| 身勝手な楔 19歳-2 |
白石の大学との練習試合になったと連絡がきたのは、図書館の地下書庫に降りてすぐのことだった。出版されてから随分と時間のたった本たちが持っている独特の紙の匂いの中で、その連絡が財前ではなく金色からくるあたり、高校時代とまるで変わらない財前に思わず笑ってしまった。 貸出可能数ぎりぎりまで本を選び抜いて3階の自習室にとっておいた席に置いた後、携帯電話を片手には図書館の外に出た。夏が近い。大会を間近に控えるテニス部は、他大学との練習試合も多くなっているとは聞いていた。だがも大学に出てきている日に白石の大学との対戦になるとは、嬉しい予想外にテニスコートへと向かう足取りも軽くなる。 日傘を持ってこればよかった、と青葉を悠々と揺らしている桜の木を眺めながらたどり着いたテニスコートの観客席には、当たり前のように金色の姿があっては後ろから声をかけた。 「先輩、ありがとうございます」 「あらっ、ちゃん。お久しぶりねえ、元気だった?」 「それは私の台詞ですよー、先輩こそ近くないのにわざわざこっちまで来てくれて」 「男の腐れ縁は大事にしてなんぼよ、ちゃん。蔵リンと光くんなんておいしい人を手離す方がどうかしてるわ」 国立大学の医学部にあっさり現役合格していた金色は、なぜか財前のテニスの様子だけは頻繁に見に来てくれていた。大学進学と同時にテニスとは距離を置いているとは聞いていたが、持ち前の頭脳と世話焼きの精神は財前をサポートする力を当たり前のように温存している。たまに練習の様子を見て、試合を見て、あっさりと指摘してくる改善点は大学の誰よりも的確で、他のテニス部の面々もこっそり彼の話を盗み聞きしているのは有名な話だった。 「せっかく二人がテニスを続ける道を選んでくれたんやから、できる限りのことはせえへんとね」 「先輩のおかげで妙な癖が直ったって、光くん言うてましたよ」 「あらやだっ、どうしてアタシには報告がないのかしら! 照れ屋さんも大概にしてほしいわ!」 口を噤めば品のある大学生だったが、送られる視線や紡がれる言葉の優しさ、温もりは中学高校時代と何も変わっていない。白石も違う大学ながら財前と打ち合いに行っているという話を聞いていた。相変わらず上級生に守られている財前は、だからこそ好きなように生きていられるのだろうと思うと自然と笑みが零れた。 練習試合となったため、観客席の人数はいつもより多かった。白石の大学からもそれなりの人数がやってきていて、恐らく自分と金色はその中に埋もれている。こちらからは簡単に見つけられる財前の姿も、向こうからは数多くいる観客の中の二人でしかない。 だから、気づかないだろう。思いもしないだろう。テニスという世界で区切られてしまうと、自分は外の人間になってしまう。すぐそばで彼を支える、明らかな好意を持つ人に対して何を言うこともできない立場になることを、彼はきっといつまでも気づかないだろう。 「男前の彼氏を持つと大変ね、ちゃん」 「え?」 「好きな分、よーく分かるでしょ。光くんのことを好きな子の顔とか言葉とか、気持ちとか。光くんの見えないところで全部見えちゃって。ねえ?」 手で日除けを作りながら、金色はの大学側のベンチを眺めて笑う。観客席にも届くほどの笑い声が響いたのはその時だ。今日の試合に出るであろうユニフォーム姿のテニス部員の中に、何を考えているのかよく分からない財前とその隣で笑う女子の姿がある。高校までテニス部だったというマネージャーは、自分にはない知識と経験で財前に話しかける内容もたくさんあるのだろう。今年から財前のテニスを見るためには彼女の笑い顔も見なければならないのが、は少し面倒だった。 「まあ、でもねえ。彼女はちゃんなんやから、余裕の顔でおればええのよ。それか」 「それか?」 「いっそのこと嫉妬心全開にするか。むき出しよ、むき出し。案外光くんにはそっちの方が有効かもよ、あの子言われんと分からへん子でしょう」 私がお手本よ、と中学時代に一氏と漫才をしていた頃の女性仕草で悋気の起こし方を教えてくれる。それがあまりにも懐かしく、また大学生になった今でも様になっているものだから、はその時初めて声を出して笑っていた。その声に気づいてくれるのはいつも白石で、相手大学側のベンチから金色とに向かって美しい左手を上げて挨拶をしてくれる。涙目になりながら頭を下げると、笑ってる方が楽でしょうと金色がそっと囁いた。 「やっぱり先輩たち楽しいですね。嬉しいです、卒業しても話せるなんて。もっとおりたかったなあ」 「いつでも使ってよ、年上のお節介なんか。って、あら。ちゃん、試合見ていかへんの?」 「すみません、ゼミの準備が遅れてて。今日もたまたま大学来てたんです。よかった、先輩に会えて。楽しかったです」 引き留めようとする金色に何度も謝って、は静かな図書館へと戻った。 財前の家に泊まりにいくと、自分の予定はいつも崩れた。別にそれでも構わないと思っていた、勉強とアルバイトが中心のと財前のテニスの比重は比べ物にならない。忙しい日々の中で自分の存在を忘れず気にかけてもらえるだけでいいと思っていたし、高校時代からそれが正解だと疑いもしなかった。だから今は財前の試合を観戦するよりも、自分の遅れた予定を取り戻さなければならない。ここに戻ってきたのは泣く泣くの選択だったと、金色は気づいてくれるだろうか。 (白石先輩とするんかなあ。見たかったな、やっぱり) 閲覧室の中の広々とした自習スペースで、どれほどの時間を過ごしただろう。昼食時間も気にせずレジュメ案を手書きで作成していると、携帯電話が震えた。金色が試合結果でも教えてくれたのだろうかと覗いてみると、意外なことに財前からだった。 「ごめん、待った?」 「ううん、別に。今来たとこやし」 まだいるなら帰ろうという催促のメッセージに慌てて全ての片付けをして図書館を出ると、図書館脇の生垣のブロックに腰を下ろした財前が携帯電話を触りながら待っていた。 気づけば午後4時を回っていたらしく、白石との練習試合も終えたテニス部の方が先に解散となっていた。一緒に帰る約束はしていなかったが、なんとなく勘が働いたという財前は部室棟を出るなり打ち上げの誘いも断って図書館に来てくれたらしい。 「どんだけ借りたん、それ」 「え? あ、うん。ちょっと入らへんくて」 「貸して」 鞄の中に入り切らず抱え持っていた1冊の本を財前に取られ、テニスバッグの中にしまわれてから駅へと向かう。そこにはテニス部員たちの姿もあったが、再度の誘いも財前はあっさりと断ってホームの奥へと向かっていった。も誰かの視線に気づかないようにしながら慌ててその後ろをついていく。 が自宅に帰るには、テニス部が打ち上げで梅田に出るには、白石が京都府内の大学に戻るには、全員同じホームを利用しなければならなかった。だから大阪梅田行きの電車を待つのは当然で、ホームで並び立つのもその通りだが、その後の予定はまるで聞いていない。ただ帰ればいいのだろうか、と何も言わない財前の横顔をちらりと見上げるが答えはなく、大学に戻らなければならないことを嘆く白石に手を振るしかなくなれば、やってきた普通電車に当たり前のように腕を引っ張られて乗せられた。 「レジュメ終わった?」 土曜の夕方に梅田に向かう電車は相応に混んでおり、財前とはドア付近に立ったまま流れゆく景色を眺めていた。そしてふいに尋ねられた一言に、は途中で止まってしまったレジュメを思い出しながらも「終わったよ」と呟く。 終わったかと尋ねられたのであれば、終わっていなければならない。どうだった、と尋ねられたらどう答えていただろう、とふと思ったが、財前が気に留める様子もなく適当な相槌を打ったので、間違いのない答え方をできた安堵の方が勝った。 (明日バイトなくてよかった。家に帰ってから徹夜で頑張れば、まあ月曜には間に合う……かなあ) 疲れたのだろうか、財前は特に会話らしい会話をしてこなかった。それはいつものことか、と気づいてが少しだけ笑みを浮かべることには気づかれていたが、言葉はかけられなかった。それが財前との時間であり、5年近く付き合ってきて自分が得た「平穏」だった。 だから、財前とは電車のどこかで別れなければならないことが寂しくなる、そんな自分が情けなくもあった。長くいることは、別れることを辛くする。泊まりにいく幸せは別れる寂しさを連れてくる。いつものことながら、自分は財前に溺れすぎだと目を伏せる。 中学の頃よりも高校の頃よりも、見上げる角度が大きくなった恋人の横顔はいつ見ても綺麗だった。食事の量は半端ないのにテニスで消費するカロリーもまた尋常ではないのだろう、その横顔のラインが整っていないことを見たことはない。自分のことを想ってくれていたという中学2年の頃はもう少し幼さを含んでいたような気もするが、自分が見つめる時間が増えたのはそれ以後だった。昔の財前は、自分をどのような想いで見つめてくれていたのだろうと近頃考える。今の自分のように、想いに振り回されてどうしようもない時期であってくれたのだろうか。 「……私、梅田で降りよかな。買い物してこかな」 今日これ以上隣にいると、まだ一緒の時間の中に浸っていたいと願ってしまう。今日こそは自分の予定に戻らなければと、は財前を見ずに呟く。財前はそっと視線を向け、小さく笑った。 「親、明日帰ってくるの夕方の5時やって」 「……え?」 「帰ろうよ、俺ん家」 俯いて、頷いて。電車の乗り換えも手を繋ぐ財前の促すままに、今朝別れを告げたはずの財前の家にたどり着いた時には、夕方の5時を過ぎていた。けれど日没まで時間の余裕がある5月の空はまだ十分明るい。連泊なんてと思う心は、まだ財前といられる嬉しさに簡単に負けてしまう。 「あ、あいつに連絡頼んどいたから。何も言わんと簡単にOK出してくれたで」 「え?」 「向こうの家に2連泊することにしといてくれるって。ほら」 玄関脇にテニスバッグを置くと同時に、立ち尽くしていたに携帯電話を渡す。いつの間に連絡先を交換していたのか、それは中学時代からの親友のメッセージで、財前の無愛想な依頼にあっさりと許諾の返事を出してくれていた。同時にの携帯電話も震えて「任せなさい」と彼女の口癖の一言が添えられていた。 誰もいない、少しだけほの暗い家。屋内に入るとどうしても夕方の匂いは消せない。朝陽の中で見る景色とはまるで違う、光の失われゆく部屋の中では自宅とは異なる香りばかりが目立つ。画面が消えた財前の携帯電話を握りしめたまま、は結局今日も財前の言うがままに、思うがままに従っている自分をどうすればいいのか分からない。 「ほら。暑かったやろ、シャワーでも浴びてきたら」 玄関から動こうとしないにさして慌てる様子もなく、着替えを持って戻ってきた財前に浴室へと連れていかれる。まるで閉じ込められるように導かれた浴室で、薄暗さはにそれ以上何かを考えることをやめさせた。 促されるがままにシャワーを浴び、部屋に押し込まれたと思った時には朝出かける前に開けたカーテンがまだ開いたままになっていて、髪から滴る水気も気にせずぼんやりと見つめる。まだ日没まで時間のある5月、今度はいつ見られるだろうと今朝別れを告げたはずの財前の部屋は太陽に依然照らされていて、どうして自分は今この部屋にいるのかと答えの出ない疑問に佇むしかない。 (どうしよう。レジュメできるかな。あ、お母さんに連絡だけしとこかな) 肩回りも腰回りもまるで自分に馴染まない財前の部屋着に包まれて、使い慣れたものとは異なる洗剤の香りに軽い眩暈を覚えてしまう自分は情けない。だから考えもまとまらない。そんなことを思っているうちに、タオルで頭を拭きながら財前が戻ってくる。その濡れた黒髪はとても艶を帯びていて、ビーズクッションに座り込んだままは何も言えなかった。 沈黙がどれほど続いたのか、考えることすら許されなかった。財前の姿に洗剤の香りよりも強い眩暈に襲われて、言葉がでなくなった瞬間にその手は伸びてきた。 「光くん、ご飯は。洗濯も」 「後でええやん、そんなん」 悪戯を楽しんでいるかのように財前は少しだけ笑った。そして何度口づけられたか分からない後であっさりと体ごとベッドへと運ばれ、壁際に追い込まれたのだった。 夕食を取ることはおろか、その準備の買い物にすら行っていない。本当であれば今日は自宅に帰るつもりだった、2連泊の予定などまるでなかったのだ。それなのに財前に手を握られた体は素直に同じ帰路を選んでしまったし、この部屋に戻ることを拒まなかった。自分の服はいまやどこにあるのかも分からない。携帯電話と財布を入れた鞄も浴室に閉じ込められる前に財前に奪われた。空はただ、今朝と同じように明るい。それなのに財前は当然のように肌の上に指を這わせる。 「待って、光くん、まだ」 「なんで」 一つずつ印をつけられていく感覚を、この人はどのように思っているのだろう。 容赦のない時間だった。が身をよじろうとも、思わず声を出してしまいそうになっても、決してその手を止めてはくれなかった。唇を肌から離してはくれなかった。逃げようものならその手首を掴まれたし、反抗的な言葉を口にしようものならあっさりと塞がれた。呼吸が難しくなるそれに少しむせれば、なぜか彼は笑っていたけれど。 「俺、今日部長に勝ったから。お祝いしてくれてもええんとちゃうの?」 「……部長?」 「久々に本気で勝ちに行ったわ、あの人に」 見知った人の存在を思い起こさせるのは、恥じらいを増させるばかりだと知っているはずだった。逃げ場のないベッドの端、壁の冷たさに退路を断たれた場所で覆いかぶさるような口づけから逃れようとすれば喉元をさらすことになる。さらせば、かみつくようにそこに唇が寄せられる。まるで無駄な抵抗だとでも言わんばかりに小さく笑われれば、吐息が喉元をくすぐって余計に逃げ出したくなる。もちろん叶わないけれど。 いや、と押し倒されて、背中に口づけるためだけにうつ伏せにされた姿勢のまま、はぼんやりと考える。逃げようなどと思ってはいないだろうと。逃げる選択肢など、財前の前で自分が持っているはずもない。持ちたくもない。自分が誰よりもその手を独占したいと願っている身で、拒絶の態度も言葉も思考も、何一つ用意などしたくないに決まっているのだから。 「なんで小春先輩のとこからいなくなったん? 見ていけばよかったやんか」 淡々とした口調と指先の動き方があまりにちぐはぐで、勝手に口をついて出ようとする声を必死に抑える。うつ伏せにされたままの視界はシーツの白一色だ。濁りのない、財前の香りが漂うその場所で、しかしの抵抗など何の反撃にもならない。財前に首筋に口づけをたった一つ送られるだけで、従順さは増していくばかり。 「まあ、あの人の隣にずっとおられるのも好きやないけど」 「……え?」 「誰の彼女?」 「……私?」 「他に誰がおんねん」 そして与えられた口づけは、もうそれ以上の思考を許さないと言っているようだった。 レジュメが終わっていなかった。財前の隣にいたがる誰かを見ていたくなかった。答えはいくらでもあったが、どれが財前にとっての正解かを考えているうちに答える時間すら奪われた。そしてどれもが不正解だっただろうと、答えない自分にひどい執着を見せてくれる財前に安堵している自分はおかしいとは思う。そして気づいてもらえていた喜びに、涙が出そうになるのをこの人はどう思ってくれるだろうか。 (光くんも、こんなふうやった? 気づいてもらえるだけでよかった?) 決して乱暴ではない、に最後の逃げ道だけは用意してくれるような触れられ方だった。逃げることなどできないだろうと見透かされているからなのか、財前の本来の優しさなのか、それは分からない。けれど逃げる心がないからすれば、全て財前の魅力として加算されていく。会うたび手を繋ぐたび抱かれるたびに加算され続けるその想いは、増えてはいるがどこか下っているような錯覚がある。底なし沼のような恐ろしさもある。 けれど、そう思ってもは財前の手を拒まなかった。拒めないだけの感情を抱いてしまった身に、財前の言葉の全ては愛しいものでしかなくて、自分を抱きしめる腕に縋る心しか持ち合わせていなかった。 月が出ていた。昨晩は見られなかった景色だ。練習試合の後でさすがに疲れていたのだろう、財前は一度思い切りを抱いた後あっさりと眠りについていた。無理もない、朝も早かったうえに睡眠時間は十分ではなかったはずだ。夕食を取ることよりも休息が優先だろうと、は財前をベッドに残して1階へと降りる。勝手の分からない部屋でようやく見つけた照明のスイッチを押すと、の携帯電話がダイニングテーブルの上に置かれたままになっていた。 母親からの連絡はない。いつもながら見事な手腕だと、親友に感謝をしながら溜まっていたメッセージを眺める。その中には金色からのものもあって、は財前の服を身にまとったままそれを眺める不思議さに少しだけ顔が赤くなるのを自覚しながら、そっと開く。 なぜかそこにはを気遣う言葉が、白石からの伝言も追加された形で送られていた。 無理せんとき、無理すんな、きちんと言えばええんやから、あいつは言わな分からへんで。それぞれの口調でしっかりと再生されるのに、しかし言葉の意味まではよく理解できない。 (……心配されてるんやろか。なんでやろ。やっぱり試合一緒に見た方がよかったかな) 返答に困りながら部屋に戻り、カーテンの隙間から輝く月を眺める。寝ぼけた財前の左手がに縋り、からむようにして抱きしめられた。その温もりの前に、やはり思考回路は考えるのをやめてしまう。 彼の左手にはもう、指輪ははめられていない。自分で外してほしいと言った、物理的にはめられなくもなっていた。けれど自分だけが高校時代の思い出を大切に左手に残しているのに、彼はその代替案は用意しなかった。それが財前なりの答えで、そうしていいと言ったのは自分で、けれど寂しがっているのも自分だった。 「……光くん、起きて。光くん」 「……ん……」 「ね、もう一回」 耳元でそっと、扇情的なお願いを囁く。珍しく自分から口づけをねだれば、眠気の中で財前はを一度抱きしめた後ぼんやりと月の高さを見つめて、そして笑いながら欲しいものを与えてくれた。 涙を堪えていたことは、きっと分からなかっただろう。 |
| 21/06/26 |