雨より優しく 02

「お前、山吹? 山吹の人間がなんでこんなところにいるわけ?」

 冷めた口調でそれだけを言うと、英二はテニスシューズが汚れるのも厭わないで一歩一歩二人の方へと近づいた。
 別にずば抜けて体格がいいわけではない。標準から見ればそこそこ高めな身長ではあっても、それでも今自分の横にいる男よりは小さくすら見える。
 けれど、ここにいるはずのないそんな英二の姿がそこにあるだけで、の涙腺は情けないぐらいに緩められる。
 今まで感じていなかった、というよりむしろ感じないようにしていた恐怖感がそのまま涙腺を刺激するような、そんな感覚が痛いぐらいに瞳を圧迫させた。

「英二……」

 たった一言その名前を呟くと、面白いぐらいに涙がぽろぽろと頬を伝った。
 その掠れた声と涙に、あの動体視力のいい英二が一瞬で反応しないはずがない。
 英二はわずかに顔をしかめた後視線を落とし、重いため息をついて普段からは想像出来ないきつい瞳で男を睨み据えた。

「ねえ、知ってんの?」
「何をだよ……!」

 英二のその一言に途端男があとずさる。手首を握り締められたままのも自然それにつられて一歩後ろへ後退させられる。
 雨がだんだんとひどくなる中、髪にも頬にも雨粒を零したままの姿で英二は感情のない、けれど揺るぎない口調で呟いた。

「その子、俺の彼女」
「知ってるさ、だから今こうなってるんだろう?」
「はー。知っててやってるんだ。へえ、それはそれは」
「……なんだよ、何が言いたい……!」

 開き直りかけた男の言葉はそこで途切れた。
 が涙を流すのも忘れて眼を丸くした時は、英二の脚が男の脛(すね)を蹴り上げているまさにその瞬間。

 サッカー部ではなかったけれど、基本的に基礎体力は優れているのがテニス部レギュラー陣。そのある種「並の強さ」じゃないだろう脚で脛を蹴られているシーンというのは、からしても思わず頬を引きつらせてしまうような場面であって。

「こ……この……!」
「! 英二!」

 幾秒か痛さで震えた後、男はぱっとの右手を解放したかと思ったらそのまま英二に殴りかかろうとした。

 右手を拳にして、制服姿だとか暴力沙汰だとか、そんな苦しいこと何一つ知らないかのように飛び掛った、まではよかったけれど。
 異常なまでの英二の動体視力にやっぱり敵うはずがなくて、勢いのついていたはずのその拳は呆気なく英二の左手に止められた。

「あのさあ、お前もテニス部なんだろ?」

 愕然としている男にため息をついて。相手の動きを威圧感で止めたまま、ゆっくりと右手で地面に落ちた傘を拾って。そして。

「だったら手は大事にしろ……っての!」
「っ!」

 それだけを言うと、英二は利き腕で掴んだ傘で相手の腹部を思い切り殴る手前で止めた。
 瞬間的に男が息を飲むのと、英二が「冗談」と呟くのと、が腰を抜かしそうになるのが同時で。
 が言葉を失うのよりも早く、男は唖然とした表情でそのまま後退し、ばしゃんという音を立てての代わりに腰を抜かせた。突然の行為とその結末に、はただただ目を丸くするしかない。

「これぐらいで腰抜かすんなら、誘拐沙汰なんて引き起こすなって」

 ため息まじりに英二が呟く。一つ大きく息を吐いて。
 普段からは想像出来ない英二の一面に衝撃を受けるというよりも、自分を守ってくれたその態度に胸の鼓動が速くなってしまうあたりがなんとも情けない話だったけれど。

、手平気?」

 右手首にすっと温もりが寄せられて、言葉をなくしたままが顔をあげるとそこにはいつも通りの英二の顔があった。
 大会前だというのに雨にひどいやられ様。朝整えてくる髪も水気にやられて少しだけ重そうで、雨を吸った鮮やかな青のジャージがくすんで見えた。

 自分もずぶ濡れであることは重々分かっていたけれど、それでも英二のその姿の方がよっぽど深刻さを伝えているような気がして。

「英二、風邪ひく……」
「てっめ、菊丸……!」

 が濡れた頬へと手を伸ばそうとした時、男が言葉を遮って電信柱を支えに濡れきった身体をゆっくりと起こした。
 その瞬間、はつい数分前と同じように右手を引っ張られた。
 ただし今回の相手は大好きな恋人で、なおかつ連行先はその温かい背中。

 英二はを背後に匿った後、相変わらずの飄々とした態度で言葉を返した。

「殴らなかっただけマシと思えって。もし部活抜きにしてたら絶対一発じゃ収まってない」

 今でも簡単に甦ろうとする恐怖心は英二のくれる温もりに呆気なく殺される。
 何も言わず背後へと隠してくれて、そしてそのままずっと手を握り締めてくれていて。

 はそんな英二にありがとうと心の中で呟き、そしてそっと背中から視線を向けると男は大きく舌打ちをして英二を睨み据えていた。けれどそんな表情を目の前にしているのに、英二は別段気にも止めていないようで。

「そもそもさあ……テニス部員なら堂々とテニスで勝負しろって。ま、俺は負ける気なんてさらさらないけどさ。な、

 さらりと当然のように言い放った後、英二は振り返ってに笑いかけた。
 本当ならもっと緊迫していいはずの場面なのだけれど。自分はもっと恐怖に怯えて、そして英二ももう少し緊張のカケラ程度なら持ち合わせてもいいはずなのだけれど。
 けれどその笑みを見てはつい苦笑し、こんな時でも平然としていられる英二におかしさの涙を浮かべながら頷いた。

「大石君のおかげで」
「なんだよそれ、感謝の気持ちが少ないぞ」
「してます、たくさんしてます」
「その涙目が嘘っぽいんだって」

 その涙を浮かべさせているのは英二本人なんだけどな、とは思っても口には出さなかった。
 そんな和やかな雰囲気はいつものことだったけれど、それに耐えられない人間というものは必ずいるわけで。そもそも恋人同士の会話を聞いて嬉しい人間など滅多にいないわけで。

「くっそう……覚えてろよ!」

 三文台詞を吐き捨て、謎の山吹中学男子テニス部員は汚れた制服姿で駅へと向かって激走していった。

 お決まりな退場の仕方に二人が唖然としていると、途端雨がその存在を大きく訴えてきてずぶ濡れであることに気付かせる。英二を見ればずぶ濡れもいいところ、情況は悪化していてワックスの落ちた髪は元気をなくしていたし、ジャージはまるで洗濯直後脱水直前のような有様だった。

「なんだありゃ。本当に山吹の奴か?」

 目を丸くする英二に苦笑した後、英二の手の中から傘をそっと抜いて改めてさす。
 完全に濡れきっていた身体にはもう無意味のものかもしれなかったけれど、小さな折り畳み傘に二人で入ることが出来るということがやけに嬉しかったりするわけで。
 そっと英二に視線を送ると、いつも通り笑ってくれる恋人に自然と頬が緩んだ。

「英二」
「ん?」

 何も言わずに傘を取り、何も言わずに濡れきった前髪を梳いてくれる。
 10cm以上身長の高い恋人のそんな何気ない仕草に胸が熱くなりながら、はぎゅっとジャージの袖を握り締めて呟いた。

「ありがとう」

 どうしてここにいるのかとか、そんな細かいことはこの際無視してでも今の気持ちを伝えたくて仕方なかった。

 ありえないことを平気でやってのけて、しかも平然としていられる英二に感服するしかない。嬉しさと尊敬が混ざり合って、本当にこの人が恋人であることに改めて感動じみた思いを抱かずにはいられない。

 そんなの気持ちを知ってか知らずか、英二は笑って小さく首を横に振った。

「今のは『ありがとう』じゃなくて、もっと他に言ってもいいことがあるんじゃない?」

 ていうか何かくれると俺喜ぶかもよ? なんて、これまたさらりとお願いをしてきて。
 それがお願いというか請求だと分かるのは、この至近距離で手招きをしてみせるからで。

 大人なのか子どもなのか。両極端なものを合わせ持ったままの英二には苦笑し、そっと瞳を閉じて優しいキスをした。





 その後雨が降り止まないことを理由に部活が中止となり、一緒に帰りたくなったがために慌ててジャージのまま自分を追いかけてきていたということを、は学校に戻る帰り道に教えてもらった。

 もう頭の中にはあの謎の山吹中生徒のことなど欠片程度でしか残ってなく、そもそも制服着たまま(要するに山吹中だということをありありと示したまま)あの行動に出たって別に何も出来ないんじゃないの? という意見で落ち着いて消去の方向に進む。はずだった。

「菊丸、本当にすまなかった」
「ごめんねー、菊丸君。いやあ、だって雨の日って部活なくなっちゃうじゃん? だから皆でUNOしてたんだよね。あ、勿論俺はラッキーがあるわけだからずっと勝ってたんだけどさ、あいつは運にも見放されて延々負け続けてたわけだよ」
「……悪い、罰ゲームが『青学レギュラーの彼女をたぶらかせ!』だったらしく……。あ、いや、それは勝手に千石が決めただけで他のメンバーは全く知らされてなかったんだ」
「にしても君の彼女結構有名だよ? 会場であんなに一緒にいたらそりゃばれるって。彼女可愛いよねえ、羨ましいなあ」
「千石ー!」
「なんだよ、耳元で叫ぶなよ地味's。あ、今日は南だけだから『地味』?」
「だからついてくるなって言ったんだー!」

 テニスコート前。たまたま図書館に用事があってその前を通ろうとした際、白いガクラン二人組が英二を前に漫才をしていた。……ツッコミ係はかなり大変そうだったけれど。

 英二は背中を向けていたので表情は分からなかったけれど、それでもあの英二が何も言葉を挟めていない情況を見る限り、ひきつった笑みを浮かべているであろうことは容易に想像が出来た。そ向かって左側のあの有名人を見つければそれも納得のいく話だったけれど。

さん、何かあったの?」

 苦笑する不二に尋ねられるけれど、もひきつった笑みを浮かべることしか出来ない。

 かの有名な千石の姿をここで見る、英二に(一応)謝っている山吹中生徒の姿を見るということは、なんとなく以上にこの前の記憶と結び付けなくてはならない。けれど結びつけようにもあの和やかな雰囲気に何故か脱力感ばかりが漂う。

「……山吹中って、テニス強いんでしょ? 不二君」
「うん、強いよ。あんな風だけど」
「……あんな風、ね」

 罰ゲームの誘拐沙汰事件に何とコメントしてもよいか分からず、とりあえず一人で対処しようとしている英二に背後5メートルでごめんなさいと両手を合わせた。
 勿論、お願いしますという意味のごめんなさいで。



02/08/25