『え?』 『今までありがとう。すごく楽しかった、幸せだった』 思い出せるのは、それは雨の匂いと一緒にあったこと。朝から降っていた弱い雨は放課後になってもやむことがなくて、珍しく一緒に帰ることができた、そんな日の出来事だった。 俺はあの日、赤い傘を差して寂しそうに笑って、そのまま背を向けたになにも言えなくてただ見送ることしかできなかった。 それがと話した最後の瞬間だった。今日、今という時間を迎えるまでは。 (……忘れてたんじゃなかったのかよ。俺も俺だ、どうして今更) 辟易も度を越すと苛立ちしか生まれない。それはもちろん気持ちのいいものじゃない。心の中でどんどん増える、大きくなる苛立ちを無視したくて、俺は一気にオレンジを飲み干した。 鼻をつくのはオレンジの匂い。でも、頭の中を支配しているのは雨の匂い。 氷だけになったグラスを投げ捨てるようにテーブルの上に置いて、俺は思い出していた。の記憶は全部なにかしらの匂いが一緒になっていることを。 たとえばそれは、テニスコートに雨が染み込んだ匂い。水泳の授業の後廊下で会った時のプールの塩素の匂い。差し入れでもってきてくれたレモンの蜂蜜漬けの匂い。 戯れでつけていた、あの香水の匂い。 「私だって、あれで終わりにしようと思ってた。私じゃ菊丸くんにつりあわないって、もしかしたら菊丸くんはお情けで付き合ってくれているのかもしれないって思ったら、もう」 俺が舌打ちをしかけた時、がようやく言葉を口にしだした。 けれどそれは弱々しいとか、怯えながらとか、そんなものじゃない。俺が思わず目を丸くしてしまうぐらいに、まるでそれまで溜め込んでいた鬱憤を晴らすみたいに突然は話し出した。 「だからあの時、菊丸くんが『それでもいい』って言った時、ああやっぱりそうだったんだって。私ばっかり自惚れて、ひとりで楽しんでたんだって。もう本当に恥ずかしくて、情けなくて、楽しい思い出なんてなにひとつ残らないと思った」 「……」 「菊丸くんのことを好きな女の子の中じゃ、私は本当に目立たないしなにもとりえがなくて、付き合えたこと自体が奇跡だと思ったから。私は背伸びをしすぎたんだから、辛いのは自業自得だって思った。思うようにした。だからもう、菊丸くんのことは忘れようと」 「……それは」 「なのに、……それなのに」 「…?」 「忘れることの方が、よっぽど。もっともっと、難しくて、辛かった。できなかった」 俺は安っぽいドラマは嫌いだ。安っぽいかどうかは俺の判断でしかないけれど、ハッピーエンドになると相場が決まっているドラマほど冷めた目でしか見ない。そんなドラマはラストまでの台詞が全部嘘っぽくてわざとらしい。そんなものはつまらないと一言で言い切る自信がある。 もし今この状況をテレビの画面越しに見ていたら、俺はこう断言したはずだ。「綺麗事だらけ」と。「女の勝手だよ」「男の方には責任なんてないよ」と。 なのに、今現実。この空間。俺はその言葉を言葉として口にすることなどできなかった。 けたたましく鳴り響く早鐘みたいに、破裂するんじゃないかと思うほど過剰反応する心臓が痛くて重くて。身体中の血管という血管が猛スピードで血を流しすぎて気持ち悪くて。 いつのまにか握り締めていた拳が、とても熱くて、痛かった。 「……でもね、それもね。きっと私の我がままでしかないから。ふられたくせに諦めが悪いって、自分でもよく分かってるから」 俺の動揺に気づいているのかいないのか。読み取れないまま、は話し続ける。 もしかしたら俺の気持ちを、俺には分からない今の俺の気持ちを知っているんじゃないのか。そう思ったその時。 「もう一度、告白して。それを断られたら、駄々なんてこねないで諦めようって」 だから今日、あそこで待ってた。 そう言い終えて、ようやくは顔をあげる。絶対に泣いていると思った目に涙はなかった。けれどその笑顔の作り方が無理をしているものであるということぐらい、俺にだって分かる。思わず俺は息を飲む。 涙を流していないんじゃない。流さないようにしているだけだ。 「菊丸くんのことが好きです。もしよかったら……、付き合ってください」 は真っ直ぐに俺を見てそう言った。 俺がなにかを思うよりも早く、言うよりも早く、行動で示すよりも早く。余裕も猶予も与えないでぶつけてきた「最後」の質問に、真正面から迎える視線の強さに、俺は動けなかった。 (……どうすれば) 答えの分からない俺は、沈黙を持て余す。テストでは有難いと思えた二者択一の問題が、人の感情が入るだけでこんなにも難しくなる。俺は目を伏せ、テーブルの上にある氷だけのグラスを見つめながらそれでも必死に考えた。 OKを出すのか。出したとすれば、また俺たちは付き合っているということになる。彼氏彼女の関係になる。きっと、それに違和感はない。馴染むことも難しくはない。なぜなら俺はという同級生を嫌いになった記憶はまったくないのだから。 NOを突きつけるのか。そうすれば、俺たちはまた今のような関係になる。元彼、元彼女の関係になる。きっと、それにも不自然さはない。受け入れることも難しくはない。なぜなら俺たちの今の関係を続行するだけなのだから。 (……俺は) 視線をずらす。テレビを見ても内容なんてまるで入らない。情報を入れるだけの余裕なんて俺にはなかった。肌が感じる緊張の空気に眩暈がしそうになる。 正直に言えば、なにをもって「好き」だと言えるのか俺には分からない。 それが原因だと分かっているからこそ、俺は答えを持て余し、そしてなにより自信をもった言葉を口に出せない。もそれは見通しているのか、あえて答えを急かしたりはしない。 いつもそうだ。はおかしなほどに俺の性格を熟知していて、付き合っている頃もたいした問題なんてなかった。 そんなことを思えば思うほど、俺は答えがでなくなる。自分の問題のはずなのに、誰かに答えを聞きたくて仕方なくなる。そんな時。 「……菊丸くんは、そうだよね。すごく気分屋さんで通ってるけど、ものすごく。人に関わることは、ものすごく考えてくれるよね」 「……え?」 「いいよ。答え、出さなくて。……違うか、今のが答えだって分かったからそれだけでも嬉しいと思えるよ、今は。変な話だけど本当だよ」 意味は分からなかった。けれどは自分だけすべてを悟ったような顔をして、小さくて隠れてしまいそうな涙をそっと流して、笑って、頷いた。 俺は分からなかった。ただ事態が変わったことだけは分かった。それすらも分からなかったら俺は本当の意味で馬鹿だと思えるほど、空気が急に動いた。 がグラスをテーブルに置いて、そっと立つ。いつのまにか固まってしまっていたような空気が泳いで、冷えた風が届く。同時に、あの懐かしい匂いも。 「菊丸くんにとって、私はそれぐらいに悩んでくれる人間になったんだって。それだけでもすごい進歩」 「……ちょ、」 「本当だよ? それだけでも嬉しいんだよ。……惚れた弱味には敵わないなあ」 俺の思考回路はやられていた。後になって考えれば、そう思う。 首を傾げる。髪を撫でる。鞄を手に持って、小さく頭を下げる。切り取ってしまえばなんてことはない、そんなたわいない行動のひとつひとつが、ひとつの匂いと一緒になって俺の視界に映る。鼻を、心臓を刺激する。同じ感覚に浸るのが日常だった昔を思い出させる。 『それをつける意味は?』 『え? ……あ、もしかして気づいてた?』 『気づかせたかったくせによく言うよ。で? なんで? それ』 『……分かってるんじゃないの? この手、なに。逃げられないんですけど』 『そんな匂いをつけた人が言っても説得力なんてありません』 あの時の俺は、笑いながらベッドの上に引きずり込んでも怒られなかった。 部活のないテスト期間中、ほとんどの家族がいないのをいいことに俺たちはよく昼間のベッドの上にいた。 最初は抵抗を見せたその行為を許させることに、そう時間はかからなかった。俺の前でだけという条件は、いつのまにか恥ずかしさよりも嬉しさや安心の方が強くなっていたといつだったか笑いながらは言った。 この、肌に触れ合う時間がなによりも長くなるこの瞬間。いつも一緒にあったのは、ピンク色の小さなガラスの入れ物の中に入った香水だった。 (違う、そんなことじゃなくて) そう思うのと身体が動くのと、どっちが早かっただろう。 それ以上の涙を止めようとしてが顔をそむけて、足を玄関の方に向けた瞬間。俺はそれまで縛り付けられたように動かなかったソファから立ち上がり、咄嗟にの手首を掴んだ。相変わらず細くて頼りない、その懐かしい感覚に鳥肌が立つのと同時に、が驚いて振り返る。 振り返りざま、髪が揺れて白い首が見える。首元と手首、そこはお遊び程度に香水がつけられていた場所。そして今もその匂いを漂わせている場所。それが俺に今の現実を知らしめる。 (そんなことじゃなくて……!) その香水を忘れていなかった意味は。忘れられなかった意味は。 部活が忙しくて不二や大石と一緒にいる時間の方が多かった俺にとって、コートの匂いやボールの匂い、ラケットグリップの匂い、雨の匂い、季節の花の匂い。生活の基底になるテニスに関係するものならいくらでも思い出すことができる。 その生活の中に無理なく溶け込んでいたもの。邪魔だと思う理由が見つからなかったもの、むしろあって当然のものだと信じてやまなかったもの。 それがこの香水だったというこの意味を履き違えるほど、俺は馬鹿じゃない。 「……菊丸くん?」 「頼むよ。頼むから」 俺はこの時、なにを考えていただろう。後になって思い出そうとしてもまったく思い出せないぐらいに頭の中は真っ白なようで実はごちゃごちゃで、自分の整理できる範囲をとうに超えていた。 ただ、そのごちゃごちゃの中に色々な思い出があったことだけは覚えている。 「どれだけ俺を振り回せば気が済むの? それともなに、これも全部見透かしてんの? どこまで計算済みなの?」 朝練の後、飲みたいと思った時に飲むことができたスポーツドリンク。放課後の部活の後、食べたいと思った時に食べることができたパンとおやつ。 自分が触れたいと思った時に触れることができた、傍にあった温もり、匂い。 「ねえ、そんなにも」 俺は顔をあげる。驚きを通り越して無表情にすら見えるを見据えて、そして。 「俺が負けだっていうことを、そんなに認めさせたいの?」 視線をずらすことなく呟いた言葉に一番驚いたのは、俺だった。 いや、言わされたということに。言うことにためらいなんて生まれもしなかった現実に、俺はもう驚くどころの話じゃなかった。いつのまにかその右手が掴んだものを、手放したくないと強烈に思った。 俺にとって絶対の存在のテニスと1年間共存してきた、その存在この関係。 なんてことに気づいていなかったのか。気づかないほど俺はふざけた男だったのか、それとも疑問を感じさせないほど自然にこの関係を作ってくれたがすごかったのか。どっちが正しいのかは、今は関係ない。 とにかく、俺だ。俺の方だ。この質問の答えを用意しなくちゃならないのは。 負けを認めたいんだ。負けでもいいからこの手を離したくないんだ。 俺が、に依存していた事実を取り戻したいだけなんだ。 「菊丸くん……」 「なんだよ、香水つけてさ、それなのに名字でなんか呼んでさ。香水をつける時はそういう時だけだって、俺と約束してたのに。名字で呼ぶ時は怒った時だけだって、喧嘩した時だけだって、そう言ってたのはの方なのに」 「菊……、……英二くん」 「喧嘩でなんか、片付けるなよ……!」 衝動がそのまま俺の身体ごと動かした。 身体の重心が傾いて、小さな身体ごとソファに崩れ落ちる。はさっきまで座っていた場所に身動きがとれないぐらいに押し座らされ、勢いそのままに俺はの上に覆い被さる。 膝が痛い。いきなり体重を支えることになった俺の両膝は、まるで考えなしの咄嗟の行動を怒っているみたいだった。 「喧嘩で片付けることができるんだったら、なんだったんだよこの1ヶ月……!」 でもそんなものは関係なかった。俺は膝の痛みなんて無視して、ソファの背に左手をかけてようやくバランスをとりながら口を切る。目は伏せていた。目なんて見なくても、真正面からあの大きい瞳を見なくても、俺は十分にの手の中に落ちていることに気づいていた。 この至近距離、俺の思考回路が香水にやられていないはずがない。 俺は黙る。黙る代わりに1ヶ月ぶりの香水の匂いに頭の芯から酔いそうになる。手を伸ばして抱きしめて、なにがおかしいのかも分からないくせに笑ってキスをしていた、そんな1ヶ月前までの関係に頭も身体も戻りそうになってしまう。 そんな俺の心は、やっぱり見透かされていたのかもしれない。 「喧嘩で片付けていいのなら、私は喧嘩の方がいい」 ふわりと甘い匂いが漂ったと思った時、頭には懐かしい温もりがあった。 言葉の意味が分からなくて一瞬息を止めた時、耳は懐かしい声を捕らえる。 「仲直りできる喧嘩の方がいい。彼女のままでいられる喧嘩の方がいいよ……!」 ひとつ、ふたつ。青学の紺地のスカートにもっと濃い紺色ができていく。丸い跡がゆっくりと、それでも確実に増えていく様に俺はようやく顔をあげる。は泣いていた。 いずれ涙を流すだろうことは予想できていた。ただその時、俺はもっと動揺するだろうとばかり思っていた。動揺なんて言葉で説明できるレベルを通り越して、考え方も話し方も息の仕方も分からなくなってしまうんじゃないかと、そう思っていた。けれど。 「……英二くん、私……」 「そんなの、俺だって」 こんな時にまで任せにはしたくないと願えば、あとは簡単だった。 泣きながら呟く言葉に、本当は必死に自分の目の奥が熱くなるのを堪えていたけれど。それでも無理に笑ってバカ、なんてからかいながら指の腹で涙をすくえばはとうとう泣きじゃくって、俺の制服に顔をうずめる。 それは、1ヶ月ぶりに腕の中に戻ってきた温もりだった。 「……ごめん。、ごめん」 ふるふると首を振ることしかできないに、俺は頭を撫でながら答える。 「俺も、もう嫌だ。毎日イライラしてばっかりな生活なんてもう嫌だ」 さらさらと。するすると。どうしてあの時にも同じ言葉が言えなかったんだろう、なんて情けない自分を思い出しながら。 俺は自信がある。これからもきっと生活の中心はテニスだ。それは断言できる。特別に想う子がいるからって、その子のためにテニスを犠牲にすることはないしまずそんな考え自体浮かぶはずがない。これからも俺はきっとこのまま、毎日なんとかの一つ覚えみたいにテニスを続けるだろう。 でも、もうひとつだけ自信をもっていえることがある。今日という日を迎えて。 「だから、約束して」 「……約束?」 「俺の彼女でいるって、約束して」 約束なんて。なんてもろくて形のない言葉なんだろう、言った後に俺は思う。 でも、今の俺たちにはそれだけでも十分だった。はやっぱり少し驚いていたけれど、それでも泣いたまますぐに俺の手を握って頷く。 別れる時にでさえ意思確認をしなかった俺たちにとって、お互いが納得した「約束」を結ぶのは、意味がないことなんかじゃないとその手が教えてくれていた。 俺は泣き笑うを抱き寄せる。目を閉じても肌が感じ取る温もりが温かくて、鼻が感じ取る香水が甘くて、なんだか意味も分からずにを強く強く抱きしめた。 理由は分からなかった。探さなくてもいいような気がした。香水のせいでもいいような気がした。 いや、はじめから。はなから答えなんて求められていないような気がした。 そんな自分勝手な俺の思考回路を、はきっと知り尽くしていたんだろう。 「また香水をつけて、『抱きたくなった?』って英二くんをからかうよ」 「残念でした、俺はからかわれるだけの男じゃないんで。……というか、さ」 知り尽くしていたからこそ、今日。俺の言葉に笑ってくれるんだろう。 自信がある、俺はこの温もりを離したくない理由をきちんと言える。抱きしめるだけじゃなくて、キスだけじゃくて、そんな衝動任せの行動だけじゃなくて、言葉できちんとに伝えられる自信がある。 本当は少し恥ずかしい。今更という気持ちもあるし、なにより改めてそんな言葉を言うこと自体気恥ずかしい。 それでも俺は、から目を逸らさずに言った。 「俺、本当はが好きすぎて仕方ないんだよ」 だから彼女でいて。 その言葉には笑って、でも泣いて。俺はまた宥める役になるのだけれど。 それでも本当は、好きだと言うことができる最後のチャンスをくれたに対してこそ俺は泣きたくて仕方なかっただなんて。こっちの方がもっと恥ずかしくて、当分は誰にも言えそうにない台詞。 |
| 05/05/21 |