09.最後の子守歌

のおかげだよ。助かった、ありがとう」

 それはいつの台詞だったか。記憶は正しくない。
 言われすぎて、慣れすぎて。けれど嫌悪感は欠片も持たなかった、むしろ依存してしまったその台詞を。本当は自分の中でとても重要な位置を占めていたその台詞を、その本当の価値を。この胸の空虚感は、それを忘れてしまった自分への天罰のようだった。
 そんな、春の日。青春学園高等部に英二の居場所はなくなっていた。の居場所も、なくなっていた。



「大袈裟だね、って。僕はつっこんでもいいのかな」

 不二の言葉には曖昧に笑った。苦笑とも自嘲ともとれる笑い方だった。
 期待をすることは簡単だ。自惚れることも簡単だ。しかしその根拠となる自信は、今のにはなかった。あるとしてもそれはとてももろく、これから先今までとは異なる環境の中で維持していけるとは到底思えなかった。
 逃げの台詞だということは分かっていた。
 けれど今だけは、は新しい教室の中で英二がいないこの空間こそが現実のものだと、改めて自分に知らしめながらひとり心の中で思う。
 けれどこんな時にも甦るのは、中等部でのあの生活。

(私がいつも見ていなくちゃ、なんて。思い上がりでしかなかったのかな)

 いつも世話を焼かされる思いだった。テニスが強いとはいえ、それだけが中学生の生活を成り立たせるものではない。宿題を写させ、テストの度に抜け落ちた知識を補完させ、そんな中で彼がテニスに集中できるためには自分はなにをすべきかを考え。忙しかったが、それでも充実していたという印象は否めない。
 しかしその生活は、終わった。自分が手伝わなければと思っていた相手は自分で自分の道を選び、の前から姿を消した。
 その結果残された自分は、次にすべきことを見失った。

(英二は、私の気持ちなんて見抜いていたのかもしれない)

 早朝練習に差し入れをもっていかされた。昼食を取る時は栄養価を気にさせられた。クラス内での無鉄砲な行動の補佐役をやらされた。小テストがある時は短時間で効率のよい学習方法を求められた。掃除を逃げ出しては探しに行かされた。
 けれどそれも全部、本当は。その役割に一種の安寧を見つけていた自分の心をすべて読み取ったからこその行動だったのかもしれないと。買いかぶりとは言え、その可能性を完全には否定できない自分がいる。

(結局、私の方が英二に甘えてたのかな)

 ため息ひとつ。そっと零せば春の風は慰めるかのようにそれを運び去る。頬をさする自分の髪に、その頬に光をあてる太陽に。自分を取り巻くものの多さに気づきながら、は目を細める。

「私にとっても、巣立ちだったのかもしれないよね。今回のことは。英二からの」

 そして自分に言い聞かせるように、不二の目を見て言った。
 その疑問に答える人はいない。は不二に答えを求めるつもりも、不二も答える様子など見せなかった。
 思えば、この親友には随分と迷惑をかけた。青学に残ってくれたことに嬉しさを感じるのはどこかお門違いだと、そんな自分を少し恥じ入りながら不二を見つめる。 しかしいつもいつも先を考えることのできる友人は、の視線に愛想笑いを返すでもなくただじっと外を見つめていた。

「……不二くん?」
「え? あ、ごめん」
「どうかしたの?」
「……いや、なにも。桜が綺麗だな、と思って」
「ああ。うん、綺麗だね」

 もつられて視線を外に向ける。
 見慣れない景色の中、薄桃色の桜の花びらが軽やかに舞う。その時。

「淑徳は校則が厳しいらしいから、英二の髪はアウトだと思うな」

 突然不二が口にした言葉は、脈絡もなにもない内容だった。桜を見つめてわずかにまどろんでいた気分の中、唐突な言葉には目を丸くする。しかし不二は口を止めない。

「いくら地毛とはいえ、あの髪の色はさすがに目立つし。きっと先生か先輩に言われるだろうね、黒く染めろって。公式大会のことを考えると言われてもおかしくないよね」

 どこか人事のような、けれど事実を淡々と述べるようなその言い方がおかしくて、は笑いながら黒髪の英二を想像する。しかし心の中に、頭の中に思い浮かべる今でも大好きなその「恋人」に一番似合う色は、やはり暖色系だった。は肩をすくめる。

「想像できないな。英二はやっぱり赤茶色の方がいいよ」
「青学の制服で想像するとね。僕たちは見慣れすぎているだろうし。じゃあもし、それが淑徳の制服だったら?」
「……淑徳?」
さんなら知っているよね。淑徳学院の、男子の制服」

 窓の中央よりやや下、落下防止のために設置された手すりに手をかけて不二が笑う。背後には桜、亜麻色の優しい髪色をもつ不二にはとても似合う光景だった。
 その景色に目を奪われながらも、またもその言葉の真意が分からずには眉根を寄せる。しかし疑問符を投げかけられたことは確かである。は困惑を消すことができないまま、ぽつりぽつりと淑徳学院の制服を確かめるように呟いた。

「……黒のブレザー。赤みの強いネクタイ、だったかなあ」

 英二は似合うだろうか、そんなことを思いながら。

「ズボンはチェックの入ったアイボリー」

 中等部に入学当初、3年先のことを考えて大きめを買ったというあの黒の学生服と同様、1年生となった今回もまた少し大きめの制服を買ったのだろうか、そんなことを思い出しながら、ひとつひとつ。そう答えれば。
 返ってきたのは、沈黙。
 諦めの悪い女だと思われただろうか。そんな思いとともに戻した視線の先で、不二は笑っていた。そして。

「正解」

 席に腰掛けたには見えない階下を、その綺麗な指で指し示したのだった。
 教室の中は騒がしい。新しくクラスメイトとなった者同士の新鮮な会話ばかりが飛び交っている。自分もその渦の中に入らなければならないとは、痛いほど分かっている。
 しかしは、声を発することができなかった。ただ不二の全てを見通した笑みと、階下を指すその人差し指と、言葉の意味と。
 まさか、という思いと同時に、その言葉を否定したい自分もいる。けれど立ち上がり、手すりに手をかけて不二の指す方向に目を向ければ。

「青学生にとってはライバル校の生徒なわけですが。……さて、どうする?」

 校門脇のその姿に、そして不二の言葉に。返すものなどなにも持っていなかった。
 ゆったりとした姿勢で壁にもたれるその表情を見ることなど叶わない。真っ黒に染められた髪を風に揺らしながら、視線は校外に向けられていた。そしてその先を追えば、そこには青春学園中等部の校舎がある。
 それは間違いなく、英二の姿だった。

「……っ!」

 途端に動き出そうとする足に、しかし思考は追いつかない。携帯電話もあるのに電話やメールをするという手段が思いつかなかった。けれど理性は今がホームルームまでの空き時間であることを思い出させ、思わず壁に掛けられた時計を見れば今から教室を離れることなど無謀に等しいことを教えられる。
 ただ、不二だけが去年と変わらずそこにいた。

さん早退するんだ、はいじゃあ気をつけて」
「!」
「先生には言っておくよ。お大事に。きちんと看病してもらってね」

 笑顔の不二に手渡されたのは、の鞄。
 それを受け取ってしまえば、もはや残りの理性を消し去ることなど造作もないことだった。
 長い迷路のように感じた廊下を、どのような思いで走り抜けたかは分からない。途中大石とすれ違った気がしたが、彼に告げるよりも前に自分の本能が先走って仕方なかった。
 まだ使い勝手の悪い校舎を走って、進学と同時に買い換えた革靴の履きづらさに涙すら出そうになりながらは校舎を飛び出した。そして。

「あれ。早かったね、もう終わったの?」

 息せき切らせて向かった校門で振り返った英二は、去年となんら変わらぬ口調で日常に溶け込む言葉を口にしたのだった。
 肩で息を整えながら、は黙っていた。黙るという道を選ばざるをえないほど、言葉が頭にも口にも心にも浮かんでこなかった。
 そんなの様子に、英二は苦笑する。

「迎えにきたら駄目だった?」

 その一言にも、しかし身体は素直に反応する。一瞬で首を横に振り、ただ自分を見つめる英二の視線を真っ直ぐに受け止めた。
 黒い髪は違和感があった。しかし春の陽光をちらちらと反射するその髪には、中学生の頃にはなかった艶やかさがある。学ラン以外の制服もまったくもって見慣れなかった。しかし着やせして見える彼の身体に黒のブレザーは似合っていた。引き締まった体躯に、それはとてもよく似合っていた。
 違う、とそこまで冷静に観察した後には思う。瞳に宿す柔らかみのある視線、緩められた頬。それらを見つめながら、ようやく口を開く。

「……駄目、じゃないけど」
「うん」
「どうして」

 その問いかけに、一瞬英二は目を丸くしたものの突然笑い出した。そんな反応は予想すらしていなかったはただ唖然とその様子を見つめるしかない。にしてみれば懸念と、そして歓喜の感情をどうにも処理できないままの今の率直な言葉だったのだが、しかし英二はそれを一笑した。
 これからなにが始まるのか。は知らない。
 ただ、それでも。つい数分前まで不二に話していた言葉は、すべて。胸のうちに巣食うことをやめてしまっていた。
 ひとしきり笑った後、英二は笑い涙を拭いながら小さく息を吐いた。

「俺さ、そんなに馬鹿じゃないから。自分が今なにをしたいのか、なにをすべきなのかぐらいはきちんと分かっているつもりなんだよね」
「……え?」
「いや、この道を選んだことを後悔しているっていう意味じゃないんだけど。むしろ自分で選んだ道だからこそ、その道の上での自分の役割はきちんと果たしたいっていうか」
「……英二、なに? 何の話?」
「何の話って」

 つけなれないネクタイをもてあそびながら、見慣れない自分の髪をいじりながら。英二はそっとに視線を戻す。
 違う制服だからなのか。その目はとても落ち着いていて、けれど昔ながらの柔らかさはきちんと持ち合わせていて。それが高校生になったこれからの英二の基本スタイルなのかと思えば、それを手元で愛でることのできない悲しさが一瞬でこみあげる。
 しかし。

「好きな女が自分から離れようとするのを、黙って見過ごすわけにはいかないんだけど」

 その言葉に対応できる余裕は、まったくもってなかった。
 は押し黙る。喉もとを手のひらでぐっと押さえ込まれたような、胸を拳で叩きつけられたような圧迫感を身体全体で浴びる。逸らすことを許さない、嘘偽りを許さないその視線の凄みなど、意思の強さなど、が一番よく知っている。

「自然消滅するかも、って。思ってただろ、最近」

 風が吹く。さらりと英二の黒髪に触れ、揺らして遊ぶ。
 英二の言葉が図星だったからだけではない。その清涼な様に心奪われ、は何も言わなかった。言えなかった。改めて自分の恋人の美麗と思える部分に気づき、それらに触れても良いという特権が与えられている自分の立場に気づき。
 それをなくしたくないと、エゴイスティックな考えにこれ以上ないほどに心乱されるばかりだった。
 しかし、それを口に出すことにためらいはある。何も言い返そうとしないに、英二は最初こそ沈黙していたものの、やがて重くため息をついた。

「俺はね、を見捨てたとか置き去りにしたとか思われたくないんだよね。ていうか、むしろ不名誉。それで自然消滅するなんて結果は全然望んじゃいない。少なくとも、俺は」
「そ、そんなこと……!」
「思ってない? 本当に? じゃあなんで最近メールも電話もしないの?」
「それは英二だって同じじゃない。別に私は……!」
「じゃあ、なに。俺はメールや電話だけをしていればいいわけ?」
「それは……」
「嫌なくせに。俺を誰だと思ってんの?」

 その言葉に言葉をなくし、そして英二の勝ち誇った笑みを向けられては、にはただ黙るという道しか残されていなかった。
 それは、懐かしくも他のなにものにも代えがたい感覚で。過去のものとしようと今の今まで言い聞かせてきた保身を図った思考回路には、洒落にならないほど刺激の強すぎる感覚でもあって。

「まあ、それすらもできなかった最近の俺には反省点はたくさんあります。が」

 黒髪をかきながらぽつりと呟く英二に、結局は笑みが漏れることを肯んずるよりなかった。それはどこか胸をつく、自分の見えないところで涙に触れるような笑み。
 それを見て英二も口元を緩める。そして、そっと手のひらを差し出す。

「だから今日お迎えにきたんだってことぐらい、褒めてやってほしいんですけど」
「お迎え……?」
「そう、お迎え。だって俺デートしたいもん、高校生になったと。これからも」

 差し出された右手のひらの温もりは、触れずとも分かっている。
 向けられた笑みの真実味は、その真意を尋ねなくとも十分に理解している。
 そして、自分の心の中のもやを吹き飛ばしてもよいと赦しを得たことも。我がままながらも、そう思ってよいということも、言葉にしなくとも分かっていた。
 なにかがはじけたような、枷がはずれたような、そんな解放の空気に気づいてしまえば。あとは、考えるという行為自体が愚かとすら思った。

「……やだなあ。英二、いつも急なんだもん」

 は顔を伏せ、色気のないアスファルトに視線を落としながら苦笑する。
 握り締めた鞄の取っ手が、きつく手のひらに食い込む感覚がした。

「私がなにに弱いか分かってて、そういうことをする」
「だって俺、彼氏ですから」
「自慢げに言わないでよ」
「いて」

 戯れのように右拳を腹部にあてれば、中等部の頃とは違う黒いブレザーが揺れた。その感覚に悲しさよりも新たな発見に触れる嬉しさに目を細めれば、その時手首にあの温もりが訪れた。
 は顔をあげる。そこには、春休みの間にまた少し大きくなった英二の姿。

「で、どうするの? 俺と今からデートをするのか、それとも不二のところに帰るのか」
「不二くん? なに、それ」

 唐突な言葉に眉根を寄せると、その時初めて英二は不快感を顔に出した。

「バーカ。が不二に相談していたこと、俺がなんとも思わないとでも思ってたの?」
「……あ」
「いくら友達とはいえ、男としては複雑極まりないんですが」

 門にもたれたまま、視線を揺るがさずにこちらへと向けて。小さな威圧感を空気の中に溶け込ませ、逃げを許さない。そんな英二の態度には少しばかり萎縮するものの、そのような態度を取ることができる今の自分に対する驚きの方が勝ってしまう。
 は静かに英二を見つめる。その視線に気づき、英二の目がかすかに丸くなる。
 緩やかで温かみのある、そんな瞳を見つめながら。心に宿る途方もない嬉しさに敗北を認めながら、はふと口端をあげる。その反応に英二が怪訝な表情を浮かべた、その時。

「英二とデートに行きたい。つれていって」

 掴まれたままの手をひらひらと揺らした。それまで離そうとしなかった英二の執着にも似た感情に笑みを零しながら。
 その言葉に結局英二も笑みを取り戻し、そっと手首を解放したかと思うと、その大きい右手での頭を撫でた。

「了解」

 それが最後の言葉。なにかを確認するような、手探りでなにかを確かめ合うような言葉の応酬だった会話は、それで終わりを告げた。
 遠く、ホームルーム終了を告げるチャイムが鳴り響く。中等部の頃と同じ音色に英二が懐かしそうに顔を上げたが、捕らわれるのもそれまで。新しい制服に身を包み、新天地に自分の道を求めた彼はなにを言うでもなく青春学園の校舎に背中を向けた。その横に、同じく新しい制服を着込んだを迎えながら。

「俺さ、高校からは真面目に勉強しようと思って」
「真面目に? できるの?」
「失礼な。だってがいないからさ、もう自分でやるしかないじゃん。不二もいないし」
「へー、じゃあ不二くんに勉強教えてもらえばよかったね。私はお邪魔でしたか」
「あ」

 ふたりで他愛ない会話をすれば、ただそれだけでもおかしくて自然と笑みが零れる。心から単純に笑いあうことができるこの空間を味わうのは、本当に久しぶりだった。
 制服が違うからか、それとも髪色が違うからか。以前自分が馴染み、依存していた関係の頃からは異なるものがたくさんあったけれど。そればかりが視界を占領してやまなかったけれども。
 春の心地よい風が吹き抜ける中、はそっと英二の横顔に視線を向ける。1ヶ月近く見ることのなかったその線の端麗さに、瞳の透明感に。なぜだか分からないほどに、それら全てに愛おしさを抱いてしまえば、もはや心の中に残るのは恐怖ではなくて。

「英二」
「ん?」
「やっぱり私、英二の彼女のままでいたい」

 切なる願い、ただそれだけになってしまっていた。
 呟いた瞬間、英二の瞳が丸くなった。なにを今更、という唖然とした表情ではあったが、しかし素気無く聞き流す様子はさらさらなかった。
 ふっと緩やかな笑みを浮かべて、英二はもう一度手を伸ばす。

「離す気ないから、覚悟してよ」

 差し伸べられた手は、ただの返事を待つ。中等部の校内から流れてくる桜の花びらを背景に、英二はその自信に満ちた言葉の強引さとは裏腹に、今この瞬間に選択権を与えていた。
 それに従うことがなにを意味するのか。は知りながら、理解しながら。その先を予想しながら。
 それでも笑って、従順にその手に自分の右手を委ねた。
 掴まれ、絡み取られた五指は、束縛の感触にただ喜びを享受する他なかった。

「残念だけど、もうにいい顔させないからさ」
「いい顔?」
「俺、そろそろ格好いい彼氏になりたいから。自分で自分の彼女を守ることができるぐらい、格好いい奴にさ」

 高校生、初めての春。出会い、喜びも悲しみも味わった中等部の校舎を傍に呟いた一言。突き抜けるような青空の下で宣言されたその言葉に、はただ笑って頷いた。
 その言葉に甘えてもよいと、3年間英二を見てきた自分が心の中で言っていた。
 その言葉を信じてもよいと、絡めた五指が許可してくれていた。
 涙、ひとつ。零すと同時に風が吹き、桜が揺れる。先走る若葉の匂いが届く。
 そっとすくってくれた人差し指の温かみに、は泣きながら笑った。



05/03/01