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きつく縛りなおした靴紐が、足元だけではなく気分すら引き締めた。
使い古した靴だったが、これが一番はきやすい。小学生の頃より慣れ親しんだ靴は、足の大きさの変化とともにいくつか買い替えはしたものの、メーカーだけは絶対に他のものに変更はしなかった。ひとつにこだわると他が見えなくなるのは長所でも短所でもあると、いつも誰かに言われてここまできた。
大抵、そこにはいつも苦笑が伴っていた。
結びなおした足元を見つめたあと、財前は無言で立ち上がる。日曜の朝6時という時間に家の中は静まり返っており、出かける挨拶もせずに春の朝日の中に身体を送り込む。
ようやく咲き始めた桜が、ゆらゆらと朝の春風に吹かれていた。
(今日1日、曇りか。まあ試合しとったら暑くなるからちょうどええかな)
見上げた空は少しばかりにごった白色の雲が泳ぐ。時折垣間見える青空は少々頼りなさげに思えたが、季節はもはや3月である。しかも桜も咲き始めた。マフラーだけでもあれば十分だろうと、厚手のマフラーを口元が隠れるほどに大きめに結んで歩き出す。制服ではなくジャージであることが幸いだった、自由がきいて思う存分寒さから逃れることができる。
テニスラケットが、バッグの中でかたかたと音をたてている。その音が響くほど、朝の街はとても静かだった。
「無事白石たちも送り届けたところで、さあそろそろ本腰入れよか。部長」
渡邊が悠々たる面持ちでテニスコートに現れたのは、白石たちの高校入試が終わってしばらく後のこと。
あの人たちであれば心配はいらないだろうと誰もが思いながら、それでもどこか落ち着かない雰囲気をテニス部がかもし出していたことを財前は知っていた。いや、一番滲みこませていたのは自分かもしれない。昨年一緒の時間を過ごしすぎたせいだと小さな後悔を胸に宿しながらその1週間を過ごし、無事受けきったという連絡をもらって少しばかり安堵する自分が情けない、そんな時だった。
コートに立ってから汗が零れるまで、徐々に時間が短くなっていた。今日も気づけばこめかみの辺りをあっさりと汗が伝う。春は近い。それを拭いながら振り返ると、渡邊は白い紙を財前に差し出した。
「財前、これ。今度の練習試合の相手一覧や」
「申し込まれたんですか? これだけ?」
「そうや。もてんのも困るなあ、部長。選ぶ権利っちゅーやつや」
「選ぶ権利かて……なんで春休み中の試合に東京とか神奈川まで入っとるんですか」
「アホウ、そこはネタやないか」
「……」
「ちゃう、財前。そこは笑顔でかわすかつっこむところや」
白石と勝手が違うから、絶対に渡邊は自分を扱いにくいと思っているだろう。財前は部長を白石から譲り受けた時以来、心のどこかでそう思ってきた。
ところがどうか、渡邊はその財前の反応すら新鮮味のひとつとして捉えているらしく、いつも自分との接触においては必ずつっこまれる場所をひとつ以上用意する。それにうまく反応できない自分がもどかしく思うようになってきた今日この頃、これは渡邊の術中にはまっているのではないかと強く思う。
にやにやと満足げな笑みを浮かべる渡邊をため息とともに一瞥したあと、今一度渡された紙に視線を落とす。青学や立海などという渡邊が趣味で書き足した関東の学校を除けば、名だたる関西の学校が名前を連ねている。
いよいよ、自分たちの夏が始まるのだ。財前は小さな興奮を胸に宿す。
「どうすればええんですか? こういうの。いつも監督が決めるんですか? 今の全員の様子見てなんか、それとも一番強いところと練習して経験を積むとか……」
「ちゃう、部長やで」
予想外の言葉だった。突然直面させられた会話の流れに、財前は目を丸くして渡邊を見つめる。
夕暮れのテニスコートで、渡邊は居残り練習をする部員たちを見つめたあと財前に視線を戻す。普段学校で見かけるよりも、いや去年コート脇から見つめていたどの時よりもその目は優しく見えた。
「いつも、部長に任せとるんや。そこに載っとる学校は全部1回俺でふるいにはかけてあるからな、適さへんと思ったところは入れてへん。せやからあとは財前が様子見て考え。うちの部長は、そういうことも考えられる人間やって俺は思っとるからな」
かつて白石は、そこですぐに即答していた。その様子がいまさらながら思い出の中で色を伴って蘇る。
あの時自分はなにをしていただろう、そうだダブルスにも出場することになるかもしれないと聞かされて正直不本意だと思う心を持て余していた気がする。シングルスの方が向いていると思う心と、シングルス枠に入り込めないほど上級生の実力に敵わないと思う心がせめぎあって無口になっていた頃だ。
あの時の自分が今の自分を見たら、どう思うだろうか。白石は、どう見るだろうか。
財前は、しばらく思案したあと真っ直ぐ渡邊を見上げる。
「分かりました、考えます」
まだ、白石には追いつかないものが山ほどある。こうして自分で気づいていくしかないのだと、決意した財前を見つめる渡邊の視線はとても優しかった。
そして選んだのは、京都の古豪だった。
府内の中学はほぼ一巡してしまった印象があって、どうせならと小さな遠征の形で渡邊に願いいれた。煙草からひとつ大きな煙を春の空に浮かせたあと、渡邊はあっさりと了承の意を示してくれた。
(どうせ行くんやったら勝つ。そこは死守せんと、部長の意味がない)
空を見上げながらきつく心の中で誓う。早朝の空気に負けて、吐き出す息がとても白い。鼻をすするとまるで冬のようだ。もう一度口元までマフラーの中に埋まったあと、財前は両手をジャージのポケットの中に押し込んで足早に地下鉄の駅を目指す。
京都駅に集合するまでに、ひとつ片付けておかなければならないことがあった。
地下鉄の構内には向かわず、すぐ近くに悠然と並ぶ住宅街へと足を向ける。もう迷うことのなくなったその家にたどり着いて、時間帯の確認もしないままに呼び鈴を押した。
「財前くん、おはよう。ごめんなあ、いつもいつも」
「おはよございます。すんません、いつも朝早く」
時間を置かずに玄関を開けた女性に、財前は両手をポケットから、口をマフラーの中から出して答える。今日初めて口にした言葉は思っていたよりも掠れていて、女性が家の中へと戻ったあとに幾度か咳払い。様にはならないが、少し大人びて感じると言ってくれる人がいるのでいつのまにかやめられなくなった癖のひとつだった。
家の中から少年の起床を促す声が響く。玄関前で、財前はちらりとポケットの中に入れてあった携帯電話を取り出す。
『京都、あったかいといいね。頑張れー!』
見計らったかのようなタイミングでメールが訪れた。財前は小さく笑って、そっと左手を動かす。まだ家の中から少年の声は届いてこない。
『頑張れ言われんでも頑張るし。ていうか寒いし。』
『もう京都?』
『ちゃう、まだ天王寺。金太郎の家。』
『お迎え、優しい』
『アホ。子守状態やんか、これ。』
携帯電話の向こうで相手が笑っている姿が想像できた。こちらの時間に合わせて今メールを送ってくれてはいるが、この寒さである。絶対にベッドの中から抜け出せないまま、隠れるようにして携帯電話を触っているのだろうと思うと途端に気が抜ける。この人は、いつもどこか自分には真似のできないふわりと柔らかい雰囲気を持っているとつくづく思う。
『試合終わったらまたメールするわ。今日会えへんかったらごめん。』
昔であれば、と思う。ひとつ白い息が零れ落ちていく。
昔であれば、自分はこのようなメールを誰かに送ることがあっただろうか。去年の今頃、自分は同じ気持ちでこの寒空を見上げていただろうか。馴染んだ手はここにいたるまでにどれほどの時間を費やしたのか、時折忘れさせようとしているかのようだったが、
『試合の日は試合に勝ってくれるのが一番嬉しいでーす』
寒いのに、それでも頬が緩む。そんな経験は今までしたことがなかった、その記憶には絶対に勝てない。
もう一度、春がやってくる。金太郎の家の前からも諸所に桜の木が見える。新しい年度の始まりを告げるそれは、あの瞬間から1年分の時間を費やしたという合図に他ならない。
最後のメールを送り、しばらく画面を見つめる。返事はまだこない。
「財前、なに携帯見て笑っとるんや……ワイ、もう準備できたで」
するとその時、眠そうな目をこすりながら金太郎がようやく家から出てきた。母親に無理やり着せられたジャージがすこぶる似合わない。本人も着こなし方に愛着がないのだろう、防寒のためだけの意味しか与えられていないそれを、むず痒そうに扱う。
身体は大きくなったのに、と思わず吹きだしそうになった。
「金太郎、遠征に行く時ぐらいはちゃんとせえ。タンクトップ1枚で京都まで行くアホがどこにおんねん。風邪でもひかれたらかなわんわ」
「ええやんか、ワイ風邪ひいたことないでー……」
「外聞っちゅーもんがあんねん。あ、おばさんすんません。金太郎預かります」
「ごめんね、財前くん。よろしくね」
まだ駄々をこねるような仕草を見せる金太郎の細腕を、無理やり引っ張って駅へと連れ出す。予定していた地下鉄の時刻には間に合いそうだった。
迷子になる心配をするぐらいなら、と財前が金太郎の送迎を担当し始めて、半年が経とうとしていた。
第一小なのはふたりだけやもんね、とよくあの人は笑って言った。その笑みに従う癖がついてしまっている自分は、当然のごとく早朝移動のたびに金太郎を出迎え、そして共に会場まで向かう。毎日を一緒に過ごしていれば、ふとした時に金太郎の成長を垣間見ることができるのもいつのまにか楽しみのひとつになっていた。
「うー、なんでコシマエとはやれへんのや。なあ財前、今から東京行かへんか」
「アホ、俺らが抜けたら試合どうすんねん。ちゅーか東京までどう行くつもりや」
「走って」
「俺を仲間に引き込むな、アホ」
日曜の朝の地下鉄はがらんとしていて、悠々と腰かけて金太郎の会話をのんびりと聞くことができる。会話の内容はまるで変わっていないのだが、いつのまにか身体つきや表情、そしてわずかに声の質も去年とは異なってきている。そんな金太郎を見るのが苦にならないと呟いた時、あの人はまた笑っていた。
「光くん、白石先輩みたいやなあ。なんか去年の先輩と光くんの関係を見とるみたい」
学年末テストの勉強をしている時、嬉しそうに語ったあの時の表情はまだ目に焼きついている。財前はまたマフラーの中に口元まで隠し、そっと睫毛を伏せる。
それが正しい見解なのかは分からない。だが、自分は白石によって救われた部分が少なからずあった。そして今の自分がいる。ならば、それを金太郎に返す立場であるのも悪くはない。
「金太郎、あんまはしゃぐなよ。梅田ついてもまだ京都まで電車乗らなあかんねん、あんまエネルギー使うともったいないで。試合が楽しめへん」
ようやく目が覚めかけてきた金太郎に、そっと諭すように呟く。
むやみに禁止するのではなく理由をつけて説明をすると、金太郎は大抵のことは財前の言うことを聞いた。渡邊が小さく口を鳴らしたのは、そんな時だった気がする。
(3年生がおらんのや。俺がちゃんとせなあかんやんか)
地下鉄から地上を走る電車へ。気を抜くとすぐに視界からいなくなる金太郎のテニスバッグを引っ張るようにして電車を乗り換え、集合場所まで向かう。
(去年部長らがしてくれとったように、俺がちゃんとみんなを見て、褒めて、伸ばさなあかん)
集合は、午前8時だった。30分ほど早くつくように家を出たつもりだったが、金太郎を伴って改札を出てみれば既にほとんどの部員たちが財前と金太郎の到着を待っていた。
当然ながら昨年より人数は少なくなった。3年生が卒業して、新入生が入ってくるまではこの部員だけで戦い抜かなければならない。しかも戦力が落ちたなどとは絶対に言われたくない、ならば自分の立場は。意味は。おのずと知れてくるそれらを使命と称してもよいのではないかと、重々しくもそう感じることがある。
(それぐらい、あの人から引き継いだ意味は重い)
部員の顔を見渡せば、緊張の奥に高揚が見え隠れしている。それで十分だった。
「ほんまは大阪ん中でもええかなと思っててんけど、挑まれた試合には勝ちたいやんか。しかもわざわざ京都から。そう思って、今日の練習試合はこの学校にしてある」
渡邊はなにも言わずに財前の言葉に耳を傾けていた。そのまま話を続けてもよいと、その口角が教えてくれている。
「3年が完全に引退して、初めての遠征や。俺らの年も十分強いっちゅーところを見せつけてやる。まずはそれだけや。……ちなみに、見せつけるんは相手だけやないで。監督にもやからな」
また渡邊の口が小さく鳴った。金太郎の目が丸くなり、やがてきらきらと輝く。まるで去年白石に見せていた顔のようだ、それを見ただけで財前の胸が熱くなる。
それが、去年の白石と同じ気持ちであればと心から思う。
市バスで目的の中学へと足を運び、中高一貫教育の私立校の空気に一瞬圧倒させられる。このような時公立中学の身としては様々な文化の違いに怯む部分が出てくるのだが、それはこのジャージを身にまとっている以上長くは許されない。
「天下の四天宝寺よ、うちの中学に勝てる個性なんてどこにもないに決まってるやないの」
「せやせやー」
「それに光くん。このジャージの色着とってやで、目立ちたくないなんていう方が嘘よ、嘘。我ら四天宝寺は根っからの目立ちたがり、派手好き! ねえ、そうよねユウくん」
「せやせやー」
コート脇、ラケットを一度置いてシューズの紐を確かめる。冬空に逆戻りした空からは、時々わずかな陽射しが差し込むばかりでまるで春の陽光を与えようとしない。そんな時に耳に聞こえてくるのが昔の声たちなのだから、冬の季節とは本当に名残の季節だと強く思ってしまう。
取り出してあるラケットは、中学校に入ってからずっと愛用しているものだ。シューズも日常の靴と同様、メーカーを一度も変えたことがない。白石と同じメーカーのそれは、よく忍足にからかわれた。
「お前どんだけ白石好きやねん。白石の言うことならなんでも聞くしなあ」
「誰かよりかは聞きますね、たしかに」
「アホ、俺かて先輩やないか!」
そんな日常が、懐かしくないと言えば嘘になる。
だが、次々と訪れる未来の一瞬一瞬を恐れているというのもまた嘘なのだ。
靴紐を結びなおしたあと、天を仰ぐ。左手に握り締めたラケットにさらに力を込める。
冬の風をまとうコートは、シングルスとしてライン上に立つと時折とても広いものにも狭いものにも感じる。今はどうだろう、とややわずかに小首を傾げて考えるが、目の前の対戦相手を至極冷静に見つめていること以外はよく分からなかった。
「財前、来年楽しみにしとるで」
黒髪が揺れる。風が吹いては校舎内に植えられた桜の木々が小さな蕾、小さな花びらを揺らす。まだ落ちる気配がないこと、風が冷たいことがわずかに財前の意識を2年という学年に踏みとどまらせる。
なんのための春の中の冬か。ユニフォームを揺らす風に意識を向ける。
帰って来いという合図か、または思い上がるなという忠告か。自然の持つ意味は壮大すぎてまるで分からないし、そもそも自分は分かろうとしていないだろうと財前は冷静に考える。自分はそこまで、白石ほど中身の優れた人間ではない。それは自信を持って言える。
けれど、テニスコートに立つ自分の身体は、心はいつのまにか気づいていた。
(冬の意味なんて知らへんけど。せやけど、あの先輩たちが敵やないっちゅーことだけは誰よりも知っとる)
冬を感じるごとによみがえり、意識の中に入り込んでくる懐かしい声たちに、財前は余裕をもって笑い返す。
「楽しみどころか、驚いてもらいますわ」
小さな呟きは金太郎にも渡邊にも届かない。昨年関西地方の大会で見た記憶があるネット越しの選手だけが、わずかに苛立ちを見せる。そんな笑みを浮かべての呟きは、誰に聞こえなくてもいい。自分だけが、自分の胸に宿して生かして、成長させればいい。
右手に受け取ったボールを、真冬の空に向かって放り上げる。
風を空気を切るようにして振り落としたラケットからは、胸をすく心地よい音が生まれた。
「寒い寒い思てたら、雪やないか」
渡邊の呟きが、煙草の煙とともに浮かんで消えた。
部員たちが感嘆とも悲哀ともとれる声を口にする。確かに今日は冬型の気圧配置だと天気予報は言っていたが、まさか桜が咲くのを見届けたあとで雪雲がまだ粘りを見せるとは想像もしていなかった。
白い息を吐き出して、財前は風に吹かれる雪たちを見つめる。
「雪が降ったら、どうなるんすかね。桜って」
「まあ、雨とちゃうからなあ。しかもまだ咲ききってへんし、大丈夫なんとちゃうか」
校門を出る手前、四天宝寺のものよりも見事な桜並木にしばらく足を止める。財前の呟きに渡邊は小さな笑みを零しながら答え、やがて雪にはしゃぐ金太郎のもとへと去っていった。
少しだけ、もう少しだけ気持ちが冬を思い出す。
白い雪の下に咲く薄い桃色の桜たちは春を待ちわびていたが、財前は雪の方に心を奪われる。まるで先月降った雪を見ているかのようだ。学年末テストに向けて、どうして2年生の数学はこんなにも内容が重いのかと誰かが呟いていた瞬間がよみがえる。
財前はわずかに頬を緩め、左手をようやくポケットの中から出す。
取り出した携帯電話には、メール受信を伝えるライトが光っていた。
『勝つに決まっとるし。俺が勝ったらあそこのぜんざい1杯な。絶対やで。』
試合前に送った最後の自分のメールへの返信は、いかばかりか。わずかな期待とともに折りたたみ式の携帯電話を開く。
季節は春。冬の最後の悪あがきのように降り積もっていく雪を払いのけることもなく、桜の上に舞う風情を少しばかり楽しめる、そんな大人になりたいと心のどこかは思っていたのかもしれない、そんな春の出足。
『光くんー。
あかん、ぜんざいはいくらでもおごるから、
絶対おごるから。光くん勝つし。
だから、早く帰ってきて!
白石先輩から電話ばっかかかってくる!』
それを京都で見せられたこっちの身にもなってくれと、叫ぶことができたのは大阪にたどり着いたあと。
不機嫌を悟ってか、いたく静かに電車の旅を終えた金太郎を送り届けることもせず、財前は相手の――の最寄り駅に降り立つと、ジャージ姿であることも厭わないまま行き慣れた家を目指そうと交差点に出る。
大阪に戻れば雪は既に過去のもので、桜が夕方の風に心地よさそうに揺れているばかり。冬の名残は姿を消している、財前も走った暑さに負けてマフラーを取る。
どうしてこうなる、とぎりりと奥歯をかみしめたくなる苛立ちを抑えようとしながら、信号が青になるのを見届けたその時、
「財前、お前この1年でキャラ変わりすぎやで。もうちょい周りに優しくなれ、ついていくんで精一杯やないか」
ぐいっと腕を引っ張られ、強引に歩道に戻される。その圧倒的に勝てない力には身に覚えがありすぎた。
「……部長、師範!」
「あ、部長やないんでもう。平部員なんで」
「白石はん、それは少々おもろない」
「あ、そう? 厳しいなあ」
ふたりのやり取りを、後ろの地下鉄入り口で腹を抱えて笑っている男が3人。見覚えのある亜麻色の髪と、見覚えのある坊主と、見覚えのあるバンダナ。その脇に同情と笑いをない交ぜにした表情を浮かべている、見覚えのある下駄姿。ただ小石川ばかりが心底哀れな顔で財前に両手を合わせた。
「なんやねんこれ。意味分からんし……あっつ!」
呆然とそれらの光景を見つめていると、頬に突然尋常ではない熱さが訪れる。
頬をかばうようにして振り返ると、そこには紙袋をもったの姿があった。
「ごめん、今日はこういう日やったの。光くんの初・部長遠征勝利祝い」
はい、と捧げるように差し出す。意味が分からず受け取って中を見てみれば、それは財前の好きな和菓子屋のぜんざいだった。持ち帰り用のものをわざわざ温めてもらってある。
「私で独り占めしようと思ったんやけど、見つかってしまって。せやけど光くんもこっちの方がええよね? 白石さん、大好きやもんね」
「は? アホ、なんでお前にそんなこと」
「ええで、財前。無理せんでええ。去年はお前になかにと世話になったからなあ、これからたっぷりと語ろうやないか。なあ、男同士で」
「ばっ……! なに言うとるんですか、アホやないですか部長!」
「……やっぱり似てますよ、白石先輩と光くん」
白石とに挟まれて、冬の寒さが遠くへと消えていく。それはの用意してくれたぜんざいのおかげかもしれなかったし、名残という言葉とは無縁の全く変わっていない白石たちの雰囲気のおかげかもしれなかったし、なにが正しいのかはこの時はまるで判断できなかった。
ただ、2年生でいた時の楽しさと、3年生になろうとする心地よい緊張の狭間のその日。
その日みんなで食べたぜんざいの味だけは、今まで食べたどの味よりもしっかりと財前の記憶に残り、消えないでいてくれた。
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