01.秋に思う

 ふと気づけば、英二の視線がグラウンドに向けられていることが多くなっていた。
 寒さが際立ち始める11月中旬。ふと目にした英二のその姿に、は理科の教科書を抱きしめたまま思わず立ち止まる。壁時計は刻一刻と理科室へ向かえと訴えてきていたけれど、それでも自分の席を立とうとしない英二の姿の方が気になって仕方なかった。
 いつも傍にいる不二はいない。実験準備の当番にあたっていて、既に彼は理科室へと向かっている。そして、英二はただ1人で外を見つめていた。
 続々と教室から出て行くクラスメイトたちの後姿を見送りながら、はひとつだけ小さなため息をついて恋人のもとへと歩み寄った。

「英二、遅れるよ」

 窓際の席で頬杖をついて外を見ていた英二は、の一言にそっと視線を戻す。
 その瞳はどこか空ろで、目があった瞬間は違和感を抱かずにはいられない。

「……あ、ごめん。なに?」
「なにって、次理科だから移動しないと。今日第一理科室で実験だよ」
「そうだったっけ……あー、うん。わかった」

 普段から授業熱心なわけでもない。好きな社会だけは勉学の志とは別物で真面目に聞いていたりするけれど、他の教科においては、大抵の場合ところどころ気が抜けた状態で受講するのが英二のスタイルだった。それはも知っていた。
 けれど、今日はどこかおかしいと感覚が訴えてくる。
 肌を伝わる違和感。軋みを訴える空気。喉奥でつまってしまう言葉たち。

(……英二?)

 少しだけ気だるげに、それでもきちんと机の中から理科の教科書とノートを取り出し、立ち上がる。そんな一連の動作を無言で見つめながらも、はひとつの言葉も発することができなかった。
 さりげなく送られる、寂しそうな視線。見つめられるテニスコート。
 それはただ目を向けていれば気づく、そんな一瞬一瞬の動作。
 それを見ているだけで、なんとなくではあったけれどこの虚脱感が意味するものがわかっては静かに言葉を口にした。

「……寂しい?」
「え?」

 我に戻ったかのように英二が振り返る。
 無意識の所産物であろうそれらの態度に、は思わず苦笑してみせる。

「寂しいって顔に書いてあるよ」
「え、なにが?」
「部活。引退しちゃったから」
「……あー」

 答えは分かっていたけれど。そんなこを思いながら英二を見上げる。
 出会った頃よりも随分と高いところにいってしまったその綺麗な双眸を見つめれば、今度は英二が言葉につまったような表情をしてみせた。少しだけ眉根を寄せて、少しだけ苦虫を噛み潰したような顔をして。けれど、すぐにいつもの柔らかい顔に戻った。

「寂しいかって聞かれれば、そりゃ寂しいけど」
「けど?」
「でも、もう終わっちゃったことをうだうだ言っても仕方ないしな。……全国にも行けたんだし、俺は恵まれてたと思う」
「……うん、そうだね」

 秋風に吹かれてカタカタと揺れる窓ガラスに手を添え、誰も居ないテニスコートを見つめる。そんな英二の仕草に、はただ同調の言葉を発するだけだった。
 英二の中でテニスというスポーツがどれほどのウエイトを占めているのかを知ってしまっている以上、下手に言葉はいらないと心が理解している。懐かしそうに、それでもやはりどこか寂しそうにあの思い出の場所に送られる視線は少しだけ心を苦しめたけれど。
 英二がテニス部を引退してから、2ヶ月。
 中学校生活の中で比類のないぐらいに大きな存在だったテニスの時間があっさりとなくなってしまった現実に、英二はいまだ素直な反応を見せることができなかった。気が抜けてしまうこともある意味素直な反応とはいえたけれど、チームメイトであった不二たちが既に余った時間を有意義に活用しているのに対して、悪く言えば英二はいつまでも2ヶ月前までの時間をひきずっていた。
 それは、のみではなく。だけが気づいている事実ではなく。
 彼のテニスコートに立つ姿を知っていた人間であれば、誰でも気づいてしまうような。そんな現在進行形の事実。

「……駄目なやつって、思うかもしれないけどさ」

 英二が小さく呟く。はそっと視線をあげる。

「でも、俺まだだめなんだ。何かやり残した気がして、仕方ない」
「……英二?」
「まだ何かできたはずなのに、全然やりきれてないのに。……なのに、引退なんてさ」
「……」
「やっぱり、辛い」

 綺麗な漆黒、光を受ければ透けるような茶色をしてみせる瞳に翳が落ちる瞬間を、は見逃さなかった。できることなら見たくないと思ってしまう、そんな悲しい色をは拾ってしまい、そして、見えないようにそっと視線を下ろした。
 英二の心の中を侵食しつづける何かに、言いようのない不安感を抱く。
 鳴り響くチャイム。それでも動かない視線。
 見つめる先には、いつもと同じようにテニスコート。
 けれど、こんな時になっても喉奥から出てこない言葉には息苦しさを覚える。

(下手なことは言えないって、分かってるけど。でも)

 高校に行ってもテニスは続けられるよ。皆と一緒にテニスができるよ。
 今でも後輩の練習に参加することはできるんだよ。
 役不足かもしれないけど、少しだけなら私も付き合えるんだよ。
 はぎゅっと理科の教科書を握り締める。けれど、それまでだった。
 喉元まで出てはすぐに死んでいく言葉たちも、どれもが今の英二に聞かせるに値するものとは思えなかった。相応しいどころか無責任極まりなくて、思いやりの欠片もない。そんな気すらした。
 けれど励ましてあげたいと思う気持ちだけは、嘘偽りのないものと思いたい。
 元気になってもらいたいと思う気持ちも、心からの本音だと信じたい。

「ねえねえ、英二」
「なに?」
「あのね、ちょっと耳かして?」

 チャイムが鳴り終わり、誰もいなくなった教室はしんと静まり返っている。廊下伝いに隣のクラスから英語教師の声が飛んでくる。授業時間となってしまった学校内において自由な時間を確保している、その罪悪感に囚われながらもは英二を手招きして、そして。
 出逢った頃よりも大きくなった、たくましくなった恋人にそっと耳打ちをした。

「明日、デートしよっか」
「明日?」
「うん。ね、映画でも見に行こう?」

 制服の袖を引っ張って、少しだけ制服越しの温もりを堪能して。
 せめて英二の心に宿る思いが、もっと柔らかい表情を出させてくれるものであってほしい。指先からその願いだけが届いてほしい。
 そんなことを思いながら微かに首を傾げて英二の顔を覗き込むと、少しの間は唖然としていた英二もしばらくして苦笑した。

「俺が今金ないって知ってて言ってんの?」
「まさか。自分の分ぐらい自分で出すよ」
「えー、それは嫌だ。俺のプライドに関わる」
「そんなプライド捨ててください」
「それぐらいもたせろよー、俺に勝てるものがなくなるじゃん」

 他愛のない会話ひとつひとつに零す笑みがどれほど柔らかいか、この人は知らないとは思った。
 いつのまに成長したのか、いろいろなところが大人になっていた。昔を思い出せば急成長を遂げたと実感せざるをえない身長も、テニスラケットをもつせいで少しだけごつごつしている大きなてのひらも、3年間という年月を実感させるようなその力も。
 それが大人の証明になるかと問われれば答えは否かもしれないけれど、それでも確かに英二は尊い時間を費やす代わりに胸が苦しくなるような成長を手に入れていた。

(きっと、好きで仕方ないんだ)

 心を苦しくさせるほどの嬉しさは、あまりない。改めてそう感じながら。
 なに? と尋ねてくる英二にはふるふると首を横に振り、冬の制服に抱きつく。
 励まそうなんて結局タテマエなのかもしれない、はそんなことを思う。
 結局自分がこの人と一緒にいたいだけで、落ち込んでいる姿を冷静に見ていられるほど心に余裕がなくて。ただそれだけなのかもしれないと思う。

「授業遅刻だよー、。わかってんの?」

 この頭を撫でてくれる優しい手は、誰にも渡したくないと平気で思う。
 苦笑まじりに抱きしめ返してくれるこの温もりを独り占めしたいと勝手に願う。
 そんな我がままな感情を恋愛と結びつけていいものなのかと思えば、結局はエゴという言葉で言い換えられそうなこの思いを綺麗事として扱おうとしている自分に気づかないでもないのだけれど。
 だからこそ、恋人にとってこの幸せが共通のものであってほしいと心から思う。

「わかった、明日な。映画見て、ご飯食べに行こう?」

 甘えの仕草をおねだりと解したのか、英二は苦笑をもらしたまま同意した。
 明日1日を費やすことによって英二の思いが昇華されるわけではない。世の中というものがそんなにうまく流れてくれるとはもちろん思っていない。
 ただ、それでも。たとえ一時だけであっても、心が休まる瞬間があってほしい。
 そのことを願い、は笑って頷いた。

「明日寒いかなあ、コートそろそろもってきた方がいいかな」
「夜になったら冷えるし。もってきなよ」
「うん、じゃあそうする」
「……ていうかそろそろ授業行った方がいいよな」
「……うん、そうかも」

 お互い何の緊張感もなく笑いあってからそっと離れる。
 日常生活はあまりに馴染んでしまったもので味気なくもあるけど、それでも苦痛を伴うものでもない。それが一番平和な証なんだと、今となっては思える。

「あ、俺不二のノート借りっ放しだ」

 その時、教室を出ようとした瞬間英二が小さく叫んだ。

「不二君の?」
「この前の宿題写させてもらったから。やっべ、持っていかないと怒られる」

 持ってて、と渡された教科書とノートを受け取り、は相変わらず気の抜けたところのある英二の性格に苦笑せずにはいられなかった。大きくなっていてもこういうそそっかしいところはあまり昔と変わっていない。
 その時。突然渡された教科書の間から、ひらりと薄い紙が零れ落ちた。
 書類は微かな音を立てて床に落ち、は何気なく視線をおろして、そして何の意図もなくそれを拾った。それが当たり前のはずだったのに。
 ただ、拾った瞬間にそのパンフレットに書かれた文字に目が止まっただけのこと。
 その文字に、見覚えがあっただけのこと。

(……『淑徳学院』?)

 読み上げた瞬間に心臓が凍りそうになった事実は何を伝えているのか。
 の中にあった薄っぺらな知識が伝えていたもの、それは。

(高校テニスの強豪)

 英二のテニスに寄せる思いがどれほど強いのか、は知っている。
 青学テニス部がどれほど彼を大人にさせたのかも知っている。テニスはもはや英二の人生にとって欠かすことのできないもの、これから先も欠けさせてはならないもの。それを痛いぐらいに知っている。
 ただ、突きつけられた現実はあまりにも突然だった。
 カタカタと揺れる窓。吹き荒れはじめる秋風。
 冬を運ぼうとするその音すら耳に入らない状態で、ただは言葉を失った。



>>02.示された道


03/11/22