| 雨より優しく 01 |
「あ、雨」 窓ガラスにぶつかる音に気付き、は顔をあげて呟いた。 薄暗いなあと感じていた教室の中、気付けばどんよりとした雲が空一帯を支配していて、そこから零れ落ちてくる透明のような雨の線が地面へと打ち付けられ始めていた。 折り畳み傘は持っているし、時間はそろそろ午後6時。けれどテスト前でもないから恋人はテニスコートでまだ部活中なはず。 最後の書類をホチキスで留めて、とりあえずまとめる。明日の学祭打ち合わせ用の書類はこれで全部仕上がったことになる。 窓を閉めながらテニスコートにそっと視線を向けると、小雨の中部員たちが木々の下などで雨宿りしているのが窺えた。部室に戻る気配がないところを見ると、きっと雨がやむのを待って練習を再開するのだろう。 そんな中、三階からも分かる英二の笑い声が少しだけ頬を緩ませる。 大石や不二と、笑い声ばかり飛んでくる会話。 「あーあ、濡れたまま笑っちゃって。風邪ひくよ」 頬杖をついてその様子を見ていても、いつものことながら笑みしか浮かんでこない。 苦笑した後、電気を消し、ドアを閉めては3年6組をあとにした。 「、帰るの?」 テニスコートからかけられた声に視線を向けると、フェンス越しに恋人が自分を見つめていた。小雨に濡れても何も気にしていないのか、英二は勿論傘なんてさしていない。スポーツをする人間のくせに全く雨を厭わないあたりには苦笑して、頷いてからフェンスに近寄った。 「まだ練習だよね? 風邪ひかないようにね」 「風邪? あー、引くかも。濡れたし」 英二はそれだけを笑って呟くと、フェンスの向こうで手招きをする。 笑みを浮かべて、そこがテニスコートだということも不二や大石が見ていることも気に留めないでの手招きは、大抵の場合お願いの意味。 「何のお願い?」 苦笑して尋ねる。けれど、意味ありげに英二が笑うのとコート内で手塚の声が響くのとが同時だった。 その招集の掛け声に英二は眉根を寄せてため息をつき、「手塚の馬鹿」と呟いたあとそっとフェンスに指をかけて呟いた。 「キスしようかと」 「英二の方がおバカ」 悪戯好きの子どものような笑みを浮かべる英二には即答。 と、口にはしてもそういうことを心底嫌っているわけではないから思わず苦笑が漏れてしまうのだけれど。 相変わらずだけれど、この相変わらずの態度を見ると落ち着く自分がいたりして結構おかしい。はそう思いながら英二の額を人差し指で軽く押した。 「って」 「真面目に練習すること」 「分かってるって」 「菊丸!」 ついに名指しで部長に呼ばれ、英二は深くため息をついてフェンスから離れた。 別れ際、さりげなく手を振ってくれるあたりに自然と頬が緩み、胸の内で応援してからもフェンスを離れてテニスコートを後にした。 雨は止む気配もなく、傘に打ち付けられるその音は次第に強まっていく。 学校から駅までの道のりをいつものように一人で帰る。基本的にバスは使わない。平日は英二の部活を待っていることは稀で(大抵英二に帰らされる)、また次の日の朝会えることを楽しみにして歩を進めるしかなかった。 その日は雨が降っていること以外いつもと変わらなくて、何に意識を向けることもない。 毎日の繰り返しのように、ただ当たり前の時間が当たり前の雰囲気で流れていくものだと思っていた。 その声が届くまでは。 「ねえ、そこの人」 背中に突如飛んできた声には一瞬足を止め、周りに自分以外の人間がいないことを認めてからゆっくりと振り返った。 少しずつ激しくなってきた雨に聴覚を襲われながら、視界を覆われながらその人物へと視線を向ける。 「……何ですか?」 目の前には、濃紺の傘をさした男子中学生が一人でこちらを見つめていた。 傘を肩に緩く預けた恰好で尋ねた後、はその姿に思わず眉根を寄せる。 この付近では珍しい、それでもどこか見覚えのある制服。テニスの試合会場で見た制服だということを思い出すまでには少し時間がかかったけれど。 山吹中だ。何を言うでもなくその姿を見つめて、は心の中で呟いた。 「あんたさ、青学でしょ?」 英二よりも少しだけ高いかと思われる背丈。背中に背負っているのはよく英二の部屋に転がっているものと同じメーカーのテニスバッグ。 山吹中のテニス部員、という連想を済ませたあとでは小さく肯定の言葉を口にした。 何か悪い予感がしないわけでもなかったけれど。自分を射て殺すような視線に寒気がしないでもなかったけれど。 「それが何か」 「よく来てるよな、試合。うちの部員の間で噂になってる」 の言葉を大して聞いている素振りもなく、相手は低い声で言った。 英二の彼女になってから、幾度となく訪れていた試合会場。このあたりで行われる大会やら選手権やらは大抵同じ会場だったから、その都度も密かに応援しには行っていたのだけれど。 どことなく冷たい感じのする相手にはぎゅっと傘の柄を握り締め、何故だか危険を訴える本能に従っていつでも駅に向かって走れるように気持ちの準備だけしておいた。 「で、調べてみたら菊丸英二の彼女らしいってことが分かったわけ。しかもかなり大事にされてるみたいじゃん、あんた」 ぱしゃん、と水溜りがはねる。白い制服に汚れた斑点が飛びつく。 一歩分距離が縮まっただけで、空間が狭くなっただけで肌が苦痛を訴えるようだった。びりびりと痛いものが突き刺さり、鼓動が速くなって背中を嫌な汗が流れていく。 地区大会で青学は予想通り優勝を決めた。勿論その優勝メンバーの中に英二もいた。 大石とのゴールデンペアできちんと一勝に貢献し、相変わらずのあのプレイのせいで前にもまして名前と顔を知られるようになっていたことは、ここ最近他校生が校門で待ち伏せをしているところを見れば言わずと知れた。 けれどそれは決まって女子で、自分を邪険にするのも英二にふられた、そんな女の子たちだけだったのだけれど。 「……だから何」 思わず一歩、小さくあとずさっては小さく聞き返す。 英二絡みでくっ付いてくる火の粉は気にしない。英二といられる嬉しさが差し引きしても十分気持ちをプラスにもっていってくれたし、何よりそんなものに負ける気もさらさらなかった。 けれど今は別だと頭の中で警鐘が鳴り響く。 「テニスってメンタルなスポーツだからさ」 「っ!」 重苦しい息を飲み込んだその瞬間、傘を持っていた右手首にいきなり重圧がかかっては思わず顔をしかめる。 その痛さに指先まで痺れ、傘が簡単に雨粒と一緒に地面に落ちる。髪に、肩に落ちてくる冷たい雨にはっと顔をあげると、その男の顔が目の前にあった。 「あんたに何かあったって知ったら、菊丸どうなるかな」 「……何かあったら? 都大会前日でもないのに、今何かあったって何の影響もないでしょ」 冷たい、見下すような目をは睨みつけた。気弱な態度をとるなと心に訴えて、普段でも取らないような頑とした態度で。 中学生のすることなんてたかが知れている。理屈じゃ納得出来るはずなのに、けれど今自分の手首を掴んでいるその手が本気だということをじんじんとした痛みの中で理解した。 そんなの本心を見抜いているのか、男は失笑した。 「試合中に怒りで我を忘れるだけでも、十分影響してくるんだぜ。テニスって」 それだけ言うと、男はぐっと更に力を込めて握り締め、雨に打たれるを駅の方へと引っ張っていこうとする。 勿論どれだけ足掻いても男に敵う力なんてが持ち合わせているわけがなくて、簡単に身体は従属の態勢になってばしゃばしゃと水溜りの中に足を踏み込んでいくしかない。 「いたっ。ちょっと、離して……!」 「ま、恨むんだったら菊丸を恨むんだな」 「ちょっと!」 傘を置きっぱなしにしたまま。雨に濡れ、水滴を零し始めた髪のまま。 身の毛がよだつ気味悪さを覚えて懸命にその束縛を振り払おうとしたけれど、そこは男と女の体格差のせいで解放を手に入れることは出来なかった。 このままじゃいけないと心臓が早鐘を鳴らす。掴まれた手首の血管が悲鳴を上げる。 だからはその白い背中をきっと睨み据え、最後の抵抗とばかりにありったけの力でその場に留まろうとした。その時。 雨足が一段と強くなるかのように雷鳴が小さく鳴り響いた、その時。 「、ナイス」 聞き慣れた声が背中から飛んで、はっと振り返った時には自分の傘がたたまれた状態で真横を通り過ぎていって。 その直後にガンッという、あまり折り畳み傘からは想像出来ない音がして綺麗だった白い制服に無様な汚れが飛び散った。 「って! 誰だ……!」 男が怒りの剣幕で振り返る。けれど真横の人間がそんな怒声をあげても、は何も言うことが出来なくなっていた。 何故って、そこに立っていたのは青学ジャージに身を包んだままの恋人の姿で。 傘もささないまま、滅多にすることのない真顔でこちらを見つめている英二の姿で。 「菊丸……!」 目を見開き、ありえないものを見たという感じで男はそれだけを呟く。 その声を受けても英二は何を応えるわけでもなく、左手をポケットに突っ込んだそのままの恰好でただ男を見据えていた。 |
| >>02 02/08/24 |