| 身勝手な楔 23歳 |
天職でしょう、と真顔で言った親友の顔をしばらく思い出しては笑っていた。1年目でそれほど自信に満ち溢れていいものかと一瞬心配にもなったが、それは前向きすぎる意気込みの表れであって、その意気込みが彼女の人生にマイナスに作用することは決してないだろうとすぐに思えたし、実際その通りだった。 神戸の大学を卒業して下宿先から大阪に戻り、ホテルの結婚式場のプランナーとして就職を決めた彼女の口から、結婚式にまつわるあれこれを聞く機会が増えた。ドレスを間近に見させてもらうこともできた。ブライダルフェアとして訪れる人々も、数多く見ることができた。 「そんな顔するぐらいやったら、彼氏作ればええのに。あ、ちゃうわ。思い出せばええのに」 笑ってその話題に触れてもらえるようになった時、は23歳になっていた。 むっとして視線を戻す。京都のホテルで働く親友とは、専ら平日の夕方以降に待ち合わせをしては食事を共にした。アルコールもたしなむようになってからは、生来饒舌なその口が更に滑らかになって、最近では遠慮というブレーキすらあっさりと捨ててから自分に話しかけているような気になるほど、直接的だった。 職場から資料として持って帰ってきていた過去のブライダルフェアの写真を眺めていただけ、と言い返そうとしたが、持ってきた当の本人に何を言えばいいのか。は無言のままライチソーダを口に運んで場を濁す。生ビールから変更のない彼女は表情も変わらない。 「……言いたいことは分かるけど」 「分かるんやったら別にええよ。まあ後はご自由に、やし」 「ご自由にって」 「23にもなってお膳立ても変な話やし。ていうか忘れとるようやけど、振ったのは。勝手に別れたつもりになっとるのも。異論は?」 ありません、と答える前にライチソーダをもう一杯注文する。押し黙ったに何を言うでもなく、親友はしばらく資料を眺めた後、そっと右手を差し出した。なに、とやや眉根を寄せて問いかけると、携帯とだけ答えられる。訳も分からぬまま取り出して恐る恐る手渡そうとすると、ただ一言、「写真」と呟かれた。 「見せて、写真。久しぶりに見たいわ」 の性格を知り尽くしている親友は、笑って囁く。誰の写真かなど告げない。残っているかとも、聞かない。そしてその答えは、確かにの携帯電話の中にあった。 そこには、まだ何枚か財前の写真が残っていた。別れを切り出した直後に衝動的に目につくものから削除していったつもりが、無意識にか故意にか、何枚かその削除の波を生き抜いた写真が残っていたことに気づいたのは1年以上経ってからだった。 自分で撮った写真は、ほぼなくなっていた。その撮影に至る前後の流れも背景も覚えていて辛かったのだろう。だから手元に残されたのは、テニス部の繋がりで回ってきたユニフォーム姿の財前が多かった。テニス部の仲間たちとの写真は大抵白石か金色が撮影してに(財前の許可なく)送られていたが、一氏が何気なく撮る写真の財前は飾らなさがあってはそれがたまらなく好きで、それらを結局消去できていない現状に親友は笑った。 「白石先輩はなんでもできるわ。写真撮るのですら美しすぎる。被写体あいつやのに」 「あいつなんて言わんといて」 そうですか、と親友はにやにやと笑いながら生ビールを飲み干す。間髪入れず追加の生ビールを注文する彼女にはもう驚かないが、冷めた言葉や諭す言葉が一つも飛んでこないことにはそっと顔を上げる。 「で、それ見とる時の自分の顔は知ってんの? 」 「え?」 「私めっちゃ思い出すねん、高校の時。もう毎日のろけ聞かされてたあの時の」 微笑むのは、誰に対しての優しさか。思い出をなぞる居心地の良さのためか、それともその思い出を共有している誰かに、あの時の心情を思い出させるためか。 は問いかけず、返された携帯電話の写真を見つめる。眺める頻度が増していることは、誰かに気づかれているだろうか。消すことができなくなった写真を、本当は毎日、高校生の頃の財前を本当にとても毎日見つめていることを、誰に知ってもらいたいのか。 「お似合いやったで、二人。もったいないわ」 夜の色にとっぷりと浸かった窓越しの空の下、アルコールに飲まれた騒がしい店内で自分の周りだけ妙に静かに感じた。手元に戻ってきた携帯電話を包み込むようにして写真を見つめれば、あの頃の財前は変わらずそこにいてくれた。 テニス部の仲間との写真を最後に受け取ることができたのは、去年。大学を卒業してすぐのことだった。偶然天王寺駅で出くわした金色とカフェで時間を過ごし、元旦に一氏の慰労会を行ったことを聞いた。テレビで上々の評価を得ることができたお祝いにと、テニス部の仲間で元旦から飲み会をしていたのだという。も時間を持て余していたあの日、確かに夕方のテレビでたまたま見た一氏のネタは中学時代を思い起こさせて懐かしく、そしてやはり面白かった。 「先輩が隣におったら、もっと笑ってしまったかもしれません」 「そうねえ、アタシも別にその道に行ってもよかったんやけど。まあこれは、巣立ちよね。ユウくんの。アタシはただ見守る母親の気分よ」 遠くを見つめながら呟く金色に、その時見せられたのは飲み会での写真だった。少しだけ心苦しい、懐かしい顔ぶれ。思わず誰かを探しそうになっていたことは、金色にはきっと見抜かれてしまっていただろう。どうぞ、と手渡された携帯電話を少しだけためらいつつ、それでも受け取ってしまった自分は本当に情けなかった。 当たり前のようにそこに彼はいた。まだこの仲間で繋がっている、彼の周りは何一つ変わっていない。また少し大人びてしまった財前は、あまりカメラに視線を向けるようなことはなかったが、撮られることに抵抗がないことだけはよく分かった。それは居心地の良さか信頼感か、写真越しでも肯定の感情を心に持っていることが伝わってくる。 言葉にせずとも、こうして表情や仕草だけで色々なものを読み取ることができてしまう自分は、相変わらずだった。 「あげよか? ちゃん」 金色の言葉が響くまで写真を見続けていたことに気づいたのは、その時だった。柔らかい声に一瞬は手を止め、金色と一緒にいたことをようやく思い出す。慌てて首を横に振って携帯電話を返そうとすると、まだええよとカップを口に運びながら金色はおかしそうに笑うのだった。 「そんな顔見せられて、知らんぷりできるほどアタシも薄情やないっちゅうか」 「ち、違います。ちゃうんです、あの」 「そう? 無理せんでええのに」 それは、懐かしい言葉だった。どこで聞いたのだろう、俯きかけていた顔を上げて金色を見つめる。彼も懐かしそうに写真を眺めていたが、それ以上は何も言わなかった。それなのにその言葉はを昔に引きずり込む、とてつもない力を持っていた。 そして思い出す。無理するなと言われたのは、月の綺麗なあの夜だったことを。何が無理か分からず、けれど心に波風を立てられたような気がしていてもたってもいられなくなって、財前の温もりを求めに行った、あの夜を久しぶりに思い出した。 「好きなら好きでええやないの。間違えることなんて誰にでもあるんやから、気づいたら戻ればええだけよ」 それは、財前と距離を取ってから初めて聞かされた言葉だった。言葉が出てこなくなるそれを、2年経っても大学を卒業しても写真を消すこともできなかった自分はその言葉を、本当は探していたし待っていた。 戻るというたった一つの単語に込められたとてつもない力に、は下唇をそっと噛みしめる。甘い誘いだ。自分から逃げたくせに忘れられなかった身としては、それ以上この悩みから解放してくれる力を持った言葉はない。おそらく金色も全てを見通した上でその言葉を用いている、わざと聞かせているようにすら思える。沈黙が長引けば長引くほど、財前を忘れられない自分を金色にさらけ出している事実に気づきながらもそれでも、は何を言えばいいのか分からなかった。 写真に残る数か月前の財前は、大学で遠くからその姿を見かけていた時とはまるで違う。近くで見つめられることは特別だったのだと改めて思う。変わらないことと言えばテニス部の仲間との距離感と、そして写ってしまった左手か。は財前の左手を見て、自分の左手を思い出す。今の自分は、彼と同じようにあの指輪を外してしまっていた。 「……せやけど、先輩。難しいです。きっと光くんにとって、私は簡単に外せる指輪ぐらいかもしれません。なくても気にならへんぐらいの」 何かを言いかけた金色を、は首を振ることで遮る。涙を流したくなかったからかもしれない。 奢るからという金色の言葉を社会人と学生ですよと笑って断り、は上手く笑えたか分からないまま金色と別れた。後日金色から送られた写真は、が左手を見つめなくてもいいように財前の手元が写されていないものばかりが選ばれていて、その配慮がまたに引きずった恋心の惨めさを思い知らせているようだった。 金色からの写真はそれが最後だった。臨床実習で忙しい彼とはそう簡単に出会うこともなく、テニス部との会合ももしかしたら参加できていないかもしれない。ましてや自分から金色に連絡を取る勇気も、本当は理由もない。財前から距離を取りたがったのは、別離を選んだのは紛れもなく自分なのだ。今更何を願うことができるというのか、今更ながらに未練に気づき始めた自分をあざ笑いたくなる悲しさを抱いたままの日々は続いた。 「今日、忙しいん?」 「ちょっとねー。ダイニングで待ってて、すぐ行くわ」 そんな毎日の中、親友と会って夕食を共にする時間はかけがえのないものだった。 平日に休みを移動させることができるは、その日約束の時間まで有り余った時間を持て余して結局京都まで出て親友を待つことにした。 黒のスーツというとてもシンプルな制服だったが、2年目でも十分着こなしているのがよく分かる。あのヒールの高さでよく小走りができるな、と笑い出しそうになりながら1階のダイニングに戻ろうとすると、「あ」と声が響いた。 「18時までやったら色々あいてるし。見とってもええよ」 曲がり角からひょいと顔を出し、まるで学生時代を彷彿とさせるような悪戯好きのあの顔で囁く。彼女があのように囁く場合は大抵その通りにしなさいという意味だったので、は曖昧に笑って手を振った後、ダイニングに向かうところだった足の行き場を考える。18時までとは言うが、平日のウェディングのフロアにとってはもう片付けの時間だろう。だから今日この後約束をしていたのではなかったか、と小さな疑念も湧いてくる。 (……でもまあ、綺麗やし。見てええんやったら) むしろ見ていかないと、彼女の性格上あとでいろいろと詰問されるのが目に見えている。華やかな世界を覗かせて何かを潤わせようとでもしているのだろうか、と親友の言葉の真意を探っていたのは最初だけで、普段ホテルの宿泊程度ではなかなか踏み込めないウェディングのフロアに足を運ぶだけで妙に気分が高揚した。専属の花屋だけは既に閉店となっていたが、ウェディング担当のスタッフと話している何組かを見かけたり明日のフェアの準備をしている会場を覗き見ることができたりと、今の自分とはかけ離れた世界の中を歩き回るのは存外楽しかった。 いつか自分もこのような場所に来ることがあるのだろうか、誰と来るというのか。浮かびそうになるたった一人の人を思い出すことだけは懸命に堪えながら歩いていると、迷ったと思われたのかスタッフに丁寧に声をかけられた。親友のことを告げると、なぜか「ああ」と納得のいく表情をされて、「衣装室にいますよ」と言葉を添えられる。誘導されるようにそちらに向かえば、確かに誰かと話し込んでいる親友の姿があった。 ガラス張りの衣装室は、通路に向かって華やかな色打掛が飾られている。その衣装の向こうで膝をついて誰かと笑いながら話す親友は、仕事をこなすというよりは楽しんでいるのがよく分かる。相変わらずだな、と思わず口元が緩みながらそっと近づいて、は咄嗟に足を止めた。 「財前ー、もうちょっと笑ってよ。そんな無愛想な新郎おらんし」 「新郎ちゃうし」 「ええのええの、びっくりよねえ。いきなり衣装着てくれ言われたら誰でも驚くわよね。ごめんなさいね、お願いしていた方が無理になってしもたものだから」 「いや、別にええんですけど……でもなんで俺やねん……」 「そら私だって白石先輩のこんな格好見たいですー。せやけど先輩テニスあるし。平日の夕方に急に来れる人なんか私の周りでは財前しかおらんのよね、平日休みの人って」 親友の笑い声は、いつも楽しそうに響き渡る。隣にいるのは衣装部のスタッフだろうか、二人でスーツの丈や裾などをチェックしながら話し込んでいる。されるがままに柔らかそうなスツールに腰かけ、妙に居心地悪そうにしているあの後ろ姿は見間違いようがない。財前だった。 結婚式に招待されるほど周りの親友たちが人生の門出を迎えているわけではなかったが、あの衣装が新郎の着用するタキシードであることだけはよく分かる。親友と財前の交わす言葉がなければ、今すぐこの場から逃げ出したくなるほど結婚という言葉と彼が結びついてしまう力を持った衣装だった。 (……なんで見てしまうの、私) 立ち止まったまま考える。財前からは死角になっているのが幸いだった。親友はにしっかりと気づいていたが、ただ微笑むだけで財前に何かを悟らせるようなことは決してしない。年配の衣装部のスタッフに色々な説明を受けているのを見ると、純粋に仕事の一環のようだった。だがにとっては心臓に悪いことこの上ない。そして、目にとって心にとって、これ以上の喜びをもたらすものはない彼の姿だった。 グレーのタキシードが光沢を輝かせる。背中と、時折横顔。中学の頃から変わらない黒髪は艶を帯びたまま、あの髪は本当はとても柔らかくて心地よいことを他の誰かも知ってしまっただろうか。ピアスを触られるのが嫌なのはお気に入りだからではなく、単にくすぐられるように感じて苦手だということを自分以外にも教えてしまっただろうか。 結局、金色に言われた言葉を思い出すのは簡単なことだった。縋りたくなるのが真実だった。 中学の時も、高校の時も大学の時も、自分は財前を好きになってからそれぞれの時代でそれぞれの彼の良さを見つめ続けてきた。自分が勝手に空回り、財前の性格に全てを押し付けて苦痛から逃れようとしなければ、今彼の隣に並んで笑いあえる関係を許されたままだったかもしれない。そしてそうありたかったと、他の誰でもない自分自身がよく分かっている。 (せやけどもう、光くんは私のことなんか見たくもないかもしれん) 会いたいと願う人に、喜びの感情を向ける権利は自分で放棄していた。そのような分際で何を願うことができるのかと、怯み、怖気続くことは至って簡単なことだった。 疲れた顔で帰っていく財前の背中を見送ることしか許されない立場は、自分で選び取ったものだ。お疲れ様と労うことが本当は権利であったことを今更ながら痛感する。それを言えた権利、聞いてくれた権利、全て特権だった。それをなぜ自分は特別視することができなかったのか、動けないまま隠れるようにして財前の背中を見送った後、親友に肩を叩かれることで涙を我慢した。 「わざとやないで、ほんま偶然。たまたま。今ちょっと衣装の勉強もしてるもんやから、付き合ってもろただけ」 「……ふうん」 「なに、その顔。わ、まさかほんまに結婚すると思った? 私がに嫌がらせするわけないし。ちゅうかあの男が簡単に結婚できると思う? あのひねくれた男が」 「ひねくれてなんか」 「ひねくれすぎて別れたくせに。説得力ないで、それ」 慰められているのかからかわれているのか分からないまま、財前が視界から消えて妙にやる気の出ない体をなんとなく動かしながら予約をしていた店へと向かう。財前の姿を見つめることよりも見失ったことに心が重くなる、そんな事実を持て余す。適当に注文をするを見て、親友はやがていつもの笑みを浮かべた。 「記念に写真撮らせてもろたわ。誰にも送るな言うとったけど、そんなん無理やし」 「……もしかして」 「当たり前。白石先輩と小春先輩と、はい」 してやったり顔で親友が笑むのと携帯電話が震えるのと、どちらが早かっただろうか。 相変わらずカメラに優しくない角度や表情ばかりだったが、無理やり着せられたというわりには体のラインにしっかりと沿っているグレーのタキシード姿は、簡単に言葉を奪うだけの力を持っている。感想が思いつかない。着慣れないはずのものを当たり前のように着こなされてしまっては、その姿に目を奪われるだけの立場としては悔しいほどの動揺しか見いだせない。 押し黙るに、親友は分かり切ったような顔で笑うだけだった。無駄に似合っとったわ、と真正面からその姿を見つめることができた感想を聞かされる。はただ、画面越しの彼を見つめることしかできなかった。 「嫌いな人そんな見つめておもろい?」 「……」 「おもろいよねえ、嫌いやないもんねえ」 「……」 何をどこまで知っているのか、親友はグラスビールの泡を少し揺らしながら囁く。別れたという事実を端的に述べただけだったはずなのに、なぜこの人はこちらの感情を勝手に見抜いてしまうのか。それとも見抜かれてしまうほど、自分は心の中にしまい込みたい感情を管理できていないのか。困惑する表情でも浮かべてしまっていたのだろう、黙るを見て親友はため息をついた。 「はさ、言うだけ言うて別れたつもりやから片付けられたって思てるのかもしれへんけど。聞かされただけの財前は、そこではいおしまいってされても納得できるもんちゃうしね」 「……言うだけって、せやけど」 「せやけどちゃう。5年も付き合っといて、その間にきちんと自分の気持ちを言わんかったも悪い。財前が何も言わへんから不安になるんやったら、それが嫌やって財前に言わな財前かて訳分からんやんか。急に振られてあいつどうすればええねん。も財前傷つけたかったわけとちゃうんやろ?」 これほど料理に味がないと感じるのは、初めてのことだった。アルコールで流し込んでみても、ただ頬が熱くなるだけでまるで美味しさを感じない。 そんなとは対照的に、親友は淡々と自分の料理を口に運びながら、窓の向こうの夜の京都の街並みを見つめて頬杖をついた。 「何も言わんかったのはも一緒。反省する時間も奪われてしまった分、財前が可哀そうや」 そこで返す言葉も見つからず、料理を楽しむ余裕も探せず、逃げるように帰ってしまった自分はそれが正解だと気づいているのだろう。親友の言葉は何一つ間違いがなく、誤っていたのは自分なのに勝手に後悔しているのが情けなさすぎて、勝手すぎて、自分でもどうしようもなくなっている心を簡単に見抜かれてしまっていたのだろう。 家に帰って涙目になりながら部屋のドアを閉めて、たまらず一つ目の涙を零してしまえば後は止める術など見つからない。ぼろぼろと、遠慮なく頬を伝って落ちていく涙を拭いもせずに床に座り込み、携帯電話を取り出してみれば画面はまだ財前の写真が開かれたままだった。自分の頭を撫でてくれたあの手は、もう画面越しにしか見ることができない。その事実に、最後の日以来の涙は止まることがない。 だからは、親友を残して立ち去ったあのテーブルに、その後訪れた人たちがいたことを全く知らない。 「先輩、私上出来ですか?」 「上出来も上出来。俺らの手助けいらんかったんとちゃうか、これ。なあ小春」 「そうそう、ちゃんにも考える時間が必要よね。振った罪悪感に縛られっぱなしよりもよっぽど健全よ。それでよりを戻せば万万歳よ」 「より、戻りますか? 二人とも頑固ちゃいます?」 「自分の片想いに無理やり引きずり込んだ分、財前は待たなあかんやろ。それか財前から再開させるべきや。振り向かせといて相手が立ち止まったから次に行くとかありえへん」 「先輩……格好いい!」 「蔵リン、男前の無駄遣い!」 「せやからしつこいねん小春」 「あれ。またうまくいかなかったんですか、先輩」 「お前もしつこいねん」 財前の敬愛する白石と、全て予定調和のような表情で物事を俯瞰する金色がアルコールを注文しながら席についたことなど、思いもよらない。新しく手に入れた写真を消去する潔さをどこかに忘れてきたは、その姿を見つめて胸の奥が熱くなる感覚に負けて、失ったものの大切さに自分の方が気づかされて泣くことしかできなかった。 独占欲ばかり強くなると、と親友が呟いていたのはいつだっただろう。もっと昔、学生の頃に何度も聞かされていた気がする。けれどあの頃は財前についていくのに必死で、拒絶される不安とは無縁だった。手を伸ばせば受け止めてもらえた、笑えば頭を撫でてもらえた。あの安心感を自分はこれでもかというほど享受していたはずなのに。 「ごめん、光くん。ごめん」 泣きながら呟いて、嗚咽も止めないまま机に向かう。彼はまだ許してくれるだろうか、一番上の引き出しには写真と同様に捨てきれなかったたった一つのものが眠っていることを。涙を拭うことも忘れて取り出した指輪を、今また左手にはめようとすることを。 指は昔を懐かしむように、当たり前のように左手薬指に指輪を飾ってくれた。それを見て心の底から湧いてきたのは、嬉しさでも懐かしさでもなく、自分が財前を身勝手に傷つけたという果てしない後悔だけだった。 |
| 21/07/14 |