02.示された道

 自分の中でのテニスの存在意義を考える時、の顔がちらつかないと言えば嘘になる。
 その意味を考えれば考えるほど、目を瞑りたくなる。重々しい気持ちを吐き出したくなる。
 それは、自分の選ぼうとしている道がを傷つけると予感しているからか。傷つけると分かっていて、それでもその道を選びたがる自分の本性を知っているからか。
 それとも。その決心を、が拒むはずがないと分かっているからか。
 それを期待してしまう自分がいることを、英二は否定できなかった。
 5人兄弟の末っ子として唯一対等に兄弟と張り合えるもの、それがテニスだった。
 ショルダーバッグしかもたなくなった身体の軽さに言い様のない寂しさを覚えながら、英二は枯れ葉の舞うテニスコートを見つめる。外界から見るその場所は、緑のフェンスがやけに厚く見えた。
 夏の全国大会が終わったこの時期、次に控えるのは新人戦だ。
 去年の今ごろ、確かに英二自身も来る新人戦に向けて練習を重ねていた。真新しいレギュラージャージを着用してプレイすることのできるテニスに、本当に胸を躍らせながら。

(先輩が出て行った後なんて、自分が主役になれる絶好のチャンスだもんな)

 運動場の反対側、今はもう赤と青の体操服しか見られなくなったテニスコートはやけに隙間があるように見えた。いつも狭いと感じていた場所は、自分が外に出ることによってようやく余地を手に入れたのだと気づく。
 ポケットに手を突っ込み、足を止めたまま英二はわずかに視線を落とした。
 年齢差を越える実力を持ち合わせていたのは、同級生の中では手塚や不二、乾などごく限られたメンバーだけだった。強豪と謳われる青学テニス部において、英二は自分の実力を知らされていた。それは否定することのできない事実だった。
 越えられない壁だと知っていた天賦の才。
 けれど自分の実力を評価してくれた証拠のレギュラージャージ。
 強さの階級が見えないところで存在していることに、当時の英二は卑屈になることはなかった。むしろ強さの絶対値に変動があることに昂揚だけした。

(新人戦の頃よりは、俺だって強くなった。最後まで手塚には勝てなかったけど、俺だって強くなれたんだ。伸びることができたんだ)

 その成長をリアルに感じ取ることができたからこそ楽しかったテニス部。
 自分より強い人間がいたからこそがむしゃらに練習できた、唯一の場所。
 けれどその場所には、既に自分の居場所はなかった。英二は拳を握り締め、静かに目を閉じる。抵抗なく耳に飛び込んでくる、そんな昔懐かしい掛け声だけが色を伴っているもののように感じてならなかった。
 高等部に進学すれば、次があると。安易に人はそう言うけれど。

(……ないよ、今と同じ場所なんて。もうないんだ)

 無事レギュラーに正式に返り咲き、新部長としてそれまで手塚がこなしていた役目を引き継いだ桃城の声が飛ぶ。あの頃とはもう声が違うのに、それでも「レギュラー」という言葉に身体が反応して思わず顔をあげてしまうのは悲しい因果だ。
 テニス部レギュラーという、自分が最も愛してやまなった肩書きはもうない。
 それを実感すればするほど、認めようと思えば思うほど。結局、たどり着くのは過去への寄りすがり。この「先」を見つけられない不安定な心。
 そんな気持ちがを心配させているという事実に気づきながら、それでもどうすることのできないこの虚無感を、英二はただ持て余すしかなかった。

「英二?」

 木枯らしが吹く中、聞きなれた声が背中に飛ぶ。
 一瞬、その声の持ち主を彼女だと思って肩が震えた事実にどう対処していいのか分からなかったけれど。けれど、英二はひとつだけ息をついてゆっくりと振り返った。

「よー、大石。今帰り?」

 振り返れば、そこには予想通り大石の姿。
 もしこれがだったらどうしていたのかなんて、英二は今はとりあえず考えないことにした。久しぶりに会う大石は素直に笑い、ただ英二に懐かしさを思い起こさせる柔らかい笑みを浮かべてみせた。

「英二こそ。久しぶりだな。どうした、こんなところで」
「どうもこうも」
「は? なんだそれ」
「いや、別に意味なんかないってことなんだけどさ」

 久しぶりに見る大石の姿にあからさまに安堵しながら、英二はわざとらしく肩を竦める。大石はそれを見てもただ苦笑するだけだった。

「久しぶりに桃の声がしたからさ。ちょっと見てたんだ」
「ああ、もうすぐ新人戦か。桃も気合が入ってるな」
「俺たちも去年の新人戦は力入ってたしなー、なんか見てて懐かしくってさ」
「そうだな、あれからもう1年か。早いな」
「そうそう。懐かしいよな」
「ああ」

 昔を思い起こさせる懐かしさが、確かにそこにはあった。
 大石の肩からも既にテニスバッグは消えていた。あんなに愛用していたテニスラケットも、もはや学校に持ってくることはお互いになかった。何も言わなくてもダブルスの練習をできた時間も、場所も、関係も、今となってはすべて過去のものとなっていた。
 素直にあの頃に戻りたいと、心から英二は思う。
 もう一度、楽しかったあの場所へ。自分の大好きなテニスを、大好きな仲間と心ゆくまで練習できたあの場所へ。自分を成長させてくれる唯一の場所へ。

(そんなこと、叶わないって分かってるけど。でも、もう)

 昔の仲間を前にすればするほど、懐古の感情が強くなって仕方ない。時間が経ったとはいえ、それでも木枯らしが吹けば新人戦、雪が降れば冬合宿。桜が咲き始めれば交流試合、向日葵を仰ぐようになれば地区大会、都大会、関東大会そして全国大会。
 季節を通して繋がっていたテニス部の記憶は、いつになっても薄れない。同じ季節を迎えれば迎えるたびにきっと自分は振り返り、そして、あの頃を懐かしむのだろう。英二は思わず苦笑いし、そして。

「……なんか、引退まで早かったなあって思ってたんだ」

 労わる瞳でテニスコートを見つめていた大石を横目に呟く。

「俺、本音を言えばもう少しあそこにいたかった。もう少しテニスがしたかった、みんなと」
「そうだな、俺もそう思う」
「でももう引退なんだよな。大会にだって出られないんだよな」
「……英二?」

 それまで爽やかに笑っていた大石の顔が曇る瞬間を、英二は見逃さなかった。
 これ以上はやばい、と直感が伝える。けれど一度零れだした本音は止めようと思う意思を無視して本能のままに言葉をぽろぽろと吐き出し続けた。

「わかってるんだ、わがままだって。でも」
「英二」
「高等部にあがったって、もうあの頃とは一緒じゃないから。手塚は外に出て、不二も乾も他校からスカウトがきて。タカさんにいたっては本当にやめちゃうかもしれない。……だから、上にあがったって、俺たちの代の全員が同じユニフォームを着るわけじゃないんだ」

 言い訳じみているな、と言いながら思ったものの、それでも英二は言葉を止めなかった。
 大石の眉根が寄る。けれど今出た言葉を否定することはなかった。
 本当は、今のこの迷いとも言うべき落ち着かない気持ちは、英二自身そんな他者依存からくる理由なんかじゃないと気づいている。
 仲間の力を頼りにすることに懐かしさを抱いているからじゃないと、それが全ての理由ではないと分かっている。
 ただ、そうしないと。
 本当に自分はひとつの決断を下すだろう、そんな予感がしてならないだけで。
 それが大切なあの人を悲しませるだろうと、気づいているだけで。

「……英二、もしかして」
「あー、うん。ごめん、なんでもない」
「なんでもないって、英二。そんなことじゃないだろ」

 大石が怪訝な表情をして尋ねてくる。しかし英二はただ首を横に振る。
 テニスを捨てたくないと、英二は強く思う。自分を強くしてくれたテニスを、これからも続けていきたいと心から思う。
 ただ、それはこのテニス部だから思えた事実かもしれないとも思う。仲間に恵まれていたからかもしれないと思う。けれど高等部にはもはや同期の仲間全員が揃うことはないと宣告されている、それに動揺しているだけ。ただそれだけのことだと思いたかった。
 けれど。

「噂は本当だったのか?」

 その瞬間、大石が呟いた一言にようやく英二は顔をあげた。
 まさかそんな言葉が待っているとは、思いもしなかったから。一瞬虚をつかれたような表情をしてしまったことにすぐ後悔を覚えるが、既に手際よく対処できるような雰囲気ではないと肌が感じ取っていた。

「……噂って?」

 笑ってしまいそうになるほどに小さい声。それは、大石にますます険しい顔をさせるだけでしかなかった。

「隠していたつもりなのか、それでも」
「隠すって、だからなにを?」
「シラをきるにも限度があるんだぞ」

 それは、よくテニスコートで見ていた姿だった。今更ながらに英二は思い出す。
 言葉につまりそうになる。
 真剣な顔をした友人を前にして、ごく当然のように心臓が動揺を訴える。
 そんな英二の動揺を見透かしているのか、大石は小さく、それでも重いため息をひとつついた後、ゆっくりと確認するかのように尋ねてきた。

「淑徳の推薦を受けるって、本当だったのか?」

 なぜ指先が震えるのかなんて、英二は分かりたくなかった。
 既に内部進学を決めていた相方の台詞は、ひどく胸にこたえたけれど。それでも、動揺する自分には気づかない振りをしておきたかった。
 だが、すぐに否定の言葉が心の中を占拠する。
 動揺こそすれ、それでも自分の意見を変えようとは思わない。そんな本音を改めて思い知り、英二はもはや自分の心が何を一番に求めているのかという事実に気づかないわけにはいかなかった。

(やっぱり)

 自分を強くしてくれたテニス。限界なんて知りたくないと思った唯一のもの。
 それを続けられる場所を求めて、そして受け取ったひとつの入学パンフレット。
 高等部進学ののち、レギュラーメンバーが離れ離れになるというのは、ひとつの理由ではあるかもしれないけれど。それでも結局は、それは決断材料の中では決定打に欠けたものだったと思わざるをえない。
 ゴールデンペアとまで呼ばれた大石のこの反応は、予想しなかったわけじゃない。むしろ予想済みだった。結果的に自分の行動は彼を裏切ることになることぐらい、分かっていた。

「否定しないのか、英二」
「……」
「淑徳に行くってことは、俺とのダブルスはもうしないっていうことになるんだぞ」
「……それは」

 正論に言葉がつまる。自分勝手な行為をしていると責めたてられても何もいえない、それが事実だと分かっているからなおさら。
 しかし大石は、反論できない英二をしばらく見つめた後小さく首を横に振った。

「……英二が決めたことなら、俺にはそれ以上何も言う権利はないが」

 わずかながら寂しさを零す、揺れる瞳で呟かれた一言。英二ははっとする。
 それは、自分自身がに対して抱く予想と同じ反応。
 ならそう言って、高校が離れることに泣き喚いたりしないだろう。そんな自分勝手とも呼べる予想と、大石のその言葉は妙にシンクロしてしまった。英二は押し黙る。

「……ごめん、今、考え中だから」
「……そうか」
「竜崎先生からそう言われたけど、でもまだ返事をしたわけじゃないから」

 けれど心の中の気持ちは揺らつくまま。
 そしてひとつの事実に気づけば、もはや英二に反論する気持ちなど生まれてこなかった。
 誰かを傷つけると分かっていたからといって。だからといって推薦入学の話を捨てきれなかったのは、自分の中でひとつの方程式が成立していた証拠に他ならない。

(俺は、テニスがしたいだけなんだ。もっと強いところで、テニスが強くなりたいだけなんだ)

 ダブルスの自慢のパートナー。中学3年間を語るに欠かせない大切な恋人。
 2人よりも、大切な大石とよりもさらに上を行っていた自分の強い意志を思い知らされる。英二はただ黙り、大石から視線をずらした。
 今とは違う、もっと可能性のある場所へ。
 そんな願いは、自己満足だと笑われるか。自分勝手だと罵られるか。
 そんなことすら分からないまま、それでも捨てられない淑徳への推薦の話は、テニスを捨てられなくなった、引退して前より一層テニスへの依存度を思い知らされた今の英二にはインパクトが強すぎた。

「でも、……うん、1回話は聞いてくる」
「……」
「それで決める。俺、9月の進路希望調査は進級のところに丸つけて出しちゃったから、もしあんまりよくない話だったらそのまま上にあがるから」
 
 どこまで言い訳じみているのか、逃げ道を用意しているのか、その言葉には自分でも吐き気がしそうだった。英二は苦々しく思う。
 その時、自己嫌悪に陥りそうなそんな時に限って。大石が呟く。

さんにはもう言ったのか?」

 もし自分の生活、人生においてテニスを第一とするなら、大石秀一郎という人間は絶対に欠かすことのできない人なのに。
 それなのに、その大石にそう言われてしまっては英二は自覚せざるをえなかった。

「……まだ。言ってない」

 別れるわけじゃない。恋人の関係を打ち切るわけじゃない。
 ただそれでも、今まで以上に練習がきつくなるであろう高校へ進学し、さらには青学より強豪の淑徳へと進学することが何を意味しているのか、気づかなかったわけじゃない。2年近く付き合って、部活のためにまともに彼氏らしいことができなかったのに、今ここで別々の道を歩むことがどんな可能性を指し示しているのか、そんな事実に英二が気づかなかったわけじゃない。
 むしろ気づいているからこその、この重い気持ち。

(でも、今は)

 傾く天秤に素直でありたいと思い、そして英二は視線を落とし、瞳を閉じる。
 自分の中では、テニスが至上のものだった。それは変えようのない事実だった。



>>03.納得できなくとも


03/11/26