アウトサイド 秋 02

 意識というものの恐ろしさを感じる。自分のもののはずなのに、気づけば自分がそれに振り回されているのだ。行動が、感情が決められていく。自分は自分で生きているのではなく、この意識によって生かされているのではないかと思うほどだ。
 その意識が、今全神経を使って探せと命令している人物はたったひとり。
 そもそも他人のことなのに、と自問することに飽きるほどだった。飽きているのに、冷めているのに、それでもその姿を見つけた時に足は止まる。目は留まる。頭は、考える。
 どうしても冷めきれないのか、と半ば呆れながら自分に問いただした方が心のどこかが納得する、それがおかしかった。


「あれ、先輩。こんにちは、最近よう会いますね」

 の視線の意味を考えるようになって久しい。場所はどこでも構わない、朝の昇降口でも教室移動中の廊下でも、昼の混雑する食堂でも。なぜか願いが叶ったように財前の姿はそこになく、いつしか白石はの名前を呼ぶことに少しのためらいももたなくなっていた。
 の目は、自分の経験だけでは判断しかねるものの、それでもどこか気をひいて仕方ない色や翳をともしていた。

「最近、元気ないんとちゃうか。ちゃんと飯食うてるか?」

 自分でも気づかないうちに限界に達していたのだろうか、思わずそう口にしてしまったのは食堂の帰り道。食後の清掃へと生徒たちが様々な方向への波を作り出す廊下で、騒音にまぎれるようにしてそっと尋ねた言葉には一度目を丸くしたあと、笑った。

「食べてますよ、残念なぐらい。先輩、もしかして私太りました? やだなあ」
「え? いや、そうやなくて。ていうかなんやねんその質問、俺が変態みたいやんか」
「えー、先輩に限って絶対それはないから大丈夫です」
「……なんの自信があって、その笑顔やねん。お前財前と似てきたなあ、そういうところ」

 つい零してしまった名前に、その足は一度止まっただろうか。それとも自分との身体の違いを理解して最初から歩みを緩めておくべきだったのだろうか。
 視界の横から消えたを振り返る。は困ったように笑ってみせた。

「どうかなあ……? 光くんと私は、ほんまに全然違うと思うてました。私はついていくのに必死です、毎日」

 予想していたとかしていないとか。驚いたとか言葉をなくしたとか少し分かってしまっていたとか。例えようならいくらでもあったはずなのに、それほど財前とを見てきたつもりだったが、その時の自分の感情に名前をつけることは白石はできなかった。
 ただ、むしょうに今財前を見たくなる。そう思わせる口調と、表情だった。
 テニスコートで帰り道で、食堂で。冷めた表情を浮かべながらその目も耳もこちらに向けている、自由気ままと愛嬌を織り交ぜた性格をしている生意気な後輩を、その時猛烈に見たいと思ってしまう、空気だった。
 人が誰かを慕う感情は空気を介して伝播する。そう教えられた気がした。



「第一に現状理解、把握ね。その上でアタシたちができることがあれば修復や改善にむけて動くし、その意味もないと思えば、まあその時はその時の方法で打って出るまで」

 単なる世話焼きの線を越えなければならない理由が、自分たちにはあった。
 小春が呟く。千歳が少し眉を上げる。白石は、そっと視線を奥へと向けた。
 来月の木下藤吉郎祭に向けて、校内が文化祭モード一色に染まりつつある。午後の一部の時間は全校あげての準備の時間として使用してよいことになっており、この時期は普段目にすることのない他クラスや他学年の生徒が様々な場所を行き来し、出会う。
 多目的教室で役員OBとして生徒会の手伝いをしている小春のもとを訪れた時、偶然にも財前の姿があった。クラスの催しで用いる材料や道具はここで調達することになっているので、彼の目的もそれだろう。軽く頭を下げた彼に、白石は左手を上げることで返事をする。

「そんレベルまで持ってくと? 小春、そっばなかなか規模の大きか話たい」

 1組の代表できていた千歳が、小声でそっと問いただす。普段学校に来ることの少ないこの男が、文化祭という盛大な祭りに参加することをまるで疑問に思っていないところが微笑ましい。だが財前は3人が集まっていることにさして興味を示さず、淡々と材料を集めていた。

「仕方ないわよ、アタシたち誰の味方ってほんまは、光くんの味方っちゅうよりも」
「テニス部の味方やからなあ。ま、しゃあないわな。財前がテニス部に問題を持ち込むような素振りを見せた場合は、俺らかて最悪の場合は考えなあかんやろ」

 呟くと、小春が神妙な面持ちで頷いた。
 本当は規模が大きいというよりも、自分たちで規模を大きくしすぎている。その不安は千歳の沈黙の中にも感じられたが、それを想定という言葉で表現するならば決して無駄な時間の使い方ではないはずだ。読むべき未来をひとつに絞らず多角的に考察を加えていけば、それは立派な作戦になる。そのひとつに終了という結末がある、それだけの話だ。

「ま、ほんまはそんなこと思てへんのやけどな。そない簡単に別れるぐらいやったらあいつ付き合いもせえへんやろ、『めんどいですわ』とか言うて。告白された時に絶対愛想なく振ったはずやで。『は? なに言うてんねん、お前』みたいな」
「あら蔵リン、ちょっとそれ似てるわ」
「さすが、経験者は言うこつが違うたい」
「それ、嫌味っちゅうやつやで千歳」
「……まあ、とにかく。実際には光くんはそうせえへんかったんやから、付き合うなりの責任っちゅうものが発生してるわけよ、現状。まずはそこからスタート。はい、頑張りましょ」

 小春から材料や道具を受け取り、3年2組へと戻る。道すがら財前が2年の階に戻る後ろ姿を見つけた。
 千歳が小さく口を鳴らて、白石の胸を痛めた。

「さて、あれは何パーセントね。白石」
「……50は超えとるなあ、あれは。ただし財前本人は全然気づいてへんやろけど」

 階段を上ろうとした財前を、女子が引き止めていた。わざわざ見上げるという角度を伴ってでも財前を視界に、財前の視界に自分を入れようとする女子の姿がなにを物語っているのかなど、誰に問わなくとも分かる。知らないのは表情ひとつ変えずになにかを答えている財前だけのような気がした。

「まあ、普通の光景と言えば普通たい。ただ財前相手なんがなあ」
「自分から女子に話しかけるタイプとちゃうからな、あいつが。そんなあいつを周りが知らへんはずもないし、……そもそも」
「そもそも?」
「あんな顔して財前に話しかけるんは、俺の中ではぐらいしかおらんかった」

 表情をよく見ろ、と財前に伝えたくて仕方なかった。ただしここは校舎内だ、テニスコートなら治外法権を発動させられたかもしれないが、それも部長の肩書きを譲ってしまった今となってはどこまで効果を発揮できるか分からない。

「マイペースもええけどな、あいつの売りやろうから。せやけど、それで周りを気にさせてしまうのはあかんわ。ルール違反や。そら独善的て言われるで」
「ばってん、財前にはそのつもりはなかと。俺らはよう知っとるけん」
「せやから余計、たちが悪い。言うに言われへん」

 マイペースとは随分応用のきく言葉だった。肯定的にも否定的にも理解できる。受け皿が広いというのか、来る者拒まずというか。しかしそれぐらい許容範囲が広い方がいいのかもしれない、なにせあの天才肌の後輩は飄々としていて、テニスや自分の趣味以外に関しては滅法おざなりだ。他人の評価も気にしない(という素振りを見せるのが上手い)。金太郎といい、えてしてルーキーというものはそういうものかもしれなかったが。
 今年、ルーキーの肩書きは金太郎に譲られた。去年は財前、その前が自分。共通項がひとつあるだけだったが、いやひとつしかなかったからこそ、自分は財前についてよく考えることがあったように白石は思う。

(俺らが気にしすぎなだけか? 当の本人たちは別になんとも思ってへんのか。それやったらええけど、せやけどそうするとこの前のの態度が説明できひん。どっちやねんほんま)

 他人を理解しようとするのは、存外難しい。まるで理解という行動のおこがましさを誰かに笑われているかのように、どれほど内面を、奥を、底を見ようと考えようとしても、必ず見落とすなにかがあって、大抵の場合はそのなにかによって予想が狂う。しかし自分とて透かしの入った人生など散々だと思う以上、打開策は見当たらないのが現状だ。
 ただ手をこまねいて様子を見ることに徹するしかないのか、と思った時、財前に話しかけていた女子が嬉しそうに笑いかけた。少しばかりの緊張とともに。

「なあなあ光、今度みんなで遊園地行こかって話になってんねんけどな」
「遊園地? なんで」
「ええやんか、夏過ぎたし結構行きやすいんちゃうかってみんなで言うててん。2年になったら全然みんな会わへんくなってしもたやんか、せやからそろそろ1回集まらへんかって」
「みんなって。誰? どれぐらい?」
「うちと光入れて、8人」

 どうやら相手の女子は、1年の時に財前と同じクラスだったようだ。去年の財前を思い出せばそれこそ独善的という言葉によく似合う生意気な後輩だったと、ただテニスの技術は天才的だったと、白石からすればその二面ばかりが印象に残っている。
 だが彼女はまるで違うところを見ていたらしい。その顔に、白石には真似できない相手への好意の色が浮かんでいる。
 と話していた時と、同じ空気が流れている気がする。こちらは言葉を挟んではいけないという壁が見える。

「分かりやすかねー、あんじゃ告白たい」
「財前相手やったらあれぐらいでちょうどええんやろ、あの子も大変やな」

 内心とは異なる言葉を口にした。ではない女子とふたりで話す財前の、その会話を聞いているのはなぜかどこかつまらなかった。
 財前はしばらく黙ったあと、小さくため息をついたようだった。
 断るか、と白石も安堵に似たため息をつられる。

「今月は土日全部部活あるし、俺はええわ。あとから行ってもそんな乗れへんし」

 え、と白石は顔を上げる。財前を見つめる。財前は、気づいていない。ただ相手に軽く断りの言葉を入れたあと、当たり前のように階段を上っていってしまった。
 平穏は長続きができないのか。釈然としない思いが白石から言葉を奪う。
 女子のため息よりも自分のため息よりも、千歳の苦笑が一番大きく重たくずっしりと耳に響いた。

「誰も納得でけん。あぎゃん言い訳、彼女のおる人間が使うもんじゃなか」

 第三者としての意見を的確に口にする。白石も同意だった、断る理由を部活に委ねてよい質問ではなかったはずだった。この場にがいないことが幸いだと思ってしまう、そんな自分の方が罪悪感で苦虫を噛み潰したような顔になってしまう。

「……せやけど、あれが財前の『普通』やろ。多分も大体の予想はしとるはずやねんけどな、もう何ヶ月も付き合うとるわけやし。どっちが正しいんや」
「どっち?」
「俺らが、どっちの味方につくか。ひとりやなくてふたりおることが難しいわ」

 マイペースが、財前の魅力が変な方向に流れている。その危惧が心を波立たせる。
 財前の後を追うような形で、階段を上る。1年、2年と学年を上げるごとに増やしてきた階段の数は、もうこれ以上増えない学年になってしまった。
 2年生の階で一度足を止める。2年生でごった返す廊下に財前の姿はない。姿を見られないことがなぜか心に小さな寂しさをともす。

「『付き合う』はそういうこつたい。ひとりでやるもんじゃなかけん、味わえるもんもあっばい」

 いつものように笑う千歳の言葉に背中を押されるようにして、白石は3年2組へと戻る階段に足を向ける。確かにそうだ、と納得した頃には千歳は1組へと戻ってしまっていた。

「おう、白石。悪いな、全部持ってきてもろて。……なんや、どうかしたか?」

 自分がまだ2階で足を止めていた頃に、千歳の言葉の意味を理解できたかどうか考えた。自信はなかった。忍足の顔を見ても答えは出ず、ただ落胆を押し込んだため息が零れ落ちるばかりだった。なぜ落ち込んでいるのか、自分でも分からずに。
 後から思えば、あれほど財前を目で追っていた時期は後にも先にもないかもしれない。
 1000人以上が通う中学で、ひとりの姿だけを追い続けるのは至難の業だ。しかし彼はテニス部部長という肩書きを引き継いでくれていたし、なにより白石には小春と千歳という自分とは異なる視点を持つ仲間もいた。
 財前はもう少しばかり、自分が目立つ存在であることの自覚は必要だったのかもしれない。
 自分の言動が周囲に与える影響というものに、ほんの少しだけでもいいから配慮を見せるべきだったのかもしれない。

「それは俺、教えそびれたかもしれへんな。あいつはあいつやって思ってしまって」
「あらいやだ、別に蔵リンの責任とちゃうわよ。それに教えられてたら今こうしてアタシたち光くんをこっそり見つめることなんてできやしないわ」
「小春が言うと、なんね。背中がこそばゆか」
「テニス部のみんなにしか言わへんから安心してちょうだい、千歳くん」
「余計安心できんたい」

 理系選抜クラスを選んだのは、単純な偶然ではなかったのかもしれない。
 6時間目が終わるのと補講が始まるまでのこの20分ほどの空白が、思いもしなかった効果を生み出している。ベランダに出て3人横に並び、あまり身を乗り出さないようにして柵にもたれかかる。階下には財前がいた。見慣れたユニフォームが、秋の風に揺れている。

「確かに気づかなあかんかったかもしれへんなあ、いろいろ変わってしもたとこ。あいつどれだけ背伸びたんや」

 1号館と各学年の教室の並ぶ2号館の間、小さな中庭や噴水、水飲み場など部活動をする生徒の憩いの場でもあるそこに、財前の姿は妙に目立つ。ユニフォームの配色の為せる業か、しかしそれであれば自分とて見慣れた色である。なぜだろう、と後輩と話をする財前の後ろ姿を見ていた時、小春の言葉を思い出していた。

「少年の成長期って恐ろしいわよね。今はアタシよりも高いわよ、正確には171.9センチメートルね」
「そん0.9が微妙に男のプライドを刺激すっと」
「背は伸びた、身体も大きくなった。内面かて部長の視点っちゅうもんに関しては俺からすれば十分や。なんやあいつ、この順調な成長っぷり。周りが慌てるんも仕方……」
「……どうしたの? 蔵リン」

 息を飲んだ白石に、小春はそれ以上なにも言わなかった。
 身体の変化は目で見て分かる。小春に聞けば正確な数字で裏づけもできる。部長としての心理の変化にいたっては自分が一番分かっている、なぜならそれは一度自分で通った道だからだ。財前の表情の変化を状況変化に対応する心だと読み取れば、さして難しく感じることもない。
 ただ、それをどう受けとるかはこちらに丸投げされていた。身内だと思う自分は、それに肯定的だった。いや、肯定的しすぎた。

「マイペース、ねえ。白石、お前使う言葉間違えとったんじゃなかと? あいつを立たせれば誰かが立たんくなるばい」

 財前が外周ランニングを終えて戻ってくる後輩に指示を出す。部から3年生が抜けることを言葉に出さずとも嫌そうにしていた財前がいたのは、いつの頃か。今の彼の背中にはその不安など微塵もないように感じる。感じさせている、にしてもその技量があるだけで違う。
 白石はそっと眉根を寄せる。金太郎と笑い声をあげている財前に向ける感情ではない。

「あーっ、白石や! おーい白石、元気かー! 遊びにきてくれへんで、なんや寂しいでぇ!」

 金太郎が手を振って、財前が顔を上げた。両手に留まらず全身で再会を喜ぶ金太郎に対し、財前は小さく頭を下げる。まるで対照的だが、言葉には出しにくい安定感がふたりの間に流れている。空気を介して伝わってくる。

(……それを、俺らは喜べるけど。せやけど、俺らよりももっとずっと見る時間の方が長いあいつは、財前をどう見とった?)

 小春が金太郎の相手を代わる。白石がなにかを考えているのを察知したのだろう、一度小春と目が合っただけで次にはもう金太郎の視線の向きが自分の右にずれていた。財前だけは変わらずこちらを見ていたが。
 外面も内面も、大きくなったと思う。褒めてやりたいと思う。自分が経験してきたルーキーとしての立場、部長としての立場を同じように歩むことになった後輩の成長を、たった1年ではあっても先を生きた人間としては見守ってやりたいと思うのが人間の性だと思う。
 ただ、自分が財前にひとつだけ勝てないものがあることを、白石は気づいていた。

(俺は、2年の時に誰かと付き合うなんてことできへんかった。せやから、あいつらの付き合い方だけはどう考えることもできひん)

 彼氏彼女という関係について、自信があるわけではない。当然だ、自分はまだひとりの人としか付き合ったことがない。なにが正解なのかも分かっていない、自分が正しい道を歩んでいるのかも分からないし恋愛にはそれに相手の判断が加わる。自分ひとりだけではないのだ、毎日が、手探りなのだ。
 それでも、そんな自分でも感じるこのもどかしさ。1年という生きた時間の差がなせる業なのか、それとも、

「難しか話じゃなかけんね。単純に、誰も悪くなんてなか話ってこつたい。付き合って時間が流れて、変わらん方がおかしかとよ。あとはそんを、是とすっか否とすっか。そこで人間の器量みたいなもんがばれる」

 千歳の言葉が真実なのか。

「俺の持論。惚れさせるこつは簡単、ばってん惚れさせ続けるんが一番の努力と、才能が必要たい。俺は、間違うとるとは思ちょらんばい」

 財前が視線をずらす。避けたか、と思ったのは一瞬のことで、相変わらず淡々としたまま彼は名前を呼ばれた方に視線を向けただけだった。
 自分たちがいる3階のひとつ下、2階。2年生の教室が入るそこから財前の名前が呼ばれるのは当たり前だった。

「夕方? ああ、まあ……部活は終わっとるけど……起きとるかどうか分からへんで、今月土日全部部活やって言うたやろ」

 白石は千歳と目を合わせる。話す相手が誰かは分からなかったが、その会話の内容に気味が悪いほど聞き覚えがあった。

「あー、はいはい。まあ、内容にもよるんとちゃう」

 時間に難点をつけられたから、次はそれを克服した内容を提示する。それは分かりきったことだった、だからあのような言い訳は使うべきではないと白石も千歳も心のどこかで危惧していた。それを財前にぶつけてやりたいと思ったその時、白石は言葉につまる。
 噴水の水しぶきが、秋の風に吹かれて太陽に照らされて光の粒子の川を作っているように見える。夏の快晴の時とはまた異なる趣が秋の空の下に広がる。
 その水しぶきの向こうに、部活中のジャージを着たが立ちすくむ予定さえなければ、それは美しい光景で終わったはずだった。

「……あちゃあ」
「……これは冗談きついわ」

 千歳が天を仰ぐ。小春が金太郎と会話をしながらちらちらとこちらに視線を送る。なんとかしろ、と訴えているように見えたが、白石にもどうすることもできない。なぜなら自分にはこのような状況に陥った経験がまだないからだ。
 恋愛はふたりでするもの、と千歳は言うが、しかしその感情がかみ合わなくなってしまった時、どうすればいいのかまでは彼も考えていない。考えるより先に手を引く方が善処だと横顔に書いてある。
 光くん、と呼べばいい。財前も振り返って謝ればいい。思うことはあるのに言葉にはならない、もどかしさに白石は柵を強く握り締める。

「あり、財前の彼女やん」

 金太郎の一言は救いか、否か。
 が肩を震わせる。財前が振り向く。2階の様子は、もう気にしない。外野だ。
 白石は静かにふたりを見下ろす。頼むから、となにかに願うような力だけは手にこめられていた。なにが正解かは分かっていないのに。

「よう」

 だから、たった一言の財前の言葉に、なにを思えばいいのかも分からなかった。
 がなにを思ったのかも感じたのかも、財前がなにを思ってなにを感じてそう言ったのかも、たった一言ではなにも分からなかった。
 ただ分かるのは、が言葉の代わりに小さな笑みを浮かべたこと。
 千歳が初めて、悠然とした態度を少しだけ崩したこと。小春が息を飲んだこと。
 自分が、財前に小さな怒りを感じたこと。それだけだった。



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10/06/23