| 03.納得できなくとも |
平穏な時間はいつまでも続かないということは分かっていた。 ふと顔をあげた時。遠くの空を見つめた時。流れる雲を見送った時。 そんな時の横顔が、その視線が、どれほど儚い色をしているのかを知っているのは、少しだけ辛かった。隣に並ぶことのできる人間の特権だと言われても、そんな姿を見るのは正直悲しかった。 それは結局、自分のエゴを認めなければならない瞬間だったのかもしれなかった。 英二が何かに悩んでいるということに、は以前から気づいていた。 時々何かを忘れたかのように遠い目をすることがある。何かを忘れたいかのように口をつむぐことがある。何にも囚われたくないように、瞳を閉じることがある。 テニス部を引退して、既に2ヶ月。 3年6組の教室にいる時間、自分の隣にいてくれる時間が長くなってから2ヶ月。 けれどその2ヶ月の間に培ってしまったその空気に、は何も言い出せずにいた。 そして気づいてしまったひとつの展開。手にしてしまったパンフレットが指し示す、これから迎えるであろう未来とそれに対する自分の判断を促すようなこの状況。 動揺してしまうことを盾にして、話を切り出せない。英二に問いただすこともできない。 はまだ、適切と呼べる判断をすることができなかった。 「英二、とりあえずこの後どうしようか」 それでも日常生活はいつも通りにやってくる。 駅までの帰り道、部活のなくなった英二と共に歩むことの多くなった寒空のアスファルトはとても冷えて見えて、あまり周りに人がいないのをいいことに手を繋いでいたはいいものの、どこかひんやりとした感触があることを否定できないまま。 耳障りな音をたてる空気の歪みも、どこか違和感を感じさせる軋みも全て気づかなかったふりをしては英二の顔を覗き込んだ。手を繋いだまま、いつもテニスコートを見つめるようなあの哀しい色をした瞳で灰色の空を見つめていた英二は、ふと視線を戻したもののかすかに笑うだけだった。 「この後?」 「うん。映画見に行こうって約束してたじゃない?」 「あー……」 その瞬間浮かべられたのは微妙な笑み。気まずそうな、息苦しそうな。そんな笑み。 恋する感情を抱き続けるのは辛いと、は心底思う。 この人は、こんな表情は滅多にしないとすぐに気づく。哀しいかな、恋人ゆえに気まずそうに笑うなんてことを不意にやってしまう、そんな無意識の反応の理由にすぐに見当がつく。 好きな人が苦しんでいる様は、正直とても辛い。分かりきったこととはいえ、今更なこととはいえ、それでも思わず視線をずらしてしまうほどに辛い。 けれど。けれど、そんな恋人の変化に気づくということは。 同時に、自分がいかに卑怯な人間かということも身にしみて痛感しなければならなくて。 「……」 「……あー、うん」 がしがしと頭をかき、英二が下を向く。は何も言わない。 何かを言ったら最後、それでこの場は終わってしまうと本能が教えてくれていた。 それは、結局は無言の圧迫。英二を追い詰めるということは分かっている。苦しそうに、ひとつひとつの言葉を選び出そうとしている英二を見れば、自分が追い詰めているのだということぐらい分かっている。けれど。 (ねえ、英二) 色よい反応を示さない英二を見て、は悲しい顔をしながら心の中で呼びかける。 英二が悩む理由を知っていて、悩ませる原因を知っていて。 それでもその悩みの種を消し去ってあげようとしない自分は、なんて卑怯なんだろうとは思う。 一言言えば済む話だった。わきまえのいい彼女として振る舞えば全て解決する話だった。好きな道に進んでよ、と。テニスを選んでよ、と。感情なんて無視して、大好きな人だからこそ大好きな道を歩んでほしいと、そう言ってしまえれば英二の苦しむ様なんて見なくて済むかもしれないのに。 (私は、わがままだね) 本当は、そんなことを言える勇気も度胸も、包容力も冷静さも持っていない。言える立場も権利もない。それなのに、そんな綺麗事に満ち溢れた言葉を発することによって平静さを保とうとする自分は本当に愚かだとは思った。 (英二。私は聞き分けがないね。わがままだね) 繋いだ左手の温もりが優しくて、辛くて、思わず下を向く。無機質で濁ったアスファルトがただ視界を占拠した。 「俺、さ」 「うん」 「……あー、うん。いいや。俺今別に見たい映画ないから、の好きなやつでいいよ」 「え、いいの?」 「うん。俺最近の映画知らないからさ」 この左手が、いつか遠いものになる。何気なく交わす会話も、いつか貴重な時間を伴うものに変わってしまう。その予感に途方もないほど心が苦しくなる。 英二とは青春台駅までの通学路を歩きながら、いつも通りを装った会話を続けた。けして視線が絡むことはなかったけれど。 ただ、お互いが何も切り出さなかったその時間は辛くて、苦しかった。 少しだけ都心部に出て、いつも通りのデートをする。 「ねえ英二、私あれ見たいかも」 「……」 「今『うわ、寝そう』って思ったでしょ」 「いや、そんなことは思ってない」 「嘘ばっかり」 わざと英二の苦手な恋愛映画を選択する。今日この日ばかりは2人きりでそんな映画を見たくて。平日の夕方、しかも旬を過ぎた映画だけあって映画館の中にはさほどの人気もなくて、2人は小さなスクリーンを後方の座席から見た。 いつもと同じように。手を繋いだまま、ただ無言で映画を見て。 映画のヒロインにシンクロして涙を流せば、英二はその涙もろさに笑った。 今日というこの日が涙もろくさせているなんて、それでもは言えなかった。 「普通なら、中3のこの時期なんて受験勉強でデートどころじゃないんだろうな」 行くあてもなくさ迷った結果、たどり着いたのは学校近くの堤防。 さらさらと微かな音を立てて流れていく水面を見ながら、は英二の言葉にそっと顔をあげる。このタイミングでそう呟く、その気持ちの真意の欠片もわからなかったけれど。 仰げば、そこには変わらず何か苦しそうな笑み。 大きくなってしまった英二の瞳を見るのには、顔をあげなかければならなった。昔は小柄で、不二とさほど変わらなかった体躯もいつのまにか大人へと成長していた。 そうさせたのがテニスであるという事実には、今は知らないふりをしていたかったけれど。 繋いだままの左手は温かく、北側に立つ英二のおかげでは冷え始める夕方の風をさほど浴びることはなかった。無言のうちの優しさに涙が出そうになるのは、もう許してほしかった。誰にでもなく、ただこの優しさをくれる英二本人に。 「英二は、どうして青学に入ったの?」 微かに震える声を必死に隠しながら尋ねる。土手に腰を下ろした英二はその言葉にようやくまともに視線をに向けた。 「なに、どうしたんだよ急に」 「なんとなく。聞きたくなって」 はその隣に腰をおろし、そっと英二の二の腕に頭を預ける。そうすれば目をあわせないで済んだ。哀しい色をした大好きな人の目を見なくても済んだ。 そんなの言動の意味をどこまで理解していたのかは分からなかったけれど、英二はしばらく川の流れを見つめた後小さく呟いた。 「テニス」 「……え?」 「テニスが強かったから。テニスをしたかったから」 分かっていたのかもしれない、と後になって思う。 川の流れを見つめる英二の横顔を見上げ、結局そのテニスを恋い慕う瞳を見つけてしまってはもはや何も言うことができなくなった。 夕陽を反射して赤く光る水面の様が英二の瞳にも映っている。真っ直ぐに前を見据えるからこそ綺麗に反射してみせるその瞳の中の赤に、はもはや自分が決断を迫られている事実を知る。 決断もなにも。もうその瞳を見れば、選択肢はもはや存在していなかったけれど。 「……そうだね。英二にとって、テニスはやっぱり大事だよね」 「……うん。だから、なんか今も生活が狂う。部活がないと辛い」 「そうだね」 この思いを聞かせてもらえるのは自分だけかもしれないと、そうは思う。 けれど同時に、その思いを昇華させてあげることができるのも自分しかいないのではないかとも思う。暗にそれを求められているのかもしれないと思う。 (そうだよね、英二。テニスは捨てたくないよね) もはや話は高等部に進学すれば解決するというレベルのものではなくなっていた。 手塚が海外留学を含めて外部受験をするという噂は既に夏前から広がっており、たとえ内部進学をして再び硬式テニス部に入ったとしても、中等部に比べてさほど実績をあげていない高等部に今以上の期待がかけられるかどうかと問われれば、それは部外者のでも答えは否だった。 温もりをくれるこの優しさに、裏切り行為をしたくないと切に思う。 は伏せていた視線をそっとあげ、赤く揺れる水面を見つめてから小さく呟いた。 「ねえ、英二」 「ん?」 「しばらく、距離おこうか」 西の空に沈みこむ夕陽が眩しかった。眩しくて眩しくて、涙が出そうだった。 この一言を言えればきっと英二は悩まなくて済む。その予感だけを頼りには呟き、そしてそれが正しい道なのだと思い込むことによって涙を零さないように必死になった。泣いたら最後、英二が困るのは分かっていたから。 「……なに?」 「ううん、だって。英二、何か悩んでるみたいだったから」 「悩むって……」 「私、知ってるから大丈夫だよ」 その一言で会話は止んだ。ただ風音と水音のみが空間を支配していた。 英二の目が見開かれるのを見て、はその素直すぎる反応を前に大人になろうと決意する。 「私、知ってるから。淑徳の話。だから、英二が落ち着いて考えて、納得のいく結論が出せるまで、少し距離をおこうよ」 別に、高校が違うからって。距離が遠くなるわけではない、淑徳学院は十分英二の自宅から通える距離で寮生活を送る必要性は感じられない。制服が違うだけで、それまで共有できた学校生活がなくなるだけで、別にこの関係は変わらない。そのことだけを強く思い、は英二の言葉を待つ。 それでも、本当は。本当は、そんな言葉を否定してもらいたいなんて。 (そんなことを思ってるって言ったら、怒る?) 背中を向けたままの英二にそっと問い掛ければ、もう涙腺の防波堤は限界だった。 けれど。 「……ごめん」 その一言の後、わずかに頭をさげるその姿。それだけが全てだった。 が次の言葉を促すようなことなんてしなくても。英二自身が言葉で説明しようとしなくても。ただ何も弁解しようとしない、その姿だけでもう十分だった。 「少し、そうさせて」 西日に映える黒の制服が綺麗だった。茜空に染み込む赤茶けた髪が綺麗だった。 それだけで、本当にたったそれだけで。 の一言が、英二の悩みを軽くした事実だけは簡単に汲み取れた。その事実に泣いてしまえれば、どれほど完璧な彼女を演じられただろう。 けれど、涙腺はただ違う事実に揺り動かされていた。 (ねえ) この日この時、この川原に来てしまったことの意味を思う。 静かに鼓膜を揺さぶる清流の音。水面を流れていく冷たい北風。西に消えようとする太陽は哀しいぐらいに赤くて、もはや温めてくれるだけの熱量は伴っていなかったけれど、それでもその赤色だけはこの涙を乾かしてくれると思いたかった。 (私、聞き分けなんて全然よくないんだよ) 静かに英二が立ち上がり、風がの身体に直に当る。突然の寒さに身体を強張らせれば、通常の潤いすら否定しかねない勢いで乾いていた瞳に大好きな手が映った。 「もう、帰ろう。風邪ひくから」 テニスラケットをもつ右手は少しだけ荒れていて、掌なんてカサカサで。引退して2ヶ月も経つというのに、それでも3年間という長い年月の間に染み込んだその荒れぶりは早々簡単には消えてくれない。 「……家まで送るから」 動こうとしないに英二は苦し紛れにそう呟き、そしては英二の顔を見ないようにしてそっとその右手を取る。 別れようと言われたわけではない。別れたいと言われたわけでもない。 ただ恋愛感情ひとつで英二の人生を左右してはいけないと、ただそれだけを理解すればいいだけのはずなのに。そう思おうと決意していたのに、それでもは結局は泣きそうになる。 (一緒に上にあがれるって、クラスは離れても一緒にまた通えるって、思ってたんだよ) 繋いだ左手は優しくて、温かくて。 けれど途方もない切なさを秘めていて、ただ瞳の奥が焼けるようにチリチリと熱くなった。言葉を発することのできない喉の奥が苦しさで苦々しくなった。涙が流れることを予感させる、そんなツンとした鼻の痛みに思わず目を閉じる。 自分は子どもだと、は心底思う。 (駄目だよ、英二。私、絶対駄目だよ) それが「距離」をおくことに耐えられない、この恋愛に自信がない証拠だと笑われても。 恋人にとっての「一番」を優先させることのできない、心の狭い彼女だと罵られても。 それでも、この心が別離を厭う事実だけは隠せるはずがなかった。 遠く離れていくことを予感させる温もりを左手に感じながら。 この人がいなくなるこの先を思うだけで、今にも赤子のように泣き出しそうだった。 ただそれでも、最後まで涙を見せなかった事実。それだけは、認めてもらいたかった。 |
| >>04.一番大切なもの 03/11/27 |