3年6組日記 疲れた少年に癒しの手を編 01

 事件は、麗らかな5月の昼下がりに起こった。
 珍しい組み合わせだ、とぼんやりと思った、その矢先に起こった。

「あ、さん。ちょうどよかった、これ英二に渡しておいてくれる?」
「英二に? これ……河村くんの教科書?」
「ああ。英二、国語の教科書忘れてきたらしくってさ。今朝貸してくれって言われてたんだ」
「また忘れ物したの、もう」
「あ、それと。ごめんねって謝っておいてくれる?」
「え? どうして河村くんが謝るの?」
「遅くなっちゃったからさ。俺がすっかり忘れちゃってて。いやあ、英二に悪いことしたよ」
「そんなこと! 悪いのは英二だから、いいよいいよそんなこと。というか貸してもらえるだけありがたいと思わないと、英二が」
「あはは、俺の方はいいから。じゃあ、頼むね。部活の時に返してくれればいいから」

 その様子を頬杖をついて見つめながら、僕はひらめいてしまった今後の展開について思わずため息を零す。最近の僕はなにかと敏感で、誰でもない僕自身が一番困る。
 さんはタカさんと別れた後、しばらくの間廊下に佇んだまま教科書をじっと見つめていたけれど、やがて意を決したかのように足を教室へと向けてこちらへやってくる。
 僕の左隣には、僕と同じように(それでも品位という点においては僕は負けるつもりはなかったけれど)頬杖をつきながら、春の日差しと格闘しつつ漫画に目を落とす親友。彼は現状に全く気づいていなかった。

(さて、今日の安全策はなんだろう)

 ぼんやりと考えながら、欠伸がひとつ。その間にも彼女との距離は縮まる。
 無表情にも近いものを浮かべて、やがてさんは僕と英二の目の前に立った。

「英二」
「ん? ……なに?」
「これ、河村くんから」

 タカさんの名前を出されて、ようやく英二は顔を上げる。漫画の中身なんてなにひとつ残ってないだろう、と今すぐ問いかけてやりたいほどに眠気に襲われたその横顔は、ひどく間抜けだった。
 僕ですらそう思ってしまうのだ。ましてや、そんな彼を誰よりも一番近く、深く、真剣に見つめることに長けているこの人が見間違えることも無視することももちろんあるはずなどないわけで。
 みるみるうちにさんの表情は不機嫌の色を増していく。ああ、なんて予測どおりなんだろうかこのふたりは。いや分かっていたけれども。十分すぎるほど分かっていたけれども、他の誰でもない僕自身が、一番。
 そんな自問自答を心の中で一応行ったあと、僕は頬杖をついたままことの成り行きを見守ることから始めた。

「英二、忘れ物多いよ最近。きちんと準備してる?」
「ああ、してるしてる。大丈夫だって」
「……その答え方をされて、大丈夫だったためしは一度もありません」
「なんだよ、うるさいなあ。はそうやってすぐ怒る」

 眠気とは恐ろしい。この人は雲行きの悪さをまるで理解していない。
 いや、それどころか自分で自分の行く末を悪い方向に転がしていくこの親友を、僕はやっぱりため息とともに見つめなければならないらしい。

「すぐ怒るとかそうじゃなくて。どうして河村くんが持ってきてくるの、英二が頼んだんだから英二が借りに行くべきでしょ。お願いして」

 忘れ物は妥協するのか、この人も大変だ。

「あーもう、いいじゃん持ってきてくれたんだから。なにそんなに怒ってるんだよ」

 妥協は当然なのか、この人も相変わらずだ。
 ……なんて。春の陽気が許してくれるものだから呑気にそんなことを考えていた僕でも、空気を読むことを間違えるなんていう(この親友のような)お粗末なことはするはずがない。
 僕は「その時」がやってきたことに、瞬時に気がついてしまった。
 まさに同じ瞬間、さんは僕たちの目の前で大きなため息をついた。

「あーあ、優しいなあ河村くん。どこかの誰かとは大違い。英二も見習ってね」
「は?」
「そんな情けない英二は私は見たくありません。じゃ」
「ちょ、なんだよ! !」

 そして鮮やかに制服の衿を翻して、さんは自分の席へと戻っていく。
 ほら、と置いてきぼりにされた英二の横顔を見つめながら僕は心の中で呟く。何度となく見てきたこの光景だけれど、こうも繰り返されるとある意味「繰り返さなければならない」さんが不憫だ。そしてなにより、「繰り返す様を見届けなければならない」僕が不憫だ。
 いい加減にしてもらえないかな、と冷めた目で見つめていると、突然英二の視線がこちらに向けられる。

「なんだあれ、なにいきなり怒ってんだよ。おかしくない?」
「原因は英二にしかないけどね」
「不二だって忘れたら借りるくせに」

 そこはもう妥協してもらっていることに気づいていないらしい。
 いや、分かっていた。分かっていはいたんだ、この親友には狡猾でしたたかな部分と同じぐらい、間抜けな部分があることを。あいにくと今日はその後者の部分が面白いほどに露出してしまっているらしい。

「俺さ、最近思うんだけど」
「なにを」
「最近、は俺に優しくない」

 間抜けな部分は突拍子もない言葉を口にする。僕は吹きだしそうになるのを必死に堪えながら先を促す。

「だってさ、付き合い始めた頃はもっと可愛かった。素直だった。俺の言うこと結構聞いたし、なんていうか『英二くん頑張って!』って陰ながら支える彼女みたいな役割してたのに」

 壁にもたれられるのをいいことに、英二は椅子に浅く腰掛けた姿勢のまま緩く五指を組んで教室内を睨みつける。当然の視線の先には自分のもとを去っていった彼女の後ろ姿。英二の視線にどこまで気づいているのやら、クラスの女子と話をするさんを僕も見つめながら、この自惚れ男をどうしようかと思った。

「じゃあ英二は今のさんには不満なの?」
「不満っていうか……今みたいなのはなあ」
「僕からすれば、随分許容してもらっているように見えるんだけど」
「許容ってなんだよ、許容って。それじゃ最初から俺が負けてるじゃん、それは嫌だ」

 自惚れ屋は時に自分に甘すぎる。英二は僕の沈黙をいいことに、自分が優位でないと苛立たしいことを指折りとともに羅列し始めた。
 あいにくと、僕はそんな自惚れと我がままを履き違えた野望に心から付き合うほど優しくはない。だから話の中身もほとんどを聞き流しす。幸い今日の日差しはそんな僕の勝手を優しく認めてくれているかのように温かい。思わず瞼の重さを知ってしまいそう、そんな時。

「大体、いつもいつも偉そうなんだよ。俺より勉強できるからって!」

 彼は怒りの矛先を盛大に間違えてしまった。

「なんでいちいち怒るんだよ、あーむかつく! イライラする! 鬱陶しい!」

 そしてその言葉は、あまりにストレートすぎた。
 随分と今日は機嫌が悪いな、と。ぼうっと考えていた僕は、どうやら今日の日差しに甘えすぎていたらしい。
 それはストレートを通り越して度を過ぎている、と。気づき、はっと顔を上げたのは、どうやらいつもより随分と遅いタイミングだったらしく。

「聞こえるところで言わないで。そういうところが情けない……。河村くんを見習ってよ」

 英二の口を塞ぐべく上体に力を入れた、それはまさにその瞬間。
 不機嫌を隠す様子などさらさらなく、さんは冷めた顔で僕たちの前に立つ。
 駄目なんですけど、さん。僕は中途半端な姿勢のまま、心の中で呟く。
 君がその態度を取ってしまったら、この男とのバランスなんて一気に崩れてしまうのに、なんて。
 呆然と思った時には、左横の親友の顔がみるみるうちに紅潮していった。

「そうやって比べることがおかしいじゃん! なんだよタカさんタカさんって」
「どうもこうも、さっき私が感じたことがすべてだもの」
「そんなにタカさんを褒めるんなら、ああもういいよ、分かったよ。それならタカさんと」
「あ。英二、その先はちょっと……」
「河村くんと付き合えって? 呆れた、英二のバカ!」

 僕が止めようとしたその瞬間、さんの言葉の方が先に喧嘩の火蓋を切ってしまった。
 賢いことは時には有害。
 言おうとした言葉を先に言われてしまったこと、しかも言葉として聞かされるとそれはとても生々しくて僕でも思わず息を飲むほど。僕でさえそうなんだから、当然この人は。

「なに言ってんだよ、わけ分かんねえ! バッカじゃないの!」

 怒りに任せてその発言をなかったものへと変化させたいのだろうと、僕は簡単にその本意を見抜くことができたけれども、でもそれもすべてあとの祭り。
 教室内での痴話喧嘩がどれほど迷惑な代物なのか、それを理解しているさんはあっさりと英二を見捨てて不機嫌のまま背を向ける。
 そして僕の前には、相変わらずのこの親友だけが残されたのだった。





 そしてその後どうなったなんて、僕には聞かないでほしい。

「無言で喧嘩をされる方がよほど周囲に迷惑で、その被害を一番蒙っているのが他ならぬお前、と」
「あっはっは、懲りないっすねえあの人たちも!」

 一部始終を解説するぐらいなら、僕はこのふたりに代弁を任せた方がよほど楽だ。
 3時を過ぎて、ますます雲と仲良くするつもりのないらしい太陽は、5月のテニスコートに夏を思い起こさせる日差しを注ぐ。その視線に誘われて顔を上げれば、頬を初夏の風がさすっていった。
 コートの上はこんなにも爽快だというのに。僕の頭の中には何度もあの言葉がよぎる。
 そしてよぎるほど、僕の視線は若干の恨めしさを込めながら左へと移動するのだ。

「大体さ、自分の彼女なんだから英二がいつもきちんと大切にしていればこんなことにはならないと思うんだよ、僕は。どうして今更タカさんと比べられて怒るのか、その意味が分からない」
「たしかに、河村と優しさで対決して勝てる男はいないな。大石ぐらいか」
「はいはい、俺、俺!」
「却下。意味不明」
「……不二先輩も、絶対勝てないっすよ……」

 手塚のいないテニスコートはいつもどおり平穏だ。大石すらいないテニスコートは、まるで休み時間の延長だ。部活をさぼりたいわけでも否定したいわけでも、ましてや侮辱したいわけでも全くなかったけれど、僕の腰はランニングから帰ってきたあと一度もコートの上から離れようとしない。長袖のジャージを肘までまくりあげ、体重をやや後方にかけながら僕は彼を見つめる。
 長くなってきたのだろう、左右に流れる髪を苛立ち半分、諦め半分の表情で持て余しながら、英二は軽いラリーを始めていた。
 そんな僕の様子を見て、同じくコート脇に腰を下ろしていた乾がゆったりとした胡坐をかきながら眼鏡のフレームを上げる。

「ふむ、意味などないものだから、別に分からなくてもよさそうなものだがな」
「乾先輩に一票」

 なんてつまらないやつらだ、と冷めた視線を送る。桃は豪快に笑い返した。

「そんなこと、不二先輩が一番よく知ってるじゃないっすか。なにを今更」

 その通りすぎて返す言葉もなくて、余計に僕は桃を睨む。

「整合性を求めていたら、不二の方がもたないだろう。これで何度目だ? 俺があのふたりの話をお前から聞かされたのは」

 ぐうの音も出なくて、ますます僕は乾も睨む。

「同じクラスって大変っすねー、まあ今に始まったことじゃないっすけど」
「楽しむ余裕を取り戻せ。昔のお前はそうだったはずだがな」

 代弁を任せてもよいと思えるほどになったことは、実は問題だったのかもしれない。
 忌々しいまでの正論を吐き捨てるこのふたりに、僕は返す言葉を持たない。
 そう、思えば英二がさんとなにかを起こすたびに、僕は乾にしろ桃にしろ(桃の場合は巻き込み・巻き込まれという関係が正しかったが)、とにかくこのテニス部メンバーに愚痴を零してきた。
 そしてその都度、おそらく彼らは学んでしまったのだ。僕に対してどう答えることが、自分にとって災厄から逃れられる一番よい方法なのか。
 そう、僕が英二とさんの関係を日々学び続けているのとまったく同じように。

(最近の僕はとても苦労症だ。しかも自分でそうさせている)

 冷静になればなるほど、桃と乾の言葉の正しさが身にしみる。昔の僕はもっとあのふたりのことで楽しむ余裕があった、それをネタに笑うことだってできた。
 ところが今日の僕はどうだ。手塚がいないのをいいことに、部活すら怠慢になっている。いや、もはや手塚の不在は言い訳にすぎない。それほどまでに今の僕は英二とさんの一挙一動に影響される部分が多すぎる。
 困った、と素直なため息をひとつ。視界に映らないところで英二が笑い声をあげるのと同じタイミングで零す。今日という日をどのように過ごせばよいのか、皆目見当がつかなくなっていた。

「まあ、でも。俺はお前に同情しないわけでもない」

 けれどその時、目の前の人は会話の方向を突然切り替えた。
 眼鏡のフレームに長い指先が触れる。乾の呟いたその言葉に、僕は顎をひいたまま視線だけを向ける。太陽の光を真正面から受けた乾がにっと口角を上げた。

「お前は、自分が評価されないのが嫌なんだろう。英二に負ける部分がないだけに、な」

 そして飛び出した、突然の言葉。
 右横で桃が目を丸くする。背後を1年生たちがボールを抱きかかえて走り回る。今更こちらに気づいた越前がつまらなさそうに肩を竦める。英二はまだ笑い声を上げている。タカさんは真面目にストレッチ継続中、そして海堂がテニスコートをあけてほしそうな目でただじっと僕たちを見つめる。
 そんな、周囲の様子は簡単に把握できるというのに。けれど僕の口からは簡単には反論の言葉が出てこなかった。



>>02


07/04/10