3年6組日記 疲れた少年に癒しの手を編 02

 勝ち誇ったような乾の笑みは、見覚えのあるもの。
 それは普段、自分が英二やさんに向けてきたものだと気づくのにそう時間はかからなかった。けれど気づいた瞬間、今日の僕はどれほどあのふたりに振り回されてしまったのかを知らされてしまい、僕の不機嫌はいよいよ増していく。

「……僕が? どうして」

 ようやく微笑とともにそう尋ね返せば、乾は軽く鼻で笑う。

「いや、お前の顔にそう書いてあるから」
「まったくもって意味が分からないのは僕の気のせいかな」
「まあ、無理はするな。人は誰しも褒められることが嫌いではない」

 プライドの高さを隠すことも否定することもしないこの男から渡される、その言葉。確信を得ていて、それでいて重みがあって。僕の心などあっさりと看破できる、と言いたいような余裕の笑みとともに飛び出る言葉は、そこで終わりではなかった。

「要するに、だ。別に河村でも誰でもよかったんだ、今日のお前は。いや、構わなかった、と言うべきか。つまり今まで貢献してきた自分に正当な評価をしないあのふたりに、いい加減限界がきたということだ」

 いやに自信満々に答える乾を、僕はしばらく黙って見つめていたがまずはため息をひとつ返した。

「それだと僕が英二に嫉妬してるみたいなんだけど」
「似たようなものだろう」
「……冗談抜きに爆弾すぎるんだけどな、その発言は。大体、人に褒められることには慣れているこの僕が今更なにに嫉妬するっていうの? 乾は」
「うっわー、不二先輩さりげに嫌味」
「うるさい、桃」
「まあまあ。本音はさておき、まあたまにはな」
「あ、さんだ」

 その桃の一言で、現場は一気に生々しい感覚を取り戻す。
 僕は視線をコートの外に向ける。規則正しくひし形を描く緑色のフェンスの向こう、これでもかというほどに邪魔をされる視界の中に小さく、小さく人の集団の姿が映った。
 それが生徒会議会に出席していた学級委員の一行だと気づいたのは、それから数秒後。グラウンドと校舎とを交互に見ながら話し合いをする大石とさんの姿を見つけて、もうすぐ生徒会主催の体育祭があることを思い出す。今僕たちを照らすこの5月の太陽がなによりの証拠だった。
 そのさんの姿に、英二は気づいていない。でも気づかなくていいと僕は思う。

(また大石はどうだとか言うんだろ? 今日はそういう日なんだろう? じゃあ気づかない方がいい、こっちが楽だ)

 どうやら今日の僕は、僕が思う以上に不機嫌らしい。英二にここまで優しくないこの感覚はとても久しぶりだ。それを乾に見破られていたのだというのなら、話の辻褄もあう。
 初夏の風がさらさらと、僕たちの沈黙の間を縫うようにして流れ去っていく。
 そんな爽快な風とは相反し、その時の僕は、どうやらとても投げやりな感覚で。
 後から思い返せば不自然極まりない思考回路の暴走を、むしろ見守ってしまっていて。

「分かった、乾。不本意だけど乾の意見を聞いてあげるよ」
「意見?」
「不二先輩?」
「褒められてあげるよっていうこと」

 ぽかんと間抜けに僕を見上げる桃、若干不可解な顔をして見つめる乾。そのふたりを置き去りに、僕はフェンスへと近寄る。

さん」

 僕はわざと大きな声で彼女の名前を呼ぶ。誰かに向かおうとしていた視線はあっさりと僕の方を向く。
 そして、その時。なんていい感覚なんだと褒めてやりたいタイミングで、視界の片隅にその視線を受けようとしていた親友が目を丸くして僕を見つめる。
 そうだ、と。僕はそんな英二の視線には目もくれないでコートを出る。フェンスの向こう、僕の到着を素直に待つさんはいつもどおりの表情のままわずかに小首を傾げている。僕はそんなさんに対し、姉さんに太鼓判を押されている笑みを向けた。
 そうだ。僕だって時には、ふたりをとことん、「本気で」「僕のために」いじる立場に立ったっていいはずなんだ、と。そう自分に言い聞かせながら。

「今日はお疲れ様。大変だね、英二が相変わらずで」

 ふたりの直線上に立つ場所に足を向け、自分の身体に遮る壁の役目を課すようにしてフェンスにもたれる。さんの視線は真っ直ぐに僕に向けられ、僕も他所を向く余裕を与えない(それはいくらでも故意にできること)。
 さんは少し驚いた表情を浮かべたけれど、すぐに困ったように笑った。

「不二くんにも迷惑かけちゃって」
「まあ、そこも相変わらずということで」
「いつもいつも、本当にすみません」

 さんという人は。もう何度となく考えてきたことだけれど、今改めて思う。
 この人は、僕に弱い。
 正確に言えば、僕には丁寧な優しさを見せる。英二に向けるそれとは当然質の異なるものだけれど(同質のものであったら僕は今頃英二と親友ですらいられないわけで)(そして僕だってそれをかつて一度も望んだことがないわけで)、かといって他の男子に向けるものでもない。タカさんにむけるものでも、乾にむけるものでも大石に向けるものでも、当然手塚に向けるものでもない。この人は、僕にしか向けない態度と表情と感情を持っている。
 そしてそれは、逆を言えば恋人の英二にすら向けられることがないもの。

「そういえば、あの後の英二はおかしかったよ。怒ってるくせに寂しがってるんだよね」
「あはは、本当にすみません。構われて大変だったよね、不二くん」
「寂しがりやに育てるのも程ほどにしてもらえればと思います」
「うーん、私のせいなの? 難しいなあ……」

 そして菊丸英二という人は、おかしなほどにそれに過敏に反応する人。
 とても現実的で整合性があって、誰もが納得できるし今更否定したり変更を加えたりすることに懐疑的になって当然な、そんな「さんと僕」との関係に、理不尽すぎる感情を抱くことを止められない人。

(どこまで独占欲が強いんだか)

 僕は第六感があるわけではない。そんなものを超えるほどに、僕の親友の視線の力が強いというだけのこと。僕の背中を凝視(それですめばかわいいもの)する英二の心情が穏やかならぬものだと、そういうこと。
 ここまで分かりやすいと、僕としてはもう喜んで楽しさに負けるしかない。

「英二、部活では普通にしてる? 乾くんたちに迷惑かけてない?」
「テニスをする時だけは大丈夫みたいだよ」
「テニスに負けるんだ、私は」
「それでいいくせに」
「その通りです」

 さんは困ったような、それでいてどこか恥ずかしいような笑みを浮かべて気が引ける様子もなく目を細める。あまり他の男の前ではやらない方がいいだろう、と思ったが、それを浮かべるのも僕の前だからこそというこの関係を思えば、僕はなにも言うことがない。
 ただ、そんな現実的な関係を、相変わらずあの人だけは冷静に見られないらしく。
 その表情を自分以外の男の前でする、そんな現実を苛立ちとともに見ることしかできないらしく。

(勝った。単純だ、英二)

 背中に受ける視線の、面白すぎるその素直さ。僕はちらりと振り返り、コートの上に呆然と佇んでいる英二を見つめる。英二は僕と目が合った瞬間慌てて視線をずらしたが、その寸前まで浮かべていた瞳の色は、普段の僕にはけして向けるような色ではなかったことを僕が見逃すはずがない。
 親友に嫉妬してどうする、と自分でこの状況を作っておきながら心の中で僕はため息をつく。けれどそれが面白いのが今日の僕、そしてそれを楽しんで見守っているのが悪友乾。
 英二と僕と、乾。この国は多数決がすべて。
 手塚という絶対王政の君主と、大石というその絶対信者がいない青学テニス部は、平和な部員主権なのだ。そこに英二の反論の余地はないし、与える気もさらさらない。
 他の部員の意見も聞け、と言いたいかもしれないが、そこには部活の縦社会というヒエラルキーが存在することも否定させるわけにはいかない。どれほど矛盾しようが利用できるものは都合よく利用させてもらおう、僕はそう心に誓う。

さん、ちょっと」
「え? なに?」
 
 僕の悪企みはエスカレートする。そうさせるほど、僕に対するこのふたりの今日の態度は優しくなかった。そのなによりの証拠だった。
 右手でそっと手招きをし、けして高いとはいえない僕の身長よりも低いさんの顔を上げさせる。それはただ身長の関係で見上げるというだけ、けれど招きよせ、距離を近づけたこの状況になっては、まるでなにかをこいねがっているかのようにも見えるはず。
 そんな状況になることに、僕が気づかないはずがない。

「ここだけの話なんだけどさ、英二、謝りたくて仕方ないって言ってたんだ」
「ええ? なにそれ、どうしたの。今日はやけに素直……」
「多分、宿題写させてもらいたいから」
「……嬉しくないなあ、本気で」

 苦笑は誰のものか。そんなこと、聞くまでもない。
 けれど当の本人が一番その事実に気づかない、そんな展開になることを僕が知らないはずがない。
 背後で必死に桃が笑いをこらえ、乾が興味深げにこちらをうかがっているのは分かっていた。僕が彼らの手のひらになっていることに、他の誰でもない僕自身が一番気づいている。けれどその不快さを上回る勢いで、僕の悪戯心は行動をエスカレートさせる。
 ……つもり、だった。

「ねえ、不二くん」
「なに?」
「彼女が嫌がるよ? それ以上遊んでると」

 その言葉を聞くまでは。
 気づけば僕の目の前には、丁寧なまでに利口さを訴える笑みを浮かべたさんの姿。僕が一瞬息を飲んだその瞬間を見逃すはずもなく、小さな身体はあっさりと僕と距離を取り、軽く右手を上げる。
 その瞬間、背後で桃の爆笑が起きれば。その右手が誰に向かったのかなんて、もはや尋ねたくもない。
 僕はしばらく黙っていたものの、やがてさんの勝者の笑みに負けてため息をついた。

「……さん、いい性格してるね。どこからお見通しだったの」
「桃城くんが興味津々の顔でこっちを見てる時から」
「それ、最初からって言うんだよ」
「あ、そう? ごめんね」

 じろりと桃を睨めば、その後ろにはさんの右手を受けて気まずそうに、照れくさそうに手を振り返す英二の姿がある。なに勝手に仲直りしてるんだ、とつっこみたくなる僕の気持ちなど、あの顔では100パーセント理解していないだろう。
 理不尽だ。理不尽極まりない。
 そんな僕の渦を巻いた感情は表情にも出ていたらしく、さんは申し訳なさそうに小さく頭を下げる。だが。

「でも、彼女については私は嘘は言ってないと思うんですけど」
「……いい性格してるよね、本当に」
「不二くんがどれだけ彼女に惚れてるか、知ってる私の特権です」

 まるでさきほどの乾のようににっと笑って、さんは僕にも手を振りコート側を離れる。
 ジャージを着ていながらフェンスの外にひとり放り出される、そんな醜態に長く付き合う酔狂さなど持ち合わせているはずもない。
 僕は英二を見つめて重いため息をひとつ零したあと、コートの中へと戻る。越前がつまらなさそうに欠伸をするのを見送りながら、乾と桃のもとへ。

「してやられたな、お前でもそうなることがあるのか。ふむ、新しい発見だ」
「あっはっは! 不二先輩らしくねー!」

 けれどこのふたりは、僕の敢闘を褒め称えるでも敗北を慰めるでもなく、自分の好き勝手な感想を一言口にした後、やはり笑い出した。

「僕は英二じゃないんですけど」
「なんだそれ」
「こんなことで嫉妬する彼女じゃないんですけど。どこかの誰かと違って僕はちゃんと大切にしてるんですけど」

 まったくもって不本意なこの展開に、臆すことなくその事実を口にする。乾と桃は一度笑いを止めた後、お互いを見遣ってしばらくしてうなずく。けれど。

「正論だろうが、それを俺たちの前で言ってもなんの効果もないぞ」
「エージ先輩しか反応しないと思いますよ、それ。だって俺たちに言ったって、そんなこと知ってますもん」
「それこそ、『なにを今更』だ」
「ただ、エージ先輩だけは知らないんですけど」
「……」

 正当性というものにこの場を乗り切る力などはまったくもってない、そんな事実しか教えてくれなかった。
 そこまで思い、僕は前髪を風に揺らす。お世辞でも自惚れでもなく、僕のそういう様は絵になっているはずだった。少なくとも英二よりは。そして英二よりは賢く生きているつもりだった。この悪企みの不毛さに気づいてしまうほどには。
 すると、なんだ、と。僕は顔を上げ、英二をもう一度見つめる。英二はようやく僕の不機嫌を理解したらしく、一瞬顔を強張らせたあと、まったくもって不自然極まりない動きでテニスコートを後にしようとする。

「逃げ道はどこか、賭けるか桃」
さんのところじゃないすか」
「いちゃつきにいくのか? 今この不二の目の前で?」
「エージ先輩、チャレンジャー」

 桃のその言葉が引き金になる。
 僕はコートの上に置いてあったラケットを握り締め、越前の周りに転がっているテニスボールを手にする。ぎょっとして越前が帽子の鍔を上げた時には、僕の右手は器用に。

「不二、ストップ! ストップ!」

 乾と桃の慌てた声が僕を呼んだまさにその瞬間、左手で宙に浮かせたボールを英二の足元めがけて打ち込んでいた。

「ばっ! バッカ、なにしてんだよ不二!」
「英二が悪い」
「意味分かんねえ!」

 そう叫ぶ英二の声がテニスコートの中に響き渡り、越前が呆然とその様を見つめ、海堂が目を丸くして先輩の失態を見つめる。そこまでなら誰もが予想できる。
 そして当然、そのタイミングで登場してくれる我らが部長の雷が英二に落ちることまで、誰もが想像の範囲内。それがこの青学テニス部。
 けれど、今日という日は僕にとって悪運とは無縁でいられない日だったらしい。
 手塚信奉者の大石が良心に耐えかねて事の顛末すべてを話してしまったので、結局英二と僕と乾と桃は、手塚から4人で仲良くランニングの刑を言い渡された。

「不二のせいだ」
「英二のせいだよ」
「不二だって言ってんだろ」
「英二以外に誰がいるの」
「お前たちふたりのせいだ、間違いなく」
「そうだそうだー」
「本気でうるさい、ふたりとも」

 そろそろ本気で身の施し方を考えなければならない、と。他人事のように笑う乾と桃を一瞥したあと、僕は青空の下走りながら考える。
 けれどここまでくると、なにか反撃をしたり、策を練ったりすることにどこか空しさを覚えなくもない。そろそろ振り回されることから卒業しても誰も怒りはしないはずではないのか。
 そうだ。たまには、僕だって平和に生きたい。幸せに生きたい。
 結局のところたどり着いた結論はそれだった。
 そしてそんな僕の儚い思いを認めてくれるかのように、初夏のグラウンドの中を颯々と風が吹き抜けていった。



07/04/10