| 08.春に思う |
3月の青春学園中等部卒業式の後、彼らはそれぞれの途についた。 手塚は卒業式の余韻に浸る暇もなくアメリカに留学した。正式な期限は決まっておらず、留学終了後は高等部に編入する予定になっているがテニス部に入部するかは定かではない。 河村は高等部には進学したものの、中等部当時の宣言どおりテニスをやめた。 そして英二は、淑徳学院高等部に進学した。 淡色の桜たちが、名残を惜しむことなく宙に舞う。 真新しい制服。鞄。見慣れぬ構造の校舎に、教室前に貼られた「1年6組」の文字。何もかもが新しく、目を奪うものであればいくらでもあるはずなのに、しかしの心はそれらに心動かされることはなかった。 「それにしても、もう少し変わり映えがあってもいいのにね。制服」 入学式、そして始業式と。事務的に淡々と、新しい環境に戸惑う気持ちなど置いてきぼりにするように高等部の行事は進められていた。そんな中、いまだ使い勝手の悪いとすら思う教室で去年の仲間と去年となにも変わらない雰囲気の会話をする。 の目の前には今、不二がいた。 「女子もね。色が黒に変わったって言っても、デザインは中等部と一緒だもん」 「変わっただけいいよ、男子なんて去年とまったく同じなんだから」 そう言って不二は物足りなさそうに自分の制服を指差す。それはにも見慣れた黒の学生服だった。金ボタンも中等部のころと同じ青学の校章マークであり、なにひとつ変わっていないと言う方が正しいのかもしれない。まるで今、の視界に映るその人の姿と同じように。 不二はただ、何事でもないように。他校推薦の話があるという事実と同義だったはずの噂を噂と片付け、不二に好意を寄せていた女子が思いがけぬ再会に戸惑うのにも構うことなく、当然のように青春学園高等部の入学式に現れた。 そして今、また今年もクラスメイトとしての前にいる。中等部のころからそうだった、とつい昔を思い出したくなってしまうほどに自然の雰囲気で窓側の壁にもたれ、掃除が終わりHRが始まるまでの空いた時間を持て余している。外の景色を眺めるその横顔は、ひどく穏やかだった。 は自分の席についてその様子を見つめながら、そっと口を開いた。 「……私、不二くんは他の学校に行くと思ってた」 問いかけの言葉に、不二は外に向けられていた視線をこちらに戻す。 髪が揺れる。春の陽光を十分に含んだ暖かくて優しい風が、そっと窓から流れ込んで不二の髪を遊ぶ。何度も見た光景ながら、今日は素直にそれを綺麗だと思った。 「心外だな。誰が外に出るなんて言っていたの?」 小さな沈黙の後、不二はおかしそうに笑った。暗に否定されていることは十分に分かる。 予想外でもあったその言葉に、は頬杖を解いて真っ直ぐに不二を見つめた。しかし春の風に吹かれ、春の光に輝くその髪の柔らかさと笑みに嘘も誤魔化しも見当たらない。 「……だって、推薦」 「ん?」 「スポーツ推薦。きてたよね? 他の学校から」 だから思わず、オブラートに包むこともしない直球の疑問を口にした。 それは、3年6組のクラスメイトとして接していた間はけして口にしなかった言葉。英二が青学を離れる遠因たるほど重きをなしたもので、そしてにとっては英二との物理的な別離を象徴する出来事に他ならなかったもの。 そしてなにより不二はにとっても親友であり、英二に引き続き不二まで別の学校に進学するのかという疑問と不安は、当時は関心よりも動揺を生み出すものでしかなかった。 しかし、今はもう時効と思える。同時に失礼ながらも単純な興味もある。 つい触れてしまったその核心に、不二は困ったように肩をすくめて笑った。 「推薦をもらっていたら、絶対にそれを受けるものだと思う?」 「え」 「その前に受ける受けないの選択肢があって、僕にはそのどちらかを自分の意思で選ぶ権利があった。だから僕はここにいる、それだけだよ」 不二の言っている意味は分かるようで分からなかった。言葉の意味としてはその事象を理解することができても、不二の真意を見つけることは不可能だ。表情から汲み取ろうにも、不二の笑顔は相変わらず何層にも及んで包み、隠されているようだった。 (……彼女なら、分かっちゃうんだろうなあ。私が英二のことなら分かったように) ふと思い出す。彼は不二の言う「意思」で、淑徳学院を選んだのだということを。 それは同じ意味であればとても重く、他人が口を挟むことなど許さないもの。がそれを知らないはずがない、また同時に、それをに諭した張本人である不二が違う意味で使っているはずもない。 は不二を見つめたまま、ゆるりと笑みを返す。 「青学を選ぶ気持ちの方が強かったっていうことだよね」 「簡単に言えばね」 「分かった。その理由、当ててもいい?」 「どうぞ?」 青春学園高等部1年6組。そこはまだ居慣れない場所。 今この空間にあるのは、なにか物足りないけれど、けれどどこか落ち着いた空気。どこか物悲しいけれど、なにか暖かいものに包まれたような雰囲気。 その雰囲気を作り出しているのが中等部以来の不二との会話であることを思い出し、は心の中に残る空虚感を振り切ろうと思った。 いずれ、この雰囲気に慣れる日がやってくるのだろう。 その慣れがなにを意味しているか、理解し受け入れる日はくるのだろう。空虚に泣く日は消え去り、過去のひとつの思い出となりうるのだろう。今、不二がいることを素直な嬉しさとして感じ取ることができるようになるのだろう。そう思えば、心はなんと軽くなることか。 「不二くんは、単純に青学が好きなんだ。私みたいに。違う?」 だからざれ言を口にする。当たっていても当たっていなくても構わない、それはむしろこのような会話をすることができる空気にこそ酔うべき瞬間。 しかし、不二は一瞬目を丸くした。丸くして、けれどすぐにいつもどおりの笑みを浮かべて。がその反応に疑問符を投げかける前に、その線の細い口は言葉を紡いだ。 「まあ、可愛く言えばそんなところかな」 「……『可愛く』? って、なにそれ」 「僕の場合は、『大好き』という言葉がさんよりも狭義だろうからね」 そう言い終えると、不二はそっと教室内に視線を移す。その瞳の柔らかさに少し驚いて思わず視線の後を追えば、顔と名前の一致しない新しいクラスメイトたちの姿の中に主のいない机と椅子がある。たしかそこは不二の席だったか、と曖昧な記憶を思い出しながら見つめたその瞬間、は息を飲んだ。 その机脇に備えられたのは、プリンスのロゴが入ったテニスケース。 「……不二くん、テニス」 「今年からは『目指せインターハイ』。……これ、僕たちの高校での目標」 そう告げる瞳は、よどみを知らなかった。 新1年生の戦力は落ちた。それは部外者であるでも痛いほどに分かる。昨年全国大会に出場した3年レギュラーメンバーのうち、手塚、河村、そして英二が青学ユニフォームに別れを告げていた。つまり青学高等部でテニスを続けることを選んだのは、不二と大石と乾の3人だけである。かつての仲間は今日では敵であり、インターハイという言葉がその甘美さの裏にどれほどの苦難を秘めているのか、不二が知らないはずがない。 けれど、今不二の表情は晴れやかだった。これからの高校3年間に抱くものは不安や焦燥ではない、期待であるとその目が言っている。 「……『大好き』の意味が狭義って、そういうこと?」 不二の実力を、そして中等部時代でのテニスに関わる苦悩を知っているは思わず嬉しさに負けて笑みを浮かべる。ゆるりと笑えば、不二もまた笑って頷いた。 「綺麗な意味じゃないよ、だから。僕が勝手に青学にこだわっているだけ。……僕にとっては、テニスは青学でプレイするからこそ意味があるものだからね。僕を執着心の強い男にした責任はとってもらわないと」 「……大石くんは、なんて?」 「不二とダブルスを組むのも楽しそうだなって。やっぱり英二がいないと寂しいみたいだよ」 その一言に、は零していた笑みを止めた。小さな反応にも関わらず、不二はそれを見つけて口を閉ざす。暖かいと思っていた雰囲気に、思わず硬直という道を選んでしまった自分の心に、そして不二の態度に。は自分の現実を思い知らされる。 「英二とは、今はどうしてるの?」 そしてその直球に言葉をなくせば、それは確信に変わるのだった。 目をそらす様子を見せながら、本当は周囲に視線をめぐらせてしまう。目で誰かを探してしまう。それが去年までの、同じ空間に存在することが義務であり権利だった感覚からくるものであり、そして今となっては無意味な習慣でしかないことに気づけば、もはや自分自身にすら説明は不要だった。 ここは英二のいない、共有することが許されない空間。 それはだからこその質問だと気づいた時、不二の瞳の中に憐憫の情すら感じ取ってしまいそうになる。探してしまいそうになる。 そしては、そう感じる己の心を一番哀れなものに思った。 「……卒業した後は、一度も。メールや電話も4月に入ってからはほとんど。もう練習も始まってるみたいだし」 「会ってないんだ」 「会ってない。会いたい、なんてメールも電話も……できなくなっちゃったな、なんとなく」 本当は、しようと思えばできないことではない。遠慮という名の躊躇は不必要なのかもしれない。しかしはその可能性を口にはしなかった。 なにかが予想外だったのか、不二はすぐには会話を続けなかった。ただ黙って開け放たれた窓から外の景色を見つめていた。 甦るのは、あの日。夕陽の残り火だけで保たれていた、あの冷え込んだストリートテニスコート。赤褐色に染められた世界の中で、それでも青色の輝きを忘れることのなかったかけがえのないレギュラージャージ。 クローゼットの奥深くにしまった、本来の持主によっては二度と腕を通されることのないそのジャージを思い出して、は不二に表情を読まれないように左手で頬杖をついて目を伏せた。 (……私は、あのジャージをどうすればいいんだろう) 英二はもらってほしいと言った。それは彼の言葉を借りれば「苦しい練習を支えたのはだった」というお世辞にも程があると言いたくなるような理由からだった。 ただ、その言葉に甘えて受け入れてしまった今になって思う。 「私は、英二にとっては青学の思い出の中から出ては駄目な存在なのかもしれない」 不二の視線が戻る。は目を合わせることはなく、名前の知らないクラスメイトたちの新学期の楽しさに満ちた声に耳を傾けながら言葉を繋げた。 自分もあの楽しさに身を任せることはできないのだろうか、そんなことを思いながら。 それができたら英二との思い出を苦しいものと思わずにすむのだろうか、他力本願なことを思いながら。 「ジャージをね、もらったの。卒業する前に」 「レギュラージャージ?」 「うん。でも今になって思うんだけど、それって英二が青学から離れる意味と、もうひとつ、中学生の英二を私に残していく意味があったんじゃないのかなって思うようになった」 「……どうして?」 「高校生の英二は、私とは無関係のところでテニスをするから。私はそこにいられないから。……そこには、他の誰かが入ることもできるから。まるでそう宣言されたみたいだった」 不二はなにも言わなかった。しかしその沈黙こそがにとっては是の答えとなる。むしろその態度によって、自分はいまだ英二の行動を読み間違えないでいるのだということに惨めにも誇りすら感じ、失笑にも似た苦笑を浮かべるより他なかった。 「……まあね、今までみたいに傍にいられるわけじゃないしね。私の立場を保証してくれたのが同じ学校の生徒っていう関係だったなら、今の状況じゃそれは私にはできないことだし。ありえない話じゃないかな、って」 「……ありえない話?」 「自然消滅」 八つ当たりのような語調には辟易する。可愛げのない女だと思った。 (でも、最悪のパターンを考えておかないと怖い) 緩く指を組み、自分の温もりを自分で享受する。落ち着きたかった。 そうしなければ、予定調和としての別れを意識していなければ。自分はいずれ朽ち果てるしか方法がない。英二のいない絶無の空間でこの先3年間、どのように生活を送ればいいのか本当の意味でわからなくなる。 自己愛に満ちた自衛手段としての言葉を、そして思いを。は心の中で繰り返した。 揺れる桜の花びら。春の色は儚く、そして泡沫の匂いを漂わせていた。 |
| >>09.最後の子守歌 05/02/14 |