身勝手な楔 22歳-2

 快晴の空の下の初詣という縁起のよい時に、手のひらにはじわりと嫌な汗が滲む。
 立ち止まった財前を後輩マネージャーは不安げに見上げていたが、先に行くよう促して財前は自分の名前を呼んだ懐かしい人の元にゆっくりと近づく。面と向かって言葉を交わすのは実に高校卒業以来という、流れ去った月日の重さは思っていた以上に言葉を見失わせた。

「偶然やで、一応。たまたま実家帰ってきて初詣行こかーってなったら財前がおっただけ。久しぶりやから声かけてしもたわ、ごめんね」
「いや、別に」
「別にそう身構えんでも。何も言わへんて、他人なんやし」

 言葉の少ない財前を見て、の親友は意外にもあっさりと笑った。しかしその言葉は違う角度から違う勢いで自分の心を抉ったことを、この親友であれば気づいているかもしれない。いや、わざとそうしたのかもしれない。言葉を返せない財前に、初詣の混雑の中で彼女はつまらなさそうに肩を竦めてみせる。

「陰で文句言うような子ちゃうって、私よりも財前の方が分かってるんとちゃうの? 短くないで、5年って」

 財前が立ち止まっていることに気づいたテニス部の仲間が、前方から財前の名前を大声で呼ぶ。その中にはもちろんこちらを気にしているマネージャーの姿もあって、目ざとい親友はきちんとそれに気づいた後、今度はため息をついた。少しだけ困ったような、わずかに眉根が寄る表情で。

「せやから別に、財前も、向こうも。この後誰とどうなろうと、外野は何も言わへんよ」

 小春先輩と白石先輩以外はね、とこっそりと付け加えられて、笑っていいのか全力で否定していいのかは分からなかった。それは表情に出てしまっていたのだろう、親友は少しだけ笑って「任せとき」と軽い口調で呟いてから、財前の肩を軽く叩く。高校の時よりも少しだけ手を伸ばして叩いてくれたような気がして、一体自分たちの間に流れた時間はどれほどの重みがあったのだろうかと改めて思う。

「ま、見るからに。私の勘が正しければ? めっちゃ後悔しとるんやったら、手伝ってあげんこともないですけど?」
「手伝う? 何を」

 前置きに疑問を呈する余裕はなかった。唐突な誘いの言葉ながら即答する自分は、情けないほどあの時から時間が動いていなかったのだと財前は思わず視線を逸らす。
 そこでけなさず、図星だと言わんばかりににやにやと笑うばかりの親友は、コートのポケットから携帯電話を取り出して素早く人差し指を動かした。どこかで見覚えがあるどころか身に覚えがありすぎるその行動に、金色たちまでここにいるのかと慌てて周囲に視線を向ける。携帯電話を触る親友は笑っていた。
 やがて震えのは、自分の携帯電話だった。満面の笑みを浮かべる親友に眉根を寄せながら画面を開くと、そこには久しぶりに真正面から見る笑ったの写真が貼り付けられていた。

「苦手ちゃうよね、片想い。昔思い出すのもええんとちゃう?」

 親友は笑って財前の肩を優しくもう一度叩いた後、「また送るわー」とあっけらかんと言いながら人混みの中に戻っていった。
 どこまで知っているだろう、いや全てを知っているのだろう。結果も経過も始まりも、の口から全て教えてもらっていたのかもしれない。いやそれとも、自分の行動は隠しているつもりでも第三者の目から見ればあっさりと見抜かれてしまう程度のものだったのかもしれない。そうだとしても財前は、見抜かれて恥ずかしいと思うよりも戻ってきた昔の恋人の写真に囚われることの方に忙しかった。懐かしい、あの盗み見る感覚に自嘲的ながらも口元が緩む。
 親友の言葉の真意が中学時代の自分を蘇らせてくれるのは、今手のひらの中にある写真が、あの頃を如実に思い起こさせるすさまじい力を持っているからに違いなかった。そしてそれを、拒めない自分はあの頃のままだった。

「先輩、みんな屋台行きましょうって。置いていかれますよ?」

 動かなくなっていた財前に、そっと声をかけてくれるのはいつもあのマネージャーだった。隠そうとしない恋情は、もしかしたら隠れていないだけで本人は必死に心の内に留めようとしているのかもしれない。それを咎める権利は誰にもないのだと、財前もようやく気が付く。慌てて携帯電話をしまってから適当に頷くと、後輩は少しだけほっとしたような表情を浮かべた。

「先輩もう卒業なんですね、寂しいなあ。同い年だったらあと1年一緒にいられたのにって思うと、残念です」
「若いだけええやん」
「先輩も若いのに」

 くすくすと笑う姿を素直に受け止められるのは、いつ以来だろう。各々目当てのものを手に入れた仲間の最後尾につきながら後輩の言葉に思わず笑うと、少しだけ意外な顔をされた。

「財前、お前別れたんやろ? 付き合ったればええのに」

 焼きとうもろこしを頬張りながら言う同級生の言葉は、この3年で随分と聞き飽きていた。その都度財前は冷めた目で見たりさりげなく回避してきたりしたが、今日その言葉に一番反応したのは後輩の方だった。

「やめてくださいよー、私なんかかなうわけないじゃないですか。財前先輩の彼女って有名なんですから」
「せやけど別れたやんか、お前にもチャンスが巡ってくるんとちゃう?」

 余計なことを、とため息をつくよりも早く、彼女は声を出して笑う。

「先輩、分かってないですね。推しは遠くにいるからいいんですよ。好きに応援できるでしょう?」
「なんやねん、ただの追っかけやん」
「知らなかったんですか? 私財前先輩追いかけてここに来たんですよ」

 そうやった、と笑って同級生は前の方にいる他の仲間の元に向かっていった。残された財前は後輩と二人、混雑の中を他人の声だけを聞きながら歩いていく。やがて困ったような笑みを浮かべてため息をついたのは、彼女の方だった。

「っていうのは、まあ、嘘じゃないですけど本当でもないっていうか。先輩には気づかれてた気がしますけど」
「……まあ、なんとなく」
「あ、でも今の気持ちは本当ですからね。だから私、告白しないでしょう? 先輩に。このまま先輩の卒業も見送る気持ちでいましたから。もう、誰かが余計なこと言うから」

 前を真っ直ぐに向いて、誰に聞かせるでもなく呟く横顔は意外とあっさりとしたものだった。と仲違いをしてからというもの、他人の感情を推し量ることに消極的になって不安と弱気が付いて回っていた財前からすれば、嘘偽りのないように見えるその表情は一種の安堵に似た感情をもたらす。そこに至るまでどのような感情の変化があったのか、それを尋ねるのは不躾だと分かっていたが、彼女はそんな財前の感情を先回りして受け止めてくれた。

「最初はね、まさか彼女持ちとはってね。やっぱり付き合いたいとかそういう気持ちもあったから、嫌だなーって思ってたんです。これは本当。テニス部じゃないんだとか、四天宝寺の人たちと話すぐらいなら先輩の試合もっと見てあげたらいいのにとか。先輩もちょっと思ってましたよね?」
「……それは、まあ」
「でもね、私、先輩を横とか後ろからしか見ることできなかったけど、ちゃんと分かってたんです。先輩が一番笑ってたのは、あの人の前にいる時だって。片想いをなめちゃだめですよ、筒抜けですからね。他の人の前でしない顔を横からどれだけ眺めてたと思います? でもね、そのうちその顔の方も好きになっちゃって困りました。もうこれはただのマニアだってね」

 可愛げのある好意を飛び越えたその言葉に思わず吹き出しそうになると、「その顔も好きですよ」と真顔で言われたので財前は冷静を装って視線を遠くに向ける。一線を引いておかなければならないと妙に気構えていた相手から零される言葉に、笑いだしそうになったり心が温められたりしている。その不思議さに返せる言葉は見つからなかったが、その沈黙の意味すら相手には見抜かれているようだった。

「私は、見るだけだから。別に先輩が何も言わなくても気にすることは特にないんですけど、でも彼女さんは違うんでしょうね。きっと大変」
「え?」
「多分、先輩の内側に入ることができた人は、見てるだけじゃ不安になることが沢山あったと思います。先輩難しいですもん、どれが正解か探すだけで疲れそう。嫌われないように努力するのが大変そう、好きなら尚更。だから私は今の位置が一番いいんです、好きな時に勝手に見てるだけでいいですからね」
「……」
「片想いの方が楽って、ちょっと悲しいですけどね」

 話し過ぎました、と頭を一度下げてから、彼女は自分の名前を呼ぶ他のテニス部員に手を振って応えてそちらに向かっていった。参拝に向かう人終えた人、屋台に並ぶ人堪能した人、様々な状況が合わさった人波をただ歩みながら、財前はコートのポケットの中にしまい込んだ携帯電話を握りしめる。
 懐かしい感情だった。懐かしい想いだった、言葉だった。あの頃の自分を彷彿とさせる後輩の言葉の数々に、自分は何を得て何を捨ててきてしまったのかをぼんやりと考える。見ているだけでよかったというその感情を、誰よりも自分が理解していなければならなかったというのに、言われるこの瞬間まで忘れてしまっていた自分が情けなかった。

(高望みしないはずやったのに。泣かせたくなくて付き合ったはずやったのに)

 その後、どのように仲間たちと別れたのかあまり覚えていない。マネージャーは今日も楽しそうに財前を笑顔で見送って下宿先に帰っていった。気づけば確かに、彼女はいつも財前とは一線を越えない親しさだけを求めていた。絶対にこちらの内側には入ってこようとはしなかった。の姿を見つけた時、金色からの名前を聞かされた時に複雑そうな表情を浮かべることはあったが、あれは嫉妬から生まれたものではないことを今日初めて知らされて、自分は一体にどれだけの無理を強いてきたのかを考えるだけで冷や汗が出そうになりながら家にたどり着く。
 夕方近くに戻ってきた部屋は薄暗く、寒々しい。お風呂に入ったらと義姉に促されたが適当に断り、照明もつけないまま着替えてベッドに寝転がった。窓の向こうには冬の夕方の重苦しい空ばかりが広がり、いつかの時のような明るい月は今日は拝めそうにない。

(……あの時、なんて言うてたっけ。なんやったかな)

 試合会場で別れた日以来、携帯電話のメッセージは一度も届いたことがない。だから会話の履歴も去年の夏で止まったままだ。あれは白石が全日本への出場を決める前の最後の大会で、2回戦までは自分も難なく勝ち進んでいたはずだった。その試合会場に応援に行くことを伝えているメッセージで、時は止まっていた。未読メッセージは続かない。遠い過去の会話だと否が応でも知らしめるかのように、日時の記録が月日どころか年単位で記載されてしまう虚しさが胸の中を覆いつくす。
 全てではなかったが、練習も含めては財前のテニスをよく見に来てくれていた。マネージャーは金色たちと話してばかりだと言っていたが、むしろ金色の観戦率の方が高かったのだから仕方ない。なにより金色と白石がを可愛がっていたのだから本人からすれば不可抗力でもある。少しせっつきすぎたわ、と別れた後に金色がしおらしく謝ってきたが、金色の存在はにとって大きな支えだったはずだ。自分のような恋人に神経をすり減らすような毎日を送っていたかもしれないと聞かされた後では、むしろ救いだったのではないかと思うほど。

「もっと早く、私から好きになっとくんやった。気づいとくんやった。ごめんね、私が遅すぎて」

 思い出したその言葉に、財前は携帯電話をシーツの上に放り投げて空を見つめる。高望みしないこと、進展を望まないこと。だから言葉を交わす日常を大切に思うことができたあの毎日を、付き合った後に自分はどこに置いてきてしまったのだろう。好かれた側に苦痛と重圧を与えるだけの想いになっていたことに、どうして気づかなかったのだろう。
 月が綺麗だったあの日、練習試合で白石から勝利をもぎ取った日。を安心させるために簡単に動くことができる白石を見て、本当は苛立っていた。嫉妬していたとは口が裂けても言えなかった。無理やり連れ帰って強引に抱いて、後日が体調を崩した時には小さな罪悪感が芽生えたがそれをうまく謝ることもできなかった。

「最悪や」

 抱くべきは白石に対する幼稚な感情であって、に対する独占欲ではなかった。今更気づいても伝えられる本人は、もう腕の中にはいない。

「……最悪や、ほんま最低や」

 呟きは、冬の静まり返った夕方の部屋に空しく響く。大切なものを大切にしたくて近づいたら、大切にできる技量もなくて、失くすどころか壊してしまった。それに自分から気づくこともできず、教えられてようやくたどり着く自分の情けなさに、頭痛も吐き気も一緒になって自分を襲う。涙はぎりぎりのところで止めた。食いしばる唇は痛かったが、あの日に置いて行かれた時の苦しさに比べればなんてこともない。過去の恥ずかしさを思い起こさせる心の痛みの方がよほど強くて恐ろしい。
 正月の夕方、階下からは両親や兄夫婦たちの笑い声が響き渡る。元旦から何を落ち込んでいるのか、と思える時にはテレビから聞き覚えのある声がして、暗い部屋から明るすぎるリビングにしかめ面をしながら入っていくと、若手芸人たちが生放送で新春の初笑いを披露していた。

「光くん、この人テニス部の先輩なんやろ? すごいなあ、おもろいやん」

 父と兄の晩酌の仲間入りをしながら義姉が笑う。その横で小学生の甥も大きな笑い声を上げているのを見ると、一氏がいかに様々な年齢層に向けてネタを練ってきているのかがよく分かる。口は悪いが配慮を忘れない男だった。

「……元旦からテレビ出られるぐらい売れとったんか、先輩」
「関西だけの放送みたいやで、これ。大阪で撮ってるんとちゃうの?」

 追加のビールを母からありがたく受け取って、義姉は財前の前にコップとともに置いた。大晦日から正月にかけての料理は自分が張り切りたい母と、思い切りその言葉に甘えたい義姉の考えがぴったりと当てはまって、甥の炭酸飲料も追加されていつも正月の夕方はこのような風景だった。仲良いねとが笑っていたと伝えたら、20歳を越えたら一緒に飲もうかなとを誘おうとしていた義姉は、今はもう何も言わない。
 こうして、時間は自分を置き去りにして進んでいく。自分から動かない限り、流されるばかりの日々が続いていく。

「……これ、何時まで?」
「6時やろ。そっからは全国放送や言うてたで」

 父にビールを注ぎながら呟く兄の言葉に、財前は礼を言うよりも早く部屋に戻ってベッドの上の携帯電話を取り、無愛想には自信がある端的なメッセージをある人に送る。そしてしばらくして、使い込みの激しいグループトークの画面を開く。石田の仏教用語で締めくくられていた前回の話の内容はよく覚えていないが、日付だけは新しい。とは時間が過ぎ去っていくばかりなのに、ここの会話は更新することしか認められていないのが今日ばかりはありがたくもある。

「光くん? どこ行くん?」
「飲み会行ってくる。放送もう終わるんやろ」

 ふうん、と義姉は少しだけ目を丸くした後、財前の表情を見て笑って見送ってくれた。

「先輩っちゅうもんはやな、財前。いつでも後輩のためだけに生きてるわけとちゃうねんで。ちゅうか普通はやで、元旦なんやからな? 先輩用事ありますかーとか、お仕事お疲れさまでしたー労いましょかーとか、なんちゅうかこうあったかーい前置きが」
「スタジオから一目散でやってきといて、説得力の欠片もないでユウジ」
「ユウくんが一番光くんのこと気にかけてる証拠よね」
「うっさいねんお前らかていそいそと集合すんなや!」

 自分で呼びかけておいてとは思うものの、元旦の夕方の突然の誘いに当たり前のように集まることができるこの仲間のありがたさを、今日ほど強く感じたことはない。いつもの店でと一言呟いたメッセージにあっさりと許諾した仲間は当然のごとくいつものメンバーで、石田が悠々とやってくる頃には若干疲れた一氏に白石と金色が絡みつくしていた。
 唯一の例外は速さが命の男が遅刻していたことで、会話の履歴を見ても確かに一番最後の返事だった。正月の夕方、いつもとは異なる晴れやかな繁華街の空気の中で妙に落ち着かない気分のまま待っていると、白石が何かを思い出したように声を上げた。

「謙也なら遅れてくる言うてたで。先に店入るか、財前」
「そうなんすか」
「なんや親戚が集まっとる言うて渋っとったんや、最初。せやけど財前が招集かけるなんてこの先二度とないかもしれんで言うたらあっさり納得して、もうすぐ……」

 親戚、と一同が呟いたと同時に、忍足がほろ酔いの表情で大きく手を振ってこちらに向かってくるのが見えた。その隣にはなぜか、東京でしか見ることのなかった人物の姿もあったが。

「俺も関西人やで、ええやろ? 白石」
「ユーシ来とる時に誘うからあかんねん、財前。もう帰らへんでこいつ」

 全く似ていないが足取りだけは揃った二人が一番に店の中に入っていく。ただの酔っ払いの二軒目状態な光景に白石は最初こそ笑っていたものの、ふと財前に視線を向けて「帰らせよか?」と尋ねてくれる。この人はいつになっても自分を気遣ってくれる、いつでも誰にでも。それに悋気を起こしていた自分を改めて恥ずかしく思いながら、財前は首を横に振った。

「大丈夫です」

 何が、とは問わない空気が心地よかった。そうかとだけ呟いて、白石は財前の頭に軽く振れてから金色たちと連れ立って店の中に入っていった。はしゃぐ金色、文句を言いながらも白石に続く一氏、そして妙に機嫌のいい石田と小石川。彼らの背中を見送った後、財前は意を決して店内に足を向ける。

「で、今日はお前の激励会でええんやな? ほな生ビール8杯」

 テレビとはまるで違う無愛想ながら、財前にしっかりと確認をしてから一氏が注文を始める。白石はただ笑うばかり、金色はうっすらとためた涙を拭こうともしない。大人になったと感慨深げに石田に呟かれるのは如何なものかと思ったが、小石川が激しく同意しているのを見るとあながち間違いでもなさそうだった。
 何も口にしていないのに、打ち明けていないのに場の空気は全て財前を労い、励ます色に勝手に染まっていく。金色の涙が止まらない。早すぎる展開に逆に財前の方が戸惑っていると、忍足がビール片手に笑って財前を指さした。

「そら、口下手なお前が俺らに招集かけたら何事やと思うし、そんでその顔見たら、まあ大体想像はつくわな」
「取り戻しに行くことにしたんやろ?」

 白石が笑う。それはゴーサインであることを、財前はこの人の元で5年近くテニスをすることで身をもって知っている。そして学校という括りが変わってしまっても、学生と社会人という立場が変わってしまってもいつでも親身に話を聞いてくれるこの人の言葉は間違いはないことを確信している。
 いや、と一度首を横に振って、アルコールを流し込む。勢いがなければ言葉に出せない自分は情けない。けれど言葉にしようと決めた心は昨日までとは違うはずだった。

「とりあえず、ちゃんとしとこうと思て」
「ちゃんとってなんやねん」
「俺がちゃんとせな、お願いする権利もないし。また同じこと繰り返すし。せやから、まずはちゃんと……と、なんとなく」

 周囲の客の声が騒々しい。そういえばこの席は、激励会か慰労会か選べと一氏に言われた場所でもあった。あの時の自分は何も分からなかった、考えようともしなかった。だが自分がに対して何をしていたのか、してこれなかったのかに気づかされた今、気づかせてくれる人が自分の周りにはたくさんいた今、迷っている暇はない。とりあえずという保険をかけた言葉だったものの、自分から話した言葉に白石は優しく笑ってくれた。それが答えだということは、誰よりも自分が分かっていた。

「よし、分かった。ここは俺の出番やな」

 黙って話を聞いていた東京の忍足が、ビール片手に真顔で呟く。何がやねんと大阪の忍足がつまらなさそうに尋ねると、その右手が颯爽と掲げられ、携帯電話が登場した。何事だと一同が呆然としているのを気にする素振りもなく、鼻歌まじりに東京の忍足は誰かに電話をし始める。

「跡部、お前の出番や。今すぐ大阪来てや」
「呼ばんでええ!」
「なんやねん心配せんでもチャーター機飛ばせるぐらいの気概は持っとる男やで。あ、跡部? 悪い悪い、ケンヤが俺離さへんねん」
「気色悪いこと言うなや!」

 その日のアルコールは、久しぶりに美味しかった。酔っぱらった忍足従兄弟をあの跡部が軽蔑するような目で迎えに来たのもおかしくて、四天宝寺勢でまるで仏のように拝めば余計に嫌な顔をされた。仕事で大阪に来ていたらしい男の右手には指輪がはめられており、この人でも俗っぽいことをするのだと財前は妙に冷静に観察してしまった。

「まあ、中学の頃から同じ彼女とお付き合いしとるって話やし。あながち今日一番の師匠であることに間違いはないわけよ、光くん」
「へえ」
「うちの部長は恋愛だけはとんと頼りにならないからねえ! イケメンやのに! イケメンのくせして! イケメンの無駄遣い!」
「聞こえてんで小春」

 その後激励会と称した単なる飲み会は、二次会で石田の説法ならぬ説教を聞かされて無事解散となった。卒業式前には壮行会と称した飲み会が催されたことは言うまでもない。
 しかし、どれだけ彼らに巻き込まれても心は霞みもしなかった。目的が定まると面白いほど毎日の時間の扱い方に頭を使うようになり、義姉には単純やと笑われた。この人も白石と同様、ある種自分にとっての正解の道を示してくれる人だということは理解できる年になっていたので、笑ってくれることが答えでもあった。
 傍にいるなら、いたいなら。正解を迷わせてはいけない。いや、正解など気にさせてはいけない。それが相手の心のよすがになる。財前は痛いほど理解できたその想いを胸に、大学生活を終えた。

「精進する者には報いがあるからのう、財前。正しく精進することが大切や」
「修行なの、これ。銀さん」

 壮行会で焼酎にも負けなくなった石田がほろ酔いの中呟いた言葉は、妙に心に残った。
 卒業式、膨大な人数が集まる中央体育館での姿を見られたのは石田の予言のようだった。桜の散りばめられた黄色と深緑色の二尺袖袴姿は、他のどの卒業生よりも綺麗に見えた。下宿先から戻ってきていた親友と撮った笑顔の写真は、当たり前のように財前の携帯電話にも送られて、打ち上げと称した飲み会の梯子をさせられていた財前はその送信時間に思わず笑いだす。明らかにが隣にいたであろう、写真を撮影した直後に送信してくれていた親友には感謝しかない。
 いつか、自分から声をかけられる時がくるだろうか。
 三次会になるいつもの店で、白石たちと飲みながら考える。左手では無理だった指輪が右の薬指にならおさまってくれた手で携帯電話を触っていると、青春よねえと相変わらずの言葉を金色が呟いた。



21/07/06