04.一番大切なもの

 竜崎から手渡されたパンフレットは、見た目よりもずっしりとした質感を伴って手の中に落ちてきた。
 その時になにを感じたのか、思ったのか。今となっては覚えていない。正確には、どれが抱くべき正しい感情だったのか、今となっても分からない。

「決めるのはお前だよ、菊丸。アタシができるのはここまでだから」

 それは全国大会終了後。青春学園中等部硬式テニス部内における自分の立場がなくなり、役割が終わりを迎えた、まだ暑気の抜けない9月の出来事だった。



 壁打ちに集中できるようになったのは、レギュラーになってからだった。
 自分の役割が何であるのかを知ってからだった。その役割を全うするためになにが足りないのかを認識してからだった。

「80、81」

 汗が飛ぶ。髪が揺れる。
 飾り気のない灰色の壁と対峙し、黄色いボールに狙いを定めて延々ラケットを振り続ける。久しぶりの筋肉の動きに腕が歓喜の声をあげているかのようだった。腕が伝える喜びに懐かしさを覚えてしまうことに時間の流れを実感せずにはいられなかったが、それでも寂しさよりも嬉しさが勝った。

「90」

 身に着けているのはアディダスの黒のトレーニングウェア。シューズとラケットこそ現役時代のものであったけれど、1年半近く慣れ親しんだ青学のレギュラーユニフォームは、既に身に着ける資格そのものを失っていた。

「95」

 視界が固定されている。打ち返しては跳ね返ってくる黄色いボールが、同じ軌道を描いているような錯覚に陥る。聴覚は既にボールが壁にぶつかる音しか捕らえていない。
 これがすべてであった時期は、時間は。今となっては遠い昔のよう。
 懐かしい腕の感覚、脚の感覚、そして視界に、音。
 縛られる、独占される狭い空間に快感を覚えてしまえば、もはや気にするものなどなにもなかった。

「100!」

 今までで一番の力を込めて振り抜いたラケットは、真芯でボールを捕らえた。一瞬のうちに音が響き、そして鋭いスピードを伴ってボールが手の中に返ってくる。それを握り締めたままぐっと手の甲で額の汗を拭うと、アスファルトの鉄の匂いが鼻をついた。
 肩で息をしながら乱れた呼吸を整えて、英二はようやく周囲に視線を向ける。気づけば鳥のさえずりすら聞こえてしまうほどに静かな空間がそこにはあった。
 雲ひとつない秋晴れの、そんな日曜の朝。
 誰もいないストリートテニスコートは珍しかった。時間は午前9時を少し回ったところで、朝であることを考えれば人がいなくても当たり前のような気が、それと同時に自分が現役時代の時はもっと活気があったような気もした。

「桃や海堂がいても、別におかしくはなかったんだけどな……」

 元々約束をしていたわけではない。ただここで会えたら久しぶりに1セットマッチの試合でも楽しもう、などという気持ちでいたぐらいだ。ひとりで練習することも苦ではない。だから今は別段、寂しいわけではないはずなのだ。
 それでも心はどこか、晴れることはなかった。
 英二はラケットとボールを持ったまま、コートと観客席を隔てるコンクリートの塀に腰を下ろす。高台に位置しているテニスコートには涼やかな風が絶えず流れており、前髪を遊ばせながら遠く山裾に位置する街を見下ろせば、自然と目が細くなった。
 この光景は随分と慣れ親しんだものである。そう思えば口元すら緩む。

「学校のコートと、ここと、あとはコンテナのところと……」

 指折りしながら数える。ひとつひとつの光景がまるで目の前にあるかのように鮮明に浮かび上がってきた。間違いなど欠片もなく思い出せるほどに、それぞれの光景は視界に焼き付けられていた。
 テニスの記憶で思い出される場所は、この街にはたくさんあった。それほど自分がテニスに染まった生活を送ってきたのだということは分かっていたはずだったが、最近ではここがテニスをするのに優しい場所であったことを再確認するようになっていた。
 中学3年間で自分が育った場所は大切である。それは英二にも分かっている。
 ただ、今はその先をこの場所とともに思い描くことはできなかった。
 考えようと思えば、苦痛を伴うことを受け入れなければならなかった。

(淑徳は神奈川寄りだから、青学とは反対の位置にある)

 けれど考えなければならないことも分かっている。青春台の光景を見下ろしながら、英二はひとりで思いを馳せる。

(……なにを今更。分かりきってたことなのに。淑徳に行くってことは、青学を捨てるってことなのに)

 けれど淑徳には、テニスを続けていくうえでの魅力がたくさんある。
 最近はこの繰り返しだった。ふと気つけばいつでも思考回路が淑徳学院に独占されている。青学テニス部が自分を育てた事実を大切にしたい思いがある中で、純粋にテニスだけで物事を考えたい瞬間があることもまた事実だった。相克の関係をうまく解決しようとすればするほど、考えれば考えるほど、どちらも大切なものである以上苦しまないわけにはいかなかった。
 けれど、その苦痛の先にあるものは、けして辛さだけではないことを。英二は知っていた。

(それは、どっちが勝つか分かってるからなのかなあ)

 空を見上げても答えなど出ない。出してくれる人もいない。
 その時、英二は思わず力が抜けてボールを手のひらから落とした。

「あ」

 ころころとコートの中を転がっていくボールを追って、英二はコンクリートの塀の上から飛び降りる。ネットに触れ、コート中央でようやく止まったボールを拾おうと腰をかがめたその時、階段の向こうにゆらりと人影が映った。

「……不二?」
「おはよう。どうしたの、こんなに朝早く」

 英二のように目を丸くすることもなく、不二はただ笑ってそう尋ねた。その肩には久しく学校では見ることがなかったテニスバッグがある。ラケットをもち、ボールを追い、そして動きやすい格好をしていた自分に対してのその質問は、どこか滑稽だと英二は思った。
 ただ、不二は愚かではない。英二はそれを知っている。
 ボールを拾い、立ち上がり。不二を真っ直ぐに見据えてから、英二はにっと笑った。

「いいところに来た、不二」
「いいところ?」
「俺の相手してくれない? 誰かと試合したくて仕方なかったんだ」

 それだけを言うと、英二は返事も聞かぬ間に左手に握っていたボールをラケットで打つ。緩やかな曲線を描き、ボールは不二の手元に難なく収まる。不二は苦笑するだけだった。

「1セット?」
「とりあえずは」
「いいよ。ただし、勝たせてあげるつもりはないけどね」
「そっくりそのまま返してやるよ、その言葉」

 英二同様、不二も既にレギュラージャージとは別れていた。自分とはメーカーの違う、プリンスの白のトレーニングウェアに身を包んでいるその姿を見て、小さな違和感にまた悲しさにも似た思いを抱く。
 そんな勝手な思いを隠して不二が準備をする様を見ていると、その手は金色のフレームのラケットを握り締めた。それは不二が現役時代に愛用していたラケットだった。不二の腕には重過ぎると乾だけではなく英二も言った。けれどその忠告を無視してでも使いつづけた、そんないわくつきのラケットだった。
 その頑固さの裏にあったのは、青学の名で全国制覇を果たすという真摯な思い。
 けれどそれも、遠い彼方の記憶。

「最近、打ってるの?」
「たまにはね。裕太が帰ってきた時には相手をしてあげたいし」
「裕太……ああ、そっか。裕太にはまだ来年があるもんな。いいのかよー、うちの後輩の面倒は滅多に見てやらないくせに。おチビが打ってほしそうだったぞ」

 弟愛をからかうと、不二はラケットを片手にやんわりと笑みを浮かべた。

「違う学校だから、だよ。青学の中では僕たちの役目はもう終わってる」

 先輩というのはいなくならなきゃ駄目な存在なんだよ、と。ラケットを軽く振りながら呟く。その言葉に寂しさを感じているふりはなかった。ただ英二が言葉をなくすだけだった。
 それは、真実だった。けれど自身でも分かっているからこそ、人の口を通して聞かされるその真実は、自分が思う以上に重たく、そして冷酷だった。
 そこまで思い、英二は軽く頭を振った。
 今はそんなことを考えなくていい。目の前に不二がいる。自分より強い相手が、ボールとラケットを持ってこちらを見つめている。それが分かれば、あとに残されたのはただひとつ。
 それは、ネットの向こう側に立った不二にむかって、ラケットを構えること。

「いくよ」

 瞬間、空気が変わった。肌はそれを敏感に感じ取った。
 空気を揺らしてボールが舞い上がり、そして肘までウェアをまくった細い腕がラケットを振り下ろす。空気の中を切り込むように黄色い物体が視界中央に飛び込んできて、その瞬間に英二は右足を後退させ、正面にボールを迎え入れた。
 ラケットを振りぬく瞬間、歓喜に震えた自分の腕は正直だと思った。

「腕、なまってる!」

 笑いながらサーブを打ち返す。無機質な壁を相手にしているのとは違う。ガットに伝わるボールの重みに思わず頬が緩んだ。

「英二こそ、反応遅くなってるけどね!」
「バカ言うなって!」

 真剣にボールを追いながら。時には笑い声をあげながら。英二は無心でラケットを振る。
 不二は強かった。少なくとも自分よりは技術力でもセンスでも上であると英二は思っていた。だからこそ、正面から立ち向かえる機会があることを素直に喜ぶことができた。
 試合はいつもどおりの展開だった。途中まで英二がリードを奪うものの、結局最後には不二が勝利の二文字を収めている。それは乾が相手でも、手塚が相手でも同じことだった。そしてなにより、英二はそうなることを心のどこかで予想していた。
 青学の中では、自分の力量はあまり高くない。けれど自分にしかできない仕事、ダブルスがあるという事実は、チームメイトの誰もが知っていた。それを知らしめるだけのテニスをしてきたつもりだった。

「あー、やっぱ不二には勝てねえ。お前、卑怯なんだって」
「なにが?」
「全部もってるから。顔も勉強もテニスも全部」

 コートに寝転がりながら呟くと、珍しく不二が声をあげて笑った。秋空に似合う、綺麗な笑い声だった。
 空を見上げながら、英二は思う。
 青学での仕事は終わったという不二の言葉とともに、これから先のことを考える。海外留学や他校推薦の話がきている手塚や乾、そして不二がいなくなる高等部での青学のことを。そして、淑徳から推薦がきている自分のことを。
 そんな沈黙の中、不二が静かに言葉を口にした。

「淑徳に行くなら、僕なんかに負けてちゃ駄目だよ。英二」

 その一言が、つい先ほどまで周囲に流れていた熱気を一気に取り払った。
 英二は上体を起こす。突然の言葉に、そして不二から零れるとは思っていなかった淑徳という響きに目を丸くしながら。見れば額にうっすらと汗をかいた親友が、静かに自分を見下ろしていた。

「……知ってたんだ。誰から聞いた? 先生?」
「まさか。竜崎先生だって言わないよ、そんなこと。生徒の個人情報じゃない」
「じゃあ」
「学校名は、噂で。あとは」
「……?」
さんの様子」

 クラスメイトって因果なものだね、と不二は苦笑した。
 英二はなにも言わなかった。不二の言葉がなにを尋ねているのかが分かってしまったからだ。そして今の自分は、その答えをいまだ口にしたことがなかったからだ。
 ただ、答えが出ていないとは思っていなかった。
 視線をずらして黙る英二を見て、不二はため息をつく。ラケットをくるりと、さも菊丸英二という人間の常を見せ付けるかのようにくるりと回し、そして、「分からなくもないけど」と前置きをしてから言葉を繋げた。

「英二にとって何が大事か、ということだよ。そしてそのとおりに行動できるか」

 不二の言葉は軽い。まるでなにも考えず、淡々とその時々に思うがままの言葉を口にしているように聞こえることがある。
 ただ、嘘だけは言わない。親友とは因果なものだと英二は思う。

「それは英二の問題であって、さんの問題じゃない。なにを第一とするのかは英二が決めることだし、そもそもさんが口を挟むことでも英二が挟ませることでもない。まあ恋人なんだから誰よりも気をかけるのが当然と言われればそれまでだけど、でも」

 視線は合わせない。他愛なく、面白みの欠片もない会話に社交辞令のような笑みを浮かべて紡ぎだされる言葉たちに抑揚はない。
 それでも英二は背中を向けることはできなかった。耳を塞ぐことはできなかった。

「ある意味、失礼で酷な話だと思うよ。両天秤にかけていることを知らせたまま、いつまでも時間を費やすのはね」

 軽い音がたつ。その音に思わず顔を上げれば、不二のラケットがボールを打っていた。再び手元に戻ってきたボールの感覚に、英二は思わず顔をしかめる。テニスというスポーツに対する愛着以上のなにかを感じるには、それだけで十分すぎた。

「で?」
「え?」
「決めたの? 淑徳に行くのか、それとも青学に残るのか」

 視線が向けられる。冷めた色はない。けれど動揺の欠片もない。
 不二の視線を真正面から受け止めながら、英二はいろいろなことを思い出していた。

(俺は、テニスがしたい)

 ラケットを握り締める。久しぶりに強い相手と打ち合うことができた嬉しさに腕がさらなる先を求めている。脚がテニスコートの感触に喜びを訴えている。
 沈黙の中、ただ静かに考える。言葉をつくる時間を与えてくれる不二に感謝しながら。

(テニスがしたくて青学に入って、青学で少しは強くなった。それをあの淑徳が認めてくれた。淑徳は青学よりも強い)

 要点だけを抽出してしまえば、問題はとてもシンプルだった。
 そして不二とテニスをすることによって、テニスをなくすことができないという思いを固めてしまった今この時になってしまえば。悩む理由も、決意を否定する理由も、すべてなくなっていたこと英二は気づく。そして。

(淑徳に入学することが、一番いい道なんだ)

 その言葉を、迷いなく心の中で生み落としたのだった。
 風が泳ぐ。木々の葉が擦られて心地よい音が響き渡る。そして澄みきる思考回路。
 結論は、出ていた。
 英二は唇を結ぶ。涙色に染まった空の向こうを見るかのように目を細める。手元に控えるラケットのグリップを握り締める。邪魔する者は誰もおらず、自分の答えを肯定する者はいないのと同時に否定する者もいない。
 そして、今。たとえ否定されたとしても自分の意志は揺らぐことはないと、英二は確信していた。
 ひとりになることは、正解だったんだろう。そっとうつむいて英二は思う。
 そしてひとりになってしまえばこの結論を出すことを、は予想していたんだろう。だからこそあの日、夕方の河原で。必死に涙をこらえて自分を突き放してくれたんだろうと。
 英二はしばらく黙ってコートを見つめ、青春台の光景を見つめ、そしてラケットとボールを見つめた。やがてひとつ大きな息をついてから、ゆっくりと頷く。

「受ける。受けたいって思ってる、俺」

 には言えなかった一言を、まっすぐに不二の目を見て答えた。



>>05.愛しき人


05/01/12