01.桜の手招き
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 桜に囲まれ、桜が出迎えをしてくれる学校だった。
 咲き渋ることを潔しとせず、風に煽られふわりと宙に舞うことを凛として受け止める。言葉は交わさずとも、その荘厳さに目を奪われてしまえば、彼らの心情がまるで手に取るように分かる気がした。
 青春学園中等部入学式の日、そのあまりの絢爛ぶりに息を飲んだことは今でも鮮明に覚えている。日本に生まれ、日本に育ってきたからには桜などというものはさして珍しいわけでもなかったが、それでも目を奪われてしまう感覚に身を任せることに嫌悪感はまったくなかった。それを許す空気が、あの日あの場所にあった。
 それは大切な、特別たる日。
 中学生としての第一歩。中学生としての、最初の1日。
 真新しい初めての制服がもたらす高揚感に飲み込まれても、誰も文句を言わない。今日という日は、そういう日だ。すべてが新しく始まる、まさにその時なのだ。
 は小学校の頃とは比べ物にもならない大きな校舎を仰ぎ、ひとつ息を零す。舞い降りる桜の花びらが揺れる中、自分と同じ制服を着た同級生たちが正門を通り抜けていく姿が視界に映り、通り過ぎていく。

「あっ、君は三小の……!」
「……僕のことを知ってるの?」
「もちろん! 有名じゃないか。そうか、同じ学校なのか。うわあ、感動だなあ。よろしく、不二くん。俺は大石と言います。テニス部で一緒になるかな?」
「ああ、なるほど。よろしくお願いします」

 小学校時代の同級生の母親に出会い、話し始めたまま戻ってこない母親を待つ時間は、いつしか新入生の顔を眺める時間になっていた。
 様々な小学校から、400名近くの同級生が集まっている。緊張の面持ちは女子の専売特許でもないらしい。校門付近は入学式までまだ時間があると見た父兄や同じ新入生たちがぎこちなさや懐かしさの混じった声を響かせている。几帳面にお辞儀をする新入生らしき男子ふたりの姿に、は思わず見入ってしまう。
 だからその時、母親に淡々と説教をされていた少年の姿も自然と目に入っていた。

「こら、英二! どうしてあんたはこういう時にもおとなしくできないの!」
「うわっ、いってえ! 制服引っ張るなよ母さん!」
「お兄ちゃんたち見たら分かるでしょ、あんたはそのうち無理やり大きくなろうとするんだからちょっとぐらい伸びても問題ないわよ」
「うわ、それこそ無理やりだし!」

 少年は着物姿の母親に軽く頭を叩かれていた。あ、とが目を丸くした時、少年はわりと大きな目で自分よりも背の高い母親を不服そうに見上げて眉根を寄せ、唇を尖らせる。つい興味本位で耳を澄ませば、文句の言い合いは終わることを知らないように続いていた。

、行くわよ」
「あ、うん」

 少年はまた頭を叩かれる。観念するというよりも抵抗することに飽きたというように苛立ちたっぷりの表情のまま、少年は桜を見上げていた。
 散り方を華麗に演出する桜の花びらが泳ぐ。春風は隣を通り過ぎようとする時に一度ふたりの視線が絡むことを許可したあと、桜を載せて校庭を流れて視線をするりとほどいた。



、頼む!」

 あの時の怒った瞳は、頭を撫でていた手は、よく目の前に現れた。
 決して大きくはない手のひらが拝むように合わせられる。は学級日誌に今日の授業を書き込んでいた手を止め、静かにその手を見つめた。そして今更ながら、彼が自分の名前を呼ぶことに妙に動揺する自分がいることをどう考えてよいものかと悩む。
 の記憶が正しければ、4月の入学式の段階ではまだ自分は「さん」だった。けれど気づけばいつのまにか「」と呼び捨てにされ、そして9月、現在に至る。
 言葉になったのはもう何秒も前なのに、それでも耳の奥では今でも簡単に響く。聞き慣れたはずの自分の名前が、今までに経験したことのない妙な色を伴って聞こえる。

「……頼むって、なに? いきなり。どうしたの」

 覚えた違和感もそのままに、けれどできうる限りの平静を装って尋ねる。5時間目の授業が終わったばかりの教室内は、クラス担任が学年一だと嘆く騒がしさに包まれていて、さきほどの彼の声など誰も気にしていなかった。

(本当に誰とでも仲良くなれる人だなあ。変に意識しちゃったら駄目なんだろうな、きっと)

 は小さくため息をつき、黙って目の前のクラスメイトを見つめる。の前の席に逆向きで座るという姿勢の横着さよりも、それを「似合う」という言葉で許容したくなるこの現実の扱い方にほとほと困り果てながら。

「そんなー、俺がに頼むっていったらひとつしかないじゃん」
「頼まれすぎててもうどれが正しいのか分かりません」
「優しくないぞ、
「困らせすぎです、菊丸くんは」

 が名前を呼ぶと、その男子は悪びれた様子もなく笑った。

「まあまあ。学級委員になる人だったら、多分俺なんかの考えてること絶対分かるし」
「分かんないよ、本当。しかも学級委員もうすぐで終わるし」
「それはそれ。でもだったら分かってくれてしかも理解もしてくれる。って、俺は思うなあ、思っちゃうなあ。どう?」

 菊丸は相手の心にどっしりと重く残る、妙な緊張を生み出す言葉を平然と使う人だった。
 思い返すは入学式。あの桜の花びら。それこそ偶然という名前で処理できる出会い方をしていた男子は、偶然という言葉の意味をに悩ませる張本人として再び現れた。それが1学年12組もあるこの青春学園中等部で、12分の1の確率で同じクラスになった、菊丸英二という男子だった。

(光丘小学校の男子って、みんなこんなふうなのかな。うーん、でもうちの小学校の男子もこんなふうだったかなあ。あ、でもうちは人数少なかったし、小さい頃から顔見知りばっかりだったから当たり前かなあ……分かんなくなる、本当)

 屈託のない笑みを浮かべて話しかけてくる菊丸の様子に、幾度自分の過去を振り返ったことか分からない。菊丸に悟られないようにしながら、は心の中でそっと呟く。
 この半年、菊丸と同じクラスで過ごして分かったことがいくつかある。その最たるものが、彼の驚くまでの人懐こい習性だった。9人家族の末っ子であるということを聞かされた時のあの合点がいった気持ちは今のところ他に例える術を知らない。
 毎日ひとつずつ、確実に増えていく菊丸の情報を丁寧に蓄積し続ける自分の感情についても、説明の仕方はよく分からなかったが。

「でも、本当。なにがしたいのかは言ってくれないと分からないから」
「え、そう? 今日放課後の会議欠席させてっていうことなんだけど」

 そんなの微妙な心情など欠片も気づいていないのだろう、相変わらずの屈託のない笑みを浮かべながら菊丸はそう切願した。
 はシャープペンシルを握り締めたまま、目を丸くする。その予定を日誌に書き綴っていた張本人を前に堂々と願い出る、その度胸にため息が出そうだった。

「なにを言うのかと思ったら……。そんなこと、だめ」
「え、なんで」

 途端菊丸は眉根を寄せた。不機嫌があらわになる。そのような態度に出ることは簡単に予想できたが、も学級委員という肩書きの手前簡単に引き下がるわけにはいかない。
 気づけば、クラス中の全員が「またか」という苦笑の視線を向けている。しかしその視線にがたじろいだ瞬間、ここぞとばかりに菊丸はたたみかけてきた。

「協力してくれよー、俺の部活人生がかかってるんだって」
「え? 部活?」
「俺、これでも1年の中だったら結構いいところまでいってるんだよね、本当だよ。そんな有望な俺の未来をつぶすんだは、ああ冷たいなあ冷たい」

 覚えたことのもうひとつ、この男子は要領がよすぎるということをは憮然と思い出す。
 彼は自分が部活という言葉に弱いことを知っている。かつて彼の願い事をむげに切り捨てることができなかったことをすべて覚えている。それらを許しているのはすべて、彼に対する想いひとつの上に成り立っているかもしれない事実を絶対に見透かしているに違いない。
 露呈したがるなにかを必死にこらえながら、は小さく首を横に振った。

「それでもだめ。あのね、みんなだって帰りたいのに我慢して残ってくれるんだよ? しかもクラスの話し合いなんだし。菊丸くんだけ特別扱いするわけにはいかないよ、そんなの」
「いいよいいよ、そんなこと気にしなくて。俺だったら多分みんな許してくれるから」
「気にするとか気にしないとかじゃなくて、みんなが許しても私が許さないの」
「なんだよ、。けち」
「けちもなにもないし……」

 もはや逃げ出したいという言葉がぴったりな気分だった。だがそれでも席を立てない、そんな自分を見透かしているのか菊丸は怒りと余裕を同居させた表情を浮かべている。
 菊丸の人との接し方は、どこか反則だ。いやむしろ卑怯だ。ひとつの扱いに困る感情を持ち合わせてしまった身体には酷すぎるほど、その触れ合いは毒気がありすぎる。
 動揺したがる心臓に気づかないふりをしながら、は学級委員任務を忘れるなと何度も呟いた頭でようやくもう一度しっかりと首を横に振った。

「とにかく、絶対無理。だめ。いくらテニス部だからって特別扱いできないよ」
「ええ?」
「ええ、じゃないし。ほら、早く。席戻った方がいいよ」

 暗に彼の我がままを非難した、そのつもりの言葉だった。シャープペンシルをしっかりと握り締めながら口にしたの言葉に、一瞬菊丸は目を丸くして黙る。
 効果があったか、と。安堵の感情を手に入れてもいいかと思ったその瞬間、しかし菊丸の眉はみるみるうちにひそめられた。

「学級委員に頼むことのどこが卑怯なんだよ。めちゃくちゃ正攻法だし、これ」

 とんでもない正論だ。しかし自分には想像することもできない攻め口に、正論という言葉のもつ凶暴性を思い知る。

「……正攻法にも種類があるの。今菊丸くんがしている正攻法は、普通にずるい方法」
「そんなわけないって」
「そんなわけありすぎ」
「あるわけがない!」
「……菊丸くんの世界でだけね。でもね、残念なことにここは1年6組なんです」

 そんな押し問答を繰り返しながら、は考えていた。

(きっと、菊丸くんのことを好きな女の子っているんだろうなあ)

 表情に出てしまわないように必死に気を遣いながら、菊丸英二という人について考える。
 屈託のない笑み、話し方は誰にでも向けられる。そこには常に空気を柔らかくする雰囲気があって、それが彼の人気の一端を担っていることは誰もが気づいている。
 けれどその裏にある彼の「努力」に、一体どれだけの人が気づいているだろう。

(違うよね、思ったことをすぐ口にしちゃうってみんなは言うけど、でも、それは相手によってレベルが違うよね。それに全部考えもせず言う人だったら、絶対嫌われる。なのに、みんな嫌ってないんだもん。話してるんだもん、男子も女子も)

 それに気づいた自分。そう思いたい自分。
 菊丸のことを考える人間などごまんといる。どのような感情から考えるのかは人それぞれだが、それでは自分が考える理由は何だろうと、ふと冷静になる。

「どうしてさぼりたいの?」
「え?」
「さぼりたい理由。……なに? 本当はさぼっちゃいけないんだけど、でも」

 彼に見つからない机下、まるでなにかを守るように五指を組んで尋ねた。
 いつも、こうだった。
 菊丸の顔に勝利の笑みがふっと浮かぶ。丸みの取れていない幼さの残る顔の中に時折表れる、その優位を自慢するような笑みは嫌いではない。引き込まれることが当然で、見つめることが常識で、向けられる言葉をせがんでしまうような気分になることが、いつものことだった。

「俺がこの学校で一番優先したいものなんて、そんなのひとつだけだし。当たり前だよ」

 後から思えば、幼さとはかみ合わない笑みは常にその話題とともに表れた。
 その言葉に正当性以外のなにを感じればいいのか、分からなくなってしまう。
 ああ、と心の中の誰かが感嘆のため息をこぼす。そうだ、彼はこの言葉以外は発してはいけないのだとすら思えてしまう。

「……部活。テニス部」
「あたり。知ってるじゃん、

 答えると、菊丸は嬉しそうに笑った。夏服のカッターシャツの下から伸びる腕は、綺麗に日焼けしている。思えば春、入学式で初めて出会った時よりも確実に。

「すっごい強いやつがいるんだ、お前1年じゃないだろってつっ込みたくなるぐらい。初めて見た時はこんなの同級生にいるとか絶対無理とか思ったけど。……あ、これ内緒な。こういう言い方するとものすごく怒る友達がひとりいるから」

 伏せ目の笑みが一瞬だけ大人びて見えることをその時初めて知った。長い長いと単純に思っていた睫が本当は艶を零していることも知った。

「でも、本当はさ。あいつ見てるとなんか、俺ももっと練習しなきゃなって気になるんだ。あいつには言ってないけどね。そりゃ1年でいきなりレギュラーなんて無理かもしんないけどさ、来年あのジャージを着て、それで大会に出るんだ。そのためにはやっぱりめちゃくちゃ練習しなきゃ。俺だって青学レギュラーになれるんだっていうこと見せ付けてやりたいんだよねー、ああテニスしたい! 早く授業終わんないかな、本当」

 挑むような視線で窓の向こうを見つめる。もつられてそちらに視線を動かせば、その薄いガラスの向こうにテニスコートがあった。

「レギュラーかあ……本当、取れたらすごいね」
「取るよ。絶対に」
「レギュラーだけなんだよね? あの、青いジャージ」

 青学の男子テニス部が関東でも名を知られていることぐらい、この学校にいる生徒であれば誰もが知っている。選ばれたメンバーのみが着ることを許されているレギュラージャージはもはや古豪であるがゆえの象徴のようになっていて、も自然と学園の生徒の知識として覚えてしまっている。

「そう。絶対着るんだ、あのジャージ。あ、そうか。分かった、俺。なあ
「え?」
「レギュラージャージ取れたら見せてあげるから。だから今日、休むっていうのはだめ?」

 付け焼刃に等しい知識に、嬉しそうに笑みを投げかけてくる。の机に両腕を置いて、思わず座ったまま後ずさりをしてしまいそうになる距離の短さを、平然とやってのける。
 卑怯だ、と誰かは思っている。ずるい、とも誰かは考えている。
 けれどそれ以上に、今、嬉しいと喜んでいる誰かがいることを、は否定できない。
 怒らないに、菊丸はあれ、というように覗き込むようにして見つめてきた。思わず手にしていたシャープペンシルの存在も忘れて利き手で口元を覆うと、硬い音を立てて床にそれが落ちる。

「なにしてんの。ほら」
「あ、……ありがと」
でもそんなふうに慌てることあるんだ。ていうかなにに慌ててるんだよ」

 軽々とシャープペンシルを片手で拾って、菊丸はからかうように笑って差し出した。はその笑みを真正面から受け取ることができない自分に戸惑いながら、黙って受け取る。

「うーん、でも。そっかあ、冷静に考えたら話し合いさぼって部活きましたーって言ったらあいつが変な顔するなあ。やっぱりやめた」

 気づいているのかいないのか、菊丸は唐突に立ち上がると思い切り伸びをした。まるで待ち構えていたかのようなタイミングでチャイムが鳴り、小さな声が漏れる。じゃ、と反応を待たずにその右手は揺れてしまった。

「え、ちょっと! 菊丸くん!」
「なに。ちゃんと出るよ、最後まで。そういう気分になった」
「……あ、そう」
「なに、なんか問題ある? 安心しなって、ちゃんとレギュラージャージ見せてあげるから」
「そういう意味じゃ」
「え、嬉しくない? だめ?」
「……そういう意味じゃ」

 あはは、と笑って菊丸は手を振って自分の席へと戻っていった。6時間目の教師が教室に入ってきて、生徒がざわめきを振りまきながらそれぞれの席へと座り始める。
 どうしてだろう、休憩時間中一度も席を立たなかったはずなのに頬は熱い。
 なぜだろう、いつも使っているはずのシャープペンシルなのにおいそれと握り締めることができない。

(……別に好きになる必要なんかないのに。別に、私と話してくれることなんか菊丸くんにとって全然特別なことでもないのに)

 言い聞かせる言葉を用意するのは、自分の瞳が菊丸の背中を見つめた後であったことにすぐには気づくことができなかった。
 大きくはない背中に、赤茶けた髪が映える。頬杖をつくのは必ず左手であることは、彼がテニス部に在籍していることを知った後に気づいた。苦手の英語の時間は、数分と待たずに左手が活躍し始める。
 その癖を知っているのも、自分だけではないのに。
 自嘲ぎみな言葉を用意するのは、彼が恋しそうに窓の外を見つめた後だった。


 


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≫02.